逃げるために手に入れた力は、誰も救えない“防御”だった。
それでも――彼女が危ない。
逃げ続けた男が、初めて逃げなかった一日。
刀を握るのは怖かった。
虚と戦うなんてもってのほかだった。
僕はいつまで経っても逃げてばかりだった。
真央霊術院。
それは流魂街出身者にとって、真っ当な生活を送るため
唯一の希望の光と言って良い。
西78区、戌吊(いぬづり)
窃盗や強盗が日常茶飯事のこの地域に僕は物心ついた時に生活していた。
気の強いものや腕っぷしの立つ人間にとっては
そこそこ生活しやすいと評する者もいるが
僕にとっては十分な『地獄』だった。
毎日人目を気にし、怯え、逃げ回る日々だった。
草樹無名。それが僕の名前。
一体何を思ってこんな名前をつけたのか。
そして明日はどうやって生きていこうか。
それだけが僕にとっての日常だった。
僕はある日、『飢え』を覚えた。
なんてことはない、僕は荒っぽい連中にボロ雑巾にされていた。
たまたまそこに通りかかった死神が助けてくれた時に
「腹が減った」
お前は才能があるかもしれない。
その死神は、僕に死神になることを勧めた。
言われるがままに、『逃げる思い』で僕は真央霊術院の門を叩いた。
真央霊術院の入学試験。
とても難しく、僕は何度も落ちた。
しかし藁にも縋る思いで僕はその門を何度も叩き
ついに入学することができた。
そして入学と共に渡された、浅打という刀を手にした時
僕は初めて逃げなくて良い。
そんな気がした。
しかし僕の真央霊術院での生活は順風満帆とは程遠く
剣術・鬼道・実習、どれをとっても最底辺だった。
クラスメイト達の話題は特進学級である1組の話題で持ち切りだった。
しかし僕はその和には入れず、一人ぼっちだった。
ある日のことだった。
その日は剣術の訓練をおこなう日だった。
相手はいつも僕のことを見下し、馬鹿にしてくる嫌なやつだった。
案の定、僕は彼のラフな戦いで体の至る所を竹刀で打たれた。
授業が終わった後、彼は徒党を組んで僕の前にでてきて言った。
『お前は全く才能がないが、あまりにしつこく入試を受けるから
お情けで入れてもらった負け犬だ』と。
実態はわからないが、僕はそんな言葉を聞きたくないと
逃げ回り、そして泣き崩れた。
人目のないところで、ひたすら声を上げて泣いた。
そんな時だった。
僕の頭を優しく撫でてくれる手があった。
涙で濡れた顔を拭い、顔を上げると
そこには黒髪にポニーテールの女の子がいた。
「ありがとう、もう大丈夫だよ」
と、彼女の手を掴んだときだった。
彼女の腕には痣があった。
よく見ると顔にも薄っすらと殴られたような跡がある。
それ以上は見ようとしなかった。直視できなかった。
「き、君は、大丈夫なのかい?」
問い詰めると、彼女は困った表情を浮かべた。
僕はなにか言ってはいけない事を言ってしまったのだろうか。
すぐにそれは杞憂であるが、大事なことであることを理解した。
彼女は服から1枚のメモ帳を取り出し、そこにペンで
『大丈夫』と書き込んで私に見せてきたのだ。
その時全てを理解した。
彼女も僕と同じ、『持ってない』側の人間だと。
死神を目指す人間にとって、『声』を持たないということは致命的だ。
そもそも始解が出来ない。解号が使えないのだから。
鬼道も絶望的だ。詠唱破棄での使用は可能なのだろうか。
詠唱破棄自体は聞いたことがあるが、まったくの無音での使用は可能なのか。
僕には未知の世界であった。
彼女は僕と同じだった。
何も持っていない。ただ入れただけ。
彼女は同類だった。故に僕は彼女を憐れむことはなかった。
それからというものの、僕がたまに逃げ回り、
斬魄刀を抱えて泣くたびに彼女は私の頭を撫でに来た。
相変わらず彼女の体には痣が消えることはなかった。
そのうち僕はこう思うようになった。
『彼女』を連れて、どこまでも『逃げられたら』。
そんな夢物語に頭が囚われるようになった。
しかしそうこうしているうちに僕達は真央霊術院を卒業することとなった。
斬拳走鬼、全てにおいてドベの僕でも卒業は自動的に発生する。
この頃には僕へのいじめは無くなっていた。
何故なら選ばれし者はほんの一握りだから。
僕をいじめていた彼も、選ばれなかった。
そしてもちろん僕も、彼女も、選ばれなかった。
彼女は僕と1年違いらしい。
僕は最後に聞いた。
「君の名前はなんていうんだい?」
彼女は少しだけためらったが
ペンを紙の上に走らせた。
『音無 響』とそこには書かれていた。
名は体を表すとは言うが、それにしても
あまりにも残酷な仕打ちだった。
僕は彼女を連れて何処かに逃げたいと思った。
しかし現実は卒業という名のもとに彼女の元からも逃げていった。
結論から言うと僕は9番隊に配属された。
後に先輩の隊員から聞かされた話だが
副隊長が、僕が剣を持っていつも震えていたのをみて
是非にと、率先して隊に迎え入れられたことを知った。
僕には意味がわからなかったが、副隊長なんて雲の上の人だ。
たまたま出会ったとしても挨拶をするぐらいしか出来ない。
僕をいじめていた子も同じ9番隊所属となった。
昔はやんちゃだった彼も、今ではすっかり丸くなっていた。
同じ隊で卒業も同じということで自然と会話することが増えた。
「斬魄刀を握るのが怖い?」
僕はたまたま何気ない話を彼にした。
久しぶりに彼の強気な発言を耳にすることとなる。
「頼りになることはあれど、怖がることなんてなにもないじゃないか」
確かにそのとおりだ。
本来なら自分を守ってくれるはずの刀。
しかし僕はこの刀を持っているということは
いつの日か、虚との戦いに巻き込まれる事を意味している。
しかし彼は更に言った。
「その時のための斬魄刀じゃないか」
その日の夜、僕は斬魄刀との対話を試みようと思った。
しかしうんともすんとも言うことはない。
僕のような霊圧も低い人間には始解すら難易度は高く
そもそも始解できれば席官も夢じゃないという。
しかし僕は席官などにはなりたいと微塵も思わなかった。
行けば死ぬ。そればかりが頭に浮かんだ。
僕は来る日も来る日も斬魄刀を意識していた。
しかしそれは対話どころか拒絶に近いものだった。
お前さえいなければ。
僕は心の底で斬魄刀を自らの足かせのように感じていた。
そしてとうとう運命の日がやってきた。
虚出現の知らせとともに、あくまでもサポートとしてだが
出撃するように命じられたのだ。
当然拒否は許されない。
席官は僕達の緊張を和らげるために声を上げた。
「諸君らはあくまでもサポートだ。
今回の虚はそんなに脅威ではない。
安心して任務に挑んでくれ。
これはいわば経験値稼ぎのようなものだ」
その席官の声は気さくで優しいものだった。
そして、惨劇は、起きた。
ちょっとしたトラブル。
先行していた僕らは孤立した。
優しかったあの席官は分断されて合流できないとのことだった。
後に聞いた話だが、大虚(メノス・グランデ)。
その大きな体は最下級大虚(ギリアン)と呼ばれるタイプ。だそうだ。
どうでもいいことだった。
僕に限らず、全員がほぼ実戦経験のない仲間たちだった。
逃げることしか出来なかったのだ。
この時、僕をいじめていた男の子は僕のことを身を挺して守った。
結果、食われた。
時間稼ぎでしかないのに、そのために彼は命を落とした。
僕は自分で自分を呪った!
味方は全員餌になった。
最後は僕の番だった。
しかしこの期に及んでも僕は斬魄刀を抜く時
この刀を憎んでいた。
『お前さえいなければ……』
すると突如、刀が形を変えて僕の両足を拘束した。
それは文字通り『枷』だった。
一体何が起こったのか、ただ逃げられないことだけはわかった。
メノスの大きな口が僕を飲み込もうとした、その時だった。
その口は僕を飲み込み、そして通過した。
僕は何が起こったのかわからなかった。
それは虚も同じだったらしい。
何度も繰り返されたが、虚が僕を飲み込むことはなかった。
すると今度はメノスの口が大きく開かれた。
禍々しい光が収束していく……あれは虚閃(セロ)か。
いよいよ今度こそ僕は死ぬ。
そしてそのセロが放たれた。
しかし、まるで爆撃をうけたようなその地面に。
僕は何事もないように立っていた。
とうとう何も出来ないと悟ったのか、
メノスは黒腔(ガルガンタ)を開いて去っていった。
その時、ようやくだった。
分断されていた席官が現れたのは。
僕以外の分断された隊員は全員死亡。
激動の時代が続いた尸魂界(ソウル・ソサエティ)も
ここ最近は静かな日々が続いていたこともあり
その事は大きく取り上げられた。
ただ、取り上げられたのは死者がでたことではない。
大虚(メノス・グランデ)のセロを受けて無傷だった男がいるという
噂が広まったのだった。
僕はその後、すぐに技術開発局に回されることとなった。
『検査』と言われたが、僕は怯えた。
12番隊といえば……口にするのも恐ろしかった。
人体実験、モルモット。そういった単語が頭によぎった。
ちなみに僕の斬魄刀は消えたままだった。
ただ、足かせだけが僕の足についたままだった。
両足に一個ずつ。それは二つが鎖で繋がっていた。
歩くことは出来るが走るのは難しい。
その足かせを舐め回すように見つめる12番隊の人々。
「実に興味深い」
誰かがそんな事を口にした。
何故か目隠しをされていて、誰が何の話をしているかは僕にはわからなかった。
「君は始解は出来ないといったね?」
「はい、始解なんて僕みたいな人間には……」
「うるさいよ、君! 聞かれたこと以上は話さなくてよろしい!」
「……」
やはりここは怖いところだ。
逃げ出したい。
「ふむ……体に注射針や刀を突き立ててもすり抜ける。
原因がわからないネ」
一体僕の体で何をしてるんだ?!
僕は恐怖心に駆られた。
「む、全身を拘束しているのに抜け出せるのかネ。
君、ジタバタしないでくれたまえ!」
……僕は大人しくじっとした。
「隊長、これは一体」
「おそらく卍解……それも常時開放型……と言えるのだろうかネ?
一応あり得ん話ではない、雨露柘榴という前例もある。
よし、君、その足かせを斬魄刀に戻してみたまえ」
「これは……斬魄刀なのですか?」
「君の手には斬魄刀がない。また原因はわからないが不思議な能力を持っている。
詳しくはもっと調べてみないとわからないが極めて特殊な能力だ。
君に敵意のあると判断したものを問答無用で干渉不能にする。
この能力が発動すれば君には誰も触れることが出来ない」
僕は理解できていないが『解っていた』。
これは僕が『逃げたい』という気持ちから出たもの……。
だけど逃げても何も解決しなかった……。
その瞬間であった。
足かせは斬魄刀に戻った。
「フム、戻るということは常時解放ではないようだね。
しかし始解は出来ない……。
対話と同調の過程を飛ばして具象化と屈服が起きた。
仮説の域は出ないが今のところわかるのはそんな所かネ」
僕は虚無になった心で答えた。
「誰も救えない、何の意味もない能力ですね」
すると突然喋り声が腹からでる怒声にもにたトーンに変わった!
「うるさい! 意味があるかどうかは私が決める。
敵の攻撃を受けないのであれば斥候としての能力はずば抜けている。
そうだ、君を研究対象兼12番隊の隊員として移籍してみてはどうかネ?」
そのあとはやたらと熱心に勧誘を受けたが
僕が黙っていると目隠しを解かれ、僕は解放された。
その後、尸魂界では僕の解放は卍解なのか、そうでないかの論議が
密かに起こったらしい。
僕にとってはどうでもいいことだった。
逃げるためにはこれ以上はないほどの能力。
しかし逃げることは何も産まないということをこれでもかと言うほど
理解させられただけ。
僕はこの斬魄刀を更に憎んでいった。
そんな中、急報が飛び込んできた。
13番隊の部隊がはぐれて、虚の大群に襲われているらしい。
僕は胸がぎゅっと締め付けられた。
それは『彼女がいる』隊だからだ。
13番隊では直ちに救援部隊を編成して
応援に駆けつけるとのことだったが
僕の足はそれより先に、現地へと駆け抜けていた。
情報通りならこのあたりのはずだ。
所々に隊士達の亡骸が転がっていた。
しかしその中にあのポニーテールはなかった。
僕の心臓は高鳴っていた。
その恐怖心からだろうか、突然斬魄刀が足かせに変化した。
しかし最初の時と違って鎖が長かった。
走ることは出来た。
僕は全ての障害物を無視して一直線に彼女の下に向かった。
たどり着いた時、そこにはギリアンと
たった今絶命したと思われる席官、そして『彼女』がいた。
真央霊術院ではお互いにいじめられていた。
そんな彼女が13番隊では大事にされていた。
その事実だけでも、僕は危機的な状況にもかかわらず喜んでいた。
彼女は斬魄刀を抜いた。
当然だが始解はできない。
生きていたことは望ましいが、僕には彼女を救う力がない。
自らの力のなさを呪った時、辺りが真っ暗になった。
そこには、手首、足首に枷をかけられ、囚人のような姿の人物がいた。
「お前は……誰だ」
「お前が嫌っている物だ」
すぐに分かった。
こいつは『斬魄刀』だと。
「役立たずの刀が何の用だ。僕は今忙しい!」
「慌てても無駄だ、どうせ彼女は死ぬ」
「何だと!」
僕は激昂したが、斬魄刀はあくまでも落ち着いた表情のままだった。
いやすべてが虚無だと言わんばかりの表情だった。
「お前は逃げたいとずっと思っていた。
だからそのための力を与えたつもりだ。
一体何が不服だというのだ」
「僕は……逃げたかった……あらゆる恐怖から」
「そうだ、それこそがお前の根源だ。
だから彼女が死んでもお前は……」
「ダメだ! それは許せない!」
すると初めて斬魄刀は怒り狂ったかのような表情で僕を見た。
その表情に恐怖したが、それでも僕の心は譲れなかった。
「そこまで言うなら、お前の命を差し出すというのはどうだ」
恐ろしいほどに冷たい声。
そして僕の心の隙間風を狙いすましたかのような
逃げたくなる言葉。
「そうだ、それでいい、お前は逃げる。私もお前を死なせたくはない」
僕は震える声で言った。
「彼女を救えるのか……?」
「……救える。がお前は死ぬ。これは可能性ではない。
確定事項だ。それでもお前は救うか?」
腰が引ける、魂が縮み上がる、冷や汗が流れる。
本心から逃げたいという気持ちが湧き出る。
……それでも、一番芯にあった気持ちが声に出た。
「彼女を救うんだ。どうすればいい」
「……わかった。お前とは長く付き合いたかったが致し方ない。
では我が名を呼ぶが良い!」
頭の中に彼の名前が浮かぶ、それを僕は叫んだ。
「覚悟を決めろ! ――斬首!」
すると足かせだった斬魄刀は形状を変え、刃物の姿に形状を変えた。
不思議な形だ。刃先に刃がついていない。
その切断のみに特化した、鍔すら最低限の直刀。
脳裏に声が浮かぶ。
「敵を斬れ……そして避けるな」
斬るのはわかる。だが避けるなとはどういう意味か。
僕はやけくそになって虚の群れに刀を振り回して威嚇した。
「こっちに来るなっ!って……え?」
なにもない空間を切ったはずなのに、まるでバターのように
虚が振り回した数だけ切断されて倒れた。
僕は更に虚を見つめては斬る。
原理はわからない、だがどんどん虚は倒れていった。
その時だった、虚がこちらに向かって突っ込んできた!
僕は慌てて身を翻し、返す体で刀を振った。
危なかった、虚は両断され……
僕の左腕は肩からごっそりもげて弾け飛んでいた!
「うがああああああああああああ!!!」
想像していなかった痛みに僕は絶叫した!
何が起こっているのか分からなかった!
更に虚が突撃してくる、激痛に耐えながら更に僕は刀を振った!
両断される虚、そして今度は僕の右足がちぎれ飛んだ!
一体何が起きてるのか。
避けてるのに……避ける?
僕は激痛に脳が焼かれつつ理解した。
この刀は避けるという因果を否定している。
つまり逃げられない、それは相手も、自分もだ。
僕の体はもう助からないだろう。
残りの虚はあと2体。右腕をやられることだけは避けなければならない。
迷っている暇はない。
僕は地面に倒れたまま、刀を二回振った。
虚も突っ込んでくる。
どうせ避けれない、なら確実に仕留めろ!
この因果を強制する刀は、残りの二体を斬り伏せた。
それと同時に僕の右腕は消し飛んだ。
もはや痛みは麻痺して感じなかった。
辛うじて残った左足を動かして、僕は彼女の下に向かった。
彼女は涙を流していた。
しかし彼女はそれを声に出せない。
「よかった……無事で……」
彼女は必死で何かを訴えようとしていた。
しかし声は出ない。
「大丈夫だよ、無理に話さなくても」
大粒の涙が僕の顔に伝うのを感じる。
「そうだ、あそこに転がってる僕の斬魄刀。
よかったら君が使って……。
あいつなら声が出せなくても……使える……から……」
彼女が何かを書こうとしているが、それを僕が見届けることはなかった。
後に、1人の女性隊士が失踪した。
便宜上、彼女は除隊ではなく、休隊という扱いとなった。
彼女の後を知るものはいない、誰にもそれは追うことができなかった。
――彼女の足音は、どこまでも静かだった。