吸血鬼になった彼女はそれでも「空っぽ」のまま日々を紡いでいくのでした。
夏の湿った空気が、地下の薄暗い石室に淀んでいました。
そこは遠野の屋敷の最奥、もっとも深い「闇」が繋ぎ止められた場所。
琥珀は、目の前に座す遠野四季(ロア)を見つめていました。
その瞳には、すでに何の光も宿っていません。
数分前まで、彼女の脳裏を占めていたはずの、鮮烈な「復讐」という名の熱。
秋葉を堕とし、屋敷を腐らせ、遠野という血脈を根絶やしにする。
そのために心臓を削り、笑顔を張り付け、地獄を這いずってきたはずの十数年。
それが、ふとした瞬間に霧散しました。
「………ああ」
琥珀の口から、掠れた吐息がこぼれます。
それは、絶望ですらありませんでした。
(…………ああ、疲れました)
ただ、それだけでした。
張り詰めていた糸が切れたとき、その音が聞こえたような気がしました。
今まで、どうしてこれほどまで必死に、自分を「人間」という形に留めておけたのか。
どうしてこれほどまで「憎む」というカロリーの高い行為を続けられたのか。
すべてが、他人事のように思えました。
復讐の果てに見たい景色も、翡翠と約束した未来も、いまや色褪せた写真のように、自分とは無関係な「誰か」の物語にしか見えません。
「どうした、操り人形。糸が絡まったか」
繋がれた「怪物」が、愉悦に満ちた声で笑います。
蛇のような瞳が、琥珀の空虚を射抜いていました。
「………ロアさん。私、もういいや、と思ってしまったんです」
琥珀は、いつもの完璧な笑顔さえ作るのを忘れて、淡々と告げました。
「人間でいるのは、重すぎました。自分を憎むのも、誰かを憎み続けるのも、もう飽きてしまった。…………何もかも、貴方に差し上げます。私の体も、この摩り切れた魂の残骸も」
彼女は、自分から檻の鉄格子の隙間に、細い首を差し出しました。
そこに恐怖はありません。
あるのは、ただ一刻も早く、この重い荷物を下ろしたいという切実な倦怠だけ。
「私を、楽にしてください。…………人でない何かに、変えてください」
「クク………、ハハハハハ! 復讐の鬼ですらなく、ただの『虚無』か。気に入った。いいだろう、お前の望み通り、その醜い命を永遠の停滞へ叩き込んでやる」
怪物の牙が、白い肌に沈みます。
激痛が走るはずの瞬間、琥珀が感じたのは、驚くほどの「冷たさ」と、肩の荷がふっと消えるような解放感でした。
ドク、ドクと、自分の「人間としての時間」が吸い出され、代わりに異質の、凍てついた血が流れ込んでくる。
意識が遠のく中、琥珀はぼんやりと思いました。
(………翡翠。ごめんなさい。………でも、ようやく、涼しくなりました)
視界が真っ赤に染まり、やがて絶対的な「ドライ」な闇へと沈んでいく。
次に目を開けたとき、琥珀の瞳はもう、いかなる光も反射しない琥珀色の硝子玉へと変わっていました。
地下の冷たい静寂の中で、吸血鬼としての新生を終えた琥珀は、身なりを整えました。
数日という時間は、彼女の肉体を人外の理へと馴染ませるのに十分なものでした。
かつて多くの命を削り取られてきた彼女の体は、皮肉にも死の魔力に対して、驚くほどの適合を見せたのです。
「………あら、随分と体が軽いのですね」
鏡もなく、光も届かぬ地下で、琥珀は自分の白い指先を眺めて独りごちました。
心臓はもう、騒がしく脈打つことをやめています。
あんなに焼けるように痛んでいた喉の奥も、今はただ凪いでいる。
彼女は、地下から地上へと続く階段を、まるで春の庭を散歩するかのような足取りで登っていきました。
屋敷の廊下には、夕暮れの陽光が差し込んでいました。
翡翠が、行方のわからなくなった姉を探して、今にも泣き出しそうな顔で佇んでいます。
「お姉ちゃん………? お姉ちゃん、どこに………」
その震える声に、琥珀は背後から迷いなく声をかけました。
「お待たせしました、翡翠。少し、地下の整理に手間取ってしまいまして」
翡翠が、弾かれたように振り返ります。
そこに立っていたのは、数日前と何も変わらない、割烹着姿の姉でした。
柔らかな笑みを浮かべ、少しだけ首を傾げて自分を見つめる、いつもの琥珀。
しかし、翡翠の足が止まりました。
何かが、決定的に違います。
「お姉ちゃん………?」
翡翠は、姉に歩み寄ろうとして、無意識に一歩、後退りしていました。
琥珀の肌は、透き通るように白く、そして完璧でした。
今まであったはずの、微かな生活の疲れや復讐の毒が、綺麗さっぱり洗い流されている。
何より、その瞳です。
琥珀色のその瞳は、翡翠を映しているはずなのに、どこまでも遠く、何も見ていない。
「どうしたのですか、翡翠。そんなに怯えた顔をして。………ああ、そうか。少しだけ、私の『気配』が変わってしまったからでしょうか」
琥珀は、まるで「新しい香水に変えた」と言わんばかりの、あまりにドライで軽やかな口調で続けました。
「私、人間を辞めたんですよ。………ふふ、驚きましたか? でも、とっても楽なんです。もう、何も考えなくていいのですから」
翡翠は、言葉を失いました。
目の前の姉が放つのは、この世の生物ではない「死」の気配。
本来なら叫び声を上げ、逃げ出すべき異形。
けれど、琥珀は、かつてないほど穏やかに微笑んでいるのです。
「お姉ちゃん………どうして、そんな………」
「理由、ですか。………いえ、これといって特別なものはありません。ただ、もういいかな、と思っただけです。あの、ロアさんと仰る方に少しだけお手伝いをしていただきましたけれど」
琥珀は、翡翠の頬に手を伸ばしました。
その指先が触れた瞬間、翡翠はあまりの冷たさに肩を震わせます。
それは氷の塊のような、絶対的な無機質の冷気。
「………あ。翡翠、そんなに泣かないでください。私が吸血鬼になっても、貴方の夕食を作ることに変わりはありませんし、お掃除も、お茶の準備も、以前より効率よくこなせるはずです」
琥珀は、泣き崩れる翡翠を冷たい腕で抱きしめ、規則正しくその背中を叩きました。
そこには慰めも、共感もありません。
ただ、与えられたタスクをこなす機械のような、完璧で、空虚な優しさがあるだけでした。
「大丈夫ですよ、翡翠。人間であることは、貴方に譲りましたから。…………さあ、夕食にしましょう。今日は、何を作りましょうか?」
茜色の夕陽が廊下に落ちる中、二人の影は長く伸びて重なります。
翡翠の絶望さえもドライに受け流し、琥珀はただ、停滞の始まりを告げる笑顔を浮かべていました。
琥珀が「人」でなくなってからの数年間、翡翠の生活は、姉が捨て去った琥珀という人間の虚像を繋ぎ止めるための、孤独な戦いとなりました。
琥珀本人は、自分が吸血鬼であることを見隠しする気すらありません。
彼女にとって、正体が露見して殺されることも、屋敷を追い出されることも、明日の天気が変わるのと同じくらいの些細な事象に過ぎないからです。
偽りの体温、凍てついた食卓
ある冬の朝、遠野志貴が食卓に現れたとき、翡翠は背中に冷たい汗が流れるのを感じていました。
「………あれ、琥珀さん。なんだか今日、顔色が白すぎない? 体調でも悪いんじゃ………」
志貴が何気なく、琥珀の手に触れようと伸ばしたその瞬間。
給仕をしていた翡翠は、割り込むようにして志貴の湯呑みに茶を注ぎました。
「失礼いたします、志貴様。お姉ちゃんは先ほどまで火の傍におりましたから、少しのぼせてしまっているのです。お姉ちゃん、一度奥で冷たい水でも浴びてきてください」
翡翠の必死な声音に対し、琥珀は淡々と、けれど完璧な笑顔で応えます。
「あら、そうでしたか? 私、自分ではちっとも気づきませんでした。………では翡翠、後をお願いしますね」
琥珀が去った後、翡翠は志貴の疑念を逸らすために、不慣れな世間話を必死に紡ぎます。
琥珀の肌は、もはや雪よりも冷たい。
もし志貴が彼女に触れれば、そこに脈動がないことも、生きている人間の弾力がないことも、瞬時に悟られてしまうでしょう。
隠蔽という名の献身
翡翠の日課は、琥珀を「人間に見せる」ための細工で埋め尽くされました。
化粧をしました。
琥珀の血色のない肌に、紅を指し、白粉を叩くのは翡翠の仕事です。
死人のように美しい姉の顔に、「生」の色を塗り付ける作業。
食事の始末もつけました。
琥珀の前に並べられた食事は、誰も見ていない隙に翡翠が自分の胃に収めるか、あるいは処分します。
「美味しいですね」と微笑みながら、琥珀が一口も飲み込まないことを、翡翠だけが知っています。
血の供給源になりました。
琥珀が時折見せる、吸血鬼としての乾き。
翡翠は自らの腕を差し出し、その傷跡を深い袖の中に隠し通します。
翡翠が震える指で衣服を整えても、琥珀は他人事のように「おや、おや」と笑うだけです。
「翡翠は、本当にマメな子ですね。そんなに頑張らなくても、バレてしまえばそれまでなのに。………でも、貴方がそうしたいと言うのなら、人形にでも何にでもなりましょう」
壊れていく妹、凪いでいく姉
琥珀がドライになればなるほど、翡翠の精神は摩耗していきます。
翡翠が守ろうとしているのは、姉の命ではなく、「姉が自分に譲ってくれた、普通という名の聖域」。
琥珀が吸血鬼であることを認めてしまえば、あの地獄のような日々の中で琥珀が守り抜いた「翡翠の普通」までもが、すべて嘘になってしまう気がしたのです。
夜、冷え切った琥珀の体を寝室で抱きしめながら、翡翠は囁きます。
「………大丈夫です、お姉ちゃん。まだ、誰も気づいていません。志貴様も、秋葉様も。………お姉ちゃんは、まだ私の、自慢の人間のお姉ちゃんです」
琥珀は、翡翠の涙で濡れた肩を、一定のリズムで叩きます。
その瞳は、暗闇の中でも琥珀色に透き通り、ただ天井の一点を見つめていました。
「ええ、翡翠。貴方がそう言うのなら、きっとそうなのでしょう」
それは、世界でもっとも静かで、救いのない嘘の積み重ねでした。
長い月日が経ち
それは、あまりに唐突で、けれど予感に満ちた静かな午後でした。
季節は夏。
屋敷を包む蝉時雨は、数十年前と変わらぬ狂おしき調べを奏でています。
翡翠の髪には白いものが混じり、その手には歳月相応の皺が刻まれていました。
対して、隣に立つ琥珀は、あの日地下から戻ってきた時のまま、時を止めた硝子の細工物のように美しく、そして冷たいままでした。
数十年、この閉ざされた檻の中で、翡翠は姉の代わりに「人間」を演じ、琥珀はただその傍らで「無」を演じ続けてきました。
「………翡翠」
お茶を淹れていた琥珀の手が、ふと止まりました。
その声に、翡翠の心臓が小さく跳ねます。
ただの給仕のマニュアルではない、どこか遠い記憶の底から響くような、柔らかな輪郭を持った声。
「はい、姉さん。何でしょうか」
琥珀は窓の外、暴力的なまでに降り注ぐ陽光に目を細めました。
吸血鬼である彼女が、これほどまでに真っ直ぐ光を見つめるのは、あの変異の日以来、初めてのことでした。
「整理が、ついたんです」
琥珀が静かに微笑みました。
それは、数十年かけて内面の瓦礫を一つ一つ拾い集め、洗い流し、最後に残った純粋な欠片を、ようやく自分のものとして受け入れた者の顔でした。
「憎しみも、痛みも。自分が何者であったかも。………翡翠、貴方が私に与えてくれたこの永すぎる停滞の時間の中で、ようやく私は、琥珀(わたし)に戻ることができました」
翡翠の目から、一筋の涙がこぼれました。
殺せなかったあの日。冷たくなった姉を受け入れたあの日。そのすべてが、この瞬間のためにあったのだと悟ったからです。
「………ずいぶんと、長くかかってしまいましたね」
「ええ。本当に。………でも、おかげで今は、とても晴れやかな気分なのです」
琥珀は立ち上がり、翡翠の方へと歩み寄りました。
その動作に、かつてのような機械的な効率の良さはありません。
どこか危うく、けれど確かな意志を持った、一人の女性の足取りでした。
「翡翠。最期に一つだけ、私の我儘を聞いてくれませんか」
翡翠はその手を、冷たく、けれど愛おしいその手を、両手で包み込むように握りしめました。
「何でも、おっしゃってください。………それが、私たちがずっと待っていたことなのですから」
琥珀は、翡翠の目を見つめ返しました。
硝子玉のようだったその瞳に、かつて遠野の屋敷の地獄の中で、翡翠を逃がすために自分を差し出した時の、あの痛切で深い慈愛が、陽炎のように揺らめいていました。
「向日葵を………見に行きましょう。太陽の下で、あの黄色い花を。貴方がずっと守ってくれた、この世界の眩しさを。………それを最後に見て、私は、私の終わりを迎えたいのです」
「………はい」
翡翠は、短く答えました。
その声に迷いはありません。
姉から譲られた「普通」という名の重荷。
それを今日、この瞬間に、姉と共に太陽の下へ返却しに行く。
それは悲劇ではなく、二人が数十年かけて辿り着いた、唯一の、そして最高の救済でした。
「準備をしましょう。………姉さんに一番似合う、白いリボンの準備を」
琥珀は、子供のように嬉しそうに頷きました。
二人は手を取り合い、一歩、また一歩と、灼熱の光が溢れる縁側へと向かいます。
外では、向日葵たちが背筋を伸ばし、最期の客人を迎えるために、黄金色の首を掲げて待っていました。
夏の終わりを告げるような、静かな夜でした。
昼間の暴力的なまでの陽光は去り、庭にはただ、主を失った向日葵たちが夜露に濡れて、黒いシルエットを横たえています。縁側には、主人のいなくなった白いリボンがひとつだけ、風に揺れていました。
屋敷の中は、恐ろしいほどに静まり返っています。
数十年間、翡翠が必死に守り、偽り続けてきた「日常」は、琥珀が光の中に溶けて消えたその瞬間に、役目を終えて崩れ去りました。
翡翠は一人、台所に立っていました。
もう、誰も食べるはずのない食事を、琥珀がいつもしていたように丁寧に、一品ずつ皿に盛り付けていきます。
「………今日は、姉さんの好きな、炊き込みご飯ですよ」
翡翠の声は、不思議なほど凪いでいました。
食卓を整え、二つの湯呑みに茶を注ぎます。
琥珀が吸血鬼になってから、ずっと形骸化していたこの儀式。
けれど、今夜の翡翠には、向かい側の席に、ドライな虚無ではない誰かの気配がはっきりと感じられました。
ふわりと、夜風がカーテンを揺らします。
そこにいたのは、吸血鬼の怪物でもなく、偽りの笑顔を張り付けた家女房でもなく、整理のつかない感情に押し潰されそうになっていた復讐鬼でもありません。
ただ、整理を終え、すべての重荷を下ろして、ようやく「ただいま」と言える場所へ帰ってきた、一人の、不器用で優しいお姉ちゃん。
翡翠の視界が、急に歪みました。
堪えていたものが、温かな滴となって頬を伝い、食卓にポツリ、ポツリと模様を作ります。
数十年。
本当に、長すぎる数十年でした。
姉を失い、姉の残骸を世話し、姉の魂が戻ってくるのを、たった一人で「人間」という檻の中で待ち続けてきた時間。
翡翠は、溢れ出す涙を拭うこともせず、けれどその口元には、かつて琥珀が何よりも守りたかった、あの陽だまりのような無垢な微笑みを湛えていました。
「おかえりなさい………、お姉ちゃん」
その言葉は、静かな夜の闇に溶けていきました。
もう、冷たい肌を隠すための白粉も、触れるのを躊躇うほどの冷気も、ここにはありません。
翡翠の心の中に、そして譲られたこの「普通の世界」の中に、琥珀はたしかに、一人の人間として帰ってきたのです。
泣きながら、けれど最高に幸せそうに笑う翡翠の姿を、夜風だけが優しく見守っていました。
あとがき
旧作月姫を題材にした琥珀の話になります。
あまり明るい話ではないけど琥珀なら有りえるかなと思い書いてみました。