武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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いやいや!ブラックホール投げれるの!?

 

 

 

 

 (まさかここまでとはね)

 

 羂索は三兄弟から距離を取り、思案する。

 

 薨星宮の床を削りながら後退した羂索の足元には、先程まで空間を埋め尽くしていた呪霊達の残骸が夥しく散乱していた。捻じ潰された肉塊、内側へ巻き込まれるように圧壊した頭蓋、重力に押し潰されたように平たく変形した骨格。そのどれもが単純な破壊では説明のつかない壊れ方をしている。まるで“世界そのもの”に噛み砕かれたような死骸だった。

 

 腹部の損傷は反転術式で完治した。

 

 裂けた筋肉も、抉れた内臓も、千切れかけていた神経も既に繋がっている。夏油傑の肉体は元々頑丈であり、そこへ羂索自身の反転術式が加われば、通常の損傷程度なら数秒で修復可能だった。

 

 だが、それでも違和感が残る。

 

 腹部を撫でる指先へ、鈍く軋むような痛みが残留していた。

 

 それは肉体的損傷だけではない。

 

 “落ちた”。

 

 そんな感覚だった。

 

 自身の存在の一部が、あの黒い点へ強引に引き摺り込まれたような、生理的嫌悪感を伴う異常な痛み。

 

 千年を生き、幾度となく死線を潜り抜け、肉体を替えながら呪術を積み重ねてきた羂索にとっても、今の感覚は初体験だった。

 

 (あの特殊な百斂による極限の圧縮……いやいや、理論上は可能かもしれないけど、実際やるのは常軌を逸してるよ)

 

 羂索の脳内で術式理論が高速で組み上がっていく。

 

 赤血操術。

 

 加茂家相伝として現代まで受け継がれてきた血液操作術式。血液を自在に操る事で多様な攻防を可能とする優秀な術式ではあるが、その本質はあくまで“血液操作”に過ぎない。圧縮、加速、硬化、それらは全て血という物質を効率よく扱う為の工程であり、術式そのものが物理法則へ干渉するわけではない。

 

 だが脹相の百斂は違った。

 

 単なる圧縮ではない。

 

 圧縮のその先。

 

 物質の密度を限界まで高め、性質そのものを変質させている。

 

 しかも厄介なのは、あれが偶発的現象ではなく、脹相自身の理解によって成立している点だった。掌印による呪力循環制御、血液量の最適化、圧縮率の安定化、崩壊寸前での維持。その全てを理解した上で、脹相は術式として成立させている。

 

 つまり再現可能。

 

 それが危険だった。

 

 特異点。

 

 それは脹相が考えたオリジナルの技。

 

 九相図として高専で眠っていた150年の間に己の術式と向き合っていた賜物でもある。しかし虎杖悠仁がいなければ想像もできなかった技だった。

 

 存在しない記憶。

 

 兄弟達へ流れ込んだ、あり得なかった十年。

 

 共に飯を食い、共に鍛錬し、共に座禅を組み、共に笑いながら過ごした幻の時間。その中で脹相達は虎杖悠仁の武を見た。

 

 “流れ”。

 

 肉体、呪力、呼吸、循環。

 

 全てを一つの流れとして捉える虎杖悠仁の感覚を、脹相は赤血操術へ落とし込んだ。

 

 血を流し。

 

 血を巡らせ。

 

 血を圧縮し。

 

 術式を単なる加茂家相伝としてではなく、“武術”として再構築した。

 

 その果てが——特異点。

 

 「血で小さなブラックホールを作るなんてね、すごいね。失敗作がこんなに強くなれるものなのか」

 

 羂索は腹を摩りながら嗤う。

 

 腹部分の袈裟は完全に弾け飛び、露出した素肌には未だ赤黒い痕跡が残っていた。反転術式によって傷自体は塞がっている。だが皮膚の奥にまで刻み込まれた圧壊の感覚だけは消えない。

 

 それでも羂索は笑っていた。

 

 恐怖ではない。

 

 歓喜だった。

 

 千年を生きた呪術師にとって、“予測不能”ほど価値あるものはない。

 

 「笑っていられるのもここまでだぞ!加茂憲倫!俺たち兄弟の力はこんなものではない!行くぞ!九相図兄弟ぃぃ!!!!」

 

 脹相が吠える。

 

 その全身から赤黒い血液が噴き出し、宙を舞いながら螺旋を描いた。壊相も翼を大きく広げ、血塗は獣のように低く身を沈める。三人の呪力が同時に高まり、薨星宮内部の空気そのものが重く軋み始めた。

 

 「「「ファイヤー!!!」」」

 

 次の瞬間、三兄弟の姿が掻き消えた。

 

 脹相が正面から踏み込み、壊相が天井付近へ跳ね上がり、血塗が床を舐めるような低姿勢で滑走する。その連携は先程までとは比較にならない程鋭く、互いの呼吸を読むという次元すら超えていた。

 

 三人の動線は決して交わらない。それでいて一瞬でも羂索が対応を誤れば、死角へ別の兄弟が入り込むよう完璧に構築されている。

 

 羂索は迷わず呪霊を呼び出す。

 

 床へ影が広がった瞬間、その内部から黒く濁った肉塊が次々と這い出した。低級呪霊。だがただの雑魚ではない。羂索の膨大な呪力によって強化され、本来なら二級程度の術師では対処不能な程まで底上げされている。膨れ上がった筋肉を持つ猿型、骨を外殻のように纏った蜥蜴型、裂けた腹から無数の腕を生やした肉虫型。それらが咆哮と共に薨星宮内部へ溢れ出し、羂索を中心に層を成し始めた。

 

 「フッ!!」

 

 最初に羂索へ届いたのは壊相だった。

 

 上空から急降下した壊相の拳が空気を裂く。背中の血翼を噴射器のように利用した加速は凄まじく、その巨躯から放たれた拳は砲弾そのものだった。血液によって強化された筋繊維が唸り、拳圧だけで周囲の低級呪霊数体が弾け飛ぶ。

 

 羂索は片腕でそれを受け止めた。

 

 鈍い衝撃音が薨星宮内部へ響く。

 

 受け止めた腕の筋肉が僅かに軋むが、羂索は表情一つ変えない。そのまま反対の掌を壊相の腹部へ向けると、影の中から蛇のように細長い呪霊が射出された。牙を剥きながら一直線に壊相へ喰らいつく。

 

 だが壊相は止まらない。

 

 呪霊を真正面から受けながら後退し、同時に背中の血翼を大きく広げた。羽根の一枚一枚が血液によって形成され、それらが高速で振動する。

 

 次の瞬間、無数の血弾が放たれた。

 

 空中へ散った弾頭は直線ではなく弧を描く。羂索の死角へ回り込むよう複雑な軌道を描きながら迫るその攻撃は、単純な射撃ではなく包囲殲滅を目的としていた。

 

 しかし羂索は冷静だった。

 

 影から現れた呪霊達が即座に壁を形成する。肉塊同士を無理矢理押し固めたような防壁へ血弾が着弾し、赤黒い爆発が連続する。だが呪霊の壁は崩れない。吹き飛んだ端から新たな呪霊が補充され、絶え間なく羂索の周囲を埋め続けていた。

 

 その瞬間。

 

 横合いから床を滑るように現れたのは血塗だった。

 

 「ヒャアッ!!」

 

 幼い叫び声と共に血塗が腕を突き出す。

 

 次の瞬間、その拳が射出された。

 

 肘から先が血液噴射によって加速し、赤い尾を引きながら羂索へ飛翔する。ロケットのような推進力を得た拳は空気を裂き、回転しながら羂索の側頭部を狙っていた。

 

 「子供騙しだね」

 

 羂索はそう言いながら更に呪霊を出現させる。

 

 盾となった呪霊の胴体へ血塗の拳が突き刺さり、肉片を撒き散らしながら貫通した。だが勢いはそこで削がれる。羂索はその隙へ蹴りを叩き込もうと脚を振り上げた。

 

 しかし——

 

 「もう分かってるよ」

 

 羂索の視界外から赤い閃光が走った。

 

 穿血。

 

 呪霊数体を一直線に貫通しながら飛来したそれを、羂索は首を傾ける事で回避する。鼻先を掠めた血の槍が後方の壁へ突き刺さり、薨星宮の石壁を爆音と共に穿った。

 

 「さっきの技は良かったけど、当たらなければ意味はない。このへんで——」

 

 言葉の途中で、羂索の視線が動く。

 

 脹相が離れた位置で拳を天へ掲げていた。

 

 「ん?」

 

 違和感。

 

 羂索は気づく。

 

 自身の周囲。

 

 空間の至る所へ、極小の血球が漂っていた。

 

 それは米粒程度のサイズしかない。戦闘の余波に紛れ、呪霊の肉片や飛散した血液と完全に同化していた。だが今、脹相の呪力によってそれら全てが同期している。

 

 壊相と血塗。

 

 二人の攻撃は陽動だった。

 

 圧縮した血液を戦場全体へ運搬する為の。

 

 羂索の瞳が細まる。

 

 「超新星」

 

 脹相が静かに告げた瞬間——世界が赤く弾けた。

 

 周囲へ浮かんでいた血球全てが同時に爆裂する。

 

 超高圧で圧縮されていた血液が一斉に解放され、散弾となって全方位へ炸裂した。空気そのものが裂け、薨星宮内部を赤黒い嵐が蹂躙する。呪霊達の肉体が穴だらけになり、千切れ飛び、床も壁も天井も無数の穿孔によって削り取られていく。

 

 「やったか!?」

 

 血塗が叫ぶ。

 

 「おいそのセリフはフラグだ!」

 

 壊相が即座にツッコミを入れる。

 

 その横で脹相だけは静かに構えていた。

 

 爆煙の中心。

 

 そこを見据えながら。

 

 「まさか……全方位の血の散弾を落としたのか……?」

 

 羂索は立っていた。

 

 爆発の中心にいたはずのその一点だけが、まるで世界から切り抜かれた断面のように無傷で残っている。周囲は血の散弾によって抉られ、石壁は砕け、床は波打つように裂けているというのに、その場所だけが不自然な静止を保っていた。破壊の余波が“そこに到達する前に落ちた”かのように、境界は滑らかでありながら異様に明確だった。

 

 圧が違う。

 

 空間の密度が、そこだけ歪んでいる。

 

 爆発の力が届いたはずの領域で、運動が押し潰され、重さとして地面へ引きずり落とされた痕跡が残っていた。

 

 「不発……?」

 

 血塗が呟く。だがその声音には迷いが混じっている。見た現象と理解が一致しない。

 

 「いやそんな筈はない、今間違いなく兄者の血は爆発した!」

 

 壊相が即座に否定する。視覚も、感覚も、全てが爆発の成立を示していた。

 

 確信は共有されている。

 

 ならば何故、届かない。

 

 「別の術式だ。奴は今、呪霊操術以外の術式を使った!!!」

 

 脹相が叫ぶ。

 

 「クソッ」

 

 苦虫を噛み潰したような顔で羂索が悪態をつく。

 

 呪霊の盾ではない。単なる数による防御でもない。あの現象は、空間の性質そのものへ干渉する別系統の術理でしか説明がつかなかった。爆発を受けるのではなく、落とす。力の向きを奪い、結果そのものを地面へ押し潰すような干渉。

 

 羂索の口元がわずかに歪む。

 

 否定はしない。

 

 その沈黙が、答えだった。

 

 「そろそろお終いかな?私は一人っ子だけど……流石だ、お兄ちゃん達」

 

 その瞬間、空性結界の一部分が解かれる。

 

 薨星宮内部へ、新たな気配が滑り込んできた。

 

 金髪。

 

 長身。

 

 そして肩に巻き付く式神、凰輪。

 

 特級術師、九十九由基。

 

 「九十九、まだ俺たちだけで行けたぞ」

 

 脹相が合掌を維持したまま言う。その掌の中央では赤黒い血液が高速回転しながら圧縮され続けていた。キィィィ……という耳障りな高音が空間へ響き、血液密度の増大に伴って周囲の空気すら歪み始めている。

 

 「まぁそう言うなよ、あの男は何するか分からない。呪霊操術以外の術式を出した時点で、出るべきだと思ったのさ」

 

 九十九は肩を鳴らしながら答える。

 

 軽い口調。

 

 だが視線は鋭かった。

 

 先程、脹相の『超新星』を強制的に“落とした”現象を見た瞬間から、九十九は羂索を“複数術式を扱う特級術師”として認識している。

 

 千年を生きる術師。

 

 そんな相手が切り札を一つしか持たないなど、考える方が愚かだった。

 

 「作戦は変わらずでいいか?」

 

 「あぁ問題ない」

 

 短い会話。

 

 だがそれだけで十分だった。

 

 脹相、壊相、血塗、そして九十九。

 

 互いの位置。

 

 間合い。

 

 踏み込みの順番。

 

 攻撃を重ねるタイミング。

 

 その全てが視線だけで共有されている。四人の間には既に連携が成立していた。

 

 「四体一か……卑怯だと思わないかい?」

 

 羂索が肩を竦めながら言った。

 

 だが、その直後。

 

 背後の空間が裂ける。

 

 ビキビキ、と耳障りな音を立てながら現実へ亀裂が走り、その奥から濃密な呪力が溢れ出した。湿った悪意。異国の宗教観を思わせる重苦しい圧迫感。薨星宮内部の空気そのものが粘つくように淀み始める。

 

 九十九は腰を落としながら口を開いた。

 

 「輸入モノだろ。その呪霊」

 

 「その通り。あらゆる障害を取り除くアジアの神の呪い。そう……術式対象に概念が絡む特級呪霊だ」

 

 裂け目の奥から現れたのは巨大な異形だった。

 

 四本腕。

 

 象のような頭部。

 

 だが神々しさなど一切存在しない。黒ずんだ皮膚の下では無数の顔が呻くように浮かび上がり、四本の腕は異様に長い。手足は人間に似ているが巨大で、その巨体が立っただけで周囲の空間が軋んだ。

 

 存在そのものが“障害排除”という概念を撒き散らしている。

 

 「嫌な雰囲気だな」

 

 脹相が低く言う。

 

 その掌の中央では、圧縮され続けた血液が既に赤黒さを失い始めていた。極限まで密度を高められた血液は色彩すら潰れ、光を呑み込むような黒へ変貌しつつある。周囲へ漂っていた粉塵や瓦礫の欠片が僅かに引き寄せられ、重力そのものが一点へ沈み込んでいるかのような異様な光景を生み出していた。

 

 「私がやろうか?」

 

 九十九がウィンクしながら脹相へ言う。

 

 「いや、今完成した」

 

 脹相はそう言うと、静かに合掌を解く。

 

 掌の中央。

 

 そこには黒い球体が浮かんでいた。

 

 指先で摘める程度の大きさしかない。だが、その周囲だけ空間が不自然に歪み、空気そのものが軋みながら落ち込んでいる。重力。いや、それ以上の何か。世界そのものが一点へ圧縮されていた。

 

 「『特異点』ッ!!!」

 

 脹相が腕を振るう。

 

 黒点が放たれた瞬間、薨星宮の空気そのものが悲鳴を上げた。

 

 「いやいや!ブラックホール投げれるの!?」

 

 羂索が本気で焦り、地面を蹴って飛び退く。

 

 羂索が後方へと飛び退いたと同時に、その背後で控えていた特級呪霊が咆哮を上げた。

 

 象の頭部を持つ異形が四本の腕を膨れ上がらせながら振り上げる。筋肉が軋み、呪力によって強化された巨腕が空間を圧迫し、振り下ろされる軌道上で空気そのものが爆ぜた。障害を排除するという概念を宿した特級呪霊にとって、目の前へ飛来する黒点は“排除すべき異物”でしかない。

 

 巨大な掌が特異点へ叩き付けられる。

 

 だが——

 

 次の瞬間、呪霊の指先が沈み込んだ。

 

 まるで黒い沼へ触れたかのように、分厚い指先が音もなく捻れ、圧縮され、回転しながら黒点へ吸い込まれていく。肉が裂ける音すら存在しない。ただ質量そのものが強引に引き摺られ、存在を削り取られていた。

 

 「グォォォオオオッッ!!?」

 

 呪霊が絶叫する。

 

 だが止まらない。

 

 指が消える。

 

 掌が消える。

 

 肘まで飲まれた瞬間、ようやく異形は危機を理解したのか、残る三本の腕を地面へ突き刺しながら無理矢理後退しようとした。薨星宮の床が砕け、巨大な亀裂が走る。だが、その巨体は後ろへ逃げるどころか、逆に黒点へ引き寄せられていく。

 

 重力。

 

 いや、それ以上だった。

 

 空間そのものが歪み、周囲の存在全てを一点へ圧縮しようとしている。

 

 黒点の周囲では光すら微かに湾曲していた。瓦礫が浮く。粉塵が渦を巻く。呪霊から零れ落ちた肉片や血液が螺旋を描きながら吸い込まれ、触れた瞬間に潰れ、引き延ばされ、存在を保てぬまま消失していく。

 

 「いやいや!反則でしょー!それ!」

 

 羂索が本気で叫ぶ。

 

 その声音には、先程まで保っていた余裕が明確に消えていた。

 

 千年を生きた術師である羂索ですら、この術式現象は想定外だった。

 

 赤血操術。

 

 本来は血液操作術式。

 

 流動、圧縮、硬化、加速。

 

 その延長線上に“特異点形成”など存在しない。

 

 理論だけなら辿り着ける。

 

 だが、実行できる筈がない。

 

 血液を極限まで圧縮し続け、その密度を崩壊寸前まで維持したまま固定するなど、常識的な術師なら途中で制御を失う。呪力制御、血液操作精度、そして発想、その全てが異常だった。

 

 羂索の脳裏に、虎杖悠仁の姿が過る。

 

 あの少年は肉体感覚だけで常識を破壊する。

 

 故に、その兄達もまた既存の術理へ収まらない。

 

 「悠仁仕込みだ」

 

 脹相が静かに言った。

 

 その額には汗が滲み、両腕の血管は膨れ上がっている。特異点の維持そのものが脹相に莫大な負荷を強いていた。皮膚の下では血管が軋み、骨が悲鳴を上げ、呪力消費によって視界すら明滅している。

 

 だが脹相は笑った。

 

 「俺たち兄弟は、想像以上に無茶をする」

 

 その瞬間。

 

 特級呪霊の肩口まで完全に飲み込まれる。

 

 巨体が傾く。

 

 障害排除という概念を宿した筈の呪いが、逆に“存在そのもの”を排除され始めていた。

 

 「オオォォォォォッ!!!」

 

 呪霊が暴れる。

 

 残る腕を振り回し、呪力を撒き散らしながら強引に特異点を叩き潰そうとする。だが触れた端から腕が削れ、圧縮され、黒点へ消えていく。まるで巨大な肉塊を超小型の宇宙災害へ押し付けているような光景だった。

 

 九十九が思わず引きつった笑みを浮かべる。

 

 「おい脹相、お前それ制御失敗したら薨星宮ごと終わるやつじゃないだろうな?」

 

 「多分終わる」

 

 「多分で済ませるな」

 

 壊相が即座にツッコむ。

 

 だがその直後。

 

 羂索の表情から笑みが消えた。

 

 「……まずいね」

 

 低く呟いた瞬間、その両掌から膨大な呪力が噴き上がる。

 

 空間が沈む。

 

 重くなる。

 

 先程、超新星を“落とした”あの術式。

 

 羂索は特異点そのものへ向け、重力干渉を叩き込もうとしていた。

 

 

 

 

 脹相達、九十九、そして天元の作戦。

 

 この薨星宮へ羂索がやって来る事は、最初から分かっていた。

 

 天元は自身の現在の状態を誰より理解している。不死術式による進化の果て、人とも呪霊とも断定できぬ存在へ変質した今の自分は、既に“呪霊操術の対象”に限りなく近い。故に羂索が最後には必ずここへ辿り着き、自分を取り込み利用しようとする事も予測できていた。

 

 薨星宮最深部。

 

 結界の中心。

 

 そこには場違いな程生活感のある空間が広がっていた。畳の上へ置かれた古びたちゃぶ台。湯気を立てる急須。山積みにされたみかん。人類の結界術を支える最奥の場所である筈なのに、漂っている空気だけは奇妙に俗っぽい。

 

 そのこたつへ足を突っ込みながら、九十九由基は茶を啜った。

 

 「まず羂索の手札を全部出させる。取り込んでる呪霊、呪霊操術以外の術式、領域展開……奴が領域展開をした後の術式の焼き切れを狙って叩くのがベストか?」

 

 軽い口調。

 

 だが、その視線は真剣だった。

 

 対面に座る天元が、みかんを一房口へ運びながら静かに頷く。

 

 現在の天元は、既に人の形を大きく逸脱していた。肥大化した頭部。曖昧になった輪郭。異様に長い指先。その姿は神仏にも妖怪にも見える。だが、その瞳だけは底知れぬ知性を宿していた。

 

 「それが理想的な作戦だろう。だが……あの子は平安から生きる術師だ。現代の術師とは経験も呪術の知識も、常識も違う。自身の楽しみの為に千年生きたくらいだからね」

 

 天元の声音は穏やかだった。

 

 しかし、その言葉には重みがある。

 

 千年。

 

 それは単純な時間ではない。

 

 時代を跨ぎ、無数の術師を見て、無数の戦いを経験し、それでも尚死ななかった怪物だけが積み重ねられる時間だ。強者は数多くいた。天才も英雄も怪物も存在した。だが、その殆どは死んだ。羂索だけが生き残り続けた。

 

 それは強さだけでは不可能だ。

 

 狡猾さ。

 

 慎重さ。

 

 執念。

 

 そして未知に対する異常な警戒心。

 

 羂索という術師は、自分が死ぬ可能性を徹底的に嫌う。

 

 だからこそ厄介だった。

 

 「最初は俺たちが出よう」

 

 低い声が部屋へ響く。

 

 隅で座禅を組んでいた脹相が、静かに口を開いた。

 

 その両隣では壊相と血塗も同じように胡座を組み、目を閉じている。三兄弟の周囲には赤黒い血液が浮遊していた。血は細い糸となって空間を漂い、時折球体となって収束し、また解ける。その流れは一見不規則に見えながら、実際には極めて精密だった。

 

 脹相の掌。

 

 合掌された両手の中央では、血液が高速回転しながら圧縮され続けている。

 

 キィィィ……。

 

 耳障りな高音が鳴る。

 

 空気が軋む。

 

 密度の増大に伴い、掌の周囲だけ空間が微かに歪んでいた。畳の上に落ちたみかんの皮が僅かに引き寄せられ、浮遊していた埃が一点へ沈み込む。

 

 九十九がそれを見ながら眉を顰めた。

 

 「平気か?」

 

 脹相はゆっくりと目を開く。

 

 その瞳には迷いが存在しない。

 

 「問題ない、奴の度肝を抜いてやる」

 

 その言葉と同時に、掌の中央で圧縮されていた血液が更に収束する。

 

 赤黒かった色彩が潰れ始める。

 

 光を失う。

 

 黒へ変わる。

 

 それはもはや“血液”ではなかった。

 

 極限まで圧縮された質量。

 

 重力。

 

 存在そのものが一点へ沈み込み、周囲の空間を引き摺り始めている。

 

 九十九の頬が引き攣る。

 

 「ねぇ……アナタ本当に赤血操術使い?」

 

 「兄者は最近ちょっとおかしい」

 

 壊相が目を閉じたまま呟く。

 

 「悠仁と修行してから変になった!」

 

 血塗も続ける。

 

 脹相は静かに息を吐いた。

 

 その脳裏には虎杖悠仁の姿がある。

 

 存在しない記憶。

 

 十年にも及ぶ修行。

 

 座禅を組み、拳を交え、血反吐を吐きながら積み重ねた時間の中で、脹相達は学んだ。

 

 術式とは固定されたものではない。

 

 発想次第で、常識の外側へ到達できる。

 

 「羂索は既知には強い」

 

 天元が静かに言う。

 

 「だが未知には慎重になる。故に、君達の役目は重要だ」

 

 脹相は頷く。

 

 掌の中央、そこに浮かぶ黒点を見つめながら、静かに呟いた。

 

 「理解している」

 

 

 

 羂索は、特級呪霊が特異点へ飲み込まれていく様を冷ややかに見据えながら、静かに両手を翳した。

 

 黒点は依然として空間の中心で脈動している。

 

 象頭の特級呪霊は既に肩口まで削り取られ、四本あった腕の内、二本は完全に消失していた。残された腕で必死に地面を掴み、呪力を撒き散らしながら抵抗しているが、その巨体は逃れるどころか更に黒点へ引き寄せられていく。肉が裂け、骨が砕け、存在そのものが捻じ曲げられながら圧縮されていく光景は、まるで宇宙災害を無理矢理この世へ落とし込んだような異様さを孕んでいた。

 

 薨星宮の空気が軋む。

 

 床に散らばった瓦礫が浮遊する。

 

 粉塵が螺旋を描きながら黒点へ吸い込まれ、触れた瞬間に潰れ、線となって引き延ばされ、そのまま消える。

 

 「本当に滅茶苦茶だねぇ……」

 

 羂索が呟く。

 

 だがその眼差しから、先程までの狼狽は既に消えていた。

 

 千年を生きた術師の脳裏では、既に術式解析が完了しつつある。

 

 脹相の特異点。

 

 原理は極限圧縮。

 

 赤血操術によって血液密度を異常領域まで高め、重力崩壊寸前の状態を擬似的に固定している。恐らく、術式そのものではなく“現象”を強引に再現しているのだろう。

 

 理論としては成立する。

 

 だが実行は狂気だった。

 

 「流石に放置はできないか」

 

 羂索が両掌を前へ向ける。

 

 その瞬間、周囲の空気が微かに揺らいだ。

 

 虎杖香織の生得術式。

 

 『反重力機構(アンチグラヴィティシステム)

 

 本来は重力を打ち消す術式。

 

 対象へ作用する重力そのものを相殺し、あらゆる質量干渉を無効化する防御寄りの能力だった。羂索は夏油傑の肉体へ脳を移した後も、過去に乗り換えた術師の術式情報を保持している。そして虎杖悠仁の母、虎杖香織の肉体を使用していた時代に得たこの術式もまた、現在の羂索の手札の一つだった。

 

 先程、脹相の『超新星』を防いだのは術式反転。

 

 本来“重力を打ち消す”筈の術式を反転させる事で、羂索は逆に重力場を発生させていた。飛来する血の散弾、その運動エネルギーそのものを強引に地面へ叩き落とし、到達前に潰したのである。

 

 だが——

 

 今、羂索が行うのは術式順転。

 

 反重力機構、本来の効果だった。

 

 「術式順転『反重力機構(アンチグラヴィティシステム)』」

 

 低く呟いた瞬間、羂索の周囲へ透明な波紋が広がった。

 

 空気が軽くなる。

 

 いや、“重さ”そのものが消えていく。

 

 浮遊していた瓦礫が落ちない。

 

 粉塵が宙へ静止する。

 

 床へ走っていた亀裂の破片すら、重力を忘れたかのように空間へ漂い始める。

 

 九十九の瞳が細まった。

 

 「重力を……消してる?」

 

 「正確には違う」

 

 九十九の横に顔だけ現れた天元が低く呟く。

 

 「作用している重力場そのものへ干渉している。術式順転による“重力相殺”だ」

 

 その瞬間。

 

 特異点の吸引が僅かに乱れた。

 

 黒点周囲で渦巻いていた瓦礫や粉塵の軌道が不安定化し、吸引速度が目に見えて鈍化する。重力崩壊によって成立していた現象へ、別方向から重力干渉が叩き込まれた事で均衡が崩れ始めていた。

 

 脹相の額から汗が流れる。

 

 合掌した掌が軋む。

 

 「……ッ」

 

 特異点の維持負荷が一気に増大した。

 

 羂索は目を細める。

 

 「彼女が持っていた術式は欠陥品でね。出力が安定しない」

 

 その声音は妙に軽かった。

 

 だが、その掌から放たれている呪力は重い。

 

 凄まじく重い。

 

 「重力を打ち消したり、逆に強めたり、その辺りは不安定だった。普通なら扱いづらい術式だろうね」

 

 羂索の周囲で、空間そのものが明滅する。

 

 軽くなる。

 

 重くなる。

 

 浮遊していた瓦礫が突然床へ叩き落とされ、次の瞬間には再び宙へ浮かび上がる。薨星宮内部の重力場が乱れ、空間そのものが悲鳴を上げ始めていた。

 

 「だけど私は違う」

 

 羂索が嗤う。

 

 「不安定なら、制御すればいいだけだ」

 

 その瞬間、羂索の両掌から放たれた呪力が一気に膨れ上がった。

 

 反重力。

 

 特異点。

 

 二つの重力干渉が真正面から衝突する。

 

 空間が——悲鳴を上げた。

 

 そこで九十九が動いた。

 

 重力干渉によって悲鳴を上げていた空間の中を、躊躇なく踏み抜く。

 

 「脹相!いくよ!」

 

 「あぁ」

 

 合掌したまま特異点を維持していた脹相が短く応じる。その額からは既に大量の汗が流れていた。極限圧縮された血液を維持し続ける負荷に加え、羂索の反重力機構による重力干渉が常時ぶつかり続けているせいで、特異点そのものが不安定化を始めている。

 

 長くは持たない。

 

 ならば押し切るしかない。

 

 九十九は凰輪を掴む。

 

 式神がギチギチと嫌な音を立てながら圧縮されていく。柔軟性を持つ呪具化式神の肉体が無理矢理押し固められ、繊維が軋み、内部呪力が悲鳴を上げるように振動していた。瞬く間に凰輪はサッカーボール大の球体へ変貌し、その表面では超高密度化した呪力が火花のように弾けている。

 

 空気が重い。

 

 いや、重すぎる。

 

 九十九の術式『星の怒り』によって付与された仮想質量が、周囲空間そのものを押し潰し始めていた。

 

 「れっしゅぅぅぅ!!」

 

 九十九が全身を捻り込みながら蹴り抜く。

 

 瞬間、床が陥没した。

 

 接地した片脚へ集中した質量に耐え切れず石床が爆砕し、放射状に亀裂が走る。その反動を乗せた蹴撃によって凰輪が射出された。

 

 爆音。

 

 空気が破裂する。

 

 放たれた凰輪は一瞬で亜音速領域へ到達し、表面が摩擦熱によって赤熱化する。紅蓮色の尾を引きながら飛翔するそれは、もはや球体ではない。高密度質量そのものが弾丸となって突き進む、質量兵器だった。

 

 羂索の目が見開かれる。

 

 「ッ——」

 

 回避は間に合わない。

 

 凰輪は特異点へ半身を飲み込まれていた特級呪霊へ直撃した。

 

 直後。

 

 呪霊の巨体が“潰れた”。

 

 残っていた腕が千切れ飛び、象頭が内側から破裂し、黒ずんだ肉塊が圧縮と衝撃の両方によって一瞬で崩壊する。障害排除の概念呪霊であろうと関係ない。特異点の吸引へ抗いながら、更に九十九の質量砲撃を受け止め切れる程、この世の物理法則は甘くなかった。

 

 呪霊核ごと粉砕される。

 

 脹相はそれを確認した瞬間、合掌を解いた。

 

 「解除する」

 

 特異点が消失する。

 

 空間を歪めていた黒点が霧散し、周囲へ暴風が吹き荒れた。吸引によって浮かび上がっていた瓦礫が一斉に落下し、薨星宮全体へ轟音が響き渡る。

 

 だが——その爆風より早く九十九が踏み込んでいた。

 

 床が砕け散る。

 

 質量を乗せた踏み込みによって石床そのものが耐え切れず陥没し、衝撃波が遅れて周囲へ広がった。

 

 消える。

 

 否、速過ぎて視認できない。

 

 九十九の身体は砲弾のように前方へ射出され、特級呪霊の崩壊した死骸を真正面から突き抜けた。飛び散った肉片と呪力残滓を引き裂きながら一直線に羂索へ肉薄する。

 

 「ッ!!!」

 

 羂索が咄嗟に両掌を前へ向ける。

 

 反重力機構。

 

 だが遅い。

 

 九十九は既に懐へ入り込んでいた。

 

 「私の術式が何か知りたいか?」

 

 九十九が笑う。

 

 獰猛な笑みだった。

 

 その右拳へ更なる質量が集中していく。呪力によって強化された肉体へ仮想質量が上乗せされ、筋肉が膨れ、血管が浮き上がり、腕周囲の空間そのものが沈み込むように歪んでいた。

 

 圧が高まる。

 

 ただ拳を構えただけ。

 

 それだけで周囲空間が軋み始める。

 

 「“質量”だ」

 

 振り抜かれる。

 

 一直線。無駄は一切存在しない。だが、その拳には山を圧壊させる暴威が宿っていた。

 

 羂索は反射的に両腕を交差させる。

 

 防御。

 

 術師としては最適解。

 

 しかし——遅い。

 

 接触。

 

 その瞬間、骨が砕ける音が薨星宮へ響き渡った。

 

 交差した両腕が内側から圧壊する。

 

 尺骨と橈骨が耐え切れず砕け、肘関節が逆方向へへし折れた。裂けた筋肉と皮膚から血飛沫が噴き上がり、それでも九十九の拳は一切減速しない。

 

 押し潰す。

 

 砕く。

 

 貫く。

 

 拳がそのまま羂索の顔面へ到達した。

 

 頬骨が陥没する。

 

 鼻梁が砕ける。

 

 歯が飛び、頭蓋が軋み、衝撃が脳へ到達する寸前、羂索は咄嗟に呪力を頭部へ集中させた。

 

 それでも耐え切れない。

 

 吹き飛ぶ。

 

 羂索の身体が砲弾のように薨星宮内部を弾き飛ばされる。本来、距離の概念が極めて曖昧な空性結界内部であるにも関わらず、その暴力的な質量衝撃は空間定義そのものへ綻びを生じさせながら羂索を吹き飛ばしていった。

 

 壁へ叩き付けられる。

 

 跳ねる。

 

 更に吹き飛ぶ。

 

 最終的に結界端へ激突した羂索の身体は、そのまま暗い一室へ突っ込み、床を削りながら長距離を滑走した。

 

 轟音。

 

 粉塵。

 

 砕け散る石材。

 

 薨星宮全体が震動する。

 

 (距離のない空性結界の循環定義に綻びが生じるまで殴り飛ばされた……!!)

 

 羂索は床へ片膝を突きながら思考する。

 

 両腕は砕け、ぶら下がっていた。

 

 顔面は潰れ、首骨は歪み、口から大量の血が流れ落ちている。

 

 視界が赤い。

 

 脳震盪すら起きていた。

 

 (“質量”か……術式対象の概念……!!その内包と外延に収まり切らない程の圧倒的質量!!咄嗟に脳を守っていなければ死んでいた!)

 

 だが——立ち上がる。

 

 羂索の肉体から反転術式の呪力が溢れ出した。

 

 砕けた骨がミシミシと音を立てながら繋がっていく。裂けた筋肉が蠢き、千切れかかった神経が再接続され、歪んだ首骨が強引に矯正されていくその光景は、人間というより怪物の再生だった。

 

 潰れた顔面が元の形へ戻る。

 

 折れ曲がっていた腕がゆっくりと持ち上がる。

 

 そして羂索は、血塗れのまま笑った。

 

 「——ははっ」

 

 その笑みには、恐怖よりも歓喜が混じっていた。




五条「ッ!!!!!!!!!!!!」
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