──、申します。
夜半。名の通り、巨大な舟である仙舟「
月は白々として晴雪のごとく、空は墨面としてその光を際立たせている。流れる雲は薄く、星明りを透かしながらその淡い影を地上に投げかけていた。さあ……と吹き抜けていった涼風が静まった木立ちをいたずらに揺らし、幾枚かの葉を落とす。
サガルマートの物語が決定的に動き始めたのは、そんなありきたりな、美しい夜のことだった。いや、厳密に言うのならそれは誤りであるのかもしれない。この話は何百年も昔に後戻りのできる段階をとうに通り越しているのだから。しかし、この夜が重大な出来事のうちのひとつであるのには、やはり違いなかった。
ぱちり、と爻光は目を覚ました。身を起こすと、見慣れた自邸の寝台の上であった。そこはいい。その為に眠りから醒めたわけではないからだ。寝室には、庭に面した出入り窓があって、取り付けられた今風の紗のカーテンが夜風にそよそよと揺れている。やわらかな月明りが差し込むその中に、人影がひとつ、ぽつんと浮かび上がっていた。
爻光はわずかにその混色の目を眇めた。誰だ、と疑問に思ったからではない。どうしてここにいるのかが分からなかったからだ。しかし、その不可解もすぐに氷解することになった。
「……申します。将軍様に急ぎ伝えねばならぬことがあり、参りました。夜更けの訪いを、お、お、お許しく、ください……」
記憶にあるものより遥かにしわがれて、籠るような口調ではあったが、やはり爻光の思う通りの人物に違いないようだった。
──ざあ。
からりと乾いた一陣の夜風が、つかの間強く吹き付けてカーテンの裾を攫う。布地の向こう、露台に立って輪郭をぼやけさせていた人物の、足元がその一瞬ばかりは直に見えた。夜闇に溶け込むような濃い色の、ゆったりとした卜者の官服。彼女の見慣れたものではあったが、それにも増して目につくものがその足元にはあった。寝台から降りて寝間着のままカーテンを開けようとした爻光は、垣間見たものにつとその手を止めた。同時に、それを読んだかのように声がかかる。
「窓を開けていただく必要はございません……お見苦しいものを、し、将軍の尊き眼に映す必要はなく、非礼ながらこの帳を隔てての上奏とさせてくださいませ。お、う、お許しいただけますでしょうか」
(……ああ……)
爻光はそれを見た瞬間に、その男がなぜ、ここへやってきたのかを大まかに察することができた。占ったのではない。占うまでもないことだった。途端に、喉元まで郷愁と苦々しい感情がせりあがってきたが、彼女はそれを飲み下して寝台の上で背を伸ばした。
「──許すわ、
「ありがたき幸せに、ございます……なるたけ、手短に。ああ……私も、卜者としての最後の仕事が何になるのか、き、け結局その時が訪れるまで気づくことのできない、凡庸な卜者であったようです。将軍、覚えていらっしゃるかもしれませんが、私の直近の仕事はサガルマートにおける人工衛星『奇跡』の改修が、か、かの星に吉兆をもたらすかどうか、というサガルマート諸都市連合からの依頼でご、ございました…」
「もちろん、覚えてるわ。……君の異変は、かの星を占って起きたものなのね」
カーテンの向こうで、ゆらめく輪郭が微かに首を縦に振る。伴って、ぱさりと葉擦れのような微かな音がした。
仙舟同盟と700年近くの長きに渡って協力関係にある、メガラヤ星系の惑星・サガルマート。銀河有数の鉱床として、そして豊穣の民と敵対関係にあるもの同士として、同盟と友好を築いてきたかの惑星は、つい5年程前にカンパニーからの提案を受けて「惑星から夜を無くす」という前代未聞のプロジェクトを手掛けていた。恒星からの直射光を弱点とする敵対種族との戦争に終止符を打つべく、元々衛星軌道に浮かべて運用していた夜間の光源である人工衛星「奇跡」を改修して、人工の疑似恒星にするというこの計画は、このサガルマートの悲願であった。
そして、統治機構であるサガルマート諸都市連合から疑似恒星にまつわる運勢を占ってほしい、という依頼が玉殿に持ち込まれたのは、完成がいよいよ間近に迫ってきたつい最近のことだった。もとより、玉殿太卜司も他の仙舟の太卜司も街角の占い屋などではないし、そこで行われる占いは非科学やオカルト、迷信の域を大きく飛び越えたものだ。無数の玉兆と、知恵の星神「ヌース」の演算モデルを参考に編み出されたその技術は、占いという名で呼ばれこそすれ、その実態はむしろ未来の演算による推測や予測アルゴリズムと言ったほうが近い。決して天啓や霊的なひらめきによって浮かぶようなものではないのだ。
そのため、全ての仙舟の太卜司は、その高度な占いを基本的には仙舟にまつわるものに限定して使用し、目的の如何に関わらず他者からの依頼を受け付けることはない。みだりに未来を口にすることは、銀河に無為な混乱をもたらすという思想のもとに彼らが動いているからだ──であるからして、今回のサガルマートからの依頼を玉殿太卜司が受諾したのは、歴史でも珍しい特例措置だった。爻光自身、判断を仰いだ総帥からの返答に、彼女にしては本当に珍しく、「意外」という二文字が脳裏をよぎったものだ。
担当者は……言うまでもなかった。洪函は長く玉殿太占司に勤める、目立たないが腕の確かな卜者で、次なる幻月遊戯の準備に向けて手の空かなかった爻光の代わりに、幾人かの卜者と共にこの仕事に当たっていた。その先が、今に繋がっている。
今度はもっとはっきり、葉擦れの音がした。夜風が葉の群れを渡り、撫ぜていくさやかな音。爻光の庭には、このような植物は植えていないというのに。
「陣にサガルマートの情報を組み込み、諸都市連合から渡されていた改修後の『奇跡』の構成要素、敵対する夜泳人たちの危険度を考慮した上での、サガルマートの『奇跡』改修後の運勢は……卦は坤と離に、爻の変は六五に。
「明夷の相はすなわち、光明が地中に隠れることを象徴する……例の『旭光の晶化』計画の結果にしては少し不吉な言葉ではあるけれども、艱難辛苦を味わう羽目にはなるが最終的に乗り越えるということね」
「はい。あ、う、我々も、なんと申しますか……い、意外な結果だと驚きました。しかし結果は結果で、同じ対象を二度占うことは禁忌。もう少し解釈を話し合い、ひ、ひ必要があれば爻光様にもお伺いを立てようと言っているときでございました。捉えようによっては、かの疑似恒星の完成によってサガルマートの困難な時代を乗り越える、とも、よ、読みとれますし」
洪函が息をすう、しわがれた音が耳につく。耐え切れずしゃくりあげるような震える音が、何度か静かな夜に響いたところで、彼はとうとうそのしじまを自ら破った。
「仕事についていたのは、私と、同僚の
──おい、よさないか清硯!気でも触れたか!
──手を下ろしなさい!今占っているのは、遊びでも何でもない、惑星の未来にも直結するものだぞ!ふざけている場合では……
痩せた女性ひとりに、男二人がかりだ。なんなく止められるだろうという男二人の侮りは、まるで意味がなかった。清硯は暴れることすらせず、ただ何事か意味の分からないことをぶつぶつと唇から垂れ流しながら、ものすごい力で男たちを引きずってゆっくりと陣までの道を歩むだけだ。踏ん張って何とかその歩みを止めようという試みも、なりふり構わなくなった文秀の足払いもまるで気に留めるふうもなく、焦点の合わない目でぼんやり天を仰いだ清硯は、最後に伸ばした洪函の手を振り払って、陣を再び起動させた。
ぶうん、と重い音がして、夜闇に淡く輝く線が、光の速度で走っていった。
八つの筮竹と陰陽、易経からの文を取り入れた陣が、先ほどと全く同じ形を描き、全く同じ部分で爻の変が生じた。当然のことだ──不吉な占いの結果を変えようと何度も同じことについて占うことは、結果を変えるどころかその不吉な未来への確率を収束させてしまうからこそ禁じられているのだから……変わらぬその形こそ、恐ろしいのだ。
つかの間、ぼんやりと光る陣を見ていた洪函は、はっとして二人がかりで抑え込んでいた同僚が先ほどまでの凶行が嘘のように、ぴたりと動きを止めていることに気が付いた。
──明地中に入る、
しかし、清硯の様子はやはり尋常のものではなかった。鼻からとくとくと流れ出た血が口に入り、彼女がうわごとのように「明夷」の相に関する卦辞(※占いの結果ひとつにつき六つの派生が存在する解釈のようなもの。多くは易経から引用される。詳しくは調べてください)をくりかえしくりかえし発するたびに、赤く染まっている歯が見え隠れした。喋りにくいだろうに、むせこむ様子も血をぬぐう素振りさえもまるでない。これではまるで狂人のようだ……というかそのものだろう。何が彼女をそうさせたのか。病か、魔陰か、何か怪しげな薬の類でも口にしたのか。
──
室内の様相はいよいよ混迷を極めていた。だんだんと黒目があらぬ方向を向き始めた清硯が、とぎれとぎれに卦辞を読み上げるのと連動するように、光る線で構成された陣が不規則にゆらめき、じ、じじ、と音を立てて明滅している。ついさっきまで何の変哲もない仕事をこなしていただけなのに、なぜ自分は発狂しだした同僚を制止しているのだろうと、洪函はちかちかと点滅する部屋で現実逃避のように考えた。雲騎軍を呼んでこなければ、あるいは爻光に早く報告をしなければと頭の中では浮かんでいるのに、体が追いつかない。
(一体何が起きてるんだ?早く終わってくれ、卦辞でも何でもいいから、読み終わったら正気に戻ってくれないか……)
もはや何のために彼女を羽交い絞めにしているのかも分からなくなりながら、洪函は腕の中で痙攣する清硯から目を逸らした。陣の明滅によってちかちかと不愉快に明るさの切り替わる室内は、どこを見ても気が滅入る。このまま室内にいても状況はよくなりそうもない、医士か軍の誰かを読んでこようと彼は思い立ち、同じく彼女を抑え込んでいた文秀に声を掛けようとして首を傾げた。
(?なんだ……?)
その顔は、発狂しだした同僚に向けるにしてもいささか過剰に思えるような、血の気の失せた蒼白の恐怖が宿っていた。真後ろから羽交い絞めにしていた洪函と違い、前から足元を押さえていた彼は、明らかに清硯の顔を見上げてその両目を見開いていた。だらだらと流れる脂汗が目に入っているのに、文秀はそれを流れるに任せて唇を震わせるばかりだった。なにか、物凄まじい恐怖を呼び起こされた彼の眼差しに、洪函は眉をひそめて清硯の顔を覗き込み──それから、すとんと全てのことに納得がいった。
全てだ。なぜいきなりこの同僚の気が触れたのか、なぜ文秀は清硯の顔を見て恐怖に目を見開いているのか。自分たちのこの占いが──ひいては、サガルマートの未来が何に繋がっているのか。すべてに納得のいく答えがそこにあった。
──け、
最後の方はもはや言葉の体をなしていなかった。彼女の口から伸び出した、銀杏の枝葉がわさわさと生い茂り、話すこともままならなくなっていたからだ。口を閉じることさえできなくなった清硯は苦しげに大口を開けるほかになく、続けて顎の外れる嫌な音がした。口だけではない。人の体を食い破って出て来たとは思い難いほど豊かで、色つやも鮮やかな銀杏の枝は彼女の目から、耳から、皮膚の裡から次々に這い出ては、輝くような金の葉がはらりと落ちて夜風に踊りだしていく。一枚、十枚、百枚。たわわに生え、色づき、散ってゆく黄金の銀杏の葉が、血しぶきと共に洪函の靴の上に落ちた。一瞬ののちに葉は地面へ、それから宙へと踊りだしていった。まるでさも無害な植物のように。
いけないと分かってなお、彼は突き動かされたようにその葉を拾い上げて、それからもはや人の形を失い植物へと転じていく清硯を………目を逸らして文秀を見た。彼と視線が合う。無言で彼らは、互いの目の裡に恐怖とどうしようもない諦念を読み取った。しかし、その恐怖を押し込めるのは、文秀の方がわずかに早かった。
──何をしている、走るぞ!こうなれば清硯はもう助からん、何を差し置いてもまず将軍様にご報告を差し上げねば!
──しかし、これではまるで……
──まるでも何もあったものか、これは『魔陰』そのものだ!当然だろう、我らは今宵そうとは知らずして……
洪函の腕を掴むがはやいか、駆け足で走り出した文秀は、忌々しそうに舌打ちをした。仙舟人の全てが畏れてやまないその言葉に、洪函は走りながら、やはりそうか、と他人事のようにぼんやりと思った。前を走る文秀の首の後ろ、夜のように暗い色の髪の隙間から小さな黄金が覗いている。多分、自分の体のどこかにも生えだしただろうと思ったが、足を止めて確かめる勇気はなかった。そんなことをすれば将軍の洞天に辿り着くどころか、もう歩く気力も消え失せるだろうと思ったからだ。辿り着けるだろうか、と彼はその成し遂げねばならない最期の仕事について、頭の中で反芻する。
──『薬師』に連なる事象を占ってしまったのだから!
太占司において、占いにはいくつかの禁忌が存在する。
ひとつ、卜者は自分自身の未来を占ってはいけない。
過去に存在した卜者の中には、禁忌を破り占ったものもいたが、例外なく未来を恣意的に捻じ曲げようとして、占いの結果通りに未来が収束してしまったからだ。
ふたつ、同じ事柄について何度も占ってはいけない。不幸な未来を告げられたものは、それを信じずに何度も占いを重ねてよい結果を得ようとする。しかしその行為は、かえって未来をより強固に決定づけ、未来の分岐を狭めてしまうからだ。
みっつ、「薬師」について占ってはいけない。
これは仙舟の歴史に紐づいた、もっとも畏れられる禁忌だ。かつて不老長生を求めて銀河を渡り、豊穣の星神・薬師から恩寵を賜った仙舟人の祖先たちは、しかし長生と引き換えにやがて怪物へと転じる代償を支払うはめになった。やがて彼らは信仰の対象を薬師から巡守の星神・嵐へと変え、豊穣の悪しき恩寵を銀河から拭い去ることをその題目に掲げている。しかし、信仰を捨てたところでかつて賜った長生もその代償も、なかったことになるわけではない。彼らは変わらず、「晩年に化生へと転ずる長生の人々」に他ならなかったし、かつての先祖たちが焦がれ、追い求めた信仰の証はその他にも様々なかたちで仙舟に爪痕を残している。
その中に、この禁忌がある。仙舟人が豊穣の星神・薬師について──または、それに近しいものを占うとき、彼らの体の中に眠る魔陰の芽が急速に悪化し、魔陰の身に落ちてしまう。年齢も、占いの対象がどこまで豊穣に近しかったかも、卜者としての腕も、個人差もない。無慈悲に、平等に……仙舟人としての忌まわしい終わりに直結する弊害があるからこそ、仙舟人の卜者たちはこの禁忌については一際厳しく戒めてきたのだ。
(それを……)
洪函たちは、思いもかけず破ってしまった。だから今、カーテンの向こうで揺れる影は、次第に生い茂る植物に覆われつつあるのだ。爻光は目を細めた。さやさやと、夜風に揺れる葉擦れの音は密やかに夜の静寂を震わせている。きっと、洪函の体には輝く金色の銀杏が豊かに茂っているのだろう。彼がそれを直に爻光に見られたくないというのも、無理からぬことだった。誰しも、怪物へ転じる寸前の姿を、見られたくなどないのだ。
「……内難にして能くその志を正す……本来はその後に『箕子、これを以てす』と続くわね。でも魔陰の身に落ちた清硯は、『桂枝出でては蒼天に及び、万薬化して甘雨と為る、乾坤これ大いに潤う』と言った」
「……ウ、ぁ、は、はい……のような卦辞は易経には存在しし、しません。これは明らかに……占い、によって、豊穣の影響を、つ、つ、う、強く受けた彼女が作った、もの、でしょう……あるいは何かが見えたのか、き、聞こえた、のか。彼女の口を、借りた、のかは、分かり、ません、が……」
蒼天に届く桂の枝。薬の雨。卦辞で使われる言葉は、何かの暗示や象徴であることも多い。言葉を額面通りに受け取る必要は必ずしもなかったが、それにしても付け加えられた卦辞は、仙舟人を身構えさせるには十分なものだった。どちらも、豊穣と強く結び付けられる単語だ。
「最も安直で最悪な解釈としては、『奇跡』の完成がサガルマートに異変をもたらし、かの地に建木が生えるというところかしら。そこまで露骨なものだとは考えにくいけれど……なんにせよ、近いうちにサガルマートには豊穣の強い影響を受けたものが顕現することが予測されるわね。寿禍の内のどれかか、新しい使令か……まったく別の何かなのか」
「……、……」
爻光の言葉に、返答はない。彼の荒い息遣いだけが、彼女の声に答えていた。もはや話すことも難しくなったのだろう。爻光は口をつぐんだ。もう間もなく、洪函の人としての意識は終わりを迎えるだろう。そして彼女は、カーテンを開ける羽目になる。不本意な苦しみと死を前に、ここまで走ってきた彼の終わりがそこにあるから。
「……洪函、返事をしなくても構わないけれど、どうか私からお礼を言わせてちょうだい。あなたたちが卜者としての務めをあやまたず果たしてくれたおかげで、私は今夜この重大な占いの結果を知ることができた。どうかそれを忘れないで」
ごう、と再びの夜風が窓を吹き抜ける。淡い色のカーテンが、月に透けながらたなびき、踊る裾の向こうに、もはや絡まり合った枝のごとき足が見えた。爻光は静かに寝台から立ち上がって、取り出した符を構える。力まず、瞬かず、目を逸らさず。彼女は、彼がその静寂を破る決定的な瞬間を待った。理性を完全に失った吠え声や絶叫、くぐもったうめき声。そういうものを予想する爻光の耳に、聞こえるものがあった。
「──かの枝は、数えて七番目です。将軍様」
「……え?」
それは、この夜に聴いた洪函の言葉の中でもっとも淀みないものだった。そうして、生来の彼らしくはっきりと聞き取りやすい声で紡がれたその言葉が、彼の遺言となった。
黄鐘から重厚な音が放たれている。腹の底まで響くような重くゆっくりとした調べが、波となって天井と床の間にあるもの全てをふるわせている。その波に揺さぶられたのは、爻光のいる太卜司の一室内に留まらず、遠く離れた銀河を結ぶ波長も同じだった。声がする。
「──以上がことの顛末よ。まず間違いなく、サガルマートは『奇跡』の改修をきっかけにして、豊穣が関わる事件に巻き込まれることになるでしょうね。彼らの運命は既に、豊穣と極めて近い位置にある。それが彼らの予期せぬことであれ……予期したものであれ」
「
室内には、円を描くように六つの文様が浮かび上がっている。声の出どころは、蓮の花をかたどったような文様からだった。すなわち仙舟「朱明」の
「そう?私としては今断言できるものについては、十分はっきり言ったつもりだったんだけど」
「爻光、そこじゃないでしょ。あたしにだって分かるわ、今ここにいるあなた以外の全員が何を断言してほしいかなんて。あなたの目がどれほど優れているかも、それでいてあなたの目が捉えたものが確定した未来じゃないことも知ってるけどね」
意外にも、こういった会議の場で口をはさむことの珍しい、仙舟「
「皆も気になってるんでしょ?あなたの部下が最後に言い残した、『枝は七番目』という言葉に、あなたがどんな解釈をつけたのか。それは結局のところ──豊穣の新しい使令が生まれるのを意味するのかどうかってこと。これは是否のどちらかなの?それとも、第三の選択肢が在り得るもの?」
爻光は黙った。とても珍しいことに。彼女は同僚の、この類まれな武人のことを好んでいたが、こういうところが生来の気質の差を感じてならない。飛霄は常に、最短・最速だ。何事においても。
「七番目……不可思議な数の縁もあったものだ。現状、歴史上で確認されている豊穣の使令は五体。新しく七番目が生まれるにしても、空白の席がひとつある」
新しい声だった。円を描く文様のうち、もっとも遠いものからだ。柔らかな低音は、仙舟「羅浮」の神策将軍・景元の声だった。
彼の言葉は正しい。仙舟と豊穣の因縁が始まってから今日にいたるまで、気の遠くなるような時間の中で、その実在が確認されている豊穣の使令は五体だった。無私、利他、治癒を象徴するとともに、過ぎた恵みで生命の氾濫と腐敗を招くその運命の使者──そのたった五体がどのようにして使令へと昇ったのかは未だに判明していない。慈悲深き神がその指で指し示したのか。肉体を幾度も脱ぎ捨てた末に、かの神の御許へと辿り着いたのか。
──「
──通称「放浪医」。その名の通り、銀河を渡り歩く詳細不明の医師。豊穣の悪しき側面として名高い使令が候惚なら、こちらは人々が焦がれて止まぬ豊穣の神秘性……あらゆる傷と病の治癒や長生を象徴するような使令と言える。男性であること、そして人知を大幅に超越した医術の腕を持つこと以外は、スターピースカンパニーの巨大アーカイブにすら情報が残っていない。だが、彼を追い求める者にとってはそれが最も重要なことだろう。
──青き塵、「アムニース」。それがいつ発生したのか、知っている者はいない。存在が明るみに出たのも、つい7琥珀紀前のことだ。ホダラ星系一帯に生息する有機生命体はひとつの例外もなく、共通の微生物が細胞内に存在している。アムニースはそのうちの一種である。切り分ければわずか1ミクロンを下回る生命体こそが、己を宿す森羅万象の真の主であり、星そのものとすら言い換えられるかもしれない。雲、霧、雨、尾根を連ねた山々、そうして人々──星系は鮮やかな青にすべてが染まった絶景で知られるが、それは単に星々の支配者が誰であるかという証左にすぎない。
──「羽皇」。豊穣の民のひとつ、「造翼者」の首領。古来より仙舟の宿敵で、巨樹「穹桑」にかつて住んでいた翼ある忌み物たちの長であり、巨樹の頂点たる天青石の巣の主だ。火劫の戦いを始めとする幾度もの矛を交え、そのたびに彼らは仙舟の空を類まれな速さで脅かした。穹桑が反物質レギオンの侵攻で衰退してから、彼らの長の動向は未だに不明ではあるものの、警戒を続ける必要は十分にある。
──名称不明。薬師の庭に辿り着いた、薬乞いの一人と伝わっている。太古の昔に、朱明の大歳陽「火皇」と争ったと言われているが、詳細は失伝している。
合わせて、五体。そしてサガルマートに現れるという「七番目の枝」がもし、豊穣の新しい使令のことを指すのであれば──それは必然的に、まだ発見できていない使令がこの銀河のどこかにいること示している。銀河は広く、全ての運命の使令は堂々と名乗りを上げてその存在を誇示するわけではない。仙舟同盟が把握できていない豊穣の使令がいることは、何もおかしな話ではなかったが、将軍たちの懸念は大きなものだった。
長らく、豊穣と敵対する前線に立っていたサガルマートに、よりによって豊穣の新しい使令が生まれ、かの星は艱難辛苦を味わうがこれを乗り越える──しかし、「どうやって」乗り越えるのかはまだ不明瞭なのだ。全てのサガルマート人が不老長生の生命体になって生存することを「乗り越える」と出た可能性とてある。もしそうなれば、鉱石の輸入をサガルマートに大いに頼っている仙舟同盟としては困るどころの騒ぎでは済まされないのだ。そうして、彼らの間にある友好関係を除いても、豊穣の使令の誕生というものは仙舟同盟にとって決して看過できない問題だった。
「……サガルマートの件については、私個人はもはや占うことができなくなった。これ以上重ねても確立が収束しちゃうだけだし、私もまだ魔陰の身に落ちたいわけじゃないからね。だからこれは占いではなく、推測の域を出ることはないのだけれど……やはり使令の誕生を示唆している可能性が高いと思う」
「どうあれサガルマートの運命は、かの疑似恒星の完成を以て大きく動く時期にあり、彼らは夜泳人との戦争に終止符を打とうとしている。あそこの夜泳人の王は、まだ討伐どころか本拠地も攻め落とせていないと聞くし……動乱の中で夜泳人の中から使令への階段を上るものがいても不思議じゃない」
爻光の言葉に、将軍たちの間には短い沈黙が降りた。彼らのうちで最も老いた懐炎から、最も若い飛霄に至るまで、このような事態を経験したものはいない。彼らにとって豊穣の使いたちというものは常に、遥かな昔日から存在し、現在と未来で忌み物を増やすものたちであり、それがゆえに狩るべき対象だった。それが今、新しく芽吹こうとしているという。
「ふうん。じゃあどちらにせよ、あたしたちの内の誰かが行くべきでしょうね。使令が生まれるって言うなら、対処できる人が必要でしょ」
飛霄の言葉は、やはり端的だった。
「十王司や総帥の判断を仰ぐ必要はあるが、天撃将軍の意見には同感だ。これで将軍の派遣を渋ってサガルマートに万が一のことがあれば、非難は免れんだろう。どのみち擬似恒星の完成式典には同盟にも招待が来ておったしな」
「それにしても、七人なのね。少ないと見るべきか、多いと見るべきか。候惚の乱を見るに、その数でも十分な脅威でしょうけど。かの運命の特性からするに、もっといても良さそうなのに」飛霄の疑問は、銀河で幾度も問われてきた問題のうちのひとつだった。
繁殖や豊穣といった運命はつねに、増殖・繁茂・再生といったイメージに紐づいている。草は生い茂ってその生を謳歌し、虫は留まることなく羽化し増殖を続けるものだ。その性質上、運命が持つ虚数エネルギーの門ともいえる使令たちはいくらでも居てよさそうだが、実情はそうではない。どちらも歴史上そう呼ばれたものは両手のうちに留まっている。
「単に運命に制約があるのか、恣意的に其らが選んでいるのか、その境地に至れるものがいないだけなのか?我々に窺い知ることは難しいが……もし後者であるのなら、今回のサガルマートでその一端を見ることもできるかもしれないね。薬師の眼差しを惹くものが何か、求められば与える神が、何を以て自ら手を差し伸べるに至るのか」
あるいは、すべてが気まぐれにすぎないのか。景元の言葉に応えるものは、ついぞいなかった。
占いについて……ほんとに齧っただけなので明らかな間違いがあるかと思いますがご容赦ください。ちなみに明夷の相自体は「今後の二相楽園」を将軍が占ったのと同じです。動く爻が違うので、同じ未来の傾向とかではないけど。
洪函
可哀想な卜者。豊穣とか薬師を占ってはいけないのは原作にあった……はず!しかしどこまでダメなんでしょうね…候惚についても占ったらダメなのか……
使令
オリジナルを2つ混ぜた。特に出す予定はありません。空白を開けてるのは単に今後ゲームで新しい使令が登場したとき用の保険です。豊穣の使令、もっと見たいのでたくさん出して欲しい。