武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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喰らえ、これが悠仁との修行で編み出した新たな技……!!

 

 

 

 羂索は薨星宮へ向かっていた。

 

 その足取りに迷いはない。侵入経路、結界の綻び、忌庫から薨星宮へ至る昇降機の位置、その全てを既に把握しているからだ。千年という時間を生き延びる中で、羂索は幾度となく高専へ潜り込み、術式、結界、忌庫、星漿体、天元——呪術界の根幹を成す情報を少しずつ積み上げてきた。

 

 渋谷事変による崩壊は、その積み重ねへ最後の一押しを与えたに過ぎない。

 

 1,000万にも及ぶ呪霊の解放。

 

 死滅回游の開始。

 

 日本全土を巨大な呪力循環装置へ変える為の儀式。

 

 それによって高専側の戦力は完全に分散し、護衛に割ける術師の数も著しく減少していた。羂索にとって今の高専は、既に堅牢な要塞ではなく、内部構造を知り尽くした廃墟同然だった。

 

 忌庫へ侵入する。

 

 薄暗い通路には古びた呪具が並び、積み重なった呪物が不気味な気配を放っている。だが羂索は視線すら向けない。目的は最初から一つだけだった。

 

 昇降機。

 

 薨星宮へ繋がる隠された縦穴。

 

 羂索は静かに乗り込み、軋む音を立てながら下降していく箱の中で目を閉じる。

 

 天元。

 

 日本全土へ結界を張り巡らせる存在。

 

 そして自らの計画に必要不可欠な核。

 

 (本来ならもう少し時間を掛けたかったんだけどね……)

 

 羂索は薄く笑う。

 

 想定より早い宿儺の完全受肉。虎杖悠仁という想定外の怪物。九十九由基や乙骨憂太といった特級術師達の存在。それら全てが計画を少しずつ前倒しにしている。

 

 だが止める気はない。

 

 千年積み上げた執念は、今更多少の誤差で揺らぐ程軽くはなかった。

 

 やがて昇降機が停止する。

 

 扉が開く。

 

 その先には、天元が座す御所へ続く空間が広がっていた。

 

 静寂。

 

 空気そのものが外界とは異なっている。幾重にも重なった結界が空間を歪め、距離感覚すら曖昧にしていた。普通の術師であれば、ここへ足を踏み入れた時点で方向感覚を狂わされ、永遠に同じ場所を彷徨う事になる。

 

 だが羂索は歩みを止めない。

 

 結界を見ている。

 

 呪力の流れ。

 

 循環。

 

 術式の癖。

 

 千年を生きた呪術師の眼には、それら全てが“見えて”いた。

 

 「ふむ……相変わらず慎重だ」

 

 羂索は指先で空間を撫でる。

 

 瞬間、目に見えない膜へ亀裂が走った。

 

 結界解除。

 

 拒絶の機能が書き換えられ、羂索を“侵入者”として認識しなくなる。あまりにも自然な侵入。まるで最初から通行を許可されていたかのように、羂索は御所内部へ踏み込んだ。

 

 そして——三人の男が立っていた。

 

 脹相。

 

 壊相。

 

 血塗。

 

 虎杖悠仁の兄達である。

 

 三者とも既に構えていた。脹相の両腕には血が巡り、壊相の背中からは毒を含んだ血液が滴り、血塗は今にも飛び出しそうな姿勢で羂索を睨み付けている。

 

 羂索は笑った。

 

 「やぁ、天元はどこかな?」

 

 「知っていても教えん、加茂憲倫」

 

 脹相の声は低い。

 

 そこに宿る憎悪は、もはや言葉では説明できない程深かった。

 

 「私達の母の憎しみ、弟達の憎しみを晴らす」

 

 壊相が唸るように言う。

 

 皮膚の下で血が蠢いていた。

 

 「殺す!」

 

 血塗が叫ぶ。

 

 幼さの残る声だったが、そこに込められた殺意だけは本物だった。

 

 「ふふふ、随分物騒だね……私は天元に用があるんだ。通してくれるかな?」

 

 羂索は肩を竦める。

 

 まるで近所へ散歩に来たかのような気軽さだった。

 

 「あの喋る親指はお前に会いたくないそうだ、貴様は嫌われ者だな」

 

 脹相が吐き捨てる。

 

 その瞬間、羂索の笑みが僅かに薄くなった。

 

 「……そういう君達は使い捨ての前座というわけだ。まぁ……精々踏ん張りなよ」

 

 羂索が構える。

 

 呪力が空間へ滲み出る。

 

 御所内部の空気が一気に重くなり、床へ黒い影が広がっていく。呪霊操術。その準備動作だけで周囲の温度が下がり、粘つくような悪意が薨星宮を満たした。

 

 そして羂索は、わざとらしく薄ら笑いを浮かべながら言う。

 

 「両面宿儺は完全に復活し、死滅回游も殆どが……役割を終えたと言ってもいい」

 

 「……!」

 

 脹相の目が見開く。

 

 「復活?」

 

 壊相の肩が揺れた。

 

 「マジかよ」

 

 血塗が口を半開きにして固まる。

 

 だが脹相だけは、すぐに思考を巡らせていた。

 

 (両面宿儺が復活だと?悠仁が死んだのか……!?)

 

 一瞬、脳裏に最悪の想像が過る。

 

 だが即座に否定した。

 

 (いや、悠仁が負けるわけがない。ハッタリだ。悠仁が死ぬはずがない)

 

 脹相の中には確信があった。

 

 血ではない。

 

 術式でもない。

 

 もっと根源的な“繋がり”として、脹相は虎杖悠仁を兄弟だと認識している。

 

 (死んだら分かる。兄弟だから)

 

 羂索は揺さぶっているだけだ。

 

 脹相はゆっくりと顔を上げる。

 

 その瞳に、もう迷いは存在しなかった。

 

 「貴様の言葉など信用せん」

 

 血が滲み出る。

 

 脹相の掌から溢れた血液が螺旋を描きながら圧縮されていく。百斂。血を極限まで圧縮し、次の技へ繋げる赤血操術の起点。

 

 圧縮。

 

 収束。

 

 血液が悲鳴を上げるように震え始める。

 

 羂索はその様子を見ながら、楽しげに目を細めた。

 

 「そうだろうね」

 

 次の瞬間、呪霊が溢れ出し空間が軋む。

 

 薨星宮の静寂が、完全に破られた。重く沈んでいた空気が裂け、影の底から滲み出るように無数の気配が広がっていく。低級の呪霊達が群れとなって床を這い、天井へ張り付き、肉と骨を擦り合わせながら羂索の周囲を埋め尽くしていくその光景は、まるで巨大な闇そのものが生命を得て脈動しているようだった。腐臭混じりの吐息が空間へ充満し、湿った呪力が薨星宮の空気を侵食していく。神聖性すら帯びていた結界内部の静けさは既に消え失せ、今やそこには“呪い”だけが満ちていた。

 

 「いくぞ!!!兄弟(ブラザー)!!!」

 

 「おう!」

 

 「あいよぅ!」

 

 三人が同時に踏み込む。

 

 脹相が正面。

 

 壊相が上空。

 

 血塗が地を滑るように低く走る。

 

 互いの位置を瞬時に把握し、間合いを分割しながら羂索を囲い込み、逃げ場そのものを削り取っていく。その動きには一切の迷いが存在しなかった。血の繋がりによって形成された連携は、もはや会話や合図を必要としていない。誰が前へ出るか、どこで隙を潰すか、どの瞬間に攻撃を重ねるか、その全てが呼吸をするように共有されていた。

 

 脹相。

 

 術式『赤血操術』。

 

 加茂家相伝として現代まで受け継がれてきた血液操作術式の完成形であり、血液を媒体とする事で流動、圧縮、硬化、加速、凝固といった多様な変化を引き起こす。特に百斂は血液を極限まで圧縮し、呪力によって無理矢理収束させる事で威力を飛躍的に高める工程であり、その先にある『穿血』は、発射直後の初速だけで言えば呪術界屈指の貫通性能を誇っていた。

 

 脹相は掌を重ねる。

 

 その瞬間、腕の内側から赤黒い血液が滲み出し、掌の中央へ集束し始める。血液は高速回転しながら圧縮され、空気そのものを軋ませていた。キィィィ……という耳障りな高音が周囲へ響き、圧縮密度の増大に伴って空間すら微かに歪んで見える。

 

 同時に壊相が動く。

 

 背中から噴き出した血液が巨大な翼へ変貌し、そのまま上空へ舞い上がった。広げられた血の羽は薄く鋭く形成されており、単なる飛行補助ではない。羽ばたく度に刃のような血液片を周囲へ撒き散らし、触れた対象を切断する攻防一体の武装として機能している。

 

 そして血塗。

 

 幼い外見とは裏腹に、その動きは異様な程素早かった。床へ血液を撒き散らしながら低姿勢で走り、薨星宮の地面を赤黒く染め上げていく。撒かれた血液は呪力によって粘性を変化させ、ただの液体ではなく“罠”として機能し始めていた。踏み込めば絡みつき、動けば沈み込む。ほんの僅かな足運びの乱れすら拘束へ変換する、地形制圧型の術式運用だった。

 

 三方向。

 

 空、地、正面。

 

 逃げ場はない。

 

 (連携は厄介だね。ただその血は親の私には効かない)

 

 羂索は冷静に状況を分析していた。

 

 赤血操術は毒としても機能する。だがその毒性は術者自身の性質に依存している以上、血縁である羂索に対して決定打にはなり得ない。問題はそこではなかった。脹相達の厄介さは、血そのものではなく、その連携精度と手数の多さにある。だが羂索は動きながらも脹相の構えに気づく。

 

 (ん?私の知ってる百斂と構えが少し違う……)

 

 羂索は脹相の構えを見て感じた。

 

 百斂とは両手を合わせ、手の中で血を圧縮する技である。

 

 両手を合わせながら前に突き出すような構えで行われる百斂は、そのまま穿血に繋がれる起点となる。

 

 しかし、羂索の見た脹相の百斂は少し違った。

 

 (あれは合掌か?掌印を結んでいるのか?)

 

 そして次の瞬間、脹相が踏み込み呟く。

 

 「穿血」

 

 脹相が両掌を突き出す。

 

 瞬間、圧縮されていた血液が解放された。

 

 爆音が鳴る。

 

 空気を裂きながら赤い閃光が一直線に走る。発射直後に最高速へ到達する穿血は、軌道上の空気を強引に押し退けながら羂索の眉間へ突き進んだ。速度だけなら、一級術師であっても反応そのものが間に合わない。

 

 (速い!!!凄まじいスピードだ!私の知る穿血とは違う!)

 

 羂索は一時期加茂憲倫として加茂家当主だった頃がある。赤血操術は既知のものであり、対処するには容易いと思っていたが——

 

 羂索は半身をズラして穿血を避ける。だが避け切れず頬の皮膚が切り裂かれた。

 

 皮膚が裂け、血が飛ぶ。だがしかし羂索は止まらない。背後へ抜けた穿血は軌道を変えて羂索の背後に回る。

 

 (やはり)

 

 羂索は背後に低級呪霊を出現させ穿血を防いだ。そしてそのまま目の前に迫る壊相へ拳を打ち込む。

 

 呪力によって強化された拳圧だけで空気が爆ぜた。壊相は真正面から受けず、血翼を羽ばたかせながら身体を横へ滑らせる。だが避け切れない。拳が頬を掠めた瞬間、皮膚が裂け、血飛沫が空中へ散った。

 

 それでも壊相は止まらない。

 

 背後へ回り込みながら巨大な血翼を振るう。薄く形成された血液の羽根が高速回転し、鋸のような唸りを上げながら羂索の首筋へ迫った。だが羂索は振り返りすらしない。影から噴き出した低級呪霊が盾となって前へ割り込み、血翼によって肉塊へ変わりながらも攻撃の軌道を逸らしていく。

 

 その隙に、血塗が滑り込む。

 

 小柄な身体を極限まで低く沈め、床へ撒いていた血液の上を滑走するように加速しながら、羂索の支脚へ向け蹴りを放った。単純な威力ではない。狙いは体勢崩し。床一帯へ広がっていた粘性血液が羂索の足裏へ絡み付き、僅かに重心を狂わせた瞬間を狙った一撃だった。

 

 「チッ」

 

 羂索は舌打ちと共に脚を振り抜く。

 

 血塗の蹴りと羂索の脛が衝突し、鈍い音が響いた。小柄な血塗の身体が浮き上がる。だが吹き飛ばされながらも血塗は笑っていた。

 

 「捕まえたぜ」

 

 その瞬間、床へ撒かれていた血液が一斉に脈動する。

 

 赤黒い液体が生き物のように蠢き、羂索の足首へ絡み付いた。粘性を増した血液は床石へ吸着しながら羂索の動きを拘束し、僅かとはいえその場へ縫い止める。

 

 そして——その一瞬を、脹相は逃さない。

 

 再び掌が重なる。

 

 空気が軋む。

 

 先程よりも更に鋭く、重く、圧縮された呪力が掌の中央へ収束し始めた。

 

 

 脹相、壊相、血塗は渋谷で虎杖悠仁と出会い、数日を共に過ごした。

 

 渋谷に蔓延った呪霊を祓いながら、虎杖悠仁と共に修行をし、切磋琢磨し合った。

 

 だがしかし、それは数日という生易しい日数ではない。

 

 虎杖悠仁と呪胎九相図は血の繋がった兄弟であり、血の繋がりは新たな記憶——いや存在しない記憶を生み出す。

 

 虎杖悠仁との修行で座禅を組んだ際、四人の中に存在しない記憶が駆け巡った。それは兄弟で仲良く、あり得なかった時間を過ごすものであった。

 

 山を駆けた。

 

 滝へ打たれた。

 

 雪の降る中、裸足で立ちながら呼吸を整え、凍える指先で掌を突き出し続けた。

 

 夜が明けるまで座禅を組み、呼吸を巡らせ、経絡を流れる“流れ”を感じ取り、何度も失敗し、血を吐き、それでも四人で笑いながら修行を続けた。

 

 脹相は覚えている。

 

 虎杖悠仁が言っていた。

 

 “力ってのは流すもんだ”

 

 “止めたら駄目だ”

 

 “流れて、巡って、圧縮されて、爆発する”

 

 その言葉を、脹相は呪術として理解した。

 

 赤血操術。

 

 血を操る術。

 

 ならば血流もまた“流れ”であり、循環であり、圧縮によって更なる力へ到達できる。

 

 そして——その時間の中での修行、凡そ十年。

 

 脹相が合掌を結ぶ。

 

 それは通常百斂の動作ではなく、掌印という動作を取り入れた虎杖悠仁が扱う武術の要素だった。両掌を重ね合わせる事で呪力の循環効率を高め、経絡を通る流れを一点へ集中させる。如来神掌の理を、赤血操術へ無理矢理落とし込んだ異端の技術。

 

 脹相が踏み込む。

 

 羂索は血塗の血液によって拘束され身動きが取れない。

 

 床一帯へ広がっていた粘性血液が足首へ絡み付き、呪力によって硬化しながら羂索の重心制御を奪っていた。無論、この程度で千年を生きた術師を完全に封じられる筈がない。羂索の脚部には既に呪力が集まり始めている。筋肉が膨張し、呪力による強化で拘束を引き千切ろうとしていた。

 

 だが、ものの数秒で拘束を脱するだろう。

 

 しかし、数秒で十分だった。

 

 脹相の掌の中で血液が圧縮される。

 

 螺旋を描きながら圧縮される血液の量は凡そ10ml。

 

 少ない。

 

 通常の百斂より遥かに少ない。

 

 だが、その極小の血液へ注ぎ込まれている呪力密度が異常だった。圧縮、収束、循環、その全てを極限まで繰り返された血液は、小さな球体となりながら甲高い音を鳴り響かせている。

 

 キィィィィィ——ッ。

 

 耳障りな高音が薨星宮へ反響する。

 

 空間が軋む。

 

 周囲の空気が引き寄せられ、床石の破片や呪霊の肉片までもが掌の中央へ吸い込まれていく。圧縮された血液は黒ずみ始めていた。赤ではない。光すら呑み込むような黒。

 

 羂索の顔から笑みが消える。

 

 直感していた。

 

 危険。

 

 あれは赤血操術ではない。

 

 少なくとも、自分の知る加茂家相伝の技術体系には存在しない。

 

 「喰らえ、これが悠仁との修行で編み出した新たな技……!!」

 

 脹相が羂索に近づく。

 

 距離が消える。

 

 血塗の拘束によって僅かに止められた、その一瞬を利用した踏み込みは異様な程滑らかだった。無駄がない。虎杖悠仁と積み重ねた十年の修行、その呼吸法と体重移動を取り込んだ脹相の肉体は、既に単なる後衛術師のものではなかった。

 

 羂索は拘束を引き千切る。

 

 筋肉が膨れ上がり、床ごと血液を砕きながら脚を動かす。だが遅い。脹相は既に間合いへ入っている。

 

 羂索は咄嗟に呪霊を前面へ放とうとする。

 

 しかし——

 

 壊相の血翼が空間を埋めた。

 

 無数の血液刃が呪霊の出現位置へ突き刺さり、肉塊を切り裂きながら術式展開を妨害する。そこへ更に血塗が滑り込み、羂索の支脚へ再度血液を絡み付かせた。

 

 完全な連携。

 

 三兄弟が作り出した、たった一瞬の“停止”。

 

 脹相の掌が羂索の胴体へ触れる。

 

 瞬間——羂索の背筋に、本能的な恐怖が走った。

 

 「『特異点』」

 

 脹相の掌の上に乗っていたものが羂索の服に触れた。

 

 掌の上にあるもの、それは黒い球体だった。

 

 僅か10mlの血液。

 

 その極小の血液へ、百斂による極限圧縮と掌印による呪力循環制御を重ね合わせた結果、生み出された異常現象。球体は静止しているように見えながら、その実、内部では凄まじい速度で回転と圧縮を繰り返していた。光すら歪み、周囲の景色が捻れて見える。まるで空間そのものへ穴が空いているようだった。

 

 まず羂索の服が回転しながら巻き込まれていく。

 

 布地が捻れる。

 

 裂けるのではない。

 

 千切れるのでもない。

 

 黒い球体へ触れた瞬間、繊維そのものが螺旋状に引き伸ばされながら圧縮され、存在を削り取られるように消失していく。吸引ではない。もっと根本的な、“落下”に近い現象だった。

 

 (退がれないっ!?)

 

 羂索は即座に血の拘束を破壊する。

 

 呪力を脚部へ集中させ、筋肉を膨張させながら床ごと粘性血液を砕き飛ばした。だが飛び退こうとした瞬間、その身体が強引に引き戻される。

 

 黒い球体から猛烈な吸引が発生していた。

 

 空気が流れる。

 

 呪霊の肉片が吸い込まれる。

 

 床石が砕けながら浮き上がる。

 

 薨星宮内部に存在するあらゆる物質が、重力そのものを書き換えられたように黒点へ引き寄せられていく。

 

 特異点。

 

 それは脹相が新たに編み出した技。

 

 合掌を伴う百斂によって極限まで圧縮された血液が転じたものである。

 

 あらゆる物質は極限まで圧縮されると特異点となる。それは宇宙で星が超新星爆発を起こした後に産まれるもの——

 

 圧縮。

 

 収束。

 

 循環。

 

 虎杖悠仁との修行で学んだ“流れ”の概念を赤血操術へ組み込み、血液という物質を限界を超えて一点へ収束させた結果、脹相は擬似的な重力崩壊を引き起こしていた。

 

 「ッ!!!」

 

 羂索の胴体部分も服が消え、皮膚に到達する。

 

 皮膚が捩れる。

 

 血が噴き出す。

 

 腹部の肉が渦を巻きながら抉り取られ、筋繊維ごと黒い球体へ飲み込まれていく。反転術式による再生が始まるより早く、削られた肉体が消失していくその感覚に、羂索の脳へ激痛が突き刺さった。

 

 ただの破壊ではない。

 

 質量そのものを奪われている。

 

 肉が千切れているのではなく、“落ちている”。

 

 「グッ……!!」

 

 羂索は歯を食い縛る。

 

 千年を生きた術師として数多の術式を見てきた。概念干渉も、必中必殺も、空間断裂も知っている。だが目の前の現象は、そのどれとも違った。

 

 単純な高火力ではない。

 

 理屈そのものが危険だった。

 

 この黒点は一度成立した時点で周囲を際限なく巻き込み続ける。小さいから成立しているだけで、もし圧縮密度が更に増していたなら、薨星宮そのものが崩壊していた可能性すらある。

 

 (危険だ……!これは放置していい術式じゃない!!)

 

 羂索はすぐさま手を振るった。

 

 背後に巨大な呪霊を出現させる。

 

 裂け目のように開いた影の中から這い出してきたのは、巨大な甲殻を持つ特級呪霊だった。幾重にも重なった腕が地面を叩き、数珠のように並んだ眼球が一斉に脹相を見据える。呪力総量だけなら一級術師を遥かに超える怪物。

 

 だが羂索の狙いは攻撃ではない。

 

 盾。

 

 質量そのものを黒点へ喰わせる為の壁だった。

 

 「喰えッ!!」

 

 羂索が叫ぶ。

 

 特級呪霊が咆哮を上げながら前へ割り込む。

 

 瞬間、その巨体が歪んだ。

 

 甲殻が捻れる。

 

 腕が千切れる。

 

 巨大な肉体そのものが重力へ捕らえられ、螺旋状に圧縮されながら黒い球体へ吸い込まれていく。絶叫が響く。肉が裂ける音と骨が潰れる音が混ざり合い、薨星宮全体を震わせた。

 

 だが——その一瞬で十分だった。

 

 羂索は後方へ飛ぶ。

 

 腹部の肉を抉られながらも、強引に距離を引き離し、反転術式を全力で回転させる。裂けた皮膚が繋がる。抉れた筋肉が蠢きながら再生し、露出していた内臓が肉に覆われていく。

 

 しかし、完全には治らない。

 

 傷口の周囲だけ、再生が遅れている。

 

 まるで術式そのものが削り取られたような感覚。

 

 羂索は腹部を押さえながら、初めて明確な警戒を込めた目で脹相を見た。




九十九「それはヤバいよ」


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