武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
薨星宮内部。
空性結界によって隔絶された神域は、既に原型を失っていた。
脹相達が撒き散らした血液によって床は赤黒く濡れ、九十九由基の質量攻撃によって壁面は陥没し、羂索が吐き出し続けた呪霊達の死骸が腐臭を漂わせながら各所へ積み重なっている。空間内部を循環していた結界術式の流れは戦闘によって完全に乱れ、薨星宮全体が巨大な呪胎の内部のように不快な脈動を繰り返していた。
湿った呪力が肺へ絡みつき、呼吸をするだけで喉奥へ粘ついた悪意が流れ込んでくる。天元が積み上げてきた千年の静寂は既に消え失せ、そこには術師と呪いによる純粋な殺意だけが満ちていた。
その中心で、四人が同時に踏み込む。
脹相が正面から圧力を掛ける。
壊相が天井付近へ跳ね上がり、立体的な射線を形成する。
血塗が床を滑走しながら血液を撒き散らし、羂索の足場そのものを侵食していく。
そして九十九由基だけは一直線だった。真正面。最短距離。圧倒的質量を纏わせた肉体で石床を砕きながら突き進むその姿は、人間というよりも隕石の落下に近い。四人の動きは一見すると統率など存在しないように見える。だが実際には完全だった。誰がどの角度を潰し、どの瞬間に羂索の視線を誘導し、どこへ逃がし、どこで叩くか、その全てが既に共有されている。
羂索は即座に呪霊を放出した。
空間が歪む。
次の瞬間、低級、中級、準一級クラスの呪霊達が洪水のように溢れ出した。虫型、獣型、人型、肉塊型、輪郭すら曖昧な異形達が薨星宮内部を埋め尽くし、脹相達の進行方向へ次々と割り込んでいく。脹相の穿血を肉壁となって受け止め、壊相の血翼による斬撃を呪力で強化された外皮で弾き、九十九へ向かっては複数体が盾として殺到する。その間に羂索自身は後方へ飛び退き、両手を静かに組み合わせた。
掌印。
反叉合掌。
脹相が用いていた合掌とは真逆の形。呪力循環の方向そのものを反転させる異様な印を見た瞬間、九十九の瞳が僅かに細められる。
「まぁ正直言って、ここでこの選択をするのは当然だよね」
羂索が笑う。
その声は軽い。
だが同時に、薨星宮全体へ散っていた膨大な呪力が一斉に羂索へ収束していった。空気が震え、空間が軋み、結界構造そのものが悲鳴を上げ始める。千年生きた怪物が積み重ねてきた呪力。その密度は単なる“量”ではない。歴史そのものを圧縮したような重みがあり、存在しているだけで周囲の術式構造を侵食していく。
脹相が息を呑む。
壊相が舌打ちする。
血塗の頬を汗が流れた。
そして羂索は、静かに告げる。
「領域展開——」
瞬間。
呪力が爆散した。
薨星宮全体が揺れる。視界が歪み、空間定義そのものが裏返るような感覚が全員を襲った。大量の呪力が現実へ直接侵食し、術式空間を書き換えていく。
「胎蔵遍野」
現れた。
羂索の背後。
そこへ具現化したのは、“樹木”と呼ぶには余りにも悍ましい何かだった。
幹を構成しているのは無数の顔。
男。
女。
老人。
子供。
絶望に歪み、苦悶し、涙を流し、眼球を剥き出しにした顔面達が幾重にも癒着しながら一本の巨大樹を形成している。その下部では、アフリカ系呪術師を思わせる装束を纏った妊婦達が異様な姿勢で幹を囲み、上部には顔を剥ぎ取られた妊婦達が磔にされながら吊るされていた。枝からは胎児のような肉塊が脈動し、鼓動のように呪力を撒き散らしている。
それは呪いの象徴だった。
誕生。
死。
循環。
積み重なった負の感情。
その全てを一つへ押し固めたような領域。
そして何より異常なのは——領域が“閉じていない”。
通常、領域展開とは結界を閉じ、その内部へ術式を押し付ける事で必中必殺を成立させる技術である。だが羂索の領域には外殻そのものが存在しなかった。現実空間へ直接術式を書き込み、世界そのものを領域化している。
閉じない領域。
両面宿儺が渋谷で見せた神業。
それを、羂索もまた成立させていた。
「天元ッ!!」
九十九が叫ぶ。
別室。
待機していた天元が即座に結界解析へ移行した。無数の術式式盤が展開され、空性結界内部へ干渉が始まる。だが天元の表情は瞬時に険しくなった。
解体するべき“外殻”が存在しない。
閉じない領域である以上、通常の結界崩しが成立しないのだ。
九十九は即座にシン陰流『簡易領域』を展開した。足元へ円環が広がり、必中効果を中和する防御術式が形成される。同時に脹相達も大量の血液を放出し、高密度に圧縮した血液ドームを構築した。だが、その防御ですら羂索の領域に対しては脆かった。
「私の領域にその程度の術で耐えられると思っているのか?」
羂索が掌印を変化させる。
瞬間、領域出力が跳ね上がった。
九十九の簡易領域へ亀裂が走る。バキバキと嫌な音を立てながら境界面が侵食され、必中効果が内部へねじ込まれていく。脹相達の血のドームも同様だった。上空から叩き付けられる莫大な重圧によって血液構造そのものが押し潰され、表面から崩壊し始める。
だがその一方で。
羂索背後の悍ましい樹木構造が僅かに解け始めていた。
天元が干渉している。
羂索はそれを察し、笑った。
「……成程、そういうことか。いかにも引き篭もりらしい旧態依然な作戦だ。だがな天元——私は貴様と違い、生きてきたんだ」
その瞬間。
九十九の簡易領域が砕け散った。
脹相達の血のドームも圧壊する。
必中効果が直撃する。
羂索が腕を振り下ろした。
「千年続く!!竜虎戦争!!合従連衡の!!呪いの世界を!!」
反転された反重力術式。
超重力が必中する。
九十九。
脹相。
壊相。
血塗。
その全員へ重圧が叩き込まれる——
その瞬間だった。
轟ッッッッッ!!!!!!
薨星宮そのものが、上から“ぶち抜かれた”。
空性結界の天井構造が爆散する。否、爆散ではない。空間定義ごと破壊された。凄まじい轟音と地響きが発生し、何かが上空から超高速で落下、そのまま領域中心部へ激突したのだ。
衝撃波が発生する。
空気が吹き飛ぶ。
石床が捲れ上がる。
脹相達の身体が後方へ弾き飛ばされ、九十九ですら踏ん張り切れず滑る。羂索自身も瓦礫の中へ叩き込まれ、その瞬間、胎蔵遍野が崩壊した。
領域が砕ける。
必中効果が消滅する。
(なんだ!?)
羂索が即座に起き上がる。
視線を向ける。
土煙が晴れていく。
そこに立っていた。
揺れる白髪、破れた服から覗く引き締まった筋肉と血管を通る金色の“流れ”、そして蒼く輝く六眼。その存在だけで空間全体が張り詰め、漏れ出した呪力が薨星宮内部の空気を震わせていた。
五条悟。
羂索の瞳が、初めて明確な動揺に揺れた。
「……嘘だろ?」
深海。
太陽光すら完全に消え失せる絶対暗黒領域。人類が容易に到達できる深度など遥かに超越したその場所では、水圧は既に“押し潰す”という言葉だけでは表現し切れない領域へ到達していた。常人ならば肉体は瞬時に圧壊し、鋼鉄すら軋み、深海探査艇でさえ僅かな綻び一つで内側から潰される。海底プレート同士が永遠に擦れ合い続ける地獄の狭間、その泥と岩盤の中へ半ば埋没するようにして、獄門疆だけが異物めいた静止を保っていた。
羂索は徹底していた。
獄門疆裏を日本海溝約8000メートル地点へ沈め、更に複数の結界術を重ね、監視用の呪霊まで配置している。仮に内部から脱出できたとしても、超高圧環境によって即死する。外へ出た瞬間、骨は砕け、内臓は潰れ、血液は逆流し、脳すら原型を失う。つまり脱出そのものが死と同義であり、五条悟ほどの存在であろうと生存不可能——それが羂索の結論だった。
だが。
その静寂が崩れる。
獄門疆が、光を放った。
闇を切り裂くような眩い呪力光が表面の裂け目から漏れ出し、刻まれていた無数の眼球が一斉に見開かれる。封印術式が軋み、周囲空間が歪み始めた。深海という絶対静寂の世界で、本来あり得ない筈の振動が連続し、海底へ沈殿していた泥が舞い上がる。
獄門疆は“閉じる”為の呪物である。
開くという現象自体が異常だった。
通常、内部へ封じられた者が外へ出る方法など存在しない。唯一の例外は、内部の人間が自ら死を選んだ場合のみ。羂索はその仕様を理解していたからこそ、五条悟をこの深海へ沈めたのだ。
だが、開く。
所有者の許可もなく。
死の気配もなく。
裂け目の奥から現れた人影は、敗者でも死者でもなかった。
五条悟。
その姿が現れた瞬間、深海そのものが異物を認識したかのように海流が乱れ始める。だが異様なのは、その存在感だけではない。
彼は——座禅を組んでいた。
脚を組み、背筋を真っ直ぐに伸ばし、右手は帝釈天印、左手はそれを静かに支えるよう添えられている。まるで寺院の中で瞑想でも続けていたかのような姿勢のまま、五条悟は深海8000メートル地点へ静かに浮かんでいた。
慌てる様子はない。
呼吸の乱れもない。
極限環境へ放り込まれた人間特有の緊張すら存在しなかった。
通常なら超高圧によって全身が押し潰されている筈だが、五条の周囲には不可侵領域が形成されている。
無下限呪術。
五条悟と外界との間へ“無限”が挟み込まれていた。
押し寄せる海水。
超高圧による衝撃。
流動。
熱。
深海特有の破壊圧。
その全てが五条悟へ到達する前に停止している。海水は彼へ触れられない。超高密度の圧力ですら、永遠に縮まらない距離によって閉じ込められていた。
深海の王ですら、この男へは届かない。
静寂。
重苦しい暗黒の中で、五条悟がゆっくりと目を開く。
六眼。
青く発光した瞳が海中を走った瞬間、膨大な情報が一気に流れ込む。海流の運動、プレートの歪み、周囲を漂う微細な呪力残滓、日本列島全域を覆う結界構造、死滅回游によって変質した術式循環、地下深部で激突し続けている特級同士の呪力衝突。その全てを六眼は瞬時に解析し、座標を割り出し、演算を完了させていく。
常人なら脳が焼き切れる情報量。
だが五条悟にとって、それは呼吸と変わらない。
「……」
五条は無言だった。
だが次の瞬間、静かに視線を上へ向ける。
遥か頭上。
8000メートル上空に存在する日本列島を。
そして片手を持ち上げ、指先を下へ向けた。
触地印。
悟りを得た者が、この世界へ己の到達を示す印。
その指先へ赤い光が収束する。
「赫」
轟音。
深海そのものが爆発した。
超高密度の斥力が一点から解放され、周囲一帯の海水を強引に押し退ける。8000メートル級の水圧すら真正面から捩じ伏せながら巨大な空洞が形成され、海底岩盤が砕け散った。圧縮され続けていた海水が瞬時に蒸発し、発生した衝撃波が周囲の深海生物と監視用呪霊を肉片へ変えながら放射状に拡散していく。
日本海溝が揺れた。
プレートが軋む。
だが、その中心にいる五条悟だけは静止したままだった。
赫によって形成された空洞内部で、今度は蒼い光が彼の周囲へ収束し始める。
蒼。
空間座標へ直接干渉する引力術式。
次の瞬間、五条悟の姿が消えた。
否。
距離そのものを引き寄せた。
自身と目的地の間に存在する空間を圧縮し、“移動”という工程を省略したのである。
呪術高専直上。
夜空が歪み、青い閃光が奔ったかと思えば、既にそこへ五条悟は存在していた。
空中へ浮かぶ。
揺れる白髪。所々破れた黒い服。そこから覗く引き締まった筋肉。皮膚の下を流れる金色の“流れ”。そして蒼く輝く六眼。
その存在だけで周囲空間が張り詰め、漏れ出した呪力が大気そのものを震わせていた。
夜空へ浮かぶ五条悟は、ただ静かに眼下を見下ろしていた。
眼下に存在するのは、既に正常な形を失った日本列島の呪力循環。死滅回游によって張り巡らされた結界群が蜘蛛の巣のように地脈へ食い込み、渋谷事変によって溢れ出した呪霊達の残滓が瘴気となって大気へ沈殿している。その中心、地下深く——薨星宮内部で脈動する羂索の領域と、九十九達の呪力反応を六眼は寸分違わず捉えていた。
五条は静かに息を吸う。
その動作だけで周囲空間が震えた。
漏れ出した呪力ではない。
肉体内部を循環する“流れ”そのものが、現実へ干渉し始めている。
五条悟は静かに構えを取った。
右手を持ち上げる。
指が開く。
そして結ばれた掌印は——施無畏印。
恐れるな。
救済を示す仏の印。
その瞬間、五条悟の周囲に漂っていた呪力の質が変質した。従来の無下限呪術特有の鋭利で冷たい呪力とは違う。もっと巨大で、重く、そして圧倒的に“澄んでいる”。金色の“流れ”が血管のように全身へ走り、皮膚表面を淡く発光させ始めた。
空気が軋む。
否。
空間そのものが、五条悟という存在を支え切れず悲鳴を上げていた。
施無畏印へ“流れ”が収束していく。
呪力ではない。
だが呪力に酷似した超高密度エネルギー。
虎杖悠仁の肉体内部を循環していたものと同種の何か。それが五条の神経、筋肉、骨格、呪力回路を通過しながら増幅され、印の中心へ圧縮され続けていた。
六眼が蒼く輝く。
「第七式——」
その声は小さい。
だが発せられた瞬間、日本全域へ薄く張り巡らされていた結界群が共鳴するように震えた。死滅回游の泳者達が一斉に空を見上げ、各地の呪霊達が本能的恐怖によって唸り声を漏らす。
そして五条悟が静かに告げる。
「天仏降世」
瞬間。
五条悟の姿が消えた。
否、消えたように見えただけだ。
速過ぎる。
加速ではない。
空間圧縮による座標短縮と、肉体出力による超高速移動、それら全てを同時成立させた暴力的機動。五条悟は“移動”という工程そのものを破壊しながら地下へ突入した。
轟音。
呪術高専の地面が爆ぜる。
校舎を貫通。
コンクリートが蒸発する。
忌庫を突き抜け、結界層を強引に圧壊しながら、更に下へ。
地殻が裂けた。
岩盤が融解する。
五条悟を中心として発生した超高密度エネルギーが、周囲物質を“破壊”ではなく“押し退けて”いる。通常なら数百メートル単位で掘削が必要な地下構造を、五条は一直線に貫いていた。
薨星宮内部。
その瞬間、空性結界全体が震えた。
脹相が顔を上げる。
九十九が瞳を細める。
羂索が反射的に上空を見た。
そして次の瞬間、空性結界の天井構造が——消えた。
轟ッッッッッ!!!!!!
爆発ではない。落下でもない。
“何か”が上から世界そのものを押し潰しながら侵入してきた。
結界術式が千切れる。空間定義が歪む。
地層と岩盤を纏った超巨大な破壊痕が一直線に薨星宮中心部まで到達し、その最奥へ一人の男が降り立った。
五条悟。
施無畏印を維持したまま静かに着地したその瞬間、周囲一帯へ凄まじい衝撃波が走る。床が陥没し、既に破壊されていた結界構造へ更なる亀裂が広がり、空性結界特有の循環空間が悲鳴のように軋み始めた。
揺れる白髪。
所々破れた黒い服、その隙間から覗く引き締まった筋肉、血管のように全身を巡る金色の“流れ”、そして蒼く輝く六眼。
五条悟は静かに顔を上げる。
その視線が羂索を捉えた瞬間——空気が凍った。
羂索の背筋を、理解不能な悪寒が駆け抜ける。
目の前にいるのは、知っている五条悟ではない。
そう本能が告げていた。
「……嘘だろ?」
羂索は視線の先に立つ五条悟を見据えながら、掠れた声で呟いた。
薨星宮内部へ叩き込まれた衝撃は未だ止んでいない。空性結界を循環していた空間定義は完全に乱れ、天井を貫通して形成された巨大な縦穴からは砕けた岩盤と土砂が断続的に降り注いでいる。脹相達が撒き散らした血液、九十九の質量攻撃によって砕けた床、羂索が放出した呪霊達の死骸、それら全てが混ざり合った薨星宮は、もはや神域などと呼べる姿ではなかった。
だが今、羂索の意識を支配しているのは周囲の惨状ではない。
目の前に立っている“存在”そのものだった。
高専。
忌庫。
空性結界。
それらを一直線にぶち抜き、地下深部まで強引に到達した異常な侵入経路。それだけでも常識外れだ。だが羂索が真に動揺している理由は別にある。
(どうやって獄門疆から出たんだ!?)
羂索の脳裏へ、日本海溝8000メートル地点へ沈めた獄門疆の映像が過る。あらゆる可能性を潰した筈だった。仮に内部から脱出できたとしても、超高圧環境によって肉体は瞬時に圧壊する。更に幾重にも結界を施し、監視用呪霊まで配置していた。
何より——獄門疆は使用者しか開門できない。
それは羂索の知らない“裏”であっても同様だ。
故に、あり得ない。
だが現に。
五条悟はここにいる。
破れた黒い服の隙間から引き締まった筋肉を覗かせながら、金色の“流れ”を全身へ循環させ、蒼く輝く六眼で羂索を静かに見据えている。その姿を視認した瞬間から、薨星宮内部の空気そのものが変質していた。
重い。
濃い。
ただ立っているだけで、空間全体へ圧力が発生している。
まるで巨大な“何か”が人型を取っているようだった。
羂索は無理矢理口元を歪める。
平静を装う。
そうしなければ、本能が悲鳴を上げそうだった。
「やぁ……御寛ぎいただけたかな?」
軽口。
いつも通りの声音。
だが喉が僅かに引き攣っている。
五条悟は答えない。
ただ静かに羂索を見ていた。
その蒼い瞳には怒りすら存在しない。激情ではない。もっと深く、もっと静かな何かだった。六眼の奥で冷たい光が揺れ、視線だけで羂索の肉体構造、呪力循環、術式回路、その全てを解剖するように見抜いている。
脹相達ですら息を呑む。
九十九でさえ眉を顰めた。
五条悟が纏っている“圧”が、封印前とは明確に変質している。
そして。
五条が静かに口を開く。
「あのさ……オマエ、もっと言葉を選んだ方がいいんじゃないか?」
その声音は穏やかだった。
怒鳴り声ではない。
感情を爆発させてもいない。
だからこそ異常だった。
次の瞬間。
羂索の視界から五条悟が消えた。
否。
認識が追い付かなかった。
空間移動ではない。
転移でもない。
純粋な移動速度。
だが加速の過程が存在しない。踏み込みも予備動作もなく、五条悟という存在だけが結果として羂索の目の前へ到達していた。
衝撃。
首へ凄まじい力が食い込む。
「グフッ!」
羂索の身体が浮いた。
五条悟の片手が、羂索の首を掴み、そのまま軽々と持ち上げている。指先が喉元へ食い込み、頸骨が軋みを上げ、呼吸が強制的に遮断される。
(見えなかった!捉えられなかった!)
羂索の脳内へ警鐘が鳴り響く。
六眼を持つ五条悟の速度は元々異常だった。だが今の動きは違う。速いという次元ではない。認識の外側から結果だけを押し付けられた感覚。千年を生きた羂索ですら、動作工程そのものを視認できなかった。
五条悟は羂索を片手で吊り上げたまま、静かに顔を寄せる。
蒼い瞳が至近距離で細められた。
「今際の際だぞ」
その瞬間。
羂索の背筋へ、生まれて初めて“死”の感覚が走った。
空性結界は、既に消え去っていた。
そこはもはや神域ではない。
ただの広間だった。
千年積み重ねられてきた静寂も、天元が維持し続けてきた結界秩序も、五条悟という存在が降り立った瞬間に押し潰されてしまった。
その中心で。
天元は五条悟を見ていた。
(五条……悟?)
天元の意識が揺れる。
獄門疆裏は、まだここに存在している。
天元はそれを確かに認識していた。封印解除の為の裏口は未使用。術式構造も変化していない。獄門疆は“開門”と“閉門”を絶対法則として成立させる特級呪物であり、内部からの破壊など理論上不可能な筈だった。
封印とは概念である。
単なる箱ではない。
内部へ閉じ込められた対象を“世界から隔離する”事で成立する結界系呪物。その法則性は極めて強固であり、術式として既に完成している。故に、内部から力尽くで破壊するという発想自体が成立しない。
だが五条悟はそこに立っている。
その存在だけで周囲空間が軋み、漏れ出した呪力が空気そのものへ圧力を発生させていた。
だが天元が真に異常を感じているのは、そこではない。
視線が揺れる。
(……!)
気づいた。
五条悟の肉体内部。
そこを循環しているものが、単なる呪力だけではない。
呪力の流れに混ざって、“別の流れ”が存在している。
金色。
淡く発光しながら、血流に沿い、神経へ絡み付き、骨髄を巡り、肉体全体を静かに循環している。それは呪力に似ている。だが根本的に違う。
もっと古い。
もっと根源的。
生命そのものが持つ“光”のような何か。
虎杖悠仁。
そして死から甦った禪院直哉。
彼等の内部にも存在していた異質な“流れ”。
だが五条悟のそれは規模が違う。密度も、純度も、格も、まるで別次元だった。虎杖悠仁が内側から漏れ出しているのに対し、五条悟の“流れ”は完全に制御されている。
静かだ。
あまりにも静か過ぎる。
まるで最初から肉体の一部だったかのように、自然に循環している。
そして——後光。
五条悟の背後。
そこへ薄らと、金色の輪が浮かび上がっていた。
完全な円ではない。
揺らぎながら、淡く、薄く、それでも確かに存在している。虎杖悠仁が纏っていた後光より控えめではあるが、天元の視界にははっきりと映っていた。
通常の術師では認識できない。呪霊へ近づき、人外へ変質した今の天元だからこそ見える異常。
呪力ではない。術式でもない。
もっと別の領域に存在する“何か”。
それが今の五条悟には宿っている。
天元の喉が僅かに鳴る。
千年を生きた。
呪術全盛の平安を知り、宿儺を知り、羂索を知り、数え切れない術師達を見続けてきた。その天元ですら、目の前の現象へ答えを出せない。
理解不能。
未知。
それは天元にとって、千年振りに味わう感覚だった。
そして五条悟は羂索の首を掴み上げたまま、静かに立っている。
その姿を見た瞬間。
天元は、ある錯覚を覚えた。
人間ではない。
目の前に立っているのは、“人”という器を借りて顕現した別の何かではないのか——と。
虎杖宿儺頼光金時「ん?」