『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】   作:いっかず

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第96話:無敵の孤独

臨界まで、あと九分。

崩壊した広間に渦巻く赤黒い魔力は、もはや物理的な熱量を持って石材を焼き、空気を歪ませていた。

 

その中心で、ゴブリンスレイヤーは剣を鞘に納めた。一切の武器を捨て、無防備な晒し身のまま、彼は死神――かつて救い出した少女へと、静かに歩み寄る。

 

「……そんな呪いに頼るくらいなら、俺を頼れ」

 

鉄兜の覗き窓から、静かで、けれど逃れようのない意志を宿した赤い眼光が放たれる。

 

「俺は勇者ではないから、世界は救わん。だが、ゴブリン退治なら引き受ける。……ゴブリンが出たら、俺が殺してやる。お前がその手を使わなくて済むように、俺が全て殺してやる」

 

それは、聖職者の救済でも、王の恩赦でもない。

ただ、同じ泥の中で小鬼を殺し続ける男が提示した、最も無骨で、最も誠実な「契約」だった。

 

「あ……」

 

女武闘家の瞳から、赤黒い曼荼羅の輝きが引き潮のように引いていく。

鉄兜を脱ぎ捨てたその素顔に、数年ぶりに「光」が灯った。彼女の頬を、熱い涙が伝い落ちる。

 

「……ゴブリンスレイヤー……さん……っ」

 

凍りついていた彼女の時間が、その一言で動き出そうとした。

しかし、それを許さぬ断罪の意志が、彼女の脳髄を内側から掻き毟る。

 

『――くははははッ!! 笑わせるな、小鬼殺しッ!!』

 

不浄の指針の、幾重にも重なった嘲笑が空間を震わせた。曼荼羅が再び、以前にも増して禍々しい深紅に染まり、彼女の意識を闇へと引き摺り戻す。

 

『貴様のような鈍間を頼れだと? どの口が言う。……数えろ。我らが「衝撃」一つで百の巣穴を塵にする間、貴様はたった一つの巣穴を潰すのに、どれほどの時間をかけている?』

 

指針の意志は、ゴブリンスレイヤーの「積み上げてきた歳月」を嘲弄の種にした。

 

『これまで何度死にかけた? 何度泥を啜り、無様に這いずり回った? 貴様は弱い。あまりにも脆弱だ。……そんな男に、何が守れる? 貴様がゴブリンを一匹殺す間に、世界では千の悲鳴が産まれているのだぞ!』

 

そして、指針は最も残酷な、彼女の魂の傷口に指を突っ込んだ。

 

『そして、忘れたか。……あの『始まり洞窟』を。……依代が暗闇の中で仲間の死を視て、その尊厳を汚され、助けを求めて泣き叫んでいたあの時……』

 

「あ……、あぁ…………っ」

 

女武闘家の瞳が再び、恐怖に濁り始める。

 

『――あの日も。貴様は間に合わなかったではないかッ!!』

 

指針の絶叫と共に、死神の身体が混沌の魔力を噴き上げた。

それは、過去の「失敗」を突きつける断罪。

あの日、彼女を救ったのは彼だった。

けれど、彼女が「壊される前」に間に合うことはなかった。

 

「……間に合わなかった。それは、事実だ」

 

ゴブリンスレイヤーは、血を吐きながらも、その視線を逸らさなかった。

指針が暴き立てた「真実」という名の絶望を、彼はそのまま受け止め、さらに一歩、前へ出た。

 

『もし貴様が真の「英雄」であったなら。もし貴様が白金等級であったなら、この娘は地獄を見ずに済んだ! 間に合わなかった貴様が、どの面を下げて「頼れ」などと抜かすかッ! 貴様の正義など、一分間の遅延で全てが灰になるゴミに過ぎぬのだッ!!』

 

指針の咆吼。

それは、ゴブリンスレイヤーという存在が抱える「最大の限界」であり、女武闘家が死神へと堕ちた「最大の理由」でもあった。

 

『……教団の記録映像で見たぞ、小鬼殺しよ。水の街の大司教……あの「剣の乙女」は、貴様のその「夢の中でもゴブリンを殺してやる」という、甘く、無意味な戯言に絆されたらしいが……』

 

不浄の指針の重なり合う声が、嘲笑と共に弾ける。

 

『反吐が出るな。あの大司教は、己の恐怖から逃げるために光に縋り、貴様という偶像に縋った。……自分を救い出せぬ弱者が、他人を救う英雄のフリをしている……。奴は司祭の言った通り、救いようのない「不良品」だ。だが――』

 

死神の右掌から、黒い火花が散る。その出力は、彼女の「自尊心」と「嫌悪」に呼応して再び跳ね上がろうとしていた。

 

『我らは違うッ!! 誰かの背中に隠れ、震えながら救いを待つあのような「不良品」と、我らを一緒にするな! 我らに貴様のような弱者の助けなど、微塵も、一欠片も必要ないのだよ!!』

 

女武闘家の身体が、自ら放つ魔力の重圧に軋む。指針は彼女の脳に、剣の乙女の「弱さ」と自分の「強さ」を比較させ、孤独であることの正当性を強制的に植え付けていく。

 

『悪夢など――己の掌で、跡形もなく叩き潰すのみッ! 震える夜など、その元凶ごと消し飛ばしてしまえばいい! それこそが、恐怖を支配した我ら「死神」の真理なのだからな!!』

 

死神の右掌に、これまでを凌駕する黒い衝撃が凝縮されていく。それは、自分を救えなかった過去への怒り、そして、今さら救おうとする者への苛立ち。

 

ドォォォォォォン!!

 

一際巨大な衝撃が放たれ、広間の空気が真空へと引き裂かれる。

だが、ゴブリンスレイヤーは避けない。衝撃波に全身を焼かれ、革鎧が弾け飛びながらも、その赤い眼光だけは、一歩も退かずに死神を射抜いていた。

 

「…………それで、いいのか。……独りで悪夢を叩き潰して。……その先に、お前の帰る場所はあるのか」

 

「……っ……」

 

「……お前の父が。……お前の仲間が。……お前に望んだのは、本当に、そんな独りきりの無敵か?」

 

「違う……。私は……私は、ただ……」

 

フードの奥から、静かな声が返る。

一瞬の静寂の後、黒い衝撃の嵐が、1党を飲み込もうと吹き荒れた。

 

『――愚論はもう十分だッ!!』

 

死神の喉から放たれたのは、もはや言葉の形を成さない、数千の怨念が共鳴する地獄の咆哮だった。

 

『この街諸共、貴様らを塵にしてやる。不純な未練も、間に合わなかった救済も、全てをこの世から「掃除」してくれるッ!!!』

 

女武闘家の両掌が、かつてない密度で黒紫色の魔力を凝縮し始める。

それは二十年前、北方軍を壊滅させた邪竜をも粉砕した、絶対的な「拒絶」の極致。発動すれば、中央街区のみならず辺境の街全域が、物理的な衝撃波によって一瞬で更地へと変わるだろう。

 

だが、その滅びの渦を前にして、ゴブリンスレイヤーは静かに短剣を鞘に納めた。

 

「…………」

 

鉄兜の覗き窓から漏れる赤い光が、ふっと消える。彼は構えを解き、両腕を無造作に下ろした。

 

「……ああ。俺たちの役目は、ここまでだ」

 

『……何だと? 絶望して命を差し出すか、小鬼殺しよッ!!』

 

「違う。……お前が俺との会話に、俺への『憎悪』に集中しているその時間が……必要だっただけだ」

 

ゴブリンスレイヤーの言葉と同時。

死神の背後、衝撃波が渦巻く「死の領域」の中から、一つの人影が静かに歩み寄ってきた。

 

『な……ッ!?』

 

【不浄の指針】が発狂したように回転する。

指針が捉えるのは「汚れ」のみ。

だが、いま彼女の背後に立つ存在からは、一滴の害意も、一欠片の劣情も、計算も、躊躇いも感じられない。

 

そこにあるのは、鏡のように澄み切った、あまりにも純粋な「悲しみ」と「友愛」。

死神が作り上げた「拒絶のシステム」にとって、それは存在しないも同然の「完全な死角」だった。

 

「武闘家さん……」

 

震える、けれど凛とした声。

死神が振り返るよりも早く、白銀の法衣を纏った女神官が、その背中へと手を伸ばした。

 

『……不浄……検知不能……!? 汚れが、ない……!? 何だ、この光は……!!』

 

指針が悲鳴を上げる。

「殺意」も「害意」も「恐怖」もない彼女の心は、指針にとっては「存在しない無」と同じ。

死神が反射的に放とうとした衝撃波は、標的を見失い、空中で霧散した。

 

「……怖かったですよね。……独りぼっちで、ずっと……」

 

女神官が、その小さな腕を伸ばす。

死神の纏う「拒絶」の鎧。触れるだけで肉を裂くはずのその冷たい魔力が、女神官の温もりに触れた瞬間、嘘のように溶けていく。

 

「――っ、来るな……来ないで、私は……汚れてる……私はゴブリンなのよぉぉッ!!」

 

「汚れてなんて……いません……!」

 

女神官の両腕が、死神の震える身体を、折れそうなほど強く、温かく抱きしめた。

 

「貴女は……私の、大切な……仲間なんですから!!」

 

――――――――ビキィィッ!!!

 

その瞬間、死神の瞳の中で、二十年かけて研ぎ澄まされてきた曼荼羅の紋章に、致命的な「ひび」が入った。

邪竜のブレスをも弾き返した「拒絶の檻」が、一人の少女の温もりによって、内側から溶け始めた。

 

臨界点、残り三分。

神々の遊戯は、最悪の爆発ではなく、一滴の涙による「浄化」の時を迎えようとしていた。

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