武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
「今際の際だぞ」
五条悟の声音は異様な程静かだった。怒鳴り声ではない。激情に満ちた威圧でもない。だが、その一言が放たれた瞬間、薨星宮内部を漂っていた湿った呪力が一斉に沈黙する。崩壊した空性結界の残滓が微かに軋み、床へ散乱していた呪霊の死骸から漂う腐臭すら押し潰されたように停滞した。
羂索は首を掴まれたまま宙へ持ち上げられている。夏油傑の喉骨がミシミシと悲鳴を上げ、圧迫された気道から濁った呼吸音が漏れ出していた。首筋には血管が浮き上がり、酸素不足によって視界が暗く染まり始めている。それでも羂索は笑った。否、笑おうとしていた。
「ガフッ……苦しいから離してくれるかな?」
掠れた声を吐き出しながら、羂索は空いている片腕をゆっくりと持ち上げる。その動作に焦りはない。千年生き延びてきた怪物特有の執念と執着だけがあった。瞬間、腕の皮膚が内側からボコボコと膨張し、裂け目から黒い影が濁流のように噴き出す。それは百足だった。一本や二本ではない。数百、数千にも及ぶ黒い百足達が床を埋め尽くし、壁を這い、天井を覆いながら五条悟へ殺到する。牙には呪毒が滲み、外殻は呪力によって鋼鉄以上の硬度を帯びていた。群体となった時点で一つの災害として成立する呪霊の奔流。それが津波のように押し寄せる。
だが、届かない。
百足達は五条へ触れる寸前で停止した。脚を狂ったように蠢かせ、顎を打ち鳴らし、呪力を噴き出しながら前進しようとしているにも関わらず、一ミリたりとも先へ進めない。無限。五条悟と外界の間に存在する絶対不可侵領域。到達という結果そのものを否定する理不尽が、数千の呪霊達を空間へ縫い付けていた。
五条が空いている腕を軽く振るう。
轟、と空気が爆ぜた。
呪力衝撃が真正面から百足達へ叩き込まれ、群体構造そのものが一瞬で圧壊する。外殻が砕け、肉が潰れ、黒い体液が霧状となって周囲へ飛び散った。断末魔すら上げられないまま、数千の呪霊達が跡形も無く消滅していく。その光景を見ながら、羂索は改めて理解していた。術式性能、呪力量、演算能力、肉体制御、その全てが“術師”という枠組みを逸脱している。これこそが五条悟。呪術界という世界そのものの均衡を単独で破壊した男だった。
「傑の身体を返してもらおうかな」
五条が軽く言う。あまりにも自然な口調だった。まるで貸した物を返せと言っている程度の声音。だが、青く輝く六眼だけは一切笑っていない。視線は羂索の額、その縫合痕へ完全に固定されていた。
(終わりだ……!これが詰みってやつ?いやぁ……でも面白いものが見れたかな。ハハッ)
羂索は理解していた。反重力機構も間に合わない。極ノ番も領域展開も不可能。今この瞬間、自分は完全に五条悟へ制圧されている。だが同時に歓喜もしていた。千年生きても辿り着けなかった未知が目の前にある。虎杖悠仁、宿儺、そして今の五条悟。呪力だけではない、もっと別の何かへ到達し始めている存在達。その片鱗を見れたという事実だけで、術師としては満足ですらあった。
五条の指先が羂索の額へ触れる。
ゆっくりと。
だが一切の躊躇なく。
ブチブチ、と湿った音が鳴った。縫合痕へ差し込まれた指先が呪力で編まれた縫い糸を引き千切り、皮膚を裂き、頭蓋上部をズラしていく。血が流れ、肉が開き、その奥から生々しい脳組織が露出した。無数の触手。脈動する神経。人間の死体へ寄生し続けてきた怪物の正体が、ついに眼前へ晒される。
「キモッ!!」
九十九が露骨に顔を顰めた。
「……そういうことか」
脹相が低く呟く。脳を死体へ移し替え、肉体を渡り歩く事で千年もの時間を生き延びてきた術式。その執念、その異常性、その全てが視覚情報として理解できてしまった。
五条は無言のまま脳を掴む。
グジュ、と嫌な音が鳴った。
触手が暴れ、神経が引き千切れ、夏油傑の頭部内部から脳が強引に引き摺り出される。同時に支配を失った夏油傑の肉体が力なく床へ崩れ落ちた。長い黒髪が石床へ広がり、血液が静かに滲んでいく。
「私の意思を継ぐものが現れるよ」
脳についた小さな口が喋る。最後まで羂索は羂索だった。死を目前にしてなお、自身の計画と混沌が未来へ残る事を信じている。
「だから?」
五条は冷めた目で脳を見下ろす。その瞬間、側へ天元が現れた。
「待て……五条悟。その子を殺せば呪霊操術で取り込まれていた呪霊が一気に解放される」
天元の声音には珍しく焦りが混じっていた。羂索が保有していた呪霊の総数は計り知れない。特級、準特級、数え切れない低級呪霊。その全てが制御を失えば、日本全土が再び地獄へ変わる可能性すらある。
だが五条悟は、掴んだ脳をギュッと握り潰しながら静かに言った。
「大丈夫」
グシャ、と脳組織が指の間から潰れ、白と赤の液体が飛び散る。その瞳には一切の不安が存在しない。絶対的自信。否、事実としての確信。
「僕、最強だから」
五条がそう言った瞬間だった。
床へ倒れていた夏油傑の肉体、その胸部から黒い染みのような闇が滲み出す。最初は影だった。だが次第にそれは液体のように広がり始め、薨星宮の石床を侵食しながら周囲一帯へ拡大していく。空気が変わる。温度が落ちる。肺へ入り込む空気そのものが腐臭を帯び、血と膿と泥を混ぜ合わせたような濃密な悪意が広間全域へ充満した。
次の瞬間、闇が“割れた”。
グチャリ、と肉袋が裂けるような音が響き、その奥から呪霊が溢れ出す。腕。牙。触手。複眼。獣の顔を持つもの、人間の顔だけを大量に貼り付けたもの、下半身だけが異様に肥大化したもの、肉塊の中央に口だけが存在するもの、形容不能な異形達が黒い濁流となって噴き出し始めた。
それは解放だった。
羂索が千年かけて蒐集し、呪霊操術によって取り込み続けてきた膨大な呪霊群。その支配が消失した事によって、制御を失った呪い達が本能のまま現世へ雪崩れ込もうとしている。
呪力が暴風のように吹き荒れる。
低級呪霊同士が互いを喰らい合いながら肥大化し、中級クラスが周囲の空気を侵食し、準一級相当の呪霊が産声のような咆哮を上げる。薨星宮内部の壁面が軋み、残骸となっていた結界術式が濁流のような呪力へ引き裂かれていく。もしこのまま地上へ漏れ出せば、日本全域が再び呪霊災害へ呑み込まれる事は明白だった。
五条悟は静かに拳を握った。
構えは自然体。
だが、その瞬間に空気が張り詰める。無下限呪術による不可侵領域が展開され、周囲を漂っていた呪力塵が弾かれた。破れた服の隙間から覗く筋肉が静かに軋み、血管を巡る金色の“流れ”が薄く発光する。青く輝く六眼は既に呪霊の総数、配置、呪力循環、移動予測、その全てを演算し終えていた。
九十九由基も肩を回しながら前へ出る。
凰輪が独りでに浮遊し始め、ギチギチと質量圧縮の音を響かせていた。脹相は合掌を結び、掌の中で血液を高速回転させる。壊相は背中から巨大な血翼を展開し、血塗は低姿勢のまま床へ血液を撒き散らし始めた。
誰一人として言葉を交わさない。
必要がない。
この場にいる全員が理解していた。ここから先は、純粋な殲滅戦だと。
最初に動いたのは呪霊側だった。
大型の獣型呪霊が床を砕きながら突進する。全長は十メートルを超えている。皮膚表面には無数の人面が浮かび上がり、それぞれが泣き叫びながら口から黒い液体を撒き散らしていた。呪力によって強化された四肢が石床を抉り、暴風を巻き起こしながら五条へ迫る。
五条は避けない。
ただ一歩踏み込む。
踏み込みに合わせて腰が沈み、肩が僅かに回転し、その流れのまま拳が放たれた。
轟音。
拳が呪霊の顔面へ接触した瞬間、肉体中央から圧壊が始まる。頭蓋が砕け、眼球が破裂し、背骨が内側から飛び出した。衝撃は止まらない。質量を失った肉塊が後方へ吹き飛びながら空中で爆散し、血肉と呪力残滓を薨星宮全域へ撒き散らした。
その直後、上空から複数の飛行型呪霊が急降下する。
壊相が羽ばたいた。
血翼が空気を切り裂き、数百枚規模の血刃が散弾のように射出される。刃は飛行呪霊達の胴体へ突き刺さり、そのまま肉を切断した。翼が千切れ、内臓が飛び出し、墜落した呪霊が床へ叩き付けられる。そこへ血塗が滑り込んだ。
「ヒャハッ!!」
幼い声。
だが攻撃は凶悪だった。
床へ撒かれていた血液が一斉に跳ね上がり、槍のように変形する。呪霊達の口腔、眼窩、腹部へ血槍が突き刺さり、内部から肉体を引き裂いた。破裂した臓腑が飛び散り、黒い体液が霧状となって漂う。
脹相は静かだった。
合掌。
圧縮。
百斂。
掌の中で極限まで収束した血液が甲高い音を響かせる。そして脹相が指先を動かした瞬間、穿血が放たれた。
赤い閃光。
直線上に存在していた呪霊達がまとめて消し飛ぶ。胴体に穴が空き、肉が抉れ、後方へ並んでいた呪霊すら貫通しながら穿血は突き進む。その速度は音を超え、発射と命中が同時だった。
九十九が笑う。
「ははっ、いいねぇ!!」
凰輪を蹴り抜いた。
超高密度へ圧縮された球体が空気を破裂させながら突き進み、呪霊群中央へ直撃する。着弾と同時に衝撃波が発生し、数十体規模の呪霊がまとめて圧壊した。肉も骨も関係ない。ただ質量の暴力だけが全てを押し潰し、薨星宮内部へ赤黒い血霧を撒き散らしていく。
そして、その中心で五条悟だけは静かに前へ歩き続けていた。
呪霊が咆哮を上げながら五条悟へ飛び掛かった。
人型だった。だが人間ではない。全身を黒い毛で覆われ、肩から先だけが異様に肥大化している。裂けた口腔からは何本もの舌が垂れ下がり、腐臭混じりの唾液を撒き散らしながら腕を振り上げた。その爪には呪力が集中しており、掠めるだけで特級相当の結界術すら切断可能な密度へ到達している。
五条は動かない。
ただ掌を翳した。
それだけだった。
瞬間、呪霊の肉体中央が歪む。内側から不可視の圧力に握り潰されたように胸骨が陥没し、背骨が砕け、内臓が破裂した。次いで全身へ亀裂が走り、肉片と黒い呪力残滓を撒き散らしながら爆散する。破裂音と共に飛び散った血肉は無下限へ阻まれ、五条の目前で静止したまま塵へ変わっていった。
次の呪霊が来る。
蛇の胴体へ無数の赤子の顔が癒着した異形だった。床を滑るように疾走し、薨星宮内部へ耳障りな泣き声を響かせながら牙を剥く。その速度は速い。準一級術師なら反応すら困難な突進だった。
五条は一歩だけ踏み込んだ。
距離が消える。
蒼による空間収束。
呪霊の目前へ瞬時に現れた五条が、人差し指を軽く突き出す。その動作には力みすら存在しない。ただ触れるだけの、余りにも小さな接触。
だが接触した瞬間、呪霊の頭部が消えた。
頭蓋が潰れたのではない。弾け飛んだ。圧縮された衝撃が内部から炸裂し、眼球、脳漿、牙、骨片が放射状に飛散する。残った胴体も慣性を失ったまま崩れ落ち、床へ叩き付けられる頃には黒い泥状へ変質していた。
五条は振り返らない。
既に次を見ている。
六眼が戦場全域を捉え続けていた。
九十九由基が大型呪霊の群れへ突っ込む。凰輪が超高密度へ圧縮され、空気を悲鳴のように震わせながら回転する。そのまま拳を振り抜いた瞬間、前方一帯の呪霊達がまとめて圧壊した。骨が砕け、肉が潰れ、数十体規模の呪霊が血霧となって薨星宮内部へ撒き散らされる。
脹相は合掌を維持したまま穿血を連射していた。赤い閃光が縦横無尽に走り、呪霊の群れを次々と貫通していく。壊相の血翼が空中を埋め尽くし、射出された血刃が飛行型呪霊を細切れへ変え、血塗が床へ撒いた血液が槍となって下方から呪霊達を串刺しにした。
戦闘は長引かなかった。
羂索という支配者を失った呪霊達は統率を欠き、本能のまま暴れるだけの存在へ成り下がっている。特級こそ既に消滅したが、残存戦力はなお膨大だった。だが、それでも。
ここにいたのは五条悟。
九十九由基。
脹相達九相図兄弟。
現代呪術界最高峰の戦力だった。
一分後。
薨星宮内部を埋め尽くしていた呪霊群は、完全に沈黙していた。
床には黒い血液と肉片が積み重なり、空気中へ漂っていた濃密な呪力残滓も徐々に薄れていく。破壊し尽くされた広間には荒い呼吸だけが残り、天井を失った薨星宮へ外気が流れ込み始めていた。
その時、空間が静かに揺らぐ。
天元が現れた。
以前よりも更に人外へ近づいたその姿は、もはや“人間”という輪郭を辛うじて留めているに過ぎない。長く伸びた頭部、異様に薄い肌、そして周囲へ滲み出る古びた呪力。その存在そのものが結界術式の塊だった。
天元は全員を見渡し、静かに口を開く。
「羂索は死んだ。だが、まだ死滅回游は終わらない」
空気が変わった。
九十九の眉が動く。
脹相が僅かに目を細める。
五条悟だけは静かだった。
その青い瞳が、真っ直ぐ天元を見据える。
「天元、あんただろ」
低い声。
だが確信があった。
九十九が顔を顰めながら振り返る。
「……どういうことだ?天元」
天元は沈黙する。
薨星宮内部へ重苦しい空気が流れた。崩壊した結界の残滓が揺らぎ、遠くで瓦礫の崩れる音だけが響く。
やがて天元は、静かに口を開いた。
「……そうだ。羂索は厳密に言えば死滅回游の支配者ではない。あの子は泳者管理と進行調整を担っていたに過ぎない。この死滅回游そのものは、私が日本全土へ張り巡らせた浄界を基盤として発動している」
九十九の表情が変わる。
怒りだった。
「お前が浄界を消せば、羂索の目論見は一発で消し飛んだってことか!?」
怒声が薨星宮へ響く。
天元は否定しなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「……そういうことだ」
「なら何故そうしなかった?さっさと浄界を消せば、死ななかった命があった」
脹相が腕を組みながら言った。
その声音には怒気が混じっていた。渋谷で死んだ人々。死滅回游によって殺し合わされた術師達。兄弟と共に見てきた惨状。その全てが脹相の脳裏に焼き付いている。薨星宮内部へ漂う血と腐臭の匂いが、今この瞬間にも積み重なった死を嫌でも思い出させていた。
天元は静かに脹相を見る。
人外へ変質したその顔に表情は薄い。だが、長く生き過ぎた存在特有の疲弊だけは確かに滲んでいた。
「私は天秤にかけた。そしてそれは羂索も同じだ。私が浄界を解除すれば、千年間脈々と続いた呪霊との戦い、結界術の叡智、日本全土へ張り巡らされた呪力循環、その全てが崩壊する可能性があった。羂索はそこへ賭けたのだ」
九十九が眉間へ皺を寄せる。
「可能性、ねぇ……」
「軽い話ではない」
天元の声が僅かに低くなった。
薨星宮の崩れた天井から外気が流れ込む。だがその風すら、今の空気を和らげる事はできなかった。
「現在の日本呪術界は、私を中心とした結界術によって成立している。補助監督による帳、呪術高専の防衛結界、忌庫封印、呪力循環の安定化、霊脈制御、それら全てが浄界を基盤として構築されているのだ。浄界を消すという事は、単純に“死滅回游を止める”だけでは済まない」
天元の周囲へ薄く術式式盤が浮かぶ。
日本列島。
霊脈。
結界網。
膨大な情報が幾何学模様となって展開され、空間へ投影された。
「呪力循環が崩壊すれば、日本全域で結界暴走が起こる可能性がある。封印されている呪物、呪霊、霊地、それらの均衡が一斉に崩れれば、結果として更に多くの死者が出る危険性があった」
脹相は黙ったまま聞いている。
納得したわけではない。
だが、嘘を言っていない事だけは理解できた。
羂索はそこを利用した。
天元という存在が、“多数を守る為に少数を切り捨てる”選択を行うと理解していたからこそ、死滅回游という巨大術式を成立させたのだ。
九十九が舌打ちする。
「胸糞悪い話だな。結局、全員が人類全体とか未来とか言い訳しながら、目の前の死人を積み上げてる」
「否定はしない」
天元が答える。
その言葉には言い逃れがなかった。
五条悟は黙っていた。
破れた服の隙間から覗く肉体には、今も薄く血脈を沿って金色に発光している“流れ”があった。
「で?」
五条が口を開く。
「死滅回游はまだ終わってない。羂索は死んだ。なら次はどうする?」
天元は僅かに沈黙した。
その沈黙が重い。
薨星宮内部に残る呪力残滓が揺らぎ、崩れた瓦礫の隙間から小さな石片が転がり落ちる音だけが響く。
やがて天元は、ゆっくりと告げた。
「死滅回游は既に起動した術式だ。羂索の死は進行役を失わせただけで、術式そのものは継続している。完全停止させるには、“浄界そのもの”へ直接干渉する必要がある」
「つまり?」
九十九が問う。
天元の視線が、ゆっくりと五条悟へ向いた。
「最悪の場合——私を
「それは絶対にダメだ。お前は殺さない。これまで同化してきた星漿体の
九十九が怒りを滲ませながら言った。
薨星宮内部へその声が低く響く。先程まで呪霊達を殲滅していた空間には未だ血と腐臭の匂いが濃く残っており、崩壊した石壁からは粉塵が舞い落ち続けている。その瓦礫の中心で、九十九だけは真っ直ぐ天元を睨んでいた。
隣に立つ五条悟の表情が僅かに変わる。
星漿体。
その単語が呼び起こしたのは、過去だった。
天内理子。
高専時代、自身が守れなかった少女。沖縄で笑い、未来を望み、それでも最後には頭部を撃ち抜かれて絶命した命。その死は夏油傑を壊し、五条悟という男の在り方すら変えてしまった。
五条は静かに天元を見据える。
青い六眼が細められた。
獄門疆内部で如来神掌の修行を続け、死を経験し、再び生を得た今の五条には、以前には見えなかったものが見えている。
魂の輪郭。
生命の流れ。
存在そのものの残滓。
天元の周囲には、薄く光る無数の“何か”が張り付いていた。女。少女。幼い気配。消えかけた祈り。積み重なった微かな光達が、長い年月を経てなお天元の内側へ溶け切らず残っている。
歴代星漿体。
同化され、消え、天元という巨大な結界存在の一部となった命の痕跡だった。
天元は静かに九十九を見る。
「何が聞こえる?」
問い掛けだった。
同じ星漿体だった九十九にしか分からない何かがあると理解しているのだろう。だが九十九は眉を顰めたまま短く答える。
「教えない」
天元は数秒沈黙した後、静かに目を閉じた。
「……そうか」
脹相が腕を組みながら口を開く。
「その死滅回游を終わらせるには、貴様を殺す以外にも方法があるんだろ?知っているはずだ」
「ある」
天元は即答した。
崩れた天井から流れ込む風が長衣を揺らし、その周囲へ薄く結界式盤が浮かび上がる。日本列島を模した術式構造が空間へ投影され、無数の結界線が脈動していた。
「だが今現在において、それはかなり厳しい条件となる。死滅回游へ参加し、点を入手し、死滅回游を終わらせるように仕向ける総則を追加しなければいけない」
「なんだ、簡単じゃないか」
五条が静かに上を向きながら言った。
その声音には焦りがない。むしろ余裕すら滲んでいる。
九十九が天元へ視線を向ける。
「具体的には?」
「コガネに浄界の解除を盾に交渉を行う。死滅回游は浄界を基盤として成立している以上、私が本気で浄界解除へ踏み切れば、術式そのものが重大な不安定化を起こす。そこへ意図的な矛盾……バグを発生させ、こちら側へ有利な総則追加を通す」
九十九が鼻で笑った。
「なるほどね。この死滅回游は浄界を展開してるお前が実質ゲームマスターだから、それを人質に取ればいいと」
「そうだ」
天元は頷く。
「だが問題は別にある」
その瞬間、五条が口元を僅かに吊り上げた。
「分かってる。宿儺でしょ」
軽い口調だった。
だが、その青い瞳の奥には強烈な光が宿っている。恐怖ではない。警戒でもない。それは純粋な高揚だった。
最強同士の衝突。
千年前の怪物。
呪いの王。
その存在を前にしてなお、五条悟は笑っている。
天元が静かに五条を見る。
「気づいていたか」
「まぁね」
五条はそう言いながら床へ倒れている夏油傑の肉体へ視線を落とした。
長い黒髪。
見慣れた顔。
高専時代、隣で笑っていた親友の姿。
羂索が抜け落ちた今、その肉体にはもう悪意も呪力も存在していない。ただ静かに、夏油傑だったものが横たわっているだけだった。
五条は数秒黙った。
六眼の輝きが僅かに弱まる。
そして静かに口を開いた。
「先ずは傑の身体を弔ってくる」
その声には先程までの軽さがない。
九十九も、脹相達も、誰も口を挟まなかった。
五条はゆっくりと夏油傑の亡骸へ歩み寄る。
「それからかな」
静かに呟いた。
時は少し遡り、獄門疆から五条悟が脱出した頃。
京都コロニーでは、激戦という言葉では足りないほどの殺し合いが続いていた。
瓦礫となった街区は既に地図上の意味を失い、道路は何度も殴り抜かれて溝と陥没を重ね、崩れたビルの鉄骨は熱と衝撃で飴のように曲がっている。そこに立つのは、九陽神功を開花させた禪院直哉の肉体を奪って完全受肉した両面宿儺、平安の討魔頭である源頼光、そして頼光四天王坂田金時。時代も理も異なる怪物達が同じ地表に足を置き、拳と術式と“流れ”を交差させるたび、京都コロニーそのものが巨大な太鼓の革のように震えていた。
頼光が踏み込む。
黒い雷を纏った足裏が砕けた舗装を噛み、沈み込むより早く反発を奪って前方へ跳ぶ。右拳は肩からではなく腰、背骨、足裏、呼吸の奥から連動して放たれ、空気を焼く紫電を伴いながら宿儺の胸元へ突き込まれた。宿儺は四つの瞳を微かに細め、二本の腕でその拳を受け止める。骨と骨ではなく、呪力と内力を纏った肉体同士が衝突した瞬間、雷光が圧壊し、拳圧が横へ逃げ、周囲の瓦礫が同心円状に吹き飛んだ。
宿儺は受け止めた姿勢のまま、残る二本の腕を一気に振るった。片方は頼光の側頭部を狙い、もう片方は肋骨の下を抉る軌道を描く。四本腕という構造が単なる手数ではなく、掌印、打撃、防御、斬撃の準備を同時に成立させるための理想形であることを証明するような動きだったが、その横合いへ金時が巨体を差し込む。丸太のような前腕が二本の腕撃を受け止め、筋肉の繊維が内側で裂けるような音を立てながら膨張し、踵が地面へ食い込む。
「捌」
宿儺が低く呟き、残っている手を金時の腹へ添えた。掌が触れた瞬間、金時の腹筋の上を不可視の線が走り、次いで肉が裂ける。皮膚、筋膜、腹直筋がまとめて切り開かれ、分厚い肉の奥から血が噴き出した。切断面は鋭利すぎて一瞬だけ痛みより冷たさを残し、遅れて熱と激痛が爆発する。金時は歯を食い縛ったが、斬撃に押し込まれた衝撃で巨体が浮き、血飛沫を引きながら後方の瓦礫山へ叩き込まれた。
金時が吹き飛ばされた隙間へ、頼光が返しといわんばかりに踏み込んだ。雷光を纏った拳が今度は顔面へ向かう。拳の軌道上では空気が圧縮され、耳を刺す甲高い破裂音が生まれ、拳先に集まった黒雷が宿儺の頬骨を砕こうと牙を剥く。宿儺の二対の瞳がそれを捉え、首を僅かに傾けた。拳は顔面を穿つ寸前で頬を掠め、皮膚の表面を裂く程度で抜けていく。血が一筋流れた瞬間、宿儺の口元が愉しげに歪んだ。
「第二式——金頂仏灯」
宿儺が拳を握る。九陽神功によって不壊へ近づいた直哉の肉体、その経絡を宿儺の呪力が強引に支配し、さらに虎杖悠仁の内側で学び取った“流れ”が金色の脈動となって腕へ集中していく。肩、上腕、肘、拳までが一つの杭へ変わり、四本の瞳が頼光の胴体中心を測った。次の瞬間、拳が頼光の腹部へめり込み、衝撃が肉体の表面ではなく内側へ通った。
「ガハッ!!」
頼光の背中側から血が霧のように噴き出した。肋骨が内側から軋み、胃腸が圧迫され、腹腔に叩き込まれた力が逃げ場を失って全身を揺さぶる。足裏は地面へ踏み止まろうとしたが、拳の衝撃に押されて身体ごと吹き飛び、数十メートル先の道路へ背中から叩き付けられた。アスファルトが波打つように砕け、粉塵と血の匂いが混ざった生臭い風が戦場を撫でる。
少し離れた場所で、虎杖悠仁と禪院真希はそれを見ていた。虎杖の右手には欠けた小指の痛みがまだ残っている。そこから宿儺が外へ出たという事実は、痛み以上に重く胸へ沈んでいた。真希は呪具を握り、いつでも飛び込める重心を保ちながらも、この瞬間に割って入れば逆に場を乱すと理解している。頼光と金時、そして宿儺の間に流れる戦闘の密度は、半端な介入を許さないほど濃かった。
その時、大地が揺れた。
「ん、地震……」
虎杖が僅かに顔を上げた瞬間、真希は眉を顰め、足裏で地面の震動を測るように重心を落とした。崩れたビルの鉄骨が鳴り、遠くの瓦礫が跳ね、コロニーの境界に張られた結界膜すら微かに波打っている。しかし真希の身体が捉えた揺れは、宿儺達の戦闘で発生した局所的な衝撃とは明らかに違っていた。深く、重く、地脈そのものを通ってくるような震動だった。
「この揺れ、戦いの余波じゃねぇ」
京都コロニーを、いや日本全土を大きな揺れが襲っていた。それは、五条悟が日本海溝8000メートルの深海で赫を放ち、圧縮された海水と岩盤をまとめて穿った余波であり、海底で生まれた衝撃が地殻を走り、呪力の循環網にまで波及してきたものだった。常人にはただの地震にしか思えない。だが虎杖の感覚は、その奥にある“誰か”の気配を掴んでいた。
「この感じ……五条先生だ」
虎杖の声は確信に近かった。五条悟の呪力、その鋭く澄んだ圧に、獄門疆内で死を越えたことで混ざり始めた金色の“流れ”が遠くからでも分かる。空気の味が変わり、肌を撫でる風が微かに震え、魂の輪郭へ直接触れてくるような存在感が日本全土へ薄く広がっていた。
「は? 自力で封印を解いたのか? 東京組か?」
「それは分かんない。だけど確実に出た」
虎杖はそう答え、視線を宿儺の方へ戻した。宿儺、頼光、金時までもが同じ方向を見上げて佇んでいる。頼光は腹を押さえながらも目を細め、金時は血塗れの腹を押さえたまま瓦礫を押し退けて起き上がり、宿儺は四つの瞳を東京方面へ向けていた。誰も言葉を発しない数秒の間、戦場には炎の音と崩落する瓦礫の響きだけが残る。
やがて宿儺が虎杖を見た。
笑っていた。
直哉の肉体に刻まれた九陽神功の金色の“流れ”と、宿儺本来の呪力が黒い紋様の下で脈打ち、四本の腕がゆっくりと開かれる。二対の瞳には焦りも警戒もない。あるのは、己と同じ時代に相応しい強者が戻ってきたという純粋な歓喜だけだった。
「小僧!!やってきたぞ闘争の時代!!真の強者を決める時代が!!」
宿儺の声が京都コロニーの崩壊した街へ響き渡る。瓦礫が震え、炎が揺れ、血の匂いを含んだ夜風が一層熱を帯びた。虎杖は拳を握る。真希は呪具を構え直す。頼光と金時は宿儺を見据えたまま、東京から広がる五条悟の気配を同時に感じ取っていた。
人外魔境超常決戦——開始。