碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
夕方の空気は、妙にぬるかった。
台所の換気扇が低く回り、味噌汁の湯気が白く伸びる。冷蔵庫の表面には指で引いたような薄い水跡があり、流しには洗いかけの皿が二枚、重なったまま止まっていた。ペンペンは冷蔵庫の前で腹ばいになり、片目だけこちらへ向けている。
その静けさを壊したのは、玄関の扉が勢いよく開く音だった。
葛城ミサト「シンジくん、ちょっといい」
返事をする前に、足音がまっすぐ廊下を来る。止まらない足音だ。いい知らせではない時の速度だった。
最上イズモ「何かありましたか」
葛城ミサト「ある」
ミサトはそう言って、紙袋をテーブルへ置いた。中で何か四角いものがぶつかる乾いた音がする。コンビニの惣菜らしい匂いが遅れて広がったが、その程度では空気は和らがない。
葛城ミサト「今日からアスカ、こっち来る」
味噌汁の表面が、火を止めたはずなのに少しだけ揺れて見えた。
葛城ミサト「今まで宿舎に置いてたのは、向こうの方が訓練棟に近かったから。あと、本人が一人の方が気楽って言い張ってた」
葛城ミサト「でも、さすがにこのままだと管理が分散しすぎるって上から話が来たのよ。生活時間も、出撃前後の状態確認も、移動も」
葛城ミサト「要するに、今日からここ」
ミサトはそこで一度だけ息を切った。説明の途中で、すでに疲れている。
葛城ミサト「で、今リツコから私に連絡来た。今夜のうちに荷物入るって」
葛城ミサト「だから先に言っとく。今日は荒れる」
最上イズモ「了解です」
葛城ミサト「その“了解”が怖いのよね」
ミサトは眉間を指で押した。
葛城ミサト「シンジくん、あんた多分、こういうの慣れてるでしょ」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「何に」
最上イズモ「主張が強くて有能で、でも線を雑に踏まれるのを嫌う人への対応です」
葛城ミサト「やっぱり変なところで納得感あるのやめて」
ミサトは冷蔵庫を開け、缶ビールを一本取り出したが、開ける前に手を止めた。少し考えた末、それを棚へ戻す。
葛城ミサト「今日は素面でいる」
最上イズモ「賢明です」
葛城ミサト「そういう時だけ真顔で肯定しないで」
インターホンが鳴った。
短く、遠慮のない押し方だった。次の一回が来る前に、ミサトが肩を落とす。ペンペンが腹を起こし、首だけ伸ばす。
葛城ミサト「来た」
ミサトが玄関へ向かう。イズモは火を止めた鍋の蓋を少しずらし、蒸気を逃がしてから、その背中を追った。
玄関先には、赤いキャリーケースが二つ、段ボールが三つ。廊下の蛍光灯に照らされて、金属の縁だけが白く光っていた。その真ん中に、腕を組んだ少女が立っている。制服ではない。明るい色のトップスに、足元だけ妙に戦闘的なブーツ。荷物の置き方まで、自分の領域を先に引く人間のそれだった。
惣流・アスカ・ラングレー「遅い」
葛城ミサト「来たばっかでしょ」
惣流・アスカ・ラングレー「待ったって意味よ」
葛城ミサト「はいはい」
アスカの視線が、ミサトの肩越しに滑る。そこで止まった。
惣流・アスカ・ラングレー「あんた、いたの」
最上イズモ「います」
惣流・アスカ・ラングレー「見れば分かるわよ」
言いながらも、口調の端に本気の刺は薄い。来日直後の艦上より距離が近い。学校と訓練と作戦で、会う回数だけは十分にあった。互いに相手の反応速度と地雷の位置が、だいたい見えている。
惣流・アスカ・ラングレー「で、何その顔」
最上イズモ「顔ですか」
惣流・アスカ・ラングレー「“そういうこともある”みたいな顔」
最上イズモ「そういうこともあるので」
惣流・アスカ・ラングレー「腹立つ」
アスカはそう言ってキャリーケースの持ち手を引いた。だが次の瞬間、廊下の段差に片輪が引っかかる。その前に、イズモは一つ前へ出てケースの角度を少し持ち上げた。
持ち上げすぎない。奪わない。引く方向だけ補助する。
荷重が抜けた瞬間、アスカの手首の力みがわずかに変わる。自分の荷物が自分の手から完全には離れていないと分かった時の変化だった。
惣流・アスカ・ラングレー「……取らないのね」
最上イズモ「必要なら言ってください」
惣流・アスカ・ラングレー「最初から全部持ってくようなバカよりはマシ」
葛城ミサト「それ私に刺さってない」
惣流・アスカ・ラングレー「刺してるのよ」
イズモは段ボールを一つ持ち上げる。思ったより重い。中で金属が擦れる音がした。模型ではない。工具か、あるいは整備関係の私物。そう考えた時、アスカが横目でこちらを見た。
惣流・アスカ・ラングレー「それ下にしないで」
最上イズモ「了解です」
惣流・アスカ・ラングレー「雑に置いたら怒るから」
最上イズモ「分かっています」
惣流・アスカ・ラングレー「……ほんとに分かってるの、ちょっと気持ち悪いわね」
玄関を入った途端、部屋の狭さが少し変わった。
元から広い部屋ではない。だが荷物が増えただけではなく、呼吸の仕方が一つ増えたせいで、空間の密度そのものが上がる。ペンペンは少し後ろへ下がり、冷蔵庫の横へ避難した。
アスカが部屋の中を見回す。視線は速い。壁、棚、テーブル、流し、ソファ、閉じたままの部屋の扉。人が暮らす空間を見ているというより、自分の動線を削らない配置を即座に測っていた。
惣流・アスカ・ラングレー「狭い」
葛城ミサト「第一声がそれ」
惣流・アスカ・ラングレー「事実でしょ」
葛城ミサト「事実だけど」
惣流・アスカ・ラングレー「それに匂いが生活なのよ」
葛城ミサト「生活空間に生活の匂いあって何が悪いのよ」
惣流・アスカ・ラングレー「雑な生活の匂い」
葛城ミサト「言うわねえ!」
言いながら、ミサトも否定しきれていない顔をしている。
アスカは段ボールの一つを自分で持ち直し、部屋の奥へ進んだ。その途中でぴたりと止まる。
惣流・アスカ・ラングレー「私どこ」
葛城ミサト「一応、あっち。前に物置き気味だった部屋、片付けた」
惣流・アスカ・ラングレー「一応って何」
葛城ミサト「一応は一応よ」
惣流・アスカ・ラングレー「最悪」
最上イズモ「まだ見てません」
惣流・アスカ・ラングレー「あんたは黙ってて」
最上イズモ「はい」
だがアスカは完全には追い払わない。そのまま奥の部屋へ向かう。ミサトが後ろからついていこうとして、途中で振り返った。
葛城ミサト「シンジくん、悪いけどその箱お願い」
最上イズモ「分かりました」
部屋の扉が開く。中から、洗剤と古い布の匂いがした。片付けたと言っていたが、片付けた直後の部屋だ。落ち着くにはまだ遠い。
カーテンは新しい。机もある。ベッドもある。だが壁に寄せられた段ボールの跡が床に薄く残っていて、急ごしらえの移設だと分かる。アスカは入口で止まり、まず窓へ向かった。鍵を確かめ、少しだけ開ける。外の空気を入れ、また閉める。次に棚を開け、中を確認する。習慣だった。確認しないと始められない人間の動きだ。
惣流・アスカ・ラングレー「……まあ、寝れなくはなさそう」
葛城ミサト「でしょ」
惣流・アスカ・ラングレー「褒めてない」
葛城ミサト「知ってる」
イズモが段ボールを部屋の隅へ置こうとした時、アスカがすぐに指を向けた。
惣流・アスカ・ラングレー「そこじゃない、こっち」
最上イズモ「了解です」
惣流・アスカ・ラングレー「本当に了解ばっかりね」
最上イズモ「位置指定が明確なので助かります」
惣流・アスカ・ラングレー「嫌味?」
最上イズモ「事実です」
惣流・アスカ・ラングレー「それが嫌味に聞こえるのよ」
イズモは指定された位置に箱を置いた。床には触れるが、壁には当てない。重心が安定したのを確認して手を離す。そこでアスカの視線が、手元から顔へ上がった。
惣流・アスカ・ラングレー「……あんた、ほんとその辺だけはやたら信用できるのよね」
葛城ミサト「だけはって言った今」
惣流・アスカ・ラングレー「聞こえてるわよ」
葛城ミサト「聞かせてんのよ」
部屋の空気が少しだけ動く。重さの中に、乾いた笑いが一度だけ混じった。
それでも落ち着いたわけではない。
夕食の準備が始まると、問題はすぐに姿を変えた。
テーブルは三人には少し狭い。そこへ鍋と惣菜と皿が並ぶ。箸の置き場、コップの位置、誰がどこへ座るか。それだけで微細な衝突が起きる。アスカは自然にテーブルの見通しがいい位置を取ろうとし、ミサトはいつもの手癖でそこへ缶を置こうとし、イズモは湯気の出方まで見て鍋敷きをずらす。
惣流・アスカ・ラングレー「ちょっと、それ私の肘ぶつかる」
最上イズモ「失礼しました」
葛城ミサト「シンジくんが先に謝るの珍しいわね」
惣流・アスカ・ラングレー「私が正しいからでしょ」
最上イズモ「今回はそうです」
惣流・アスカ・ラングレー「今回はって何よ」
味噌汁をよそうと、アスカが鍋の中を見た。
惣流・アスカ・ラングレー「思ったよりまとも」
葛城ミサト「褒めてる?」
惣流・アスカ・ラングレー「今のは半分」
葛城ミサト「半分もあるなら上出来よ」
惣流・アスカ・ラングレー「私が来るって知って急に頑張ったんじゃないでしょうね」
葛城ミサト「頑張ったけど何か文句ある」
惣流・アスカ・ラングレー「ある」
葛城ミサト「あるんだ」
ペンペンが足元を横切る。アスカはわずかに体を引いたが、すぐに持ち直し、何事もなかったように座った。嫌っているわけではない。ただ、自分の予測しない動きに一瞬だけ身体が反応する。その速さを見て、イズモは箸を置く手を止めた。
惣流・アスカ・ラングレー「何」
最上イズモ「いえ」
惣流・アスカ・ラングレー「今なんか見たでしょ」
最上イズモ「確認しただけです」
惣流・アスカ・ラングレー「だから何を」
最上イズモ「慣れる時間がいるものが、まだいくつかあると」
惣流・アスカ・ラングレー「……分析しないで」
アスカはそう言って味噌汁を口に運んだ。熱かったのか、少しだけ眉が動く。だが吐き出さない。飲み込んでから、器を置く。
惣流・アスカ・ラングレー「でもまあ」
葛城ミサト「うん?」
惣流・アスカ・ラングレー「宿舎の食堂よりはマシ」
葛城ミサト「よっしゃ」
惣流・アスカ・ラングレー「調子に乗らないで」
葛城ミサト「乗るわよ、今のは乗るでしょ」
最上イズモ「乗ると思います」
惣流・アスカ・ラングレー「あんたまで何でそっちなのよ」
声は荒いが、箸は止まっていなかった。
食事の途中、話題は自然と訓練へ流れた。明日のスケジュール、弐号機の調整、シンクロテスト、学校。アスカは宿舎からの移動がなくなったことに文句を言いながら、その一方で時刻の確認だけは細かくする。ミサトはそれに答えつつ、書類の山を思い出して遠い目をする。
その会話の合間、アスカが不意に言った。
惣流・アスカ・ラングレー「ねえ」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「普通、もっと嫌がるでしょ」
葛城ミサト「何が」
惣流・アスカ・ラングレー「いきなり同居」
葛城ミサト「そりゃまあ、相手によってはね」
惣流・アスカ・ラングレー「私は相手によっては、の方じゃないの」
葛城ミサト「自覚あるんだ」
惣流・アスカ・ラングレー「あるわよ」
アスカはそこでイズモを見た。真正面だった。冗談の目ではない。
惣流・アスカ・ラングレー「あんた、驚かなかった」
最上イズモ「驚きはしました」
惣流・アスカ・ラングレー「見えない」
最上イズモ「必要以上に出さなかっただけです」
惣流・アスカ・ラングレー「なんで」
最上イズモ「あなたの方が環境変化が大きいので」
惣流・アスカ・ラングレー「……は」
空気が少し止まる。
ミサトが箸を持ったまま、何も言わずに二人を見た。アスカは視線を外しそうになって、一度だけ止まる。それから器の縁に爪を当て、軽く鳴らした。
惣流・アスカ・ラングレー「そういうの、ずるいのよ」
最上イズモ「何がですか」
惣流・アスカ・ラングレー「正論っぽく言って、先に相手の地面固めるとこ」
最上イズモ「崩れると困るので」
惣流・アスカ・ラングレー「だからよ」
その返しのあと、アスカは味噌汁を飲み切った。頬が少しだけ赤いのは熱のせいか、別のものか、判別するには光が足りない。
食後、荷解きは思ったより長引いた。
アスカは自分の物に触られる範囲を明確に持っていた。服、書類、私物、整備メモ、小さなポーチ、筆記具。箱を開けるたびに、どれを自分で置くか、どれなら他人に渡すか、その仕分けが一瞬で行われる。
惣流・アスカ・ラングレー「それは棚の上」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「それは触らなくていい」
最上イズモ「了解です」
惣流・アスカ・ラングレー「その返事、便利ね」
最上イズモ「そう言っていただけるなら」
惣流・アスカ・ラングレー「褒めてない」
最上イズモ「知っています」
ミサトは途中から、床に座り込んで段ボールのガムテープを剥がす係に回った。作業能力としては最適ではないが、口を出しすぎないためにはその位置が一番安全だった。
やがて部屋の形が少しずつ定まっていく。ベッドの上に置かれていた未整理のタオルが畳まれ、机の上にノートが揃い、窓際に小さな目覚まし時計が置かれる。それだけで、借り物の部屋が自分の部屋へ変わっていく。
アスカは最後に、赤い髪留めの入った小箱を机の端へ置いた。そこでようやく肩の位置が少し落ちる。荷物が収まったからではない。自分の輪郭を部屋の中へ引き終えたからだ。
惣流・アスカ・ラングレー「……こんなものか」
葛城ミサト「お疲れ」
惣流・アスカ・ラングレー「疲れた」
葛城ミサト「素直」
惣流・アスカ・ラングレー「今だけよ」
アスカはそのまま椅子へ腰を下ろし、天井を見た。照明の白さが目にきついのか、少しだけ目を細める。
惣流・アスカ・ラングレー「宿舎の方が静かだった」
葛城ミサト「それはそう」
惣流・アスカ・ラングレー「でも、あっちは静かすぎたのよね」
その一言のあとに、誰もすぐには返さなかった。
廊下では冷蔵庫の駆動音が小さく鳴り、遠くで車の音が一度だけ流れた。人がいる部屋の音だ。生活の音だ。戦闘でも訓練でもない、どうでもいいものが途切れず続く音だった。
ミサトが壁にもたれ、腕を組む。
葛城ミサト「じゃ、今日からここが拠点。文句は受け付けるけど撤回はなし」
惣流・アスカ・ラングレー「横暴」
葛城ミサト「仕事だから」
惣流・アスカ・ラングレー「便利な言葉」
葛城ミサト「知ってる」
惣流・アスカ・ラングレー「……ふん」
アスカはそこで視線を横へ滑らせた。イズモの方を見る。
惣流・アスカ・ラングレー「あんた」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「勝手に部屋入らない」
最上イズモ「入りません」
惣流・アスカ・ラングレー「物も触らない」
最上イズモ「触りません」
惣流・アスカ・ラングレー「でも、必要なら起こして」
最上イズモ「了解です」
惣流・アスカ・ラングレー「あと、変な遠慮もしないで」
最上イズモ「内容によります」
惣流・アスカ・ラングレー「そういうとこよ」
言いながら、アスカの口元が少しだけ動く。笑う手前で止めたような形だった。
その夜、風呂の順番で一度揉め、ドライヤーの置き場で二度揉め、消灯時間の認識差で三度目の小競り合いが起きた。
だが完全な破綻にはならない。
アスカは怒るたびに、相手がどこまで届くかを見ていた。ミサトは怒鳴り返しながら、最後の一線で折れる場所を選ぶ。イズモはその間に、衝突で壊れそうなものだけを静かに避難させる。コップ、書類、充電器、ペンペンの餌皿。
そして消灯前、廊下で水を飲んでいると、後ろから足音がした。
振り向くと、アスカが部屋着のまま立っていた。髪は下ろされていて、昼間より少し幼く見える。だが目だけは起きている。新しい場所の一晩目の目だった。
惣流・アスカ・ラングレー「ねえ」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「今日、ありがと」
最上イズモ「いえ」
惣流・アスカ・ラングレー「それだけ」
最上イズモ「分かりました」
惣流・アスカ・ラングレー「でも、勘違いしないで」
最上イズモ「しません」
惣流・アスカ・ラングレー「私はあんたと仲良くしたいとか、そういう話してないから」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「ただ」
最上イズモ「ただ」
惣流・アスカ・ラングレー「同僚としては、まあ、悪くないってだけ」
最上イズモ「光栄です」
惣流・アスカ・ラングレー「その返し、ほんと腹立つ」
そう言ったあと、アスカは少しだけ首を傾けた。
惣流・アスカ・ラングレー「でも」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「前より、なんか馴染んでるわよね。あんた」
最上イズモ「そう見えますか」
惣流・アスカ・ラングレー「見える」
最上イズモ「たぶん、前より事故要因を把握しています」
惣流・アスカ・ラングレー「またそれ」
最上イズモ「増えましたので」
惣流・アスカ・ラングレー「私が?」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「言うじゃない」
アスカは鼻で笑った。けれど、そのまま怒らない。
廊下の窓の外は暗く、街灯の色だけが薄く差し込んでいた。部屋の奥からミサトのくしゃみが聞こえる。ペンペンの足音が、ぱたぱたと一度だけ廊下を横切る。
アスカはコップを持っていない。水を飲みに来たわけではなかったのだと、その時ようやく分かる。
惣流・アスカ・ラングレー「……ちゃんと起きなさいよ、明日」
最上イズモ「起きます」
惣流・アスカ・ラングレー「私より遅かったら許さない」
最上イズモ「努力します」
惣流・アスカ・ラングレー「努力じゃなくて結果」
最上イズモ「了解です」
アスカは満足とも不満ともつかない顔で踵を返した。部屋へ戻る前に一度だけ止まり、振り向かずに言う。
惣流・アスカ・ラングレー「……ここ、静かすぎなくていいかも」
それだけ残して、扉が閉まった。
薄い木の板一枚向こうに、赤い気配が一つ増えている。狭い部屋は狭いままだ。面倒も増えた。衝突も確実に増える。明日からさらに音が増え、距離は近くなり、隠せるものは減る。
それでも、完全に悪い夜ではなかった。
イズモは空になったグラスを流しへ置き、灯りの落ちた居間を見た。ソファ、テーブル、片付けきれていない紙袋、乾きかけの食器。どこにでもある生活の残骸が、妙に輪郭を持って見える。
戻る場所があるなら、完全には切るな。
昼間、別の場所で聞いた声が、ふと頭の奥に浮かぶ。
この部屋は雑だ。狭い。うるさくなる。面倒も多い。だが、誰かが扉を開け、文句を言い、荷物を置き、また明日同じ場所へ戻ってくるだけの力はある。
それがどれほど脆くても、今夜はまだ、壊れていない。
イズモは最後に廊下の窓を少しだけ閉めた。夜気の冷たさが細くなり、室内の温度がゆっくりと戻ってくる。
その小さな変化の中で、部屋の向こうから、アスカが寝返りを打ったような微かな音がした。