良い人間になりたい。
何が良いか悪いかは分からない。そのために自分を歪める気はさらさらない。それでも良い人間にはなりたい。
昔の自分がどんな人間だったのか、いつかを境に思い出せなくなった。
何となく分かっているのは、今の自分とは全く異なる生命体だったということだけ。なのに、──いや、だから、と言うべきか。やはり、かも。⋯⋯いつからこうなって、どうしてこうなって、何からこうなったのかは分からないのだった。
人間の身体は従来からテセウスの舟のようなものなのだった。代謝の連続のなかで繰り返し立ち替わり肉体の組成が入れ替わり続け、同じ機能のなかで退職と就職を繰り返し、違う存在になり続けることで生命を続けている。昨日の自分とは全く違う組成の継ぎ接ぎの肉の塊を、ただ脳髄が勝手に、同じ線の上に成り立っている自分だと宣言しているだけのことで、確固たる証拠として自分が過去に存在する同じ名前が銘打たれただけの肉塊の延長線上にいるものだとは言えないで居続ける。
その螺旋構造のように延々と繰り返される生命維持の中に、いつしか悪いプログラムが挿入されて、徐々に徐々に、ヒト亜族ホモサピエンスの道から逸れて、逸脱して、ある一定を超えたその日に、昨日とは少しだけ違う自分は、昨日は名乗れた人間を名乗れなくなってしまって、そんな風に地獄への道を這いずっている。
いつの間にか気付かぬうちに決定的に違う存在になってしまったこの異形は、人とは違う方法で人を愛している。
人間という種全体を、顕微鏡を覗いて観察日記を描くように愛している。
向こう側からレンズに向かって吐き掛けられる唾を拭うように愛している。
とまあ。
簡単に言えば、そんな悲しい生命体である己の愛し方は、相互に愛し合うことには向いていなかったのだ。
すぐ隣にいる貴方に取り出した望遠鏡はあまりにも大きすぎたのだ。
善い人間になりたい。
もっと普通で、在り来りに、幸せになりたい。
そんなものに身を窶した自分に何も思わなくて済むくらい、幸せになってみたい。
正しくなりたい。
間違っていないだけのナニカからいい加減成長したい。
そうなりたくて、別れた。
悩む余地の無い中で沢山悩んだけれど、依護メルティをこれ以上手元に置いておくのは間違っていると思った。
愛しているからこそ。
愛されているからこそ。
何の引け目もなく、別れなくてはならなかった。
できる限り冷たく、淡白に冷淡に、つまりは貴方みたいに振る舞ったつもりだった。
なのに、この体たらくだった。
振った手を、心配するなとアピールするみたいに顔の横に掲げたまま、ゆっくりと振り返り、
からからとスーツケースを優雅に転がし、
雑踏に掻き消される中でも確かにヒールの足音を鳴らし、
長くて綺麗な髪を靡かせ、
立派に人間らしい輪郭を上下に揺らして、
少女が世界へ融けて消えてゆく様を、ただ、
立ち竦んで、
呆然と、
──ああ。
PitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatter PitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatter PitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatterPitterPatter──。
押し流されてゆく。
雑踏に流されてゆく。
凄まじい足音は、滝壺の水音を思い出させる。
貴方との距離が引き伸ばされて、引き千切れて、俺はただ一人。
動けなかった。
氷漬けにされていたのかもしれないし、液状化していたのかもしれない。
喪ったものはあまりにも大きくて。
魂に穿たれた大きな洞が、自身の体表の面積よりも大きくて。
こんな感情が自分の中にあったのかと。
こんな欠落の余地が存在していたのかと。
そんな発見に驚きで頭がおかしくなりそうになる。すでにそうなっている。
分かり切った結末。自身で選んだ結末。それ以外にしようのなかった結末。
ただそれだけのこと。これが物語ならあまりにつまらないから笑ってしまう。何の陰影も凹凸も抑揚も存在しない。ひたすらに起伏の無い、欠伸が出そうで、つまらない起承転結。
その末が今だった。
善い人間になれただろうか。
少しは。
ぽつりぽつりと歩いて、東京駅の外へと繰り出した。日差しが眩しくて瞼を細める。
人間が大量に歩いていた。忙しなく歩み続けていた。誰も彼もが行くべき先を持って歩いていた。
──じゃあ。と、ふと思う。
俺は何処に行けばいいのだろうか。
分からない。
何処に行きたいのだろうか。
やはり分からない。
俺は、強いて言うなら、
「……道に迷ってる?」
厭な思考を断ち切るために、いつの間にやら目の前で立っていた少女の背中に声をかけた。
藤色の髪の少女だった。自身より年下だろう。明らかに不審な挙動で地図を必死に眺めている。彼女だけは今この瞬間に視界に映るもののなかで唯一、行き場を見失っているように見えて、妙に虫唾が走った。
「?」
振り返った少女の眼鏡の奥の瞳は、怪訝そうな色を宿していた。
依護メルティも恐ろしい程肌の白い少女だったが、彼女は彼女で病的に肌が白かった。異国から来たのかもしれない。
英語は文字にあるものでギリギリだ。仕方なく情けなくプライドも無く自動翻訳に頼ることにして、
「何か哀しいことがあったのですか?」
とても流暢な日本語が聞こえた。
「……日本語伝わるのね」
「きちんと勉強してきたので」
「偉いと思うよ。……じゃなくて。道に迷ってるなら案内するよ。俺もここの地元民では無いんだが」
「それも本題とは違います。道に迷っているのは貴方です。私も当然そうですが、意味が違います」
ふんす、と、豊満な胸を張って、少女は可愛らしく笑った。
こちらは困惑している。言葉の中身もそうだが、久しくこんなに害意の無い人間の言葉を聞いていなかった気がする。
「失礼でしたら申し訳ありません。しかし、あんまりに哀しい目をされているので。何かあったのですか?」
「……違うよ。哀しいのはもう終わったんだ。これからようやく陽の目を浴びることになるところ」
「嘘です」
少女は、胸の中で両手を絡ませて、はきはきとそう言った。
「そうだとすれば、もっと明るい表情をすると思います」
「今の俺が暗く見えるんなら気の所為だと思うけど」
「そんなことはありません。人を見る目には自信があります」
こうも堂々と宣言されると、幾ら自身が正しいと思っているものだとしても揺らぐなあ、としみじみ思う。
反論の余地を与える気が無いらしい少女は、そしてさらにその押し入り強盗具合を増してゆく。
「心当たりはあるのでしょうか? 無いのなら今すぐ探しましょう。不可逆なら歴史を変えてしまえばよいのです」
「……俺は正しくて善いことをしたんだよ。だから、良いんだ。敢えてわざわざ間違ったことをしなくても良い。あとの人生全部使って、それを消化するみたいに生きれば良い」
──少女は、首を傾げた。
依護メルティが絶対にしなかった、あからさまな困惑を浮かべた表情が、可愛らしく瞬いた。
「よく分かりませんが、貴方がそんな顔をする選択は正しくないと思います」
「誰かが我慢をしなくてはならない正解より、間違いでも笑っていられるものが、本当に良い選択だと、私は思います」
「分からないよ? 俺が人を殺すのをやめただけだったとしたらどうするの。貴方のせいで、俺は今からやっぱり人を殺しに戻るかもしれないよ」
「いえ。道に迷っている人に迷いなく声をかけられる人はそんなことをしません」
「⋯⋯知らない場所に貴方を誘導して殺したかったのかも」
「人を殺したいならそんなことは言いません」
「⋯⋯⋯⋯今ここでナタを振り回すかも」
「もう構いませんか?」
「思ったよりも辛辣だな⋯⋯」
溜息を吐こうとして、短い笑い声が漏れた。
それを聞いた少女は、意を得たりとばかりに笑った。
「人間の先輩として、教えて差し上げます。正しくないからといって無価値ではありません。感情は、判断を曇らせる障害ではありません。私たちは、正しいか正しくないかじゃない道を探すために、喜んだり悲しんだりするのです」
「貴方が今悲しいなら、抗いたいと思っているということだと私は思います。それが間違っていると、私は思いません。善いことだとも思いません。悲しいより、嬉しい方が良いのです。幸せじゃなくても、救われていなくても、悲しい方が嫌です。⋯⋯貴方がそんな顔をして、それを受け入れないといけないことよりも正しくないことなんて、きっとありません」
「貴方は、きっと、良い人ですから」
「人を見る目には、自信がありますから──」
──そうか。
人間には、俺が人間に見えるのか。
そんなに、哀しいように見えたのか。
「貴方は俺と全然違うね」
「そうでしょうか?」
「うん。⋯⋯貴方に見えるものが、俺には見えないらしい」
「逆もきっとそうですね。でも、だからきっと人は違うのです」
「俺の好きな人は、俺と少しだけ似てたんだ。話してる間は、そんなこと少しも思わなかったのに」
「それはきっと、素敵なことです。貴方はきっと、その方の色んな姿を見ていたんですね」
言われてしまったなら仕方ない。
思ってしまったなら仕方ない。
気付いてしまったのだから、もう止まれない。
「……ちょっと、行ってくる。迷子の貴方を置いて行くのは、少し気が引けるけど」
「いえいえ、良いんです。行ってきてください。私は、自分で道を探しますから」
ゆっくりと振り返る。
「不肖、マシュ・キリエライト。貴方の行く先が善いものであることを、祈らせて頂きます‼」
最後に、そんな声が聞こえた。
一瞬だけ振り返り、手を振って返した。
気持ちのよい、人間の善性の塊のような女の子は、やはり優しく笑っていた。別れとはきっと、こういうものであるべきだった。
▲▼▲
腕も脚も痛くて、しゃがみこんで動けない。
目の前に電車がいるのに、中に入れない。
いつまでこうしているつもりかと私の理性が怒っているけれど、仕方が無い。泣いていないだけ凄いだろう。
通り過ぎて行く人々は、少しだけ心配そうに私を見ているようだった。私だったら気付かないふりをして蹴飛ばしているだろうに。人間は優しく残酷に不干渉。不感症。
「何やってるの」
幻聴が聞こえた。
「腕も脚も痛いのよ。貴方の所為よ」
「ごめんね」
幻覚が見えた。
「忘れ物でもしたの?」
「貴方が忘れ物をしたから届けに来た」
「律儀ね」
夢を見ている。
私は、貴方に抱き締められている。貴方が、自発的に抱き締めてくれている。頭を撫でてくれている。
「何を忘れてたの」
「俺」
なんて都合の良い夢。
児戯に似てつまらない夢。
「俺のこと、連れてってよ。まだ、貴方と一緒に居たい。間違ってても、幸せになれなくても良いから。全部どうでも良いから」
「…………馬鹿ね、貴方」
「賢さなんていらない。正しさも気高さも高尚さも要らない。貴方だけが欲しい。貴方の隣が欲しい」
貴方は泣いていた。
その涙を、私はゆっくりと拭った。
「駄目かな」
「駄目な訳ないでしょう。遅いくらいよ」
「ごめんね。俺は王子様にはなれないみたい」
「そんなこと、分かってるわ。分かった上で、愛してるって、ずっと言ってたのに。気付いてくれないから。馬鹿よ、貴方」
私も、彼の背中をさすって、その頭を撫でてあげる。
そして、ずるずると引き摺られるように立ち上がって、所在なくぶら下がった手と手を繋ぎ合う。
「……驚いたわ。夢じゃないのね、貴方」
「生憎ね」
何度も、貴方に触れられない夢ばかり見ていた。ような気がしていたから。
「もう二度と、離さないで」
狭い車内に押し込まれて、スーツケースの上に重心を降ろした。
彼は目の前にいて、まじまじと私を見下ろしている。
目が合っている。
走り出してしまった車両の進行は、彼にとってはまさに動き出してしまった運命の象徴なのだろう。不可逆で不透明な未来へ放り出されてしまった彼の表情は落ち着きが無くて、酷く哀れだ。私としては気分が良い。
⋯⋯彼が狼狽する様を見たのは久し振りだった。
随分と柄じゃないことをしていたのだなと、そうなってから気が付く。
「⋯⋯お姫様」
「なあに?」
見慣れた様子の彼は。
見慣れない笑い方をしていて。
だから私も笑ってあげる。
貴方にとってそれが、初めての私なのか、いつも通りの私なのかは分からないけれど、
観測し合えているというだけで、妙に心地良い。
「離れたくないかも」
何よそれ、と言って、足を伸ばした。
彼の向こう脛にこつりと爪先が当たった。
もう何処も痛くはなかった。
私は弱くなった。強くなる機会を喪った。
飛べない私は、泥の中で生きる。
貴方を啄んで、いつまでも。
▲▼▲
「人を殺したら、どんな気分がするんだろうね」
霧雨が降っている。
五月の雨は生温い。生物の体温に似ている。まだ雪の方が好きかもしれない。
好きな女ができたからと言って、好きな女に好きと言えたからと言って、好きな女に好かれたからと言って、この世界の全てを祝福できるほど脳髄の中に張り巡らされた病巣は浅くない。
寒色は寂しくて嫌いで、暖色は生温いから嫌いで、無彩色に意味はない。
五感で得られる万物万象への嫌悪が、この身を動かすプシュケーの根源。
元はと言えば、そもそも生まれたその瞬間から、生きるのに向いていない人間である。薄皮一枚の模様が変わったところで、その本質に大きな変わりは無い。使う言葉は醜く、子供のように我儘で、居丈高。
「そんなに悪い子ぶって。いつまで中学生気取りなの」
彼女はその全てを見透かして、その上で笑った。
「……真面目な話だよ。真面目にしてる話じゃないんだけどね」
「あんなに良いご両親からよくもまあここまで捻くれたものね」
「⋯⋯それは言わないでよ」
数ヶ月ぶりに日本に戻ってきた依護メルティは、やはり神聖な場所が好きであるらしい。バレエで鍛えた健脚で、モノレールを横目に山を登ってゆく。
「相変わらず体力が無いわね、貴方」
「貴方と違って腕二本分重たいんだよ」
余裕ぶったような表情で、その実ちゃんと余裕なのであろう彼女は、それでも隣にいる。律儀に自身が握った傘の影の中に居座って、出ていこうとはしない。
とはいえ、迷惑ではなかったし、邪魔でもなかった。
彼女は義手に頼るよりも自身に生活を委ねる方が好みであったらしい。折角用意した人工の腕も、自身が傍にいる間は殆ど使ってくれていない。
壮大に色々な経路を辿ったような気がしていた癖に、全ては綺麗に一巡して、元の位置に戻ってきてしまった。
貴方も自身も、出会った頃の姿で、出会ってすぐの頃ような会話を続けて、出会った頃に感じた電撃を今も味わって生きている。
随分とまあ愚かに回り道を続けていたものだ。
ずっとずっと、一緒にぐるぐると歩いていたものだ。
「⋯⋯別に、凡百を踏み躙っても気にしないでしょうね。だって、私だもの。今更誰に何を配慮するっていうの」
「お姫様はお姫様だしねえ」
「貴方だって。一日か二日くらいは見ていられないくらい動揺するでしょうけど、その先はあんまりなんじゃなくて?」
「⋯⋯そうかもね」
案外、ヒトの性格は変わらない。
何をしたって、何処に行ったって、誰といたって。多少取り繕うことを覚えたり、多少は落ち着いた言動を覚えたり、それは例えば使うことのできる語彙が増えた程度の成長でしかなくて、言葉の中身が大きく変わることはない。いつまでも幼いまま、だ。
或いは──元から賢い人間だったら、ずっと賢いままでいられるのだろうか? 生憎、その要件を満たしている瞬間の無い生涯を歩んでいるがゆえに、想像することすらできない。
「私が殺されたら、貴方はどうする?」
暫く続いた無言を唐突に破って、隣を歩く伴侶はそんな質問を投げ掛けた。
「誰かに殺される予定があるの?」
「貴方は誰かを殺す予定があってさっきの質問をしたのかしら」
「冗談だよ」
「⋯⋯舞い上がってない?」
「日本が好きなんだよ」
「そう。一人残ってもいいのよ」
「貴方よりは好きじゃないからいいや」
彼女はそれを聞いて得意気に笑う。
何を自慢気に思っているのかは分からない。その実、得意な気分になっているのはどちらかと言えばこちらだ。こんな表現は適切では無いだろうが、少しだけ滑稽だ。
「まあ、私には、貴方が殺される予定が少しだけ、無いとは言えないじゃない。だから、そうなったらどうなるかって、考えてみたの」
「ああ、だからこの前俺の寝顔見ながら泣いてたの」
返事の代わりに舌打ちが聞こえた。
お行儀が悪うございますよお姫様。
「……もういいわ。貴方が死んでも泣いてあげないんだから」
割とすぐ泣くお姫様は、可愛らしく拗ねてそんなことを言った。
拗ねた上でもやはりぴたりと身体を摺り寄せて肩の中から出て行かないので、可愛らしいものだ。本当に。
「それで。貴方は俺が死んだとき、どうしてくれるのかな」
「……笑わないで聞いて欲しいんだけど」
「うん」
「私、多分泣くことしかできないわ」
はっきりと。
雨音に掻き消されない程はっきりと。凛とした声で、少女は謳う。
「復讐してやるとか、貴方の為にも強く生きよう、とか。全然できないわ。貴方が消えたっていう事実だけがただ哀しくて、それだけで多分数日間殆ど何も食べられないでしょうね。そのまま餓死するのかも」
「死ぬんだったら最後に何か悪いことしてくれたら俺と同じとこ行けるよ」
「貴方悪い子だものね」
「悪い子だよ。貴方は良い子だからさ。一緒に地獄に行こうよ」
「閻魔大王に異議申し立てて一緒に天国行くからいいのよ」
少女は雨を見上げている。
天国を見上げているのか、或いは地獄に向かってゆく雨粒を見つめているのか。
「とかなんとか言っておいて、私はどうせあらゆる手段を尽くして下手人を地獄に突き落とすんでしょうけど」
「じゃあこれ何の話だったの」
「私が弱くなったって話」
つまり、──依護メルティは、そうなのだ。
自身の目には何も変わらないように見えている彼女の中には、それでも、明瞭に変容しているものがあるのだった。
「だから、なるべく傍にいて欲しいの。それだけよ」
「そう」
誰とも関わらないで生きてゆくべきだと思っていた。
誰も愛せないと思っていた。
別に間違ってはいない気もするけれど。
他に誰も愛せていないけれど。
夢なのではないかと思うときがある。
ある夜に目が醒めて、瞼を開いて、その先に眠る彼女がいなかったらと、くだらない妄想に浸るときがある。
目の前で少女が泣いていた。
まっすぐにこちらを見据えて静かに涙を流して、伸ばせない手をこちらに向けている。
……同じ痛みを抱えている人間が隣にいるという事実は、何よりも愛おしい。
「……もしも、お姫様が殺されたら、俺は多分また違う好きな人を捜すと思う」
壮絶な顔をして、少女が振り向いた。
その顎元に手を添えて、ゆっくりと額に唇を触れさせた。
「でもきっとそんな人は何処にもいないからさ。……俺にはお姫様しかいないんだよ」
貴方の形でしか埋まらない孔が空いている。
何にもなれないけれど、貴方を孔を埋めるためのただ一つにだけはなれる。
お互いに。
「行けるところまで一緒に来てくれると嬉しい」
「……良いわ。貴方には私しかいないんだものね」
五月雨の中を歩いている。
いつか一人になる日までは、きっと二人で。
神様でも英雄でもないただの凡夫が、寄り添い合って──それは絡まり合う朝顔の蔦の様に似ていた。
読了ありがとうございます。感想、評価してくださると幸いです。
以上を以て「さよならエトワール」は完結になります。最後まで付き合ってくださってありがとうございます。どうか依護メルティと愚かな男の子のことを愛してあげてください。
多分、藤丸立香とメルトリリスとはかけ離れたキャラクターに着地してしまったと思います。ただ、その二人が今の社会で生きるにあたって、強くあれなかったイフだとして、受け入れてくれると嬉しいです。
次の作品でまた会いましょう。