修学旅行中の機内で発生した異常事態。綾小路、坂柳、龍園たちが協力して極限の着陸に挑む
航空パニック・アクションスリラー。

※pixivにも同タイトルで投稿しています。

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羽田空港を離陸したボーイング787-8型機。

その機体は、高度一万メートルを超えた上空で、

美しくもどこか非現実的な青に包まれていた。

眼下には白い雲海が広がり、

その上を巨大な金属の塊が何事もないように滑っていく。

地上にいたなら決して意識することもない高さだが、

だからこそ人は、いま自分がどれほど

危うい場所にいるのかを忘れられるのかもしれない。

 

機内には、高度育成高等学校二年生たちの賑やかな声が響いていた。

修学旅行という非日常は、それだけで生徒たちの警戒心を溶かしていく。

普段なら余計な駆け引きや損得勘定を頭のどこかで巡らせている連中でさえ、

この時ばかりは束の間の解放感に身を委ねていた。

 

だが、その平穏を切り裂いたのは、爆発でも衝撃でもなく、一筋の沈黙だった。

 

「……結城、少し……視界が霞む」

 

機長の武藤が、計器の数字を追うのをやめ、左胸を強く押さえた。

その声には違和感があった。

単なる体調不良では済まない、急激な異変の色が滲んでいる。

 

「機長?どうされました……あ……」

 

副操縦士の結城もまた、喉を押さえ、苦しげに前屈みになる。

二人が口にしたのは、さほど特別でもない機内食と、

その直前に用意されたコーヒーだった。

だが、そのどこかに綾小路篤臣が送り込んだ刺客の手が

加わっていたのだとすれば、話は別だ。

急性の循環器症状と神経症状を同時に引き起こし、

しかも一見して原因を特定しにくい薬剤。

致死そのものを目的とした毒というより、

操縦不能の状態を確実に作り出すための、

極めて悪質な調整だったのだろう。

 

二人のパイロットが計器板に崩れ落ちた瞬間、

オートパイロットが操縦系統への異常入力を検知した。

次の瞬間、コックピットに不気味な警告音が鳴り響く。

高く、甲高く、神経を削るようなディスコネクト・ウォーニング。

それは、この機体で何か決定的な異変が起きたことを告げる音だった。

 

 

客室に流れていた映画の音声が不意に途切れ、スピーカーから短いノイズが走った。

 

「おい、今の音なんだ?」

 

石崎大地が眉をひそめて窓の外を見る。

機体はほんのわずかに右へ傾いていた。

それだけなら乗客が違和感を抱くほどではない。

だが、水平線が不自然な角度で切り取られているのを見れば、

鈍い者でも何かがおかしいと気づく。

 

「嘘……高度が下がってる?」

 

佐藤麻耶が震える声で呟いた。

手にしていた携帯の高度計アプリが、数値を十メートル単位で削り取っていく。

正確な数値かどうかは分からない。

それでも表示がじわじわと変化していることだけは、嫌でも分かった。

 

「キャアアアアアッ!」

 

誰かの悲鳴を皮切りに、客室は一気に地獄へと変貌した。

 

「死ぬ……死ぬんだ、俺たち!」

 

池寛治が半ば本気で座席の下に潜り込もうとし、

それを本堂や篠原が泣きながら止める。

意味がないと分かっていても、何かに縋らなければ平静を保てないのだろう。

閉鎖空間での恐怖は、単純な危機より厄介だ。

逃げ場がないと理解した瞬間、人は理性より先に本能で壊れていく。

 

「静かにしなさい!」

 

その混乱を切り裂いたのは、堀北鈴音の鋭い声だった。

立ち上がった彼女の手はわずかに震えていたが、その声色には意志が宿っている。

恐怖を呑み込み、それでも前に出る者の声だった。

 

「茶柱先生。コックピットを確認してください。

私たちはここでパニックを抑えます」

 

指示の形を取ってはいるが、実質的には懇願に近い。

それでも彼女は自分の声を崩さなかった。

崩した瞬間、周囲の精神まで決壊すると分かっていたからだろう。

 

一之瀬帆波もまた、すぐに動いていた。

通路を走り、過呼吸で崩れそうになっている生徒の背中をさする。

 

「大丈夫、まだ落ちてない!私たちが諦めたら、そこで終わりだよ!」

 

その声は優しかったが、同時に必死でもあった。

瞳には涙が浮かんでいる。それでも一之瀬は泣かなかった。

いまここで誰かが取り乱せば、他の誰かもそれに引きずられる。

リーダーであることは、時に感情を後回しにすることでもある。

 

客室後方、Bクラスの席。

長谷部波瑠加は、意外なほど静かに窓の外の白い雲を見つめていた。

 

「(……最期が、このメンバーでよかったのかな)」

 

そんなことを考えてしまう時点で、彼女もまた十分に追い詰められている。

携帯を取り出し、画面に短い文を打ち込む。

 

『愛里へ。あなたと出会えたこと、忘れない』

 

届くはずのない言葉だった。

だが、届くかどうかは関係ない。最後に何を残すか、それだけが問題だった。

 

須藤健は、隣で青ざめている石崎の肩を折れそうなほど強く掴んでいた。

 

「……俺、まだ鈴音に何も伝えてねえんだよ……!」

 

それは遺言にも似た独白だった。

普段の須藤なら絶対に口にしない種類の本音だ。

 

「俺だって……俺だって、まだ……龍園さんに何も恩返しできてねえ……!」

 

石崎の声も震えている。

かつて敵同士だったはずの連中が、

いまは互いにしがみつくようにして同じ恐怖を見ていた。

死の前では、虚勢も見栄もひどく脆い。

 

「……開けろ、龍園。一秒を争う」

 

その時、綾小路清隆の声が響いた。

周囲が混乱と絶望で飽和しきっている中でも、

その声音だけは妙に冷たく、均質だった。

だからこそ、逆に人の意識を引く。

 

「ハッ、言われなくても分かってんだよ」

 

龍園翔が、コックピットの重厚なセキュリティドアに鋭い蹴りを叩き込む。

だが当然、びくともしない。

感情任せの破壊でどうにかなる構造ではない。

 

「坂柳、電子ロックの緊急解除手順は?」

 

綾小路が短く問う。

 

「機体そのものの詳細までは保証できませんが、

学園側の輸送データに非常用の解除情報が含まれていました」

 

坂柳有栖は杖を突きながら、落ち着いた手つきでキーパッドに指を走らせる。

余裕ぶっているというより、こういう場面でこそ自分の頭脳を使えることに、

一種の昂揚を覚えているようにも見えた。

 

「……『09-A-X-112』。おそらくこれです」

 

カチリ、という電子音。

その音は、乗客にとっての生存への片道切符に等しかった。

 

扉の先にあったのは、泡を吹いて昏睡した二人のパイロットと、

赤く点滅する無数の警告灯だった。

警報音、化学臭のような微かな異臭、乱れた計器表示。

その光景は、客室の混乱とは別種の現実感を伴っていた。

ここは原因の場所だ。恐怖の発生源そのものと言っていい。

 

この異常事態は決して偶然ではない。

すべては、一人の男の意思によって仕組まれたものだった。

 

綾小路篤臣。

 

ホワイトルームを創設した男であり、綾小路清隆の実の父でもある人物。

 

彼の思想は、常に徹底して合理的だった。

情も倫理も、彼の判断に影響を与えることはない。

 

清隆がホワイトルームに戻らない。

その可能性を、篤臣は最初から想定していた。

そして同時に、その場合の「処理方法」も。

 

彼にとって問題は、清隆という存在そのものではない。

問題は、清隆を変えた環境だった。

 

高度育成高等学校。

 

そこで出会った教師。

そして――生徒たち。

 

もし清隆がホワイトルームを拒絶するのなら、

それは「外部環境」によって歪められた結果だと、

篤臣は冷静に判断する。

 

ならば、その環境ごと消せばいい。

極めて単純な結論だった。

 

飛行機事故。

 

それは最も都合のいい方法だった。

高度一万メートルの空。

逃げ場のない密室。

証拠は残らず、責任も曖昧になる。

この機体に乗っている約180名。

教師、生徒、乗員。その全員が――

 

綾小路清隆という存在を生み出した「環境の一部」に過ぎなかった。

 

篤臣にとって、人の命とは目的ではない。

ただの結果だ。

だが、その冷酷な計算を。

この機体の中で、ただ一人だけ。

清隆だけが、うっすらと察していた。

 

「綾小路、お前……その手つき、どう見ても素人じゃねえな」

 

龍園が低く笑う。

綾小路はすでに座席へ滑り込み、機体姿勢と自動操縦の状態、

エンジン出力、航法モードの表示を一気に確認していた。

その動きに迷いがない。少なくとも、初見の一般人のそれではなかった。

 

「過去に軽飛行機と大型ヘリのシミュレーションをやったことがある。

操作思想そのものは完全に別物じゃない。もっとも……本物は想像以上に重いな」

 

最後の一言だけが、わずかに現実味を持っていた。

大型旅客機特有の慣性。反応の遅さ。

シミュレーターなら補正できる違和感も、

生身では一つずつ身体に叩き込むしかない。

 

「ふふ、さすがは綾小路くん。

こんな状況でまであなたの有能さを見せつけられるのは、

私としても少々癪ですが――まあ仕方ありませんね。

では、私は右席で情報整理と管制対応を担当しましょう。

龍園くん、あなたは力仕事です。スロットルとフラップ、

場合によっては降着装置の非常操作もお願いできますか?」

「……指図すんじゃねえよ」

 

龍園が舌打ちする。だが拒絶ではない。

 

「だが、こんなところでくたばるのは気に入らねえ。

乗ってやるよ、その悪趣味なゲームにな」

 

坂柳が薄く笑う。

 

「ええ。少なくとも退屈はしませんもの」

 

三人。

本来なら同じ目的で並ぶことのない顔ぶれだった。

だが、いまだけは利害が一致している。

生き残ること。

そして、自分たちの勝負を他人の都合で終わらせないこと。

 

 

「新千歳管制、こちらチャーター便。メイデイ、メイデイ。

機長・副操縦士ともに意識不明。

現在、代替要員が操縦を引き継いでいる。着陸支援を要請する」

 

坂柳がヘッドセットを装着し、地上へ通信を飛ばす。

言葉を選びながらも、声色に動揺はない。

いかにも坂柳らしい、冷静さと芝居がかった上品さの混ざった口調だった。

 

『……こちら新千歳管制。代替要員?

どういう意味だ。こちらは緊急事態を確認しているが、操縦者の資格を答えろ』

 

わずかな間のあと、通信に苛立ちが滲む。

当然だ。状況が状況である以上、相手が混乱するのも無理はない。

 

「資格はありません。ですが、いま操縦しているのは最も適任の人間です」

『ふざけている場合じゃない!現在の新千歳は猛吹雪だ。視界は著しく悪い。

通常でも難易度が高い。計器進入の補助がなければ――』

 

そこで坂柳が表示を一瞥し、わずかに眉を寄せた。

 

「地上からの進入支援データの取得が不安定です。完全ではありません」

「通信妨害か?」

「断定はできませんが、偶然にしては都合が良すぎますね」

 

綾小路篤臣。

あの男なら、その程度の細工をしていても不思議ではない。

直接的に爆破や銃撃を使わず、事故という形に整え、なおかつ逃げ道を狭める。

いかにもあの男らしいやり方だ。

 

「なら、どうすんだ」

 

龍園が荒く言う。

 

「海にでも落とすか?水の上なら少なくとも滑走路よりは柔らかいだろ」

「却下です」

 

坂柳は即答した。

 

「時速200数10キロでの着水は、ほとんど地面に叩きつけられるのと変わりません。

機体が割れれば、この気温の海では救助を待つ以前に終わりです」

「じゃあ草原だ。北海道なら平らな場所くらいあるだろ」

「雪原は見た目ほど親切ではありません。下に何が埋まっているか分からない。

木や岩、地形のうねり一つで機体は回転し、そこで炎上です」

 

龍園が舌打ちする。

 

「じゃあ結局、どうしろってんだよ」

「新千歳空港だ」

 

綾小路が短く答えた。

 

龍園が振り返る。

 

「まだ言うか。見えねえんだぞ」

「見えなくても、あるものはある」

 

綾小路は前方表示と航法情報を見つめたまま続ける。

 

「滑走路、消防、医療、除雪、救難。最善条件が揃っている場所はそこしかない」

「条件が揃ってても、降ろせなきゃ意味ねえだろ」

「だから降ろす」

 

その声音に、大きな力みはなかった。

できると言い切るでもなく、希望的観測に頼るでもない。

ただ、そこを選ぶのが最適だと判断している。

その冷たさが逆に説得力を持つ。

 

「坂柳。高度、速度、滑走路までの距離、降下率。必要な数値を一秒ごとに拾え」

「了解です」

「龍園。俺の指示に合わせてスロットルとフラップを動かせ。

判断を挟むな。遅れもいらない」

 

龍園が鼻で笑う。

 

「命令口調が板についてやがるな」

「嫌なら出ていけ」

「ハッ。言うようになったじゃねえか」

 

軽口に見えるやり取りだったが、そこには互いの能力への最低限の信頼があった。

少なくとも、いまの龍園は綾小路の指示が最適解に近いことを理解している。

坂柳もまた、自分が読み上げ役に回ることに不満はあっても、

それが最も効果的だと分かっていた。

 

「決着は学年末試験でつけるんだろ」

 

綾小路が言う。

その一言に、龍園と坂柳の空気がわずかに変わった。

 

「こんな場所で、理不尽な大人の都合に付き合って終わる気はない」

 

龍園が低く笑う。

 

「……そうだな。俺の勝負を横から奪われるのは気に入らねえ」

 

坂柳もまた、穏やかな笑みのまま頷いた。

 

「ええ。私たちの勝負に割り込むなど、誰であっても無粋が過ぎます」

 

 

客室では、茶柱佐枝が生徒たちの間を回っていた。

教師として、あるいは引率責任者として、ここで崩れるわけにはいかなかった。

 

「茶柱先生……俺たち、本当に助かるのかよ」

 

須藤が消え入りそうな声で問う。

茶柱は一瞬だけ答えを失った。

教師だからといって、魔法のような安心を与えられるわけではない。

 

それでも彼女は言った。

 

「……あの中に誰がいるか知っているか?綾小路、坂柳、龍園だ」

 

その名前を聞いた生徒たちの反応は様々だった。

希望というより、理解しきれない異物を突きつけられた時の沈黙に近い。

 

「この学園で、最もあり得ない三人が手を組んだんだ。

もし神がいるなら、いま頃は向こうが震えているだろうよ」

 

茶柱らしい、不器用で少し乱暴な励ましだった。

だが、その言葉は確かに機内へ小さな希望を落とした。

 

佐藤や池は半ば本気で手を合わせて祈り始める。

 

一之瀬は怯えた少女の手を握り続け、優しく歌を口ずさんでいた。

幼い頃、母に歌ってもらった子守唄。

こういう場面で理屈は役に立たない。

だからこそ、人は時に声や温度に救われる。

 

「大丈夫。明日の朝には、みんなで北海道のご飯を食べてるよ」

 

その言葉が本当かどうか、一之瀬自身にも分からない。

それでも彼女は言った。

信じるしかない者の強さで。

 

軽井沢恵は、シートベルトを強く握りしめていた。

指先が白くなるほど力を込めながら、震える唇をかすかに動かす。

 

「お願い……清隆」

 

声にならないほど小さな呟きだった。

だが彼女にとっては、それが精一杯の祈りだった。

 

「お願い……みんなを助けて」

 

彼女は目を閉じる。

いまこの瞬間、自分が頼れるのはたった一人だけだと知っていた。

 

その少し前の席で、堀北は静かに前を見据えていた。

恐怖がないわけではない。

だが、それ以上に胸の奥にあるものがあった。

 

「(綾小路くん……)」

 

彼女は小さく息を吐く。

 

「(あなたに託すわ)」

 

いまこの機体の運命は、あの男の手に委ねられている。

だが不思議と不安はなかった。

 

「(私たちはまだ、何も成し遂げていない)」

 

この学校での戦いはまだ終わっていない。

ここで終わるわけにはいかない。

 

「(だから――)」

 

堀北はぎゅっと拳を握り、短く目を閉じた。

 

「(必ず帰ってきなさい、綾小路くん)」

 

通路を挟んだ反対側で、椎名ひよりは膝の上にそっと手を重ねていた。

騒ぎの中でも彼女の表情は驚くほど穏やかだった。

 

「(綾小路くんなら……きっと)」

 

胸の奥で、小さく言葉を結ぶ。

 

「(物語の主人公は、こんなところで終わらない)」

 

ひよりは窓の外の雲海へと視線を向ける。

 

「(だから――信じています)」

 

 

中央ディスプレイ――EICASは、なお赤い警告表示で埋め尽くされていた。

 

綾小路は一瞬だけ目を細めた。

 

「……油圧系統(ハイドロリック)」

 

声は、あまりにも平坦だった。死の宣告を読み上げる機械のように。

 

「三系統のうち二系統がロスト。

右(R)と中央(C)の圧力が規定値を下回っている」

 

コックピットの空気が、物理的な重さを伴って沈み込む。

 

「さらに主脚の展開を司るアクチュエーターが反応していない。

電気信号は送られているが、物理的なロックが解除されない状態だ」

 

綾小路は表示を指でなぞる。

 

「これは単なる故障じゃない」

 

右席でタブレットを操作していた坂柳が、ゆっくりと顔を上げた。

 

「ええ」

 

彼女は航空構造図を拡大する。

その指先は、まるでチェスの駒を動かすかのように正確だった。

 

「どうやらこの空の旅には、歓迎されない余興が用意されていたようですね。

私たちの逃げ道をすべて物理的に断つとは、随分と手の込んだ演出です」

 

画面に表示されているのは、ボーイング787の複雑極まる降着装置の構造図だった。

坂柳が指先で一点を示す。

 

「着陸装置のロック機構に物理的な細工がされています。

本来なら自重で下がるはずの機構まで、固着剤で完全に封じられています」

 

龍園が、後方から身を乗り出すようにしてモニターを覗き込み、眉をひそめた。

 

「……それで?結局、どうなるんだよ。専門用語はいいから、結論を言え」

 

坂柳は、淡々と、しかし残酷な事実を口にした。

 

「接地した瞬間、機体はバランスを崩します。

左の脚だけで数百トンの衝撃を受け止めることになりますが、

耐えられるはずもありません。翼が滑走路に接触し、火花が燃料タンクに引火。

……私たちは、滑走路の上で巨大な火だるまになる。それが用意された結末です」

 

龍園が舌打ちした。

 

「チッ……反吐が出るぜ」

 

彼はスロットルを握り直す。

 

「操縦だけじゃどうにもならねえってか」

「操縦で時間を稼ぐことはできるが、着陸の瞬間には物理的な介入が必要だ」

 

綾小路はすでに、壁面のインターホンを手に取っていた。

 

「堀北はいるか」

 

客室後方。

スピーカー越しに響いたその声に、堀北は反射的に顔を上げた。

それまで必死に周囲を落ち着かせようとしていた一之瀬も、思わず動きを止める。

須藤は座席の背に手をついたまま目を見開き、

ひよりは胸の前で重ねていた指先をわずかに強ばらせた。

 

綾小路から直接呼びかけが来る。

その事実だけで、いまこの状況がただ操縦を任せて

祈るだけの段階ではなくなったことを、誰もが直感した。

 

『……聞こえるわ』

 

堀北はそう返したが、声は普段よりわずかに硬かった。

 

「今すぐ動ける人員を集めろ。

機体後方、床下のアビオニクス・ベイ。油圧配管のバイパス操作が必要だ」

 

一瞬、誰も声を出せなかった。

 

『……待って。それはつまり、私たちが直接――飛行機を直せ、ということ?』

「そうだ」

 

返ってきた答えは、あまりに簡潔だった。

 

「マジかよ……」

 

須藤が乾いた唾を飲み込んだ。

一之瀬の顔からも血の気が引いていく。

 

「わ、私たちで……できるのかな」

「……マニュアルはあります」

 

ひよりが静かにタブレットを持ち上げる。

 

「機体構造図と整備手順も。全部ではなくても、読むことはできます」

 

堀北が一之瀬を見る。

一之瀬は一瞬だけ迷い、それから小さく頷いた。

 

「……やろう」

「おい、本気かよ。あんな暗い穴蔵に潜れってのか?」

 

石崎が声を震わせながら立ち上がった。

その隣では、伊吹澪が不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「怖気づいてんの?石崎。

龍園が上でやってんなら、下で私たちが何もしないわけにいかないでしょ」

 

山田アルベルトがゆっくり立ち上がる。その巨体が通路に影を落とした。

堀北は目を閉じ、ほんの一瞬だけ息を整えた。

 

『……分かったわ。やる。指示を続けて』

 

7人は、パニック寸前の客室をかき分け、機体後方のハッチへと向かった。

ハッチを開けた瞬間、凄まじい風切り音と機械の唸りが這い上がってきた。

暗く、油臭く、暴力的なエネルギーが渦巻く「飛行機の臓器」。

 

「……すごい」

 

一之瀬が小さく息を呑んだ。ひよりが懐中電灯で図面を照らす。

 

「……ここです。この青い油圧ライン。……あ!」

 

その指差す先で、作動油が霧状に噴き出していた。

 

「細工ね」

 

堀北が低く言った。

 

「須藤くん、山田くん、石崎くん。その先のバルブを力ずくで保持して。

伊吹さんはその隙間の奥にあるバックアップ・レバーに手を届かせて。」

「おう、任せろ鈴音!」

「手動ロック解除、開始!」

 

号令と共に作業が始まった。

須藤と石崎とアルベルトが巨大なレバーに手をかける。

 

「ぐっ……!?おおぉぉぉッ!」

 

須藤の顔が赤く染まる。油圧の逆流。

 

「重てぇ……!石崎、遊んでんじゃねえぞ!」

「やってるよ!クソ、手が滑る!」

 

石崎が必死に食らいつくが、油圧は情け容赦なく彼らの腕を押し返す。

アルベルトが無言で二人を背後から支え、岩のような肉体でレバーを固定した。

 

「伊吹さん、もっと奥よ!そこでピンを抜いて!」

「分かってるわよ!狭くて手が入んないのよ!」

 

伊吹は悪態をつきながらも、鋭い集中力で機械の隙間に腕を滑り込ませた。

 

「須藤くん、頑張って!次のバルブ、右に45度!」

 

一之瀬が読み上げ、ひよりが補足する。

 

「はい……!そのまま保持です!」

 

機体が大きく揺れた。最終降下の開始だ。

 

「高度が下がれば作業は楽になる。でも、衝撃は今までの比じゃない」

 

堀北が溢れ出す油を浴びながら叫んだ。

 

「全員、何があっても絶対に離さないで!」

「……当たり前だ!ここで離したら、俺は一生鈴音に合わせる顔がねえんだよ!」

 

須藤の咆哮。

 

「龍園さんに笑われてたまるかよッ!」

 

石崎も絶叫する。

アルベルトは無言で、伊吹は歯を食いしばり、

7人の総力が、数百トンの鋼鉄の巨体が抱えた欠陥を、

ぎりぎりのところで繋ぎ止めていた。

 

コックピット。

綾小路は操縦桿から伝わる感触の変化を逃さなかった。

 

「……油圧が戻った」

 

坂柳が計器を凝視する。

 

「油圧は戻りました。ただしロック表示は依然として不安定です」

 

龍園が笑った。

 

「ハッ。下の連中も、死に物狂いで役に立ったようだな」

「これより最終進入。……坂柳、対地高度を読み上げろ。

龍園、オレの合図で一気に逆噴射をかける」

 

 

コックピットで綾小路が「主脚の異常」を検知したのとほぼ同時刻、

客室の中央付近では、パニックに陥る生徒たちとは

完全に切り離された異質な空間が存在していた。

 

高円寺六助。

彼は乱気流に揺れる座席で、手鏡を片手に自身の前髪を整えていた。

 

「……フッ、実に不細工な悲鳴だね。美しくない」

「高円寺、座っていろ!墜落するかもしれないんだぞ!」

 

茶柱が鋭く叱責するが、高円寺は優雅に立ち上がった。

その目は、機体の壁面の向こう、

キャビン天井付近にある「微かな異音」を捉えていた。

 

「ティーチャー。今の不快な音、お気付きかな?

機体の『背骨』が少々、悲鳴を上げているようだ」

 

高円寺は茶柱の制止を無視し、

ラウンジエリアの天井にある非常用パネルを素手でこじ開けた。

 

「何をする気だ、高円寺」

「メンテナンスだよ。

ここにあるエアコンディショニング・パックの配管が外れかけている。

このままでは機内の気圧が失われ、諸君は一瞬で眠りにつくことになるだろう」

 

茶柱は息を呑んだ。

アビオニクス・ベイの油圧異常とは別に、

環境制御系統(ECS)にも細工がなされていたのか。

高円寺は身軽な動作で天井裏の狭いスペースへ潜り込む。

心配した茶柱も、教え子を一人で行かせるわけにはいかず、

スカートを汚すのも厭わず後に続いた。

 

狭い空間に、高円寺の鍛え上げられた筋肉が収まらない。

 

「フッ、私の美しすぎる筋肉には少々この舞台は狭いね……」

「無駄口を叩くな。その配管を繋ぎ直せばいいのか?」

 

茶柱が懐中電灯で照らす先、高熱を帯びたダクトが激しく振動していた。

 

高円寺は平然と、素手で熱せられた金属ダクトを掴んだ。

 

「おっと、これは熱いね。だが私の美肌を損なうほどではない」

 

彼は超人的な握力で、外れかけたジョイントを力ずくで押し込もうとする。

しかし、その瞬間、予期せぬアクチュエーターの誤作動により、

高円寺の右腕を固定する形で金属のクランプが勢いよく閉じてしまった。

 

「……おや、これは少々予定外だ。クランプがロックされてしまったよ」

「高円寺!?抜けないのか?」

 

茶柱が焦る。高円寺の剛腕をもってしても、

油圧でロックされた金属クランプはびくともしない。

しかも、その振動でダクトからは高圧の熱風が漏れ出し始めた。

 

「フッ、困ったね。私の腕が焼かれるのは構わないが、

機内の空気が薄くなるのは美しくない」

 

余裕を崩さない高円寺だが、額には流石に汗が滲む。

茶柱は一瞬、絶望に襲われた。

だが、彼女は震える手で、自身の胸元に刺していた一本の万年筆を引き抜いた。

 

「どけ、高円寺……。いや、動くな!」

 

茶柱はクランプの隙間にある、緊急解放用の手動バイパス弁を見抜いた。

狭すぎて高円寺の太い指では届かなかったその隙間に、

彼女は万年筆を差し込み、テコの原理で一点を突き上げた。

 

――カチリ。

 

「……ほう。お見事だ、ティーチャー」

 

ロックが解除され、高円寺は自由になった瞬間に、

ダクトを完璧な位置へと叩き込んだ。

 

「終わったよ。これで諸君は窒息せずに済む」

 

高円寺は、火傷を負った右腕を気にする素振りも見せず、天井から飛び降りた。

茶柱は肩で息をしながら、自身の汚れたスーツを見つめた。

 

「……高円寺。お前、よくこんな状況で……」

「私は常に最高だと言っているだろう?」

 

客室では、誰もこの二人が機体を救う一端を担ったことに気付いていない。

皆、墜落の恐怖か、あるいは必死に作業を続ける

堀北たちの動向に意識を向けていた。

 

だが、コックピットの綾小路だけは違っていた。

手元のモニターで環境制御系統の警告表示が突如として消え、

正常値に戻ったのを確認したのだ。

 

「……そうか。高円寺、やはり動いたか」

 

綾小路は、茶柱がついていったことも含め、

その「不測の事態の解消」を静かに受け止めた。

 

「堀北たちの修復、操縦チームの維持、

そして高円寺の防衛。……パズルはすべて埋まったな」

 

坂柳や龍園ですら気付いていない、機体のもう一つの急所。

それを守った「黄金の超人」と「震える教師」の功績を、

綾小路だけは無言のまま、自身の記憶の記録(アーカイブ)に刻み込んだ。

 

 

客室では、機体が滑走路へ突っ込む衝撃に備え、

誰もがシートベルトを握りしめていた。

 

泣き声。

祈る声。

小さく嗚咽する声。

 

機体が揺れるたびに、それらが混ざり合って、客室の空気を重く沈ませていく。

そんな中で、軽井沢はじっと周囲を見渡していた。

 

篠原が震えている。

池は顔面蒼白のまま膝を抱えている。

佐藤は今にも泣き崩れそうだった。

 

「(……これ、ダメだ)」

 

軽井沢は思う。

 

このままでは恐怖が連鎖する。

誰か一人が壊れれば、他も崩れる。

それはこのクラスの「空気」を知り尽くしている彼女だからこそ分かることだった。

 

「ねえ、平田くん」

 

軽井沢が平田洋介へ声をかける。

平田もまた、周囲を見回していた。

その表情は穏やかだが、瞳の奥には明確な緊張があった。

 

「うん、なにかな?」

 

軽井沢は少しだけ肩をすくめた。

 

「こういう時って、さ。スクールカースト上位の仕事ってあるよね」

 

平田は一瞬だけ目を瞬かせる。

だがすぐに、その意味を理解した。

 

「……そうだね」

 

軽井沢が苦笑する。

 

「どうせ死ぬならさ。暗い顔して死ぬの、イヤじゃない?」

 

その言葉は冗談めいていた。

だが同時に、この状況の中で言える最大限の強がりでもあった。

平田は小さく頷く。

 

「修学旅行だしね。できれば楽しい思い出のまま終わりたい」

 

軽井沢が笑う。

 

「そうそう、せっかく北海道行く予定だったのにさ!

機内で泣きながら終わるとか、最悪じゃん?」

 

その軽い口調に、近くにいた佐藤が少しだけ顔を上げた。

 

軽井沢は気づいていた。

恐怖は伝染する。

だが――笑顔もまた伝染する。

だからこそ彼女は笑う。

クラスの中心に立つ人間として。

 

「ねえみんな!」

 

軽井沢が声を上げた。

 

「まだ死ぬって決まったわけじゃないんだけど?」

 

その言葉に何人かが顔を上げる。

だが、篠原が泣きながら叫んだ。

 

「うるさいよ……!」

 

篠原の目は赤く腫れていた。

 

「どうせ死ぬんでしょ!さっきから揺れてるし……飛行機落ちるんだよ!?」

 

客室が一瞬、静まり返る。

誰もが心のどこかで思っていた言葉だった。

それを篠原が口にしただけだ。

 

だが軽井沢は、表情を崩さなかった。

むしろ、肩をすくめて言う。

 

「うん……落ちるかもね」

 

篠原が息を詰まらせる。

予想外の返答だった。

 

「でもさ」

 

軽井沢は笑った。

 

「だからって、最後まで泣き顔でいるのって、超ダサくない?」

 

篠原が言葉を失う。

平田がそこで口を開いた。

 

「僕もそう思う」

 

その声は、いつもの平田の声だった。

穏やかで、落ち着いていて、そしてどこか安心させる響きがある。

 

「まだ、終わったわけじゃない。操縦しているのは、綾小路くんたちだ」

 

その名前に、何人かが顔を上げる。

 

「彼らが諦めていないのに、僕たちだけ諦めるのは早すぎると思う」

 

平田はゆっくりと続けた。

 

「だから、もし本当に最後の瞬間が来るなら、せめて笑って迎えよう」

 

軽井沢がすぐ横から口を挟む。

 

「そうそう、どうせ死ぬならお祭りみたいにパーっといこうよ!」

 

その言葉に、池と篠原が思わず嘲笑した。

 

「はっ、なんだよそれ……!ふざけるな!」

「そうよ!死ぬのに笑うなんてバカみたい……!」

 

軽井沢が肩を揺らして笑う。

 

「大マジだよ!暗いよりマシじゃん!」

 

篠原が言葉を張り上げようとする。

そのときだった。

 

「……うるさい」

 

低い声が、横から落ちた。

 

櫛田桔梗だった。

 

彼女は座席に深く座ったまま、苛立ったように舌打ちする。

 

「さっきからギャーギャー泣きわめいてさ。

聞いてるこっちの神経が持たないんだけど」

 

篠原が目を見開く。

 

「く、櫛田さん……」

 

櫛田はため息を吐いた。

 

「どうせ死ぬ?だから何?」

 

吐き捨てるような口調だった。

 

「だったら最後まで騒いでるより、少しは静かにしてなよ。みっともない」

 

その言葉は容赦がなかった。

 

だが。

 

「それに」

 

櫛田はゆっくり視線を客室へ向ける。

 

「平田くんが言うように、上ではあいつらがまだ諦めてないんでしょ」

 

誰のことかは、言わなくても分かった。

 

綾小路。坂柳。龍園。

 

「だったらさ」

 

櫛田は肩をすくめる。

 

「こっちまで勝手に終わった気分になることこそ、バカみたいじゃない?」

 

客室が静かになる。

軽井沢が、少しだけ笑った。

 

「……櫛田さん、そう、そうだよね!」

 

櫛田は軽井沢の方を見もしない。

 

「勘違いしないで」

 

ぶっきらぼうに言う。

 

「別に励ましてるわけじゃないから」

 

そして、ぼそりと続けた。

 

「ただ……」

 

ほんの一瞬だけ。

彼女の声がわずかに柔らいだ。

 

「せっかくの修学旅行なんだし。

どうせなら、最後まで悪あがきくらいしてやりなよ」

 

軽井沢が肩を揺らして笑った。

 

「櫛田さん、良いこと言うじゃん!」

 

その空気につられて、佐藤やみーちゃんが小さく笑った。

 

それはほんの小さな笑いだった。

だが、確かに笑いだった。

篠原はまだ泣いていた。

それでも、さっきほど取り乱してはいない。

 

軽井沢はその様子を見て、小さく息を吐く。

 

「(よし……)」

 

完全に恐怖を消すことはできない。

それでも。

少なくとも、この空気は守れる。

クラスの中心にいる者として――。

 

彼女はちらりと前方の隔壁を見上げた。

その向こうでは、まだ誰かがこの巨大な機体を必死に繋ぎ止めている。

だからこそ、自分たちはここで崩れるわけにはいかなかった。

 

軽井沢は、もう一度大きく笑った。

 

「ほらみんな!北海道行ったら海鮮食べるんだから!そのためにも生き延びるよ!」

 

その言葉に、客室のあちこちで小さな笑い声が広がった。

 

恐怖は消えていない。

だが、絶望だけではなくなっていた。

 

 

高度二千フィート。

機体は新千歳空港への進入段階に入っていた。

 

窓の外は白い。

吹雪がフロントガラスを叩きつけ、視界を奪う。

夜ではない。だが、見えるものの少なさは夜以上だった。

 

「高度二千。滑走路まで五マイル」

 

坂柳の声が、機械の警告音の隙間を縫うように響く。

 

「フラップ二十」

 

綾小路の指示に、龍園がレバーを操作する。

 

フラップ。

翼後縁の可動部。これを展開することで揚力と抗力が増え、

低速でも安定した進入が可能になる。

だが同時に、機体は風の影響を受けやすくなる。

つまり、横風の中では扱いがより繊細になるということだ。

 

「速度、まだ高いです」

「分かってる。龍園、少し絞れ」

「分かってる」

 

龍園がスロットルを戻す。

反応はやや荒い。綾小路はその癖を見越し、

わずかに先回りして操縦桿で姿勢を補正した。

 

「……綾小路くん、あなた今、わざと一拍早く修正しましたね」

「龍園の手癖が荒い」

「聞こえてんぞ」

 

龍園が吐き捨てる。

だが怒鳴り返す余裕があるうちはまだいい。

恐怖で完全に黙るより、ずっとまともだ。

 

「ギア、ダウン」

 

綾小路の指示に、龍園が降着装置レバーを下げる。

 

ガガガッ、と金属音。

だがその音は、最後まで気持ちよく繋がらなかった。

 

坂柳も即座に確認する。

 

「油圧系統の応答が不安定です。完全には出ていません」

 

つまり、正常な着陸脚接地は望めない。

完全な胴体着陸とまではいかずとも、左主脚が信用できない以上、

着地の瞬間に機体が大きく傾く可能性が高い。

 

「……やっぱり、そこまで仕込んでたか」

 

綾小路が小さく呟く。

篤臣のやり方は容赦がない。

逃げ道を与えるように見せておいて、その実、最も嫌な形で削ってくる。

 

「どうするのです、綾小路くん」

 

坂柳が問う。

 

「そのまま行く」

 

即答だった。

 

「左は捨てる。接地で傾く前提で作る。

龍園、逆噴射は右優先。坂柳、接地と同時にスポイラーの展開を補助しろ」

 

スポイラー。

翼上面に立ち上がる板状の装置で、

揚力を殺して機体を地面へ押しつける役目を持つ。

着陸直後にこれがしっかり働けば、制動距離は大きく変わる。

 

「まったく、無茶を当然みたいに言いますね」

「無茶じゃない。これしかないだけだ」

 

綾小路の声に感情はなかった。

だが、その無感情さがいまは必要だった。

ここで恐怖や焦りを滲ませれば、三人の連携は崩れる。

 

機体が大きく揺れた。

横風だ。吹雪の向こうから叩きつけるような空気の塊が、

翼を押し流そうとしている。

 

「風、強いです」

「見れば分かる」

「会話の質が最低ですね」

「仲良く雑談してる場合かよ」

 

龍園が吐き捨てる。

 

高度五百フィート。

視界はほぼ白一色。

滑走路灯の光さえまだ見えない。

 

「……綾小路くん、何も見えません」

 

坂柳の声に、初めてわずかな緊張が混じった。

それは恐怖というより、自分の認識の外にあるものを

相手がどう処理しているのか分からない不安だった。

 

「見えなくてもいい」

 

綾小路は短く答える。

 

「風の入り方と機体の戻りで分かる」

 

実際に見えているわけではない。

だが、機体の振動、舵の重さ、横から押される感触。

それらを積み重ねれば、いま自分がどこへ流されているかは読める。

ホワイトルームで叩き込まれたのは、才能そのものではなく、

狂気じみた反復と修正の蓄積だった。

見えないものを感じ取るのではない。

感じ取れるまで、壊れるほど繰り返すだけだ。

 

フロントガラスの向こうは、一面の白だった。

吹雪が視界を完全に奪い、滑走路の存在すら目では確認できない。

ほとんどホワイトアウトに近い状態だった。

操縦桿には、機体の限界を訴えるような細かな震えが絶えず伝わってくる。

三人は一瞬だけ呼吸を殺した。

客室の音は隔壁の向こうに押し込められ、

ここにはエンジン音と警告音だけが残っていた。

 

「高度二百」

 

坂柳。

 

「百五十」

 

龍園の呼吸が荒い。

 

「百」

 

客室の悲鳴が、隔壁越しにかすかに聞こえた。

遠いようで、妙に近い。

ここで失敗すれば、その声ごと全部終わる。

 

「五十」

 

綾小路が呟く。

 

「来るぞ」

 

ドォォォン、と凄まじい衝撃が機体を襲った。

 

床下では、須藤と石崎、そしてアルベルトが

接地の瞬間に襲ってきた凄絶な反動をまともに受けていた。

 

機体全体が横から殴り飛ばされたように軋み、

固定していたはずの金属配管が暴れる蛇のように跳ねる。

人間の腕力で押さえ込んでいたレバーは、

接地荷重によって一気に跳ね上がろうとし、

その反力が三人の肩と肘を容赦なく破壊しにかかった。

 

「ぐ……ああああああああッ!!」

 

須藤の絶叫が狭い整備区画に響く。

肩が外れそうなほどの衝撃。

いや、感覚としてはすでに半分外れていた。

それでも指を離せば終わる。

そう分かっているからこそ、悲鳴と一緒に力まで絞り出すしかなかった。

 

「クソ……クソがぁッ!止まれッ!止まりやがれッ!!」

 

石崎もまた、涙と脂汗に塗れた顔で絶叫していた。

油で滑る手を必死にレバーに食い込ませ、剥き出しの歯をガチガチと鳴らす。

恐怖と痛みが限界を超え、

思考はただ「離さない」という一点のみに塗りつぶされていた。

 

その横でアルベルトも低く唸った。巨体ごと激しく揺さぶられ、

背中を冷たい構造材へ何度も叩きつけられながらも、腕だけは決して離さない。

彼は声を上げる代わりに、全身を鋼鉄の楔のように使って、

今にも弾き飛ばされそうな須藤と石崎の二人を背後から包み込むように支えていた。

 

「須藤くんッ!石崎くんッ!」

 

一之瀬の声が、ほとんど悲鳴のように裏返る。

彼女は咄嗟に身を乗り出したが、狭い区画では手を伸ばすことすらままならない。

助けたいのに、物理的に手が届かない。

その事実が、かつてないほどの焦燥となって彼女を襲う。

 

「離しちゃ駄目ッ!全員、お願い……ッ!」

 

堀北も叫んだ。

それは指揮官としての指示というより、

自分自身を奮い立たせるための声に近かった。

普段なら決して崩さない口調が、この瞬間だけは鋭く、切迫したものへと変わる。

 

「耐えて!あと少し――あと少しだけ持ちこたえなさい!」

 

その言葉の最後は、命令というより、仲間への魂の懇願だった。

 

「離さないでください……!」

 

ひよりは息を呑み、目の前で暴れる配管と、

火花の中で血を滲ませながら踏ん張る彼らの姿を見つめた。

 

冷静でいようとしていた思考が、接地の衝撃ひとつで激しく揺さぶられる。

だが――目を逸らすわけにはいかなかった。

 

「まだです……っ!まだ終わっていません……!」

 

彼女の声は震えていた。

それでも、その言葉には確かな意志が込められていた。

 

「須藤くん……石崎くん……山田くん……!頑張ってください!」

 

その声は決して大きくはない。

けれど確かに、彼らを引き留めようとする意思が込められていた。

 

目の前の光景は凄惨だった。

火花と金属音、そして血の匂い。

 

それでも――。

 

ここで諦めれば、すべてが終わる。

 

だからひよりは、震える声でなお言葉を紡ぐ。

 

「もう少しです……!きっと……もう少しだけです……!」

 

その声は小さい。

だが確かに、この騒音の中でもはっきりと届いていた。

 

「……っ、うるっさいわね……!」

 

狭い隙間の奥で、伊吹が歯を食いしばった。

振動で指の皮が裂け、血が滲む。

それでも彼女は、レバーに食い込ませた指を一ミリも緩めない。

 

「黙って見てなさいよッ!!」

 

吐き捨てるような叫びだった。

 

「こっちだって……まだ終わってないんだからッ!!」

 

衝撃で身体が揺さぶられる。

それでも伊吹は、レバーを押し込み続ける。

龍園が上で、宿敵である綾小路と並んで操縦している。

 

その事実が――彼女のプライドを、限界以上に燃え上がらせていた。

 

アルベルトが須藤と石崎の背中をさらに押し込み、

三人の身体を金属フレームへ固定するように踏ん張る。

須藤も、石崎も、歯を食いしばったまま、ほとんど吠えるように同時に叫んだ。

 

「「離すかよ……ッ!!」」

 

その瞬間、跳ね上がろうとしていたレバーがわずかに沈み、

完全なロック状態を維持した。

数百トンの衝撃。航空工学の限界。

それを、人間の剥き出しの筋力と意地が、ぎりぎりで支え切ったのだ。

右側から先に荷重がかかり、続いて左が沈む。

だが左主脚は支えきれない。

機体底部が滑走路を削り、耳を劈く金属音がコックピットを貫いた。

 

火花。

激しい振動。

骨の芯まで砕かれそうな衝撃が、コックピットの全員を容赦なく揺さぶった。

 

接地は成功ではなかった。

だが、失敗でもない。

これは墜落と生還の境界線に、無理やり機体をねじ込んだ結果だった。

 

「右逆噴射、最大!」

 

綾小路の声が飛ぶ。

 

龍園はほとんど反射でレバーを引き切った。

エンジンが絶叫する。

推進のための力が、今度は巨大なブレーキとして機体を後ろへ引きずろうとする。

 

「スポイラー展開!」

 

坂柳が補助操作を叩き込む。

翼上面のパネルが跳ね上がり、残っていた揚力を強引に殺す。

飛ぼうとする機体を、地面へ、滑走路へ、無理やり縫い留めるための操作だった。

 

機体は蛇行した。

 

左へ流れる。

右へ戻る。

また左へ振られる。

 

そのたびに操縦桿が暴れ、綾小路の手の中で牙を剥く。

旅客機というより、傷ついた巨大な獣だった。

腹を裂かれ、脚を壊し、それでもまだ前へ進もうとする鉄の塊。

その最後の暴走を、綾小路は両腕で、指先で、感覚だけで押さえ込んでいた。

 

「綾小路くん、左へ流れています!」

 

坂柳の声が鋭く飛ぶ。

 

「分かってる」

 

短い返答。

その声に焦りはない。

だが落ち着いているわけでもなかった。

感情を削ぎ落とし、ただ必要な判断だけを残した声だった。

 

綾小路は操縦桿をわずかに切る。

切りすぎれば横転する。

戻しが遅れれば滑走路を外れる。

この速度、この機体重量、この損傷状態で許される誤差は、ほとんど残っていない。

 

「龍園、戻しすぎるな」

「うるせえ、やってんだよ!」

 

龍園の額から汗が流れる。

悪態をつきながらも、その手は震えていない。

いや、震える暇がない。

一瞬でも遅れれば、全員まとめて火だるまだ。

 

「綾小路くん、速度まだ高いです!」

「あと少し持たせる」

「機体の方が持ちませんよ!」

「持たせるしかない」

 

そのやり取りの直後、右の翼端が滑走路を掠めた。

 

ゴッ――!!

 

鈍く、嫌な音。

金属が削れる。

破片が散る。

火の粉が尾を引いて夜の残滓のように後方へ流れていく。

 

龍園が笑う。

ほとんど凶暴な笑みだった。

 

「ハッ……!どこまで嫌がらせしてきやがる!」

 

坂柳の頬からも血の気が引いていた。

それでも視線だけは計器から外さない。

 

「右主翼の接触を確認!ですがまだ折れてはいません!」

「十分だ」

 

綾小路は低く言った。

 

十分。

本来ならとても言える状況ではない。

だが、この場ではまだ終わっていないこと自体が十分だった。

 

客室では悲鳴が上がっているだろう。

床下では須藤たちが命を削って支えている。

ここで操縦を誤れば、そのすべてが一瞬で無意味になる。

 

だから止める。

 

何があっても。

 

「龍園、右を少し緩めろ」

「今か!?」

「今だ」

 

龍園が逆噴射の出力をわずかに逃がす。

それに合わせて綾小路が機首を修正する。

坂柳が高度ではなく、今度は滑走路上の残距離と姿勢変化を読み続ける。

 

三人とも、もう勝負していなかった。

 

いや。

 

勝負している相手が変わっていた。

 

いまの敵は互いではない。

この壊れかけた機体。

吹雪。

滑走路。

そして、綾小路篤臣が用意した「ここで終わるはずの結末」そのものだった。

 

機体はなおも暴れる。

 

左主脚は半ば死んでいる。

機体底部は滑走路を擦り続けている。

制御されている事故。

それがもっともしっくりくる表現だった。

 

だが綾小路は、操縦桿を握ったまま微細な修正をやめなかった。

 

一度切る。

戻す。

踏む。

抑える。

 

常人なら恐怖で固まるような衝撃の中で、その操作だけが異様なほど正確だった。

ホワイトルームで叩き込まれたのは、万能の才能ではない。

極限下で思考を捨てず、正しい動作だけを残すための反復だ。

どれほど状況が壊れても、身体が先に答えへ辿り着くまで、

壊されながら覚え込まされた。

 

だから、ここでも手は止まらない。

 

「……まだだ」

 

綾小路が呟く。

 

「まだ止まらない」

 

その声に、龍園が歯を剥いた。

 

「止めるんだろ、綾小路!」

 

坂柳も続く。

 

「ここで終わるのはごめんです!」

 

その瞬間だった。

 

機体前方の揺れが、ほんのわずかに変わる。

制動帯だ。

 

滑走路末端に設けられた減速区域へ、壊れかけの機体が突っ込む。

足元から伝わる抵抗が急激に増し、

機体全体を前から掴んで引きずり下ろすような減速がかかる。

 

ガガガガガガガ――ッ!!

 

全身が前へ持っていかれる。

シートベルトが胸へ食い込む。

計器が震え、金属が軋み、火花が最後の怒りのように散った。

 

それでも。

 

進行は鈍る。

 

鈍る。

 

まだだ。

 

さらに鈍る。

 

綾小路は操縦桿を握ったまま、最後の最後まで機首の向きを殺さない。

ここで横を向けば終わる。

止まるその瞬間まで、機体はまだ凶器だ。

 

「綾小路くん……!」

 

坂柳の声。

 

「止まれ――――ッ!!」

 

龍園の怒号。

 

そして。

 

ようやく。

 

機体は、その巨体を停止させた。

 

静寂。

 

あまりに急に訪れた無音だった。

さっきまで世界を支配していた警告音も、軋みも、絶叫も、いまは遠い。

 

鼓膜の奥で、キーンという耳鳴りだけが残っている。

誰もすぐには動かなかった。

動けなかった、の方が正しいかもしれない。

 

生きているのか。

本当に止まったのか。

脳が現実を受け入れるまで、数秒の空白が必要だった。

 

最初に口を開いたのは、やはり綾小路だった。

 

「……龍園、生きてるか」

 

龍園が荒く息を吐く。

 

「当たり前だ……っつっても、腰が潰れそうだがな」

 

その返答に、坂柳が小さく笑った。

 

「100点満点とはいきませんが……十分、合格点ですね」

 

震える指で杖を掴み直しながら、それでも彼女はそう言った。

綾小路は前を見たまま、ようやく短く息を吐いた。

 

生還。

 

その二文字のためだけに、コックピットも、床下も、客室も、

全員がそれぞれの持てるものを使い切った。

 

そして今だけは。

 

その結果が、確かにここにあった。

 

その直後、客室側の扉が乱暴に開いた。

茶柱先生だ。

 

「全員、脱出だ!動ける者は負傷者を支えろ!急げ!」

 

その声でようやく現実が戻ってくる。

生きている。

まだ、全員が終わったわけじゃない。

 

雪の舞う新千歳空港の滑走路。

脱出シュートを通って、生徒と教職員が次々に外へ出ていく。

転びながら、泣きながら、誰かに支えられながら。

その姿はみっともないほど必死で、だからこそ生きていた。

 

須藤は真っ先に堀北のもとへ駆け寄った。

 

「鈴音!大丈夫か!?」

「ええ……私は平気。それより――」

 

堀北の視線は、まだ機体の前方を向いていた。

煤に汚れ、疲労を隠しきれない顔でコックピットから出てくる三人。

綾小路、坂柳、龍園。

 

誰も言葉を交わさなかった。

だが、ほんの一瞬だけ視線が交差する。

そこにあったのは友情でも感謝でもない。

ただ、まだ終わっていない勝負への確認だった。

 

次は学年末試験で。

そんな言葉すら要らない。

 

遠く、展望デッキの影から、その様子を見つめる男が一人いた。

 

綾小路篤臣。

 

彼は手元の端末を静かに閉じる。

 

「……清隆」

 

その声には怒りも賞賛もなかった。

あるのは観察者の冷たさだけだ。

 

「お前を救ったのは、お前自身の才能か。

それとも、他者を使う能力か。どちらにせよ、まだ結論には早い」

 

吹雪は少しずつ弱まり、厚い雲の向こうからかすかな光が差し始めていた。

修学旅行は、最悪の形で幕を開けた。

だが同時に、それはこの二年生たちの実力が、

これまでとは別の意味で試される始まりでもあった。

 

そして綾小路清隆は、誰にも聞こえないほど小さく息を吐いた。

 

生き延びた。

だが、それだけだ。

 

本当の意味での勝負は、まだこれから始まる。




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