異世界転生してぇ。
学生時代から、それが口癖だった。
剣と魔法。チートスキル。成り上がり。人々に讃えられ、女の子に好かれ、世界を救う。そんなアニメを、当時の私は心から楽しんでいた。
でも社会人になってから、それが急にしんどくなった。
私は悪い意味で大人になってしまった。
食い扶持を自分で稼ぐようになって、分かった。生きるには金がかかる。結構な額だ。家賃、光熱費、食費、通信費、税金。生きているだけで、金はかかる。
なぜ生きるためだけに、こんなに働かねばならんのか。
疲れたな、とため息をつき、今日も通勤電車に乗る。今日も低賃金労働。
そして私は思った。
ああ邪神にでもなりたい。
穢れを振りまき、大地を津波のような速さで這い回り、何もかも壊したい。
呪いを振りまく邪神になりたい。
それもただの呪いじゃない。とびきり意地の悪い邪神だ。 とあるナーロッパ。
魔王を討伐し、平和が訪れた世界。
そこには異世界転生者トモノリがいた。
聖剣を携え、なんか強いスマートフォンを持っていて、他種族ハーレムをはべらせている見た目二十代の若者。
彼は“作者の願望”をカタチにしたような存在だ。
私はその世界が、心の底から憎かった。
だから私は現れた。
大地を汚し、人を喰らい、攻撃がまるで通らない邪神として。
巨大なムカデのような体で地を這い、森を踏み潰し、川を黒く染める。
ナーロッパの住民は泣き叫び、勇者を呼び、軍を出し、祈った。
そして、トモノリが出てくる。
ハイハイ。君は私を討伐するんだろ?
わかってるよ。
ただじゃやられないけどね。
心の中でほくそ笑みながら、私は言葉を解さない化け物のふりをした。
ただ戦って、ただ倒される。
転生者とその取り巻きたちは、熱い戦いを繰り広げた。
眩い魔法。聖剣の軌跡。スマホから出てくるよく分からない召喚。
そして私は討ち取られた。
はい、また世界救ったね。おめでとさん。
消えゆく刹那、私は最後にひとこと。
「呪いのトリガーが発動した。満足だ。ガンバッテネ」
トモノリは爽やかな笑みを浮かべて答える。
「そうかい、俺呪い効かないんだよね。チートで」
こいつ、何も分かってないな。
ピピピ! ピピピ!
けたたましいアラームの音。
けだるげに彼は目覚まし時計を探した。
「トモノリ!! 早く!!」
母親が、二階の子供部屋で寝ているトモノリに声をかけた。
どっし、どっし。
百キロ超えの巨体を引きずりながら、坂本智則、今年で四十歳が階段を降りていく。
洗面台で顔を洗う。
顔を上げる。
鏡に映るのは、年相応の荒れた肌。むくんだ顔。
四十歳童貞フリーターのおっさんだった。
そう。
これこそが、呪い。
本気を出さなかった君をこちらに連れ戻したのさ。
もちろん最初は混乱した。
自分は女子高生をかばってトラックに轢かれたはずだ。美しい自己犠牲の最後。女神様も褒めてくれた。
なのに目覚めた場所は、精神病院の隔離病棟だった。
白い天井。隔離室のベッドに彼は縛り付けられていた。
ただ冷たく、ゆっくりとときが流れるそんな気がする場所だ。
「あなたは統合失調症としてずっと荒唐無稽な妄言を繰り返し、暴れ、ベッドに縛り付けられ、鎮静剤を打たれる。その繰り返しでした」
医師は淡々と言った。
「もう落ち着きましたか? なにか頭の中で声はしませんか? 自分が誰か、何をしていたか分かりますか?」
異世界の記憶は鮮烈だった。
剣の重さも、歓声も、キスの柔らかさも、全部残っている。
なのにこちらの記憶も消えない。母の疲れた背中も、ニートだった頃の空虚も、全部残っている。
退院して、トモノリは今はフリーターだ。
70代の母親と朝ご飯を食べる。父親はもういない。
「あんた…なんでそうなったの」
「…っせぇな」
「何がうるさいよ…おかあさん死んだらどうするの?」
「うるせぇ!バイト行くわ!!」
「はいはい……」
「ガンバッテネ」
どこか聞き覚えのある声がした。
スーパーに出勤すると、そこにいるのは二十代の若いフリーター、三十代の社員、自分より若く、よく動く同僚たち。
邪魔、と言われる。すみません。と謝る。
心を殺し、商品を並べる。
値引きシールを貼る貼らないで客と揉める。客に怒鳴られ、店長に助けてもらうこともしばしば。
店長に呼び出され、言われる。
「もう少し何とかならないか? 笑顔がない。声が暗い」
おばちゃんに怒鳴られる。オツボネが…そう思う。
「っせぇよ…ババア」
小声が聞こえてしまったか、ますます怒鳴られる。
昼。狭い休憩室。背中を丸める。
母親が持たせてくれた弁当を、無言で口に運ぶ。
「ガンバッテネ」
部屋の隅にいたムカデがそう呟いた。そんな気がした。
やっぱり、なろう小説の主人公は嫌いです。