ゼーリエ「やれ」 作:目玉焼きは胡椒
4
吹雪の夜にも、深さがある。
風が強く、壁を叩き続ける夜は分かりやすい。
眠っていても、外の世界がこちらを噛みに来ているのが分かる。
だが本当に厄介なのは、むしろ静かな夜だった。
風が弱い。
雪も荒れない。
そのくせ降り止まない。
しんしんと、という言葉が一番似合うような降り方で、世界を静かに埋めていく夜。
そういう夜は、音が遠くまで届く。
雪が音を吸う、というのは半分だけ本当だ。
たしかに雪は音を鈍らせる。
だが、そのかわり余計な音が消える。
風の叫びも、枝のきしみも、遠い岩肌の鳴りも薄くなってしまうから、逆に“動いているもの”の気配だけが残ることがある。
その夜、アッシェは眠りの浅いところで目を開けた。
何かを聞いたのではない。
少なくとも最初は、そうではなかった。
小屋の中は暗い。
暖炉には熾火が残っているが、もう高い炎はない。
赤い芯がいくつか、呼吸するみたいに小さく明滅しているだけだ。
毛布の中では、シュタルクが重たい寝息を立てている。
フェルンは音がない。
フリーレンもまた、寝ているようにしか見えない。
クラフトは扉の近くで、壁へ背を預けるみたいな形で横になっている。
静かだ。
その静けさの中に、ひとつだけ、よくないものが混じっていた。
匂いだった。
雪の匂い。
煤の匂い。
濡れた木の匂い。
その向こうに、獣の脂と、冷えた毛皮と、飢えた腹の匂いがある。
アッシェは、毛布の中でわずかに目を細めた。
匂いだけではない。
外の雪の上を踏む重さもある。
人より軽い。
だが一匹ではない。
複数。
小屋の周囲を大きく円を描くように、間合いを測っている。
狼だ、と分かった。
魔物ではない。
少なくとも、魔物の持ついやな濁りは感じない。
もっと生き物らしい気配だった。
ただし、冬山の獣はそれだけで十分危ない。
吹雪の中を越えて小屋の近くまで来る狼は、たいてい腹を空かせている。
飢えた群れは、人間の火を恐れるより先に、その火のそばにある肉の匂いへ引かれる。
アッシェはゆっくり起き上がった。
音を立てない。
毛布を払う音も、床板の軋みも、最低限に抑える。
こういう動きは、考えてやるというより、もう体の方が先にやる。
暖炉の上の女神像が、熾火の赤に半分だけ照らされていた。
削りかけの翼。
まだ浅い目。
木屑の匂い。
その下を、アッシェは何も言わず通り過ぎる。
扉のところで一度だけ止まり、外の気配を改めて測った。
三匹。
いや、四匹かもしれない。
大きい。
冬を越えるために骨の上へ毛皮をまとっているみたいな痩せ方ではなく、まだぎりぎり力の残っている体つきだ。
逆に言えば、獲物を追う余力がある。
起こすほどではない、と最初に思った。
フェルンを起こせば火は出せる。
フリーレンを起こせば、狼の群れなど一瞬で散る。
シュタルクを起こせば、余計に騒がしくなるだろう。
クラフトも目を覚ませば対応はする。
でも、そのどれも必要ないと思った。
必要ないし、この小屋の中の眠りを、わざわざ獣のために乱したくなかった。
アッシェは扉を細く開け、外へ滑り出た。
冷気が頬を打つ。
だが痛みまではない。
雪はまだ降っている。
強くはない。
だからこそ、獣の輪郭がよく分かった。
小屋から少し離れた位置に、灰色の影が三つ、雪面へ低く沈んでいる。
さらにもう一つ、木立の陰。
目だけが光る。
飢えた冬の獣の目だ。
火を恐れている。
でも、その火の中にあるものを諦めてもいない。
アッシェは武器を持たなかった。
持つ必要がなかった。
腰の短剣にも触れない。
ただ雪の上へ、ゆっくり一歩出る。
狼たちの気配が変わる。
人間が出てきた。
それは分かる。
だが、何かがおかしい。
目の前のそれは、火を背負った人間の匂いをしているのに、恐れさせるものの質が少し違う。
アッシェはさらに一歩進んだ。
雪が軽く鳴る。
吹雪の中の平原で、不死の軍勢の前へ出た時とは違う。
魔族と向き合った時とも違う。
もっと古いところの動きだった。
相手へ“殺す”と伝えるのではない。
ここへ来るな。
越えるな。
これ以上近づけば、終わる。
そういう線を、ただ立つだけで引く。
狼たちは唸らなかった。
それどころか、最初の一匹はすでに半歩引いている。
群れの先頭にいた大きな灰狼が、雪の上で低く頭を動かす。
鼻先がアッシェの匂いを探り、耳が伏せられ、前脚に乗っていた重みが少しだけ抜ける。
分かったのだ。
目の前のそれは、飢えた夜に噛みついていい相手ではない。
火を守っている人間というより、
自分たちより上位の何か
として、本能の方が先に理解したのかもしれなかった。
アッシェは何も言わない。
言葉は要らない。
雪の中へもう一歩だけ進み、視線を逸らさず、呼吸をひどく静かに整える。
それだけで十分だった。
群れが崩れる。
先頭の一匹がまず後ろへ下がり、木立の陰にいた影が横へ流れ、残りもそれに続く。
逃げるというほど乱れた退き方ではない。
もっと獣らしく、もっと素早く、危険な線だけをきっちり見極めた退き方だ。
数秒のうちに、目の光が一つ消え、二つ消え、最後の一匹の気配も雪の向こうへ溶けていく。
残ったのは、踏み荒らされた雪と、冷たい夜気だけだった。
アッシェはしばらくそのまま立っていた。
狼は追わない。
追う必要がない。
退いたなら、それでいい。
ここで一匹でも殺せば、匂いが残る。
血が雪に落ちる。
小屋の周囲へ別のものを呼ぶかもしれない。
それに何より、今夜はそこまでしたくなかった。
「……帰れ」
ほとんど音にならない声で、雪の向こうへ言う。
狼たちはもう見えない。
それでも、その一言だけを夜へ落としてから、アッシェは踵を返した。
扉を開け、小屋へ戻る。
冷気が一瞬だけ中へ入り、すぐ閉ざされる。
靴の雪を払う。
暖炉の前を通る。
女神像の影が、熾火の赤に揺れる。
そこで初めて、アッシェは二つの視線に気づいた。
ひとつは、扉の近く。
クラフトが薄く目を開けている。
完全に起き上がってはいない。
だが起きている。
もうひとつは、寝袋の向こう。
フリーレンもまた、半分だけ目を開けていた。
こちらを見ている。
驚きも、問いもない。
ただ、気づいているという目だった。
アッシェはそれに何も言わない。
クラフトも、フリーレンも、その場では何も言わない。
その沈黙が、少しだけ楽だった。
もし誰かに「何がいた」と聞かれれば、答えなければならない。
「なぜ起こさなかった」と聞かれれば、面倒だ。
だがこの二人は聞かない。
聞かなくても、たぶん分かっているからだ。
アッシェは毛布へ戻り、横になった。
さっきまでより、少しだけ眠れそうだった。
外へ出て、狼を退かせたからではない。
小屋の中の眠りを壊さずに済んだからかもしれない。
あるいは、あの獣たちを相手にした時、妙に自然に“それ”ができてしまったことが、少しだけ嫌で、その嫌さが逆に疲れへ変わったのかもしれない。
暖炉の上の女神像は、変わらず半分だけ赤く照らされている。
祈りの形。
その下で、獣と呼ばれた男が、今度は本物の獣を追い払って戻ってきた。
アッシェは目を閉じる前に、胸の奥で小さく思う。
最悪だ。
でも、今夜は口には出さなかった。
翌朝、吹雪は少しだけ弱まっていた。
弱まったといっても、晴れたわけではない。
風がひとつ薄くなり、扉を開けた時の白が、昨日より少し浅く見えるだけだ。
それでも山では、それだけで十分“違い”になる。
アッシェが扉の前の雪を掘っていると、クラフトが外へ出てきた。
いつものように無駄のない動きで、荷車の幌を確かめ、屋根の雪の重みを見て、それから何でもない顔で言う。
「昨夜、客が来ていたな」
アッシェは雪を掻く手を止めない。
「そうだな」
「起こすほどでもなかったか」
「なかった」
クラフトは短く頷いた。
「そう見えた」
そこで終わりだった。
数を聞かない。
どんな獣だったかも聞かない。
どう追い払ったかも。
ただ、“あった”ことと、“起こすほどではなかった”という判断だけをそのまま受け取る。
それがありがたかった。
少し遅れて、フリーレンも外へ出た。
髪にまだ寝起きの癖が残っている。
だが、目だけはちゃんと起きている。
彼女は雪原の向こうを一度見て、それから小屋の脇に残った浅い足跡へ視線を落とした。
狼のものだ。
すでに雪が半分埋め始めているが、分かる者には分かる。
「狼」
と、フリーレンが言う。
アッシェは少しだけそちらを見る。
「たぶんな」
「たぶんじゃないよ」
フリーレンは雪に残った跡を見たまま、静かに言う。
「三匹か四匹。大きいのが一匹いた」
アッシェは雪掻きの柄に手をかけたまま、ほんの一拍だけ黙った。
「そうか」
フリーレンはそこで少しだけ目を細める。
「起こしてもよかったのに」
責める言い方ではない。
本当に、そういう選択肢もあったという程度の声だった。
アッシェは雪を押しながら答える。
「起こすほどでもなかった」
フリーレンはその返事を聞いて、しばらく何も言わなかった。
やがて小さく呟く。
「そういうところは、獣っぽくないね」
アッシェの手が、ほんの少しだけ止まる。
フリーレンは続ける。
「追い払うだけで済ませたんでしょ」
「……たぶんな」
「それも、たぶんじゃないと思う」
彼女の声にはいつものように熱がない。
だからこそ、見たことをそのまま置いている感じが強かった。
アッシェは返事をしなかった。
しないまま、また雪を動かす。
フリーレンはそれ以上踏み込まない。
ただ、小屋へ戻る前に小さく言った。
「ありがとう」
その一言は、狼を追い払ったことに対してだけではなかった。
皆を起こさず、眠りを壊さず、火のそばの夜を守ったことに対してでもあった。
アッシェは、少しだけ目を伏せた。
「そうか」
またそれだった。
でも今度の「そうか」は、少しだけ返しに迷ったあとの声だった。
小屋の中では、まだシュタルクが毛布の中でもぞもぞしている。
フェルンは、すでに鍋の支度を始めていた。
いつも通りの朝だ。
狼の影はもうない。
雪はまた降る。
鍋はまた煮える。
暖炉の上の女神像は、今日も少しずつ削られていくのだろう。
それで十分だった。
誰も知らないまま終わってもよかった夜の出来事。
でも、フリーレンとクラフトだけはちゃんと知っている。
“聖都の獣”と呼ばれた男が、今度は本物の獣を、血も流さず、眠りも壊さずに退かせたことを。
その事実は大きくない。
けれど、冬の小屋の中で人を少しだけ変えるには、それで足りた。
5
吹雪は、ある日を境にいきなり終わるわけではない。
前の日まで世界の形を消していた雪が、翌朝にはすべて止んでいる。
そういう都合のいい変わり方は、北の山ではほとんど起きない。
実際にはもっと曖昧だ。
風が少し痩せる日がある。
雪の粒が少し軽くなる日がある。
扉を開けた時の白が、昨日より半歩ぶんだけ浅く見える朝がある。
そういう、いくつもの小さな違いが積もって、ようやく人は
ああ、冬が少しだけ緩み始めたのかもしれない
と知る。
その頃になると、避難小屋の中にも、最初の張りつめた空気とは別のものが混じり始めていた。
火を囲む距離にも慣れた。
鍋の順番にも慣れた。
誰がどの仕事を自然に引き受けるかも、もうだいたい決まっている。
朝はクラフトとアッシェが先に外へ出ることが多い。
屋根の雪を見て、荷車の幌を確かめ、扉の前を掘る。
フェルンは水を作り、鍋を用意し、昨日の残りと今日使う分を整理する。
シュタルクは寝起きが遅いくせに、起きれば力仕事へ首を突っ込みたがる。
フリーレンは――見た目には何もしていない時間が多いが、たぶん一番長い目で外を見ている。
それぞれの役割が定着し始めると、人は少しだけ口が軽くなる。
その朝も、夜のあいだに小屋の脇へ寄せてあった薪の山が、また半分ほど雪に呑まれていた。
クラフトはそれを見るなり、肩をすくめた。
「昨日のうちにもう少し奥へ入れておくべきだったな」
アッシェは雪を払った薪を抱え直しながら言う。
「言わなかったな」
「気づいているものだと思っていた」
「気づいていた」
「なら動け」
「お前もな」
その返しに、クラフトがほんの少しだけ目を細めた。
前ならアッシェはそこで「そうか」で終わらせていた。
だが今は、時々こうして短く返す。
短い。
乾いている。
でも、そこに必要以上の棘はない。
クラフトは薪を一本持ち上げ、淡々と言う。
「ようやく口が人間らしくなってきたな」
アッシェは一拍おいてから返した。
「それは褒めてるのか」
「半分はな」
「残り半分は」
「まだ面倒だ」
アッシェは、それには少しだけ口元を歪めた。
笑ったとまでは言えない。
だが、無反応でもなかった。
小屋の中では、シュタルクが斧を持ち出していた。
いや、正確には、持ち出そうとしてフェルンに止められていた。
「今からそれで何をするんですか」
「何って、薪割りだけど」
「外で雪を掻いている二人がいます」
「うん」
「十分です」
「いやいや、俺もやるって!」
フェルンは少しだけ眉を寄せる。
「シュタルク様が行くと、たいてい仕事が一つ増えます」
「なんでだよ!」
「前回、勢いだけで振り下ろして、斧を雪に埋めたからです」
シュタルクが口を閉じる。
反論したそうな顔をする。
だが、実際にやったことなので強く出られない。
そこへ扉が開き、薪を抱えたアッシェが入ってきた。
頬と肩に細かな雪をつけたまま、小屋の空気の中へ戻ってくる。
シュタルクは、待ってましたとばかりにそちらへ振り向いた。
「なあ、お前からも言ってくれよ。男手は多い方がいいだろ?」
アッシェは薪を炉の脇へ下ろし、斧を持ったシュタルクを一度見てから言った。
「それはそうだな」
シュタルクの顔がぱっと明るくなる。
「ほら見ろ!」
「だが」
アッシェは続ける。
「お前はたまに、男手というより事故だ」
フェルンが静かに頷く。
「その通りです」
「えっ」
シュタルクは二人を見比べ、ようやく理解が追いついたみたいに顔をしかめた。
「お前、今のは絶対馬鹿にしただろ」
「少しな」
「やっぱり!」
その声に、寝袋の中のフリーレンが毛布から片目だけ出した。
「朝から元気だね」
「元気じゃねえよ!」
「元気だよ」
フリーレンはそう言って、また半分だけ寝袋の中へ戻る。
アッシェはその姿を見て、しばらく何も言わなかった。
それから、ほんの少し考えるみたいな間を置いて言う。
「魔法使いってのは、冬眠するのか」
小屋の中が、一瞬だけ静かになった。
シュタルクがまず吹き出す。
次に、フェルンが呆れたように息を吐く。
クラフトは外から戻ってきたところで、その言葉だけを聞いて、扉を閉めながら肩を揺らした。
フリーレンは寝袋の中から、ようやく顔だけを出した。
「しないよ」
「そうか」
「ただ、寒いと動きたくないだけ」
「それを冬眠って言うんじゃないのか」
フリーレンは少しだけ考えてから、
「……似てるかも」
と答えた。
フェルンが即座に言う。
「似ていても違います。起きてください」
フリーレンは小さく唸り、毛布の中で少しだけ丸くなった。
だが、その口元がわずかに緩んでいるのを、アッシェは見ていた。
その日からしばらく、フリーレンが朝なかなか起きないたびに、アッシェは時々同じことを言うようになった。
「まだ冬眠か」
あるいは、
「今日は目が覚めたのか」
もっと短い時は、
「冬だな」
だけのこともある。
どれも大した台詞じゃない。
皮肉とも呼べないくらいの軽口だ。
でも、それがあるだけで、小屋の空気が少しだけ柔らかくなる。
フリーレンも、それに対して真面目には怒らない。
「まだ秋眠りくらい」とか、「今日は半分起きてる」とか、よく分からない返しをする。
そのやり取りが、朝の吹雪の鈍い白の中で、妙に生活じみて響いた。
フェルンに対しても、アッシェの言葉は少しずつ変わっていった。
最初の頃は、「そうか」か「分かった」しかなかった。
それが、鍋の味や塩加減や、物の置き方に対して、少しだけ余計な一言を足すようになる。
ある昼、フェルンがいつものように鍋をよそっていると、アッシェが器を受け取って言った。
「今日は昨日よりましだな」
フェルンの手が一瞬止まる。
「何がですか」
「塩だ」
「昨日も適量でした」
「昨日は少し死にかけた」
シュタルクがそこで噴き出した。
「お前、それ、褒めてんのか貶してんのか分かんねえよ」
フェルンは器を置いたまま、アッシェをじっと見た。
「一応聞きますけど、今日は褒めているんですか」
アッシェは少し考えた。
「……褒めてるつもりだ」
フェルンは小さく息を吐く。
「言い方が下手ですね」
「よく言われる」
「それは知っています」
そこまで言ってから、フェルンはわずかに口元を緩めた。
本当にわずかだ。
知らない者が見れば見落とす程度の変化。
だが、それでも確かに緩んでいた。
アッシェはそれを見て、少しだけ目を細めた。
人の輪に馴染むために、意識して軽口を作っていた頃の癖はまだどこかに残っている。
だが、今のこれはそれとは少し違う。
必要だから出しているのではなく、出ても困らない場所だから出ている。
その差は、自分でもうまく説明できない。
できないが、火のそばではその違いが少しだけはっきりする。
一方、シュタルクは相変わらず分かりやすかった。
雪がやや弱まった日にはすぐ外へ出たがる。
木を運ぶ。
雪を蹴る。
荷車の車輪に積もった氷を割る。
何かやっていないと落ち着かないのかもしれない。
だが、やる気と上手さは別だった。
ある昼、荷車の脇に積んであった細い丸太を二人で移していた時、シュタルクが妙に張り切った顔で言った。
「次は一本ずつじゃなくて、二本まとめて持つか」
アッシェはその丸太を見た。
見て、シュタルクを見た。
「腰をやるぞ」
「やらない!」
「やる顔だ」
「なんだよその顔って!」
「今にも意地で重さを選びそうな顔だ」
シュタルクはむっとして、そのまま本当に二本まとめて持ち上げようとした。
案の定、半分持ち上がったところで体勢を崩し、雪の上で危うく足を取られそうになる。
アッシェが片手で丸太の端を押さえた。
「ほらな」
「まだだ!」
「いや、もうだいぶだ」
「お前なあ……!」
そこへクラフトが通りかかり、二人の様子を一瞥して言った。
「若いな」
アッシェが返す。
「面倒だがな」
クラフトは少しだけ目を細めた。
「お前も今の歳でそう言うのは、あまり健全じゃない」
「そうか」
「そうだ」
シュタルクは二人のやり取りを聞きながら、丸太を抱え直して不満そうに言う。
「なんでお前ら、たまに親子みたいな喋り方すんの」
クラフトは無言。
アッシェも無言。
数秒おいてから、アッシェが低く言った。
「お前よりは静かだ」
それを聞いて、今度はクラフトが少しだけ笑った。
冬の日々は、同じようでいて少しずつ違った。
吹雪の強さ。
鍋の中身。
女神像の進み具合。
フリーレンが寝袋から出てくる速さ。
シュタルクの余計な一言の数。
フェルンの溜め息の深さ。
そして、アッシェの口から自然にこぼれる軽口の回数。
どれも大した変化ではない。
でも、閉じた冬の中では、そういう小さな違いほど目についた。
夜になると、相変わらずアッシェが熾火の前に残ることはあった。
ただ、以前ほど毎回ではなくなった。
外仕事で体がしっかり疲れた日には、そのまま眠りへ落ちることもある。
それをフェルンは気づいていたし、フリーレンもまた、何も言わずに知っていた。
ある夜、シュタルクがもう半分眠りながら、小さく呟いた。
「なんかさ」
誰にともなく。
「最初より、だいぶ怖くなくなったな」
暗がりの中で、その言葉だけが妙にまっすぐ響く。
フェルンがすぐに聞き返す。
「誰がですか」
「アッシェが」
本人の前で言うのか、とフリーレンは少しだけ思った。
だがシュタルクはもう眠気の方が勝っていて、半分夢の中の正直さみたいな声だった。
「最初はさ、なんかほんとに……噂通りっていうか。聖都の獣、って感じだったけど」
アッシェは毛布の中で目を閉じたまま、何も言わない。
その沈黙を拒絶と取るには、冬の小屋は狭すぎた。
シュタルクはもごもごと続ける。
「今は……まあ、変だけど」
「褒めてませんね、それ」
とフェルンが言う。
「いや、褒めてるよ。変だけど、ちゃんと一緒にいられる変っていうか」
フリーレンが、寝袋の中から小さく言った。
「獣じゃなくて、変な人」
「それ」
とシュタルクが力なく言う。
フェルンは小さく息を吐いた。
「それも褒めているようには聞こえません」
その時、アッシェがようやく目を閉じたまま言う。
「お前ら、寝る直前だけ口が軽いな」
小屋の中が一拍だけ静かになる。
それから、シュタルクが吹き出した。
フリーレンは毛布の中で少しだけ肩を揺らし、フェルンは呆れたように息を吐く。
アッシェは自分でも少し驚いていた。
今のは、場を持たせるために選んだ言葉ではなかった。
ただ、そのまま出た。
「ほら」
シュタルクが笑う。
「やっぱお前も口軽くなってんじゃん」
アッシェは少し黙ってから、小さく返した。
「……そうかもな」
それで十分だった。
暖炉の火は低く、女神像の影だけが静かに揺れていた。
6
冬がゆるむ時、最初に変わるのは音だった。
雪の量がいきなり減るわけではない。
風がやむわけでもない。
朝になれば相変わらず扉の前には白い壁があり、屋根の端には重く湿った雪が積もっている。
吹雪そのものも、まだ終わったとは到底言えない。
だが、それでも音だけは少しずつ変わる。
これまでの雪は、世界を閉じる音だった。
壁を叩き、扉を打ち、屋根をこすり、外のすべてを“こちらではない何か”へ押しやる音だった。
それが、ある日から少しずつ薄くなる。
風が壁へ当たる角度が変わり、雪の粒が木を打つ音が小さくなり、時折、吹雪の切れ目に、遠い斜面の沈黙そのものが聞こえる。
小屋の中にいる者は、そういう微かな違いに案外敏い。
朝、扉を開けた時の冷気。
雪を掘る時の重さ。
空の低さ。
光の色。
冬のまっただ中では、どの日も同じ灰色に見える。
けれど、抜ける前だけは違う。
色のない白の奥に、ほんの少しだけ“向こう側”が戻り始める。
最初にそれを口にしたのは、やはりフリーレンだった。
その朝、彼女は珍しく早く起きていた。
早いといってもフェルンやクラフトほどではない。
ただ、シュタルクより先に寝袋から出てきて、暖炉の前で温めた手を頬へ当てながら、まだ半分眠そうな顔で窓の外を見ていた。
「今日、少し明るい」
小さく言う。
フェルンが鍋へ雪を入れながら答える。
「明るい、ですか」
「うん」
フリーレンは目を細める。
「白の向こうの白じゃなくなってる」
その言い方はひどく曖昧だった。
だが、小屋の中でそれを笑う者はいない。
誰もがうすうす感じていた違いだったからだ。
クラフトは扉の隙間へ手を当て、外の風を少しだけ確かめてから言う。
「今日は見えるかもしれんな」
何が、とシュタルクが寝起きの顔で聞く。
クラフトは短く答えた。
「山だ」
それだけで、シュタルクの顔が少しだけ起きる。
吹雪が続いている間、彼らの世界はずっと小屋の周囲だけだった。
荷車の位置。
雪へ埋もれた木立。
屋根の端。
扉の前。
遠くを見るという感覚そのものが、いつの間にか鈍っていた。
だからこそ、“山が見える”という一言は、この小屋の生活にとって、ほとんど旅立ちの予告みたいに響いた。
朝の仕事はいつも通りだった。
扉の前を掘る。
屋根の雪を落とす。
幌に積もった重みを払う。
水を作る。
鍋を煮る。
やることは変わらない。
だが、その日だけは全員の視線が何度か空へ向いた。
雪は降っている。
それでも、真上ではなく、もっと高いところから落ちてきているように見えた。
つまり、空が少しだけ上がっている。
アッシェは屋根から雪を落としながら、その変化を言葉にはしなかった。
だが、分からないわけではない。
風が弱い。
雪の肌理が細かい。
積もった重みの質も少し違う。
長い冬のあいだ、毎日同じような作業を繰り返していれば、変化は体の方が先に知る。
下からシュタルクが声を上げる。
「おい! 見えるぞ!」
その声は半分、子どもみたいだった。
アッシェが屋根の端から目を上げる。
たしかに、吹雪の切れ目の向こうに、灰色の輪郭があった。
シュヴェア山脈の斜面だ。
ほんの一部。
けれど確実に“遠く”が戻っている。
フェルンも扉のところまで出てきて、それを見た。
クラフトは何も言わずに頷き、フリーレンは寝癖の残った髪のまま小屋の外へ立ち、しばらくその山肌を見つめていた。
誰も、大げさには喜ばない。
吹雪が終わったわけではないと、全員分かっている。
今日見えたものが明日また閉ざされることもある。
山はそういうものだ。
それでも、一度でも遠くが戻れば、人の心は少しだけ先を思い出す。
小屋の中へ戻ると、暖炉の上の女神像が、いつもより少しだけ明るく見えた。
窓から入る光が変わったからだろう。
これまでは熾火とランタンの色でしか見えなかった木肌が、今日は昼の薄い白を受けている。
削りかけだった顔にも、ようやく輪郭らしいものが生まれていた。
目は伏せている。
口元は穏やかだ。
翼はまだ左右で少し形が違うが、それでももう、粗い木の塊だった頃の気配はない。
シュタルクが、それを見て言った。
「だいぶ女神っぽくなったな」
クラフトは鍋のそばへ腰を下ろしながら答える。
「最初から女神だ」
「いや、そうじゃなくてさ」
「分かってる」
その短いやり取りのあと、クラフトは像を一度手に取った。
光の方へ少し傾け、削り残した翼の根元を眺める。
それから、ほんの少しだけ刃を当てた。
しゃり、と乾いた音がする。
その音を聞きながら、アッシェは妙なことを思った。
この像もまた、この小屋で冬を越しているのだということだ。
外の雪が少しずつ変わったように、木の塊も少しずつ神の顔へ近づいていく。
それは大した変化ではない。
だが、毎日見ていると分かる。
冬のあいだ、変わっていないようでいて、実際には何もかも少しずつ変わっている。
鍋を囲む距離。
シュタルクの声の大きさ。
フェルンの溜め息の深さ。
フリーレンが寝袋から出てくる速さ。
アッシェの軽口の数。
そして、沈黙の置き方まで。
昼を過ぎたころには、空はまた少し閉じた。
見えた山も白に消えた。
だが、一度戻った遠さは、人の中からすぐには消えない。
その日から、小屋の中には微かな“終わりの気配”が混じり始めた。
誰も口にはしない。
まだ早い。
まだ冬は終わっていない。
だが、どこかで皆、分かっている。
この火を囲む時間は永遠ではない。
吹雪がゆるめば、自分たちはまた北へ出る。
オイサースト。
一級。
北部高原。
それぞれの行き先と理由が、もう火の前で名前を持ってしまっている。
だから、終わりは来る。
終わりが見え始めると、日常は少しだけ形を変える。
シュタルクは外仕事の合間に、雪の向こうをやけに見たがるようになった。
フェルンは荷箱の中身を数える回数が少し増えた。
旅へ戻る時に、何を持ち、何を置くかを自然に考え始めているのだろう。
クラフトは女神像を削る手を、逆に少しだけ遅くした。
急がない。
この小屋で彫り上げるつもりなのか、それとも未完のまま残す気なのか、外からは分からない。
フリーレンは夕方、小屋の外へ立つ時間が増えた。
吹雪の切れ目を見ているのか、もっと先の北を見ているのか、それともただ雪の匂いが変わるのを待っているのか、やはり分かりにくい。
でも、あの静かな背中は、寝袋の中にいる時より少しだけ“旅の途中の人”に戻っていた。
アッシェは、その全部を見ていた。
見ている。
だが、それについてあまり言葉は持たない。
たとえばシュタルクが山の向こうを見ながら「なんか、動き出しそうだな」と言った時も、アッシェは少し考えてから、
「そうかもな」
と返すだけだった。
フェルンが荷箱の中身を整えながら「春までは持ちそうです」と言えば、
「十分だな」
とだけ言う。
フリーレンが夕方の空を見て「雪の匂いが少し変わった」と呟けば、
「分かるのか」
と聞く。
「少しね」
と彼女が答えれば、
「そうか」
で終わる。
それで十分だった。
それ以上何かを言おうとすると、言葉が余る。
余ってしまうと、それが自分のものではない感じがする。
だから、短い返事のままにしておく。
だが、その短い返事の中にも、以前ほどの硬さはなくなっていた。
ある夕方、シュタルクが暖炉の前で手を温めながら、何でもない調子で言った。
「ここ出る時、ちょっと寂しくなるかもな」
言ってから、自分でも少し照れた顔になる。
こういう感情をそのまま口にすると、自分が子どもっぽく見える気がするのだろう。
フェルンは鍋の蓋を持ったまま、少しだけそちらを見た。
「珍しく素直ですね」
「うるさいな」
「でも、分からなくはありません」
フェルンは蓋を置き、静かに続けた。
「ここは大変ですが、分かりやすいですから」
その言い方が、小屋の生活をよく表していた。
分かりやすい。
やることがある。
火がある。
鍋がある。
雪を掘れば扉が開く。
薪を割れば暖かくなる。
同じことの繰り返しだ。
でも、同じことを繰り返す場所は、人にとって時々ひどく分かりやすい。
フリーレンは寝袋へ半分入ったまま、小さく言った。
「旅の途中にある停滞って、たまに旅そのものより濃いからね」
アッシェは、その言葉を少しだけ不思議に思った。
旅の途中にある停滞。
たしかにそうだ。
ここは止まっている。
だが、ただ足踏みしているわけではない。
冬の中で閉じ込められているあいだに、火のそばで、何かが少しずつ削られている。
女神像の木肌みたいに。
自分たちの輪郭もまた。
「濃い、か」
アッシェが小さく繰り返す。
フリーレンは頷く。
「うん。動いてる時は、案外見えないことも多いから」
その言葉に、クラフトが暖炉の上の像を見たまま、低く言った。
「止まっている間にしか進まんものもある」
誰へ向けたわけでもない。
だが、その一言は、この小屋の中にいる全員へ同じように落ちた。
アッシェは、そこで初めて少しだけ喉の奥がつまるような感覚を覚えた。
ここを出たい。
それは本当だ。
北へ向かう理由はある。
オイサーストへ行かなければならない。
同じ場所に留まり続けるつもりもない。
なのに、吹雪がゆるみ、山の輪郭が戻り始めるたびに、心のどこかが微妙に静かじゃなくなる。
それを惜しいと呼ぶのか。
それとも、閉じた時間が終わることへのただの居心地の悪さなのか。
自分でもまだ分からない。
その夜、熾火の前に残ったのはアッシェではなかった。
珍しく、フリーレンが少し長く起きていた。
暖炉の前で膝を抱え、消えかけた火を見ている。
アッシェは先に横になっていたが、眠ってはいない。
薄く目を開けると、赤い熾火の向こうに、銀髪が小さく揺れているのが見える。
「眠れないのか」
思わず聞く。
フリーレンは振り向かないまま答えた。
「少しだけ」
「珍しいな」
「そうでもないよ」
少し間があってから、彼女は続ける。
「終わる前の時間って、たまに起きていたくなる」
アッシェはその言葉を、しばらくそのまま受け止めていた。
終わる前の時間。
それはこの冬のことか。
それとも、もっと長い旅の途中で出会う、閉じた停滞全部のことなのか。
おそらく両方だろう。
アッシェは毛布の中で目を閉じた。
返事はしなかった。
できなかったのかもしれない。
でも、その言葉は妙に長く胸の奥へ残った。
終わる前の時間。
起きていたくなる。
その感覚は、たぶん分かる。
分かること自体が、少しだけ面倒だった。
暖炉の上では、削りかけの女神像が、熾火の赤に静かに照らされている。
完成していない神。
まだ削られている途中の顔。
その下で、冬を越す者たちもまた、誰一人完成しないまま、終わりに向かう時間の中へいた。
吹雪の終わりは、劇的には来ない。
それでも、終わりの気配は確かにあった。
火を囲む時間が濃くなるほど、その終わりもまた静かに近づいてくる。
7
春は、北側諸国では季節というより許可に近い。
来た、と言われてすぐ草が芽吹くわけではない。
雪は残る。
風もまだ冷たい。
山肌の陰には冬がしつこく居座り、夜になれば吐く息は相変わらず白い。
だが、ある朝ふいに人は知る。
もうこの白は、自分たちを閉じ込めるためのものではない、と。
その朝、扉を開けた時に見えたのは、久しぶりに奥行きのある世界だった。
白はまだある。
むしろ、地の上にはいまだ雪しかない。
だが空が高かった。
雲は裂け、光が斜面へ落ち、シュヴェア山脈の稜線がひとつながりの輪郭として遠くまで見えている。
木立の黒も戻っていた。
雪原の上に、影というものが久しぶりに置かれている。
風はまだ冷たい。
けれど、その冷たさの奥に、固く閉じていたものがわずかにほどけた匂いが混じっていた。
雪の下の水の匂い。
凍りきった土が、まだ姿を見せないまま息をし始める時の匂いだ。
シュタルクが、扉の外へ出た瞬間に言った。
「うわ……」
それ以上の言葉は出なかった。
ただ、見上げていた。
フェルンはすぐに空ではなく地面を見る。
雪の締まり方。
表面の硬さ。
荷車の車輪がどれくらい沈みそうか。
旅へ出るかどうかを決める時、彼女はまずそこを見る。
クラフトは何も言わず、しばらく山を眺めていた。
それから、ほんの少しだけ頷く。
「今日だな」
その一言で、皆の中にあったものが形を持った。
今日。
出る日だ。
まだ冬は終わっていない。
だが待ち続ける冬ではなくなった。
この先は、動きながら越える春になる。
フリーレンは小屋の外で空を見上げたまま、小さく言った。
「長かった」
誰に言うでもない。
ただ、本当に長かった冬を、まず自分で受け止めるような声だった。
アッシェはその少し後ろで、雪原を見ていた。
ここを出る。
そのこと自体に迷いはない。
オイサーストへ行く。
報告を持っていく。
北へ向く。
目的は最初から変わっていない。
なのに、小屋の前の踏み固められた雪や、幌の端に残った手の跡や、毎朝同じように掘り直してきた扉の前の傾斜を見ていると、胸のどこかが少しだけ静かではなかった。
惜しいのかもしれない、と、ふとそう思う。
だが、その言葉を自分で使うのはまだ少し照れくさい。
惜しい、というのはもっと穏やかな人間が使う言葉のように思えた。
自分の中にあるのは、もう少し形の悪い感覚だ。
居心地のよさに気づいてしまったことへの、わずかな居心地の悪さに近い。
「動くか」
クラフトが言った。
それが号令になった。
そこから先は忙しかった。
忙しさは、惜しさを隠すのにちょうどいい。
荷車の状態を確かめる。
幌の結び目を締め直す。
箱の中身を並べ替える。
積もっていた雪を払い落とし、凍っていた金具へ油を差す。
小屋の中では、フェルンが残すものと持ち出すものを分けていた。
保存食の一部は小屋へ残す。
毛布も二枚置いていく。
鍋のうち一つはこのままだ。
塩は半分。
油も少し。
また誰かがこの小屋へ辿り着くかもしれない。
冬山の避難小屋というのはそういう場所だ。
通り過ぎた人間の生き延び方が、次の誰かのために残っていく。
クラフトの荷車は十分な量を積んでいたが、その“十分”も、季節が変われば意味を変える。
冬を待つための量と、春を越えて進むための量は違う。
だから荷は一度、全部見直された。
シュタルクは最初、役に立とうと張り切った。
だが、張り切る時ほど彼は少し雑になる。
それを知っているフェルンが、早々に言う。
「重い箱はアッシェ様とクラフト様。シュタルク様はその次です」
「なんでだよ」
「順番です」
「それ、役割じゃなくて序列みたいに聞こえるんだけど」
「だいたい合っています」
シュタルクが不満そうに唸る。
だが、実際に箱を持ってみて何も言えなくなる。
冬を越えた荷は、見た目よりずっと重い。
詰まっているのが食料と道具と、それから時間そのものだからだ。
アッシェは黙って箱を持ち上げる。
クラフトもまた黙って幌を押さえる。
二人とも動きに無駄がない。
途中でシュタルクが手を添えようとして、かえって持ち方を崩しかけると、アッシェが低く言った。
「そこじゃない」
「分かってる!」
「分かってないから崩れる」
「お前なあ!」
そのやり取りを、フリーレンが小屋の戸口から見ていた。
その顔には、冬のあいだ何度も見てきた、少し眠そうで、少し面白がっているような表情がある。
「息合ってきたね」
ぽつりと言う。
シュタルクがすぐ振り返る。
「合ってない!」
アッシェは箱を下ろしながら言う。
「それはどうだろうな」
シュタルクが目を丸くした。
「お前、自分でそれ言うのかよ」
「事実だろ」
「今のちょっとむかつくな……!」
フェルンは荷の中身を点検しながら、小さく息を吐いた。
「でも、最初の頃よりはましです」
「フェルンまで!」
「事実です」
それで場が少しだけ緩む。
春の朝の忙しさには、そういう小さなやり取りがちょうどよかった。
小屋の中の片づけがあらかた終わる頃、クラフトは暖炉の前へ立った。
誰も何も言わない。
だが、その沈黙は自然に集まったものだった。
暖炉の上には、木彫りの女神像が置かれている。
冬の間、少しずつ削られてきた像。
最初は翼の輪郭だけだった。
それが、今ではもうはっきりと女神の姿を持っていた。
伏せられた目。
穏やかな口元。
細い指。
羽の筋。
尖った耳。
完成したのかどうかは、他人には分からない。
たぶんクラフトにしか分からないことだ。
だが少なくとも、ここで終えるには十分な輪郭を持っていた。
クラフトは像を手に取った。
少しだけ光へかざす。
彫り残しがないか見るというより、この冬のあいだ何度も繰り返してきた動きの最後を、自分で確かめているようだった。
それから、また暖炉の上へ戻す。
「置いていくのか」
アッシェが、低く聞いた。
クラフトは頷いた。
「この小屋で彫ったものだからな」
短い返答だった。
だが、その一言で十分だった。
この像は、持っていくために彫ったのではない。
吹雪の中で、火のそばで、雪の音を聞きながら、ここで形になったものだ。
なら、ここに残すのが自然なのだろう。
フェルンは暖炉の前へ進み、短く手を組んだ。
食前の祈りと同じように、ごく短く。
クラフトもそれに続く。
今度は鍋の前ではない。
旅立ちの前の、残すものに向けた祈りだった。
シュタルクも少し遅れて手を合わせる。
フリーレンはやはり、組まない。
ただ、像を見ていた。
女神に会ったことのない長命の魔法使いが、会ったことのない神の像を、冬の終わりの光の中で眺めている。
その距離の取り方は相変わらず彼女らしい。
アッシェは、少し遅れて頭を垂れた。
祈りにうまく座れない感覚は、冬のあいだ何度も繰り返した。
最後まで消えたわけではない。
それでも、最初の日ほど硬くはない。
手を組むことに、もう昔ほどの引っかかりはない。
いや、引っかかりがなくなったのではなく、引っかかったままそこへ立てるようになったのかもしれなかった。
暖炉の前の沈黙は短かった。
だが、長い冬の終わりには、それで十分だった。
小屋を出る支度がすべて整った時、最後に火を落としたのはフェルンだった。
必要なら、次に来た誰かが起こせる。
だから完全に冷やしきる必要もない。
熾火だけを、残す。
いつもの夜と同じように。
だが今度は、“今夜のため”ではなく、“いつかの誰かのため”に。
それを見て、アッシェはふと思った。
火は守るものだと思っていた。
だが、こうして残していく火もある。
残して、去る火だ。
守るだけではなく、託すための火。
クラフトが荷車の具合を最後に確かめ、肩越しに言う。
「私はここで別れる」
シュタルクが振り返る。
「え、来ないのか?」
「オイサーストとは逆だ」
クラフトは簡潔に答えた。
「それに、まだ雪の深い道を選ぶなら、一台の荷車に全員乗るより分かれた方が早い」
たしかにその通りだった。
冬がゆるんだとはいえ、山道はまだ完全には開いていない。
全員がひとつに固まるより、それぞれの道を選んだ方が合理的な時もある。
だが、合理性だけではないのだろうとアッシェは思った。
クラフトという男は、もともと同じ旅を最後まで並んで歩く類の人間ではない。
必要な場所で交わり、火を分け合い、また別れていく。
そういう長命者の静かな癖がある。
シュタルクは少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐにそれを飲み込んだ。
「……そっか」
フェルンは丁寧に頭を下げる。
「助かりました」
クラフトはそれに、小さく頷くだけだった。
フリーレンは少しだけ目を細める。
「像、ちゃんと置いていくんだね」
「置いていくから、彫れた」
クラフトは言う。
フリーレンは、その返答を聞いてほんのわずかに口元を動かした。
笑ったのかどうか分からないくらいの、小さな変化だった。
アッシェは最後に、暖炉の上の女神像を見た。
冬の間、何度も視界に入ってきた像だ。
祈りの時にも。
眠れない夜にも。
熾火の前で面倒だと吐いた時にも、いつもそこにあった。
会ったことのない神の形。
人が手で削って作った祈りの輪郭。
その下で、自分は火のそばに座り、鍋を食べ、軽口を少し取り戻し、狼を追い払い、眠れない夜を何度も過ごした。
何かが片づいたわけではない。
自分が人間なのか、獣なのか、それすらまだ時々曖昧だ。
それでも、この冬がただ足を止めただけの時間ではなかったことくらいは、もう分かった。
クラフトが、荷車の紐を締めながら言う。
「火は残した。道も見え始めた。十分だろう」
それは誰に向けた言葉でもなく、冬そのものへ言っているみたいだった。
出立の時は、案外あっさりしていた。
大げさな別れはない。
冬山では、長い言葉はだいたい冷える。
必要なことだけが残る。
クラフトは荷車の手綱を取る。
フリーレンとフェルンとシュタルクは、自分たちの荷を整える。
アッシェもまた、北へ向く支度を終える。
「オイサーストまで、同じ道だね」
フリーレンが言う。
アッシェは頷く。
「しばらくはな」
それで十分だった。
同行する、という言葉をわざわざ確認しなくても、もう足は自然に同じ方角を向いている。
シュタルクが小屋を振り返って、小さく言う。
「なんかさ」
「はい」
フェルンが促す。
「いや……また誰か、助かるといいなって」
暖炉の上の女神像。
残した毛布。
塩。
鍋。
熾火。
冬のあいだ置いていったものたちを思えば、その言葉は自然だった。
フェルンは静かに頷く。
「そうですね」
フリーレンは、小屋の扉と、その奥の暗がりを一度だけ見てから言う。
「大丈夫だと思う」
根拠のある言い方ではない。
でも、不思議と軽くは聞こえなかった。
火を残し、像を残し、冬を越えた人間の時間がそこに残っている。
それだけで、たぶん十分なのだろう。
アッシェは小屋を振り返る。
そこはもう、吹雪の中で偶然たどり着いた避難所ではなかった。
火と祈りと木屑と軽口が積もった場所になっている。
自分が少しだけ、人の口へ戻れた場所でもある。
惜しい、という言葉をまだ素直には使えなかった。
だが、喉の奥にあるものの正体は、たぶんそれに近い。
「行くか」
低く言う。
誰へ向けたものでもない。
けれど、それが合図になった。
雪はまだ残っている。
山道も完全には開いていない。
春は遠い。
それでも、閉じるための冬ではなく、進むための季節がもう始まっていた。
荷車の車輪が雪を軋ませる。
靴が新しい道を踏む。
吐く息はまだ白い。
けれど、その白の向こうには、もう次の章の風景がある。
オイサースト。
剣の里。
旅の再開。
一級魔法使い試験。
そして、また人と出会い、別れる道。
暖炉の上の女神像は、誰もいなくなった避難小屋で、静かに春を待つ。
削られた翼。
伏せられた目。
冬のあいだの火を見つめ続けた木の神。
その下に残された小さな熾火は、ゆっくりと、だが確かにまだ生きていた。
火は消えたのではない。
残されて、次の旅へ渡されたのだ。
もうちょっとだけ続くんじゃよ