日車法律事務所   作: 聡明 

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2話

 高専の敷地内、北側に位置する地下隔離施設への道は、外気温よりも数度低いように感じられた。

 

 コンクリートの壁には、外部からの干渉を遮断するための呪符が整然と貼られている。日車寛見は、革靴が廊下に響かせる乾いた音を聞きながら、無意識に左胸の内ポケットを探った。そこには、弁護士バッジではなく、彼を術師として識別するための認証カードが入っている。

 

「ここ、いつ来ても空気が重いね。結界のせいなのかな」

 

 隣を歩く虎杖の声が、沈滞した空気を僅かに震わせた。

 

 日車は答えず、ただ前を見つめた。視界の端に、虎杖の振るい慣れた腕の動きが入る。彼は時折、壁の呪符を点検するように目を走らせていた。その横顔を見ることは、やはりまだ、躊躇われた。

 

「呪術的な圧力だけではないだろう。ここは死を待つ場所だ。絶望が重力のように作用していても不思議ではない」

 

 二人は、厚い鉄扉の前で立ち止まった。

 

 監視役の術師にカードを提示し、幾重もの術式ロックが解除されるのを待つ。日車の脳裏には、数年前、自分がジャッジマンの宣告を受けて立っていた、あの断罪の法廷がフラッシュバックしていた。

 

 かつての自分は、法に絶望し、法を壊した。

 

 今、その法を使って誰かを救おうとしている。その矛盾が、胃の奥を不快にかき乱す。

 

「日車さん。あの子、多分、自分を責めてると思う。……俺の時みたいに」

 

 虎杖の言葉に、日車の足が止まった。

 

 視線を落とすと、虎杖の指が、自分のコートの裾を僅かに握りしめているのが見えた。

 

 あの裁判で、虎杖は自らの罪ではない宿儺の虐殺を自分の責任だと認めた。あの時の彼の瞳。日車が、法律家としての魂を揺さぶられた瞬間の記憶。

 

「……君と彼は違う。君はあまりにも特殊すぎた。彼はただの子供だ」

 

「それでも、誰かを殺しちまったっていう事実は、その子にとって世界の終わりと同じだから。……日車頼む。あの子の心を見てくれ」

 

 虎杖の震える声に、日車は奥歯を噛みしめた。

 

 返事はしなかった。できない。

 

 扉が開くと、そこには強化ガラスに仕切られた接見室があった。奥に座っているのは、手枷をはめられた少年、佐々木昭平だ。

 

「……君が、佐々木君か」

 

 日車はデスクを挟んで少年の正面に座った。

 

 虎杖は、あえて少し離れた壁際に立ち、静かに見守っている。

 

 少年の瞳は、濁っていた。そこには恐怖すらなく、ただ、深い虚無が横たわっている。

 

 その瞳を、日車は知っていた。数年前、鏡を見るたびに自分の中にいた、あの死んだ目だ。

 

「……弁護士、だっけ。無駄だよ。俺、あの人を殺したんだから。……何があったって、それは変わらない」

 

 少年の声は掠れていた。

 

 日車は鞄から資料を取り出し、淡々と机に並べた。情に訴えるのは彼のやり方ではない。法廷で戦うための武器は、常に客観的な事実だ。

 

「君がその人物を死に至らしめた事実は、確かに変わらない。だが、その背後にあった動機と状況には、法が介在する余地がある。君が拾ったのは呪具だ。君に殺意はなかった。ただ、母親を守ろうとした、それだけではないのか」

 

 少年の肩が、僅かに跳ねた。

 

「守ろうとして……結果的に殺したんなら、最初から何もしなきゃよかった。俺が余計なことをしたから、あんな……化け物みたいな力が出て……」

 

「それは違う」

 

 日車の声が、冷たく、だが鋭く部屋に響いた。

 

 壁際の虎杖が、微かに息を呑む気配がした。日車は少年の瞳を、真っ直ぐに射抜いた。

 

 依頼人の目は見ることができる。それが、彼の弁護士としての「職業的誠実さ」だった。

 

「君がしたことは、生存のための本能だ。それを『化け物』と断じるのは、君を救えなかった社会の傲慢だ。……かつて、私も同じように絶望した。法は万能ではない。だが、君をこのまま暗闇の中に放置することを、私は良しとしない」

 

 日車は、ジャッジマンの術式を微かに発動させた。

 

 少年の背後に、巨大な天秤の影が揺れる。

 

 ジャッジマンは、嘘を許さない。そして、真実に対しては残酷なまでに公正だ。

 

 日車には見えていた。少年の魂に刻まれた罪は、彼自身が背負いきれる重さを遥かに超えている。

 

「佐々木昭平。君が自分を許せないというのなら、それは構わない。だが、君を裁くのは、君の罪悪感ではない。法だ。そして、私はその法を、君の味方にするためにここにいる」

 

 少年は、初めて顔を上げ、日車を見た。

 

 日車の冷徹な理性の裏にある、昏い情熱。一度は全てを捨てたからこそ持てる、執念のような救済。

 

 接見を終え、廊下に出ると、虎杖が深々と頭を下げた。

 

「ありがとう。あんなにハッキリ言ってくれるとは思わなかった」

 

「……ただの仕事だ。彼が心を閉ざしたままでは、公判維持が難しくなるからな」

 

 日車は早足で歩き始めた。

 

 虎杖が後ろからついてくる。

 

 その距離は、以前よりも僅かに縮まっていた。

 

 日車は、まだ虎杖の瞳を見ることはできない。だが、彼が隣にいることの重みが、今は少しだけ、心地よく感じられた。

 

「虎杖。明日は高専の資料庫を当たる。……君の知識が必要だ」

 

「もちろん! 任せてください!」

 

 虎杖の弾んだ声が、地下の冷たい廊下に反響する。

 

 日車は前を向いたまま、僅かに口角を上げた。

 

 自分を監視するジャッジマン。

 

 そして、自分を信じている少年。

 

 二つの視線に晒されながら、日車寛見の再審は、本格的に動き始めようとしていた。

 

 

 

 呪術高専の地下資料庫は、紙の焼けるような匂いと、静電気のような微かな呪力が混じり合う空間だった。

 

 無数の木製棚には、平安時代から続く羊皮紙の巻物と、現代の磁気ディスクが混在して並んでいる。日車寛見は、持ち込んだノートパソコンを予備の机に広げ、管理番号と突き合わせながら膨大なリストを精査していた。

 

「日車これじゃない? 今回のナイフと同じ系統の呪具の記録」

 

 虎杖が、棚の奥から埃を被った一冊のバインダーを引き抜いた。

 

 日車はキーボードを叩く手を止め、横目でその資料を確認した。虎杖の指が指し示した項目には、確かに『特級対象:試作呪具・九号』という不穏な文字が躍っている。

 

 日車は椅子を回したが、その視線は虎杖の喉仏あたりに留まった。そこにある小さな古い傷跡が、呼吸に合わせて僅かに動く。その生の律動が、資料庫の死んだ空気の中で妙に際立って見えた。

 

「……見せてくれ。虎杖君、君は反対側の棚にある『忌庫搬出入ログ』を確認してほしい。この呪具がいつ、誰の許可で持ち出されたのかを知る必要がある」

 

「了解。……さっきから一回も休憩してないけど大丈夫? コーヒー、また淹れる?」

 

「不要だ。時間は限られている」

 

 日車の突き放すような物言いに、虎杖は気にする様子もなく「そっすか」と笑って棚へ戻っていった。

 

 その屈託のなさが、日車の胸を小さく抉る。

 

 自分は今、正義のために戦っているのか、それとも過去の贖罪のために戦っているのか。その境界線が、この暗い資料庫の中では曖昧になっていく。

 

 受け取ったバインダーを捲ると、そこには目を疑うような記述が並んでいた。

 

 今回の事件で少年が拾ったナイフは、偶然落ちていたものではなかった。

 

『非術師による呪力供給試験:サンプル042』。

 

 その冷徹な文字が、日車の弁護士としての感性を鋭く刺した。これは実験だったのだ。呪力を持たない人間に、強力な呪具を意図的に与え、その反応を見るための。

 

「……虎杖、手を止めてくれ」

 

 日車の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。

 

 虎杖が資料を抱えたまま、怪訝そうな顔でこちらを向く気配がした。

 

「この事件は、単なる『不運な事故』ではない。高専内部の特定の派閥による、非術師を標的とした人体実験の可能性が極めて高い」

 

 資料庫の空気が、一瞬にして凍りついた。

 

 虎杖の足音が、ゆっくりと近づいてくる。日車は無意識に背筋を伸ばし、顔を上げないまま、パソコンの画面に浮かび上がるグラフを指し示した。

 

「少年がナイフを拾った現場は、母親の職場近くの路地裏だ。そこには事前に呪力的な結界が張られていた痕跡がある。つまり、彼がナイフを拾うことは、最初から計算されていた」

 

「……待ってくれ。それって、わざとあの子に人を殺させたってことか」

 

 虎杖の声から、温度が消えた。

 

 日車は初めて、机を叩いて立ち上がった。視線はまだ、虎杖の肩越しにある暗い棚に向けられたままだ。

 

「そうだ。高専上層部の保守派は、非術師に呪具を持たせることの危険性を喧伝するために、あえて悲劇を演出した。……救済のための法が、殺人のための道具として利用されている」

 

「ふざけんなよ……」

 

 虎杖の拳が、みしりと音を立てて握りしめられる。

 

 日車には、その怒りが痛いほど分かった。かつて彼が、司法の腐敗に絶望し、法廷を血で染めたあの日の怒りと、これは同質のものだ。

 

 だが、今の日車はあの時とは違う。

 

「落ち着け、怒りは法廷では武器にならない。我々が必要なのは、この悪意を白日の下に晒すための決定的な証拠だ」

 

 日車は、ジャッジマンの術式を静かに脳裏でイメージした。

 

 かつては自分一人の正義で人を裁いた。だが今は、隣に怒りを共有する他者がいる。

 

 虎杖の存在が、暴走しそうになる日車の理性を、この世界の現実に繋ぎ止めている。

 

「……俺は何をすればいい?」

 

 虎杖の視線が、日車の顔を真正面から捉えようとしている。

 

 日車は、眼鏡のブリッジを押し上げ、僅かに視線を上げた。虎杖の鼻筋、そのすぐ上にある、かつての激闘の名残である傷に視線を固定する。

 

 あと数センチ、瞳を上げれば、彼の真っ直ぐな魂とぶつかる。だが、その一線だけは、どうしても越えられなかった。

 

「……君は、現場の再調査だ。結界の残滓が、まだ残っているはずだ。私はこの資料をコピーし、高専内部の『協力者』と連絡を取る」

 

「協力者?」

 

「……伊地知君だ。彼なら、事務方の動きから金の流れを追えるだろう」

 

 日車は、虎杖の横を通り抜け、資料庫の出口へと向かった。

 

 すれ違いざま、虎杖の放つ、太陽のような、それでいてどこか切ない呪力の気配が鼻先を掠めた。

 

「虎杖」

 

 扉に手をかけ、日車は背中越しに呼びかけた。

 

「君のような人間を、私は一度、法廷で裁こうとした。……その過ちを、二度と繰り返すつもりはない」

 

 それは、虎杖に伝えたかった言葉なのか、それとも自分に言い聞かせた言葉なのか。

 

 日車は虎杖の返事を待たず、重い扉を開けて外へと出た。

 

 資料庫の外は、夕暮れ時だった。

 

 空を覆う茜色の雲が、まるで誰かの流した血のように見えた。

 

 日車の指先は、冷たい。だが、その胸の奥には、かつての法廷では感じられなかった、重く、確かな温度が灯っていた。

 

 戦いは、もはや一人の少年の救済だけでは終わらない。

 

 呪術界という巨大な構造そのものを被告席に引きずり出すための、無謀な再審が幕を開けようとしていた。

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