『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
臨界まで、あと九分。
崩壊した広間に渦巻く赤黒い魔力は、もはや物理的な熱量を持って石材を焼き、空気を歪ませていた。
その中心で、ゴブリンスレイヤーは剣を鞘に納めた。一切の武器を捨て、無防備な晒し身のまま、彼は死神――かつて救い出した少女へと、静かに歩み寄る。
「……そんな呪いに頼るくらいなら、俺を頼れ」
鉄兜の覗き窓から、静かで、けれど逃れようのない意志を宿した赤い眼光が放たれる。
「俺は勇者ではないから、世界は救わん。だが、ゴブリン退治なら引き受ける。……ゴブリンが出たら、俺が殺してやる。お前がその手を使わなくて済むように、俺が全て殺してやる」
それは、聖職者の救済でも、王の恩赦でもない。
ただ、同じ泥の中で小鬼を殺し続ける男が提示した、最も無骨で、最も誠実な「契約」だった。
「あ……」
女武闘家の瞳から、赤黒い曼荼羅の輝きが引き潮のように引いていく。
鉄兜を脱ぎ捨てたその素顔に、数年ぶりに「光」が灯った。彼女の頬を、熱い涙が伝い落ちる。
「……ゴブリンスレイヤー……さん……っ」
凍りついていた彼女の時間が、その一言で動き出そうとした。
しかし、それを許さぬ断罪の意志が、彼女の脳髄を内側から掻き毟る。
『――くははははッ!! 笑わせるな、小鬼殺しッ!!』
不浄の指針の、幾重にも重なった嘲笑が空間を震わせた。曼荼羅が再び、以前にも増して禍々しい深紅に染まり、彼女の意識を闇へと引き摺り戻す。
『貴様のような鈍間を頼れだと? どの口が言う。……数えろ。我らが「衝撃」一つで百の巣穴を塵にする間、貴様はたった一つの巣穴を潰すのに、どれほどの時間をかけている?』
指針の意志は、ゴブリンスレイヤーの「積み上げてきた歳月」を嘲弄の種にした。
『これまで何度死にかけた? 何度泥を啜り、無様に這いずり回った? 貴様は弱い。あまりにも脆弱だ。……そんな男に、何が守れる? 貴様がゴブリンを一匹殺す間に、世界では千の悲鳴が産まれているのだぞ!』
そして、指針は最も残酷な、彼女の魂の傷口に指を突っ込んだ。
『そして、忘れたか。……あの『始まり洞窟』を。……依代が暗闇の中で仲間の死を視て、その尊厳を汚され、助けを求めて泣き叫んでいたあの時……』
「あ……、あぁ…………っ」
女武闘家の瞳が再び、恐怖に濁り始める。
『――あの日も。貴様は間に合わなかったではないかッ!!』
指針の絶叫と共に、死神の身体が混沌の魔力を噴き上げた。
それは、過去の「失敗」を突きつける断罪。
あの日、彼女を救ったのは彼だった。
けれど、彼女が「壊される前」に間に合うことはなかった。
「……間に合わなかった。それは、事実だ」
ゴブリンスレイヤーは、血を吐きながらも、その視線を逸らさなかった。
指針が暴き立てた「真実」という名の絶望を、彼はそのまま受け止め、さらに一歩、前へ出た。
『もし貴様が真の「英雄」であったなら。もし貴様が白金等級であったなら、この娘は地獄を見ずに済んだ! 間に合わなかった貴様が、どの面を下げて「頼れ」などと抜かすかッ! 貴様の正義など、一分間の遅延で全てが灰になるゴミに過ぎぬのだッ!!』
指針の咆吼。
それは、ゴブリンスレイヤーという存在が抱える「最大の限界」であり、女武闘家が死神へと堕ちた「最大の理由」でもあった。
『……教団の記録映像で見たぞ、小鬼殺しよ。水の街の大司教……あの「剣の乙女」は、貴様のその「夢の中でもゴブリンを殺してやる」という、甘く、無意味な戯言に絆されたらしいが……』
不浄の指針の重なり合う声が、嘲笑と共に弾ける。
『反吐が出るな。あの大司教は、己の恐怖から逃げるために光に縋り、貴様という偶像に縋った。……自分を救い出せぬ弱者が、他人を救う英雄のフリをしている……。奴は司祭の言った通り、救いようのない「不良品」だ。だが――』
死神の右掌から、黒い火花が散る。その出力は、彼女の「自尊心」と「嫌悪」に呼応して再び跳ね上がろうとしていた。
『我らは違うッ!! 誰かの背中に隠れ、震えながら救いを待つあのような「不良品」と、我らを一緒にするな! 我らに貴様のような弱者の助けなど、微塵も、一欠片も必要ないのだよ!!』
女武闘家の身体が、自ら放つ魔力の重圧に軋む。指針は彼女の脳に、剣の乙女の「弱さ」と自分の「強さ」を比較させ、孤独であることの正当性を強制的に植え付けていく。
『悪夢など――己の掌で、跡形もなく叩き潰すのみッ! 震える夜など、その元凶ごと消し飛ばしてしまえばいい! それこそが、恐怖を支配した我ら「死神」の真理なのだからな!!』
死神の右掌に、これまでを凌駕する黒い衝撃が凝縮されていく。それは、自分を救えなかった過去への怒り、そして、今さら救おうとする者への苛立ち。
ドォォォォォォン!!
一際巨大な衝撃が放たれ、広間の空気が真空へと引き裂かれる。
だが、ゴブリンスレイヤーは避けない。衝撃波に全身を焼かれ、革鎧が弾け飛びながらも、その赤い眼光だけは、一歩も退かずに死神を射抜いていた。
「…………それで、いいのか。……独りで悪夢を叩き潰して。……その先に、お前の帰る場所はあるのか」
「……っ……」
「……お前の父が。……お前の仲間が。……お前に望んだのは、本当に、そんな独りきりの無敵か?」
「違う……。私は……私は、ただ……」
フードの奥から、静かな声が返る。
一瞬の静寂の後、黒い衝撃の嵐が、1党を飲み込もうと吹き荒れた。
『――愚論はもう十分だッ!!』
死神の喉から放たれたのは、もはや言葉の形を成さない、数千の怨念が共鳴する地獄の咆哮だった。
『この街諸共、貴様らを塵にしてやる。不純な未練も、間に合わなかった救済も、全てをこの世から「掃除」してくれるッ!!!』
女武闘家の両掌が、かつてない密度で黒紫色の魔力を凝縮し始める。
それは二十年前、北方軍を壊滅させた邪竜をも粉砕した、絶対的な「拒絶」の極致。発動すれば、中央街区のみならず辺境の街全域が、物理的な衝撃波によって一瞬で更地へと変わるだろう。
だが、その滅びの渦を前にして、ゴブリンスレイヤーは静かに短剣を鞘に納めた。
「…………」
鉄兜の覗き窓から漏れる赤い光が、ふっと消える。彼は構えを解き、両腕を無造作に下ろした。
「……ああ。俺たちの役目は、ここまでだ」
『……何だと? 絶望して命を差し出すか、小鬼殺しよッ!!』
「違う。……お前が俺との会話に、俺への『憎悪』に集中しているその時間が……必要だっただけだ」
ゴブリンスレイヤーの言葉と同時。
死神の背後、衝撃波が渦巻く「死の領域」の中から、一つの人影が静かに歩み寄ってきた。
『な……ッ!?』
【不浄の指針】が発狂したように回転する。
指針が捉えるのは「汚れ」のみ。
だが、いま彼女の背後に立つ存在からは、一滴の害意も、一欠片の劣情も、計算も、躊躇いも感じられない。
そこにあるのは、鏡のように澄み切った、あまりにも純粋な「悲しみ」と「友愛」。
死神が作り上げた「拒絶のシステム」にとって、それは存在しないも同然の「完全な死角」だった。
「武闘家さん……」
震える、けれど凛とした声。
死神が振り返るよりも早く、白銀の法衣を纏った女神官が、その背中へと手を伸ばした。
『……不浄……検知不能……!? 汚れが、ない……!? 何だ、この光は……!!』
指針が悲鳴を上げる。
「殺意」も「害意」も「恐怖」もない彼女の心は、指針にとっては「存在しない無」と同じ。
死神が反射的に放とうとした衝撃波は、標的を見失い、空中で霧散した。
「……怖かったですよね。……独りぼっちで、ずっと……」
女神官が、その小さな腕を伸ばす。
死神の纏う「拒絶」の鎧。触れるだけで肉を裂くはずのその冷たい魔力が、女神官の温もりに触れた瞬間、嘘のように溶けていく。
「――っ、来るな……来ないで、私は……汚れてる……私はゴブリンなのよぉぉッ!!」
「汚れてなんて……いません……!」
女神官の両腕が、死神の震える身体を、折れそうなほど強く、温かく抱きしめた。
「貴女は……私の、大切な……仲間なんですから!!」
――――――――ビキィィッ!!!
その瞬間、死神の瞳の中で、二十年かけて研ぎ澄まされてきた曼荼羅の紋章に、致命的な「ひび」が入った。
邪竜のブレスをも弾き返した「拒絶の檻」が、一人の少女の温もりによって、内側から溶け始めた。
臨界点、残り三分。
神々の遊戯は、最悪の爆発ではなく、一滴の涙による「浄化」の時を迎えようとしていた。