二周目のおっさん   作:雄魔雌

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第6話 プライベートヒーロー

 数日後。住宅街の清掃現場。

 午後の陽射しが路地の奥まで届かない時間帯だった。アスファルトに染みついた怪獣の体液を高圧洗浄機で洗い流す、いつもの作業。水しぶきが霧のように舞い、清掃車のエンジン音が低く唸っている。

 そこへ警報が鳴った。

 小型怪獣の出現。徳田が防衛隊への通報を済ませた。到着まで約十分。

 民間業者の義務は避難誘導。戦闘行為は禁止されている。それが正規の手順だ。

 

 しかし、路地の奥で子どもが動けなくなっていた。

 座り込んでいる。泣いてもいない。恐怖で声すら出ないのだろう。その背後の路地の突き当たりに、小型怪獣の影が蠢いている。

 十分は、待てない。

 

「徳さん、誘導頼みます」

「は? どうしたお前」

「ちょっと、あっちに人影が!」

 

 作業車の陰に回り込んだ。

 作業着を脱いだ。その下に、今朝から着込んでいたプライベートスーツがある。清掃現場にこれを着て来ていた。今日だけではない。あの夜スーツを着たまま眠って以来、この一週間、ずっとそうしていた。自分でも馬鹿げていると思う。だが、着ていなければ間に合わない瞬間が来ることを、前回の記憶が教えていた。

 腰のベルトに解体刃が下がっている。

 一瞬で、準備は整った。

 

「誰か、たすけて!」

 

 子どもの声が聞こえた。泣き声ではなかった。絞り出すような、乾いた声だった。

 カフカは路地に入った。

 

「おい、大丈夫か!」

「あっ……!」

 

 しかし最初に目が合ったのは、子どもではなく、怪獣だった。

 小型。座り込む子どもの倍程度の体高。頭部に発達した知覚器官を持つ、甲殻系の個体だ。

 種別は一瞬で判断できた。何度も解体したことのある型。外殻の色、脚部の関節構造、頭部の突起の配列。図鑑を開くまでもない、この怪獣の内部構造は、目を閉じても描ける。

 

「立て、ここは何とかしてやるからな!」

 

 子どもは腰を抜かして怯えながらも、コクコクと首を揺らす。

 カフカの頭が急速に回り始めた。

 核は胸部やや右寄り。左後脚の付け根を断てば、機動力が落ちる。頭部前面に知覚器官が密集していて、正面からの接近に最も敏感に反応する。だから、目の前からは行かない――

 

 左後方。怪獣の死角になる位置。

 カフカはその位置に滑り込み、解体刃を引き抜いて、刃を滑らせた。

 解体作業の初手と同じだ。生きた個体か死んだ個体かの違いがあるだけで、刃を入れるべき場所は変わらない。

 

 体液が噴き出すが、方向は計算通り。カフカの体を避けて、路地の壁面に黒い飛沫が散る。

 怪獣がよろめいた。動きが鈍くなり、重心がぐらつき、甲殻が地面を擦る音が路地に反響した。

 

「走れ!」

 

 カフカの声を合図に、子どもが立ち上がり、走り、路地の外へ消えた。カフカは初めて息を吐いた。

 

「あとは……!」

 

 最後に、怪獣の核を狙う。スーツの力がある今なら、もしかしたら、とどめを……!

 

「ッラァ!!」

 

 刃が継ぎ目に入る。外殻の隙間を正確に捉えている。角度も深さも間違っていない。

 

 だが――届かなかった。

 核までのあと数センチ分を貫く力が、足りない。刃先が核の表面に触れている感覚がある。触れているのに、砕けない。

 前回なら指先一本で砕けた。今の自分には、それが届かない。

 

 怪獣が刃を弾いた。カフカに向き直る。カフカが死角を取るように逃げる。怪獣がカフカを探して振り返る。カフカが死角を維持し続ける。

 繰り返しが始まった。派手な攻撃も、必殺の一撃もない。

 

 一分。足が重くなってきた。

 二分。腕が上がらなくなりかけている。刃を握る右手の感覚が薄れてきた。

 三分。追いかけっこが続く。端から見れば滑稽な光景だろう。だが体は限界に近かった。

 四分。サイレンが聞こえた。必死で逃げた。

 五分。防衛隊が到着。

 

 カフカはスーツの上に作業着を羽織って、何食わぬ顔で徳田の横に立っていた。隊員たちが路地の中に展開し、弱った怪獣を迅速に討伐していく。

 

「頸部左側に刃傷。精度が高い」

「核を狙った形跡がある。こりゃ素人じゃないな」

 

 隊員たちが路地の壁面にこびりついた体液の飛沫を眺めながら、誰かが戦った形跡に顔を見合わせていた。

 徳田が、隣に並ぶカフカを横目でじっと見た。

 

「……お前さ」

「なんですか」

「いや、別に。被害が出なくてよかったな」

 

 それ以上は聞かれなかったし、カフカも何も言わなかった。

 路地の奥で、防衛隊員が怪獣の核を砕く鈍い音が響いた。討伐を主導したのは、第3部隊ではなかった。

 

 

 

 

 その日の夜。カフカは自室のベッドの端に腰掛け、スマートフォンを耳に当てていた。窓の外では、アパートの向かいのコンビニの看板が白い光を放っている。

 

「市川。二次試験会場に現れたエリンギ怪獣の件なんだが」

 

 前回、相模原に「奴」が現れたことを告げるためだった。怪獣9号――いや、今回だと、怪獣8号。あの菌糸のような怪獣が次に動く場所を、カフカは知っている。

 

「わかりました。匿名の通報、目撃証言として処理します」

「悪いな、お前にばかり負担をかけて」

「いえ。これも防衛隊の仕事ですから」

 

 市川の声は淡々としていたが、そこに疲労は感じなかった。むしろ、自分の役割を正確に認識している人間の落ち着きがあった。

 

「先輩も、そろそろ怪獣解体施工管理技士の一級とか受験された方がいいんじゃないですか。徳さんにも勧められてたじゃないですか」

「いやー、俺に資格なんてまだ……」

 

 その流れで、つい口を滑らせた。

 

「あ。で、今日さ。現場に小型の怪獣が出て」

「はい」

「子どもが路地に取り残されてたんだよね。防衛隊が来るまで十分あったんだけど、どう考えても間に合わないから」

「ん?」

「まぁ出たよね、俺」

 

 その瞬間、電話の向こうで市川が息を吸い込む音が聞こえた。

 

「……アホですか、あんた!!」

 

 電話越しの怒声が、アパートの壁に反響した。

 

「子どもはちゃんと逃げたから。あとキコルのスーツに、森さんのクラフト品を重ね着で使おうと思ったんだけど」

「結果オーライじゃないですよ! あと誰ですか森さんって!」

「博物館の人。同志」

「同志って……」

「頸部の体液管を狙ったら動きが鈍くなって、うまいこと死角をキープできて。我ながらよくやったと思うんだけど。どうよ?」

「え、褒めてほしいんですか、今この流れで!?」

「へへへ……ちょっとはほしい」

「気持ち悪いです。自重してください。いい年なんだから」

 

 市川が言葉に詰まっている気配がした。

 しばらく間があった。電話の向こうで、何かを整理しているような沈黙だった。

 

「……怪我はありませんでしたか」

 

 声のトーンが変わっていた。

 

「ない。スーツの損傷も少しだけで、手縫いできると思う。ただ、怪獣の核に刃が届かなかった。力が足りなくてな」

「核を破壊しようとしたんですか」

「何かしておかないと、またあの8号に色々と先を越される可能性がある。今ある手段で、やれることはやっておきたいんだよ」

 

 長い溜息が聞こえた。

 

「……次からは、何かする前に俺に連絡してください。サポートできる体制を作ります。防衛隊の内側からできることがある」

「お前、巻き込まれるぞ」

「とっくに巻き込まれてますよ」

 

 市川の声は静かだったが、揺るぎがなかった。

 

「それに、最後の一撃まで全部一人でやろうとしなくていい。討伐は、個人の力だけで押し切るようなもんじゃないんですから」

 

 その言葉が、しばらく耳の中に残った。

 

「……そうだ。ありがとな、市川」

 

 

 

 

 市川がスマートフォンを耳から外し、視線を上げると、いつの間にか誰かが近くに立っていた。

 

「誰と話してたんですか」

「……!」

 

 まるで気配がなかった。いつからいたのだろう。

 防衛隊候補生・仮入隊の、絹糸エリ。彼女が廊下のちょうど真ん中に立って、じっと市川を見ていた。蛍光灯の下で白金色の髪が冷たく光っている。

 

「家族です」

 

 市川は咄嗟に嘘をついた。何故かは分からないが、この女の前でカフカの名前を出したくなかった。エリは少しだけ首を傾けた。

 

「相変わらず私のこと嫌いなんですね。隊員同士、仲良くしたいんですが」

「あなたは正隊員になれるよう対策を練る方が先なんじゃないですか。相変わらず解放戦力0%って聞きましたけど」

 

 市川はそれ以上付き合うつもりのない声で言ったが、エリは笑顔のまま続けた。

 

「市川さんは、入隊試験のとき8%でしたよね」

「それが何か」

「怪獣8号が現れたとき、その場のほぼ全員の戦力が唐突に5%近く上昇するという現象が発生した。でも市川さん、あなた、あのとき一人だけ10%以上も戦力が伸びたそうじゃないですか」

「……まぁ」

「すごい潜在能力ですよね」

「……どうも。それじゃ、急ぐんで」

 

 市川が会話を打ち切ると、微笑みながらエリも廊下を歩き去っていった。足音がほとんどしない。隊服の裾が、蛍光灯の光の中でかすかに揺れている。

 市川はその背中を見送った。そして角を曲がる直前、エリの表情を確認しようとしたが、やめた。

 絹糸エリ。あの女はどことなく不気味で、振り返ったときの顔を、わざわざ見たくなかった。

 

 

 

 

 第3部隊の管制室。蛍光灯の半分が消灯されていて、デスクの上のモニター光だけが青白く室内を照らしている。保科が報告書を読んでいた。小此木が横に立って説明している。

 

「今日の午後、第七区画の怪獣出現事案です。防衛隊到着前に、何者かが介入した痕跡があります」

「民間人やな。アホなことしよる」

「身元は不明です。現場に居合わせた清掃業者の従業員に確認しましたが、全員心当たりなしと」

「怪我人は?」

「ゼロです。住民は全員避難済みでした。それと……」

 

 小此木が少し間を置いた。報告書のページをめくる音が、静かな管制室に響いた。

 

「怪獣の損傷部位が特徴的でした。解体処理の手順に近い攻撃パターンだと、現場の隊員が」

 

 保科は報告書から目を上げなかった。解体処理という言葉を、口の中で反芻するように呟いたが、しばらくそのまま報告書を読み続けていた。

 そこへミナが入ってきた。ブーツの踵が床を叩く音だけが、管制室の静寂を破る。保科が報告書を差し出すと、ミナが受け取って、まっすぐ立ったまま読んだ。

 

 表情が変わった……ようにも見えたが、保科には確信が持てなかった。ミナの目が、報告書の一箇所で止まっている。

 

「現場にいたのは、モンスタースイーパー株式会社。清掃業者か」

 

 それだけ言った。

 

「この件は別の課が引き継ぐ。我々は別件の対応に移る、いいな」

 

 報告書を返して、ミナは部屋を出た。ブーツの音が廊下に遠ざかっていく。




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