第8話:規格外の野宿と、静寂への決断
城塞都市ヴァールの喧騒から遠く離れた、北側諸国の雪深い針葉樹の森。
空を覆う厚い雲の隙間から、冷え切った月明かりが雪原を薄青く照らしている。極寒の風が木々を揺らし、生命の温もりを一切許さない静寂の夜が訪れていた。
「あー、マジで寒い。鼻水凍るわこれ」
世界の理を根底から揺るがす特異点ことサイタマは、薄汚れた赤いマントのフードを深く被り、肩をすくめながら雪中を行軍していた。
彼は先ほど、無銭飲食の恩を雪かきで返そうとしたものの、エルフの少女から「人間の街から出ていってほしかっただけだ」と冷たくあしらわれてしまった。言葉も通じ、シチューも美味しかったため、ここを辺鄙な田舎町かテーマパークだと思い込んでいる彼にとって、その冷遇は少しばかり理不尽なものに感じられた。
「まあいいか。飯は食えたし、あとは寝床を見つけるだけだ」
しばらく森を歩き回ったサイタマは、巨大な岩肌にぽっかりと口を開けた、横穴の洞窟を発見した。中からは冷たい風を凌げる程度のよどんだ空気が流れてくる。
サイタマが迷わず洞窟の奥へと足を踏み入れると、暗闇の奥で二つの巨大な赤い瞳が不気味に発光した。
低く、地鳴りのような唸り声。
そこは、北側の過酷な自然環境を生き抜く、獰猛な巨大魔物の巣であった。熊に似たシルエットを持ちながら、全身を硬質な鱗で覆い、鋭い牙からは毒を孕んだ唾液を滴らせている。
「おっ。デカい熊じゃん」
サイタマは、その凶悪な魔物を見てパッと顔を輝かせた。「ちょうどよかった。毛皮のベッドがあれば、今日はぬくぬく寝られそうだ」
侵入者を餌と認識した巨大魔物は、鼓膜を破るような咆哮と共に、洞窟の天井を削りながらサイタマへと飛びかかった。鋼鉄の鎧すらも容易く引き裂く一撃。
しかし、サイタマはあくびを噛み殺しながら、寝床のシーツを整えるような無造作な動作で、右手を軽く横に振った。
パァン!
空気が破裂する乾いた音。
飛びかかってきた巨大魔物は、サイタマの手の甲がわずかに触れた瞬間、衝撃波によって上半身を完全に粉砕された。
だが、飛び散るはずの血も肉も存在しない。この世界の魔物は、死と同時にその身体を構成する魔力の粒子となって分解・消滅する。
サイタマの目の前で、巨大魔物の身体は黄金色に光る無数の魔力の粒子へと変わり、サラサラと洞窟内の空気に溶けて完全に消え去ってしまった。
「……あーあ。また消えちゃったよ」
サイタマは、宙を舞う光の粒子を虚ろな目で見つめ、深くため息をついた。
「肉も残らないし、毛皮も残らない。この世界の動物、本当に不便だな……」
期待していた毛皮のベッドを失った彼は、仕方なく冷たく硬い岩肌の上にゴロンと横たわった。
彼には、この世界がファンタジーの法則で動いているという認識が全くない。彼が抱えているのは、宇宙の覇者を倒そうが大魔族を粉砕しようが決して満たされることのない、圧倒的な強さゆえの退屈と虚無感である。魔法の神秘も、魔族と人類の歴史も、彼の日常的な「不便さ」の前では何の意味も持たなかった。
「おやすみ……」
数分後には、洞窟の中にサイタマの規則正しい寝息が響き渡り始めた。
*
その洞窟から数百メートル離れた雪原の木立の影。
フリーレン、フェルン、シュタルクの三人は、息を潜めてその一部始終を監視していた。
「……やはり、魔力は一切感じられません」
フェルンが、杖を握りしめたまま青ざめた顔で囁いた。「あんな巨大な魔物を一撃で粉砕したというのに、攻撃の瞬間にも魔力の揺らぎが全くありませんでした」
「ああ。純粋な物理的な力だけで、魔物を吹き飛ばしたんだ」
フリーレンの眼差しは、冷たい月明かりの下で鋭く研ぎ澄まされていた。魔法使いの常識が通じない相手。防御魔法を展開する隙すら与えない、不可視の暴力。
しかし、二人の魔法使い以上に深刻な状態に陥っていたのは、戦士であるシュタルクだった。
彼は極寒の雪原にいるというのに、額から滝のように冷や汗を流し、持っている斧の柄が折れそうなほど強く握りしめていた。彼の膝は微かに痙攣し、呼吸は荒い。
「シュタルク様、大丈夫ですか?」
フェルンが心配そうに声をかけると、シュタルクは引きつった笑みを浮かべた。
「大丈夫なわけないだろ……。なあ、フェルン。魔法使いの魔力探知ってのは、相手の体から漏れ出る魔力を測るものなんだよな?」
「はい。どれほど隠蔽しても、生きている限り魔力は必ず漏れ出ます」
「俺たち戦士の強さやオーラは、その魔力探知には引っかからないって師匠が言ってた。だから、魔法使いには俺たちがどれくらい強いか、すぐには分からないって」
シュタルクは、震える指で洞窟の方向を指さした。
「俺の体はずっと、あいつを見るな、近づくなと警鐘を鳴らし続けてる。魔力がないのは分かる。でも、戦士としての俺の本能が、あいつの『肉体そのもの』が放つ異常な圧力を感じ取ってるんだ。紅鏡竜と睨み合った時だって、あんな絶望的な感覚はなかった。あいつは……生物としての次元が違う」
フリーレンは、シュタルクの言葉を静かに受け止めた。
魔族の強さは、これまで例外なく「魔力の総量」に比例していた。長く生きた魔族ほど魔力が大きく、より強力な魔法を操る。しかし、あの黄色いスーツの男は、魔力という概念を完全に切り捨て、ただの肉体のみでこの世界の頂点に立つような理不尽を体現している。
(……魔族は、人間が持っている感情を利用して言葉で欺き、情緒的に操作する生き物)
フリーレンは、己の中に深く根付く魔族の定義を反芻した。魔族は本質的に邪悪であり、人類と意味のある共存を果たすことは絶対にない。
だが、先ほど酒場で見たあの男の態度はどうだったか。彼は「無銭飲食」という極めて小市民的な理由で人間である自分たちに頭を下げた。そこに、人間を欺き捕食しようとする飢餓感や冷酷さは微塵も存在しなかった。
フリーレンは、彼の中に広がる圧倒的な「空洞」の正体に気づき始めていた。
人類を滅ぼすという目的すら持たない、ただの絶対的な力。エゴも怒りも恐怖も喪失し、完全なる平穏と引き換えに生きる意味すら手放してしまった「悟り」の後のような虚無。強すぎるがゆえの、絶対的な退屈である。
「フリーレン様。私たちは明日、どう動くべきでしょうか。このまま監視を続けますか?」
フェルンの問いに、フリーレンは視線を洞窟から外し、北の空へと移した。
「……いや。静観しよう。今は私たちの旅を進めるよ。」
フリーレンは、杖を静かに下ろした。
「あの男の頭に角がある以上、魔族に対する私の考えが変わることはない。必ず殺すべき人類の敵だ。でも、今の私たちにはあいつを殺す魔法をイメージすることすらできない」
フリーレンは、あえて冷徹に事実だけを告げた。
「あいつは人類を滅ぼす意志すら持たない『災害』みたいなものだ。私たちの手に負えない以上、無闇に尾行して刺激し、あの理不尽な暴力を人里に向けさせる方が危険だよ。……あいつが自ら人類に牙を剥かない限り、今は手を出さずに放置する」
決して相手を受け入れたわけではない。人類の敵であるという大前提は揺るがないまま、ただ「打つ手がない」という絶望的な事実を前に、賢明な魔法使いとして距離を置くことを選んだのだ。
雪がしんしんと降り積もる中、悠久の時を生きるエルフの瞳には、重い決断の影が落ちていた。
かくして、規格外の力と虚無を抱えた男と、魂の眠る地(オレオール)を目指す魔法使いたちは、一度交わった軌道を再び離れ、それぞれの白銀の朝を迎えることとなる。