京極宮慶仁王物語   作:fire-cat

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5 日の隠り

 十月上旬。

 伊勢湾台風の爪痕が日本列島に深く刻まれたまま、学習院中等科の授業は再開された。

 教室内には、沈痛な空気が漂っていた。数名いたはずの「あの日、伊勢への随行を許された生徒たち」のうち、戻ってきたのは慶仁、ただ一人であったからだ。

 慶仁の隣の席には、六条雅武が座っていた。

 二人は乳兄弟であると同時に、初等科の頃から常に成績を競い合い、放課後には剣道場で共に竹刀を交える「最高の御学友」として知られていた。

 だが、今の雅武にとって、その隣席は針の筵であった。

 教壇に立つ教師の言葉も、窓の外を流れる秋の雲も、雅武の目には入らない。ただ、隣に座る慶仁の、驚くほど痩せ細り、生気を失った横顔だけが、視界の端で焼き付くように存在していた。

 

「……雅武」

 

 休み時間、慶仁が不意に口を開いた。

 その声は、かつて剣道場で響かせていた気風のいい少年のものではなく、深い地の底から響くような、擦り切れた音だった。

 

「はい、殿下」

 

「昨日、数学のノートを貸してくれたな。……すまなかった、汚してしまって」

 

 差し出されたノートの端には、小さな、しかし消えない「泥のシミ」が付着していた。

 慶仁の手元に残っていた、桑名の泥。どれほど洗っても、どれほど拭っても、消え去ることは無かった。まるで泥が何らかの意思を持って消えることを拒んでいるかのようだった。

 雅武は、そのシミを見た瞬間、喉の奥が熱くなった。

 自分たちは同じ教科書を読み、同じ試験を受けてきた。だが、あの日を境に、二人の間には「数千年の断絶」にも等しい経験の差が生まれてしまった。

 自分は屋内で、台風の被害を「ニュース」として聞いていた。

 慶仁は、愛する寛子と千代が泥に消えていくのを、その手で、その目で、その肌で受け止めていた。

 

「殿下、ノートなど、いくらでも……」

 

「お前はいいな、雅武」

 

 慶仁の瞳が、ふと雅武を射抜いた。そこには憎しみではなく、もっと深い、救いようのない絶望があった。

 

「……お前は、まだ『あの日』の前にいる」

 

 慶仁は、汚れたノートを雅武に返すと、再び窓の外の空を見上げた。

 その瞳は、もはや教室内を流れる「子供たちの時間」を見てはいなかった。

 

 慶仁の言葉に雅武は呼吸を忘れた。

 自分は慶仁のすべてを知っているつもりだった。だが、今の自分は彼にとって、「何も知らない幸福な過去の住人」でしかない。

 寛子が死に、千代が消え、皆が散ったあの日。

 もし自分がそこにいれば。

 千代の代わりに丸太に打たれ、寛子の代わりに慶仁を支えられたはずだ。そして少なくとも慶仁と寛子は助かっていた。

 乳兄弟として、御学友として、正成のように、あの濁流に身を投じる権利が自分にもあったはずなのに。

 大人たちは「将来の準備」という名目で、彼からその権利を奪ったのだ。

 雅武を襲ったのは、生き残った安堵ではなく、親友の地獄に立ち会えなかったという、あまりにも歪んだ、しかし真実の後悔だった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「……あんなことを、言うつもりはなかったのだ」 

 

 深い夜の静寂が広がる赤坂の私室。

 慶仁は、月の光さえ遮るように厚いカーテンを引き、闇の中で一人、椅子に深く身を沈めていた。

 脳裏に焼き付いて離れないのは、言葉を放った瞬間の、雅武の表情だ。

 乳兄弟として、共に育ったはずの親友が浮かべた、決して触れてはならない神域から拒絶されたかのような、あの凍りついた表情。 

 

「雅武は、悪くない……」

 

 慶仁は、熱を持った額を手のひらで押さえた。

 雅武が東京に残ったのは、松殿家への礼儀を尽くし、慶仁の継承の儀を滞りなく執り行うことができる様に備えるためだった。彼は自分の職務を、誠実に、完璧に果たしていただけだ。

 それなのに。 

 

 ――お前は、まだ『あの日』の前にいる。 

 

 あの一言は、雅武の誠実さを「無知な幸福」として切り捨て、彼が守り続けてきた慶仁との絆を、あの日流れた泥水で汚すに等しい暴言だった。

 謝りたかった。今すぐ雅武の部屋へ行き、彼の肩を掴んで、「すまない、私がどうかしていた。お前の準備があったから、私はこうして帰ってこれたのだ」と伝えたい。

 だが、慶仁の喉の奥では、桑名の泥の味がまだ消えていなかった。

 

「……謝って、どうなる」

 

 慶仁は、胸元に忍ばせた菊結びのお守りを握りしめた。

 もし謝って、雅武が「分かります」と泣きながら許してくれたら?

 それでは、雅武までも、この冷たくて暗い、丸太が体を砕く音が鳴り止まない「あの日」の檻に閉じ込めてしまうことになる。

 

(寛子なら、きっと私を叱っただろうな)

 

 寛子なら、あの凛とした声で「殿下、雅武さんに甘えてはなりませぬ」と嗜めたはずだ。

 そして千代なら。千代なら何も言わずに、慶仁と雅武の間を繋ぐように、少し熱めの茶を淹れて、二人の空気をそっと解きほぐしてくれただろう。 

 だが、誰もいない。

 自分を叱ってくれる光も、自分を支えてくれる影も、すべてはあの濁流が浚っていった。

 残されたのは、乳兄弟を傷つけることでしか「あの日」の尊厳を守れない、歪んだ心を持った自分だけだった。

 

「雅武……お前は、そのままでいい。……泥を知らぬ、真っ白な手のままでいろ」

 

 慶仁は、闇の中で呪文のように呟いた。

 雅武を地獄へ引き込まないための、それが彼なりの、あまりにも不器用で残酷な「友愛」だった。 

 

 慶仁は誰にも見せず、一人で静かに、しかし激しく、自分の傲慢さを呪いながら涙を流した。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 

 

 十月上旬。

 寛子の葬儀は密葬で厳粛に行われた。

 読経が静かに流れる中、白木の棺がゆっくりと前へ進む。

 慶仁は、その棺の上に置かれた白百合を見た瞬間、呼吸が止まった。

 

 ――寛子だ。

 

 その現実が、ようやく、ようやく、彼の心に突き刺さった。

 足が震え、視界が揺れ、喉が締め付けられる。

 

「……寛子……」

 

 呟いた瞬間、膝が崩れ落ちた。

 侍従たちが慌てて支えるが、慶仁は震える手で棺に触れようと伸ばしたが、ふと、その隣に置かれた小さな位牌に目が止まった。

 寛子の棺の影に隠れるように置かれた、千代の位牌。

 寛子には豪華な棺と花がある。だが、彼女を支え抜いた千代には、遺体もなく、ただ位牌があるだけだった。

 

「……寛子……! 千代……! どうして……!」

 

 その叫びは、葬儀の静寂を切り裂き、松殿家の人々の涙を誘い、参列者の胸を締め付けた。

 寛子への愛と、千代への申し訳なさ。そして、自分を救った者たちがすべて消え、自分だけが「生かされた」という地獄。

 遺体を見ないことで守られたはずの心は、千代の「遺体がない」という現実、そして寛子の葬儀という「決定的な不在」の儀式によって、跡形もなく砕け散った。

 

 この日、慶仁は二度目の『喪失』を経験した。

 濁流の記憶は、もはや悲劇ではなく、彼を縛り付ける呪いへと変わっていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 十月中旬。

 伊勢湾台風の爪痕が生々しい揖斐川の下流域。水が引き始めた泥濘の中で、陸軍工兵大隊は、依然として一人の少女を捜索していた。

 松殿侯爵家がその才を惜しみ、学習院へと通わせていた寛子の乳姉妹、千代である。

 

「……大隊長殿、やはりこれ以上の捜索は。松殿家の方々も、これほどの日数が経っては……と仰っております」

 

 泥を被った中隊長が、沈痛な面持ちで大隊長に進言した。

 すでに松殿寛子の遺体は収容され、内々に葬儀も執り行われている。千代はあくまで「侯爵家の随行員」であり、戸籍上は一平民に過ぎない。しかし、大隊長は濁流に突き立てた探り棒を握りしめ、吐き捨てるように言った。

 

「松殿家が何と言おうと関係ない。我らが救い出した殿下を、最後までお支えしていた御一行の()()()()()()()()だ。学習院の制服を着た少女一人を見つけ出せずして、何が国を守る軍人か!」

 

 大隊長は、救出直後の憔悴しきった姿が焼き付いて離れなかった。

 その姿を見た時、浮かんだ思いは、「よくぞ、あの濁流から生き延びられた」というものだった。

 慶仁の「寛子が」という言葉から、寛子が慶仁を梁の上に押し上げた事を知った。

 だが……。

 あの凄まじい濁流の中で、なぜ慶仁が高い梁の上まで押し上げられていたのか。か細い寛子が慶仁を押し上げることが出来たその裏に誰かの命を賭した支えがあったのではないか。それは――。大隊長は、直感的にそう感じていた。

 

「この下の泥をすべて攫え! 丸太の一本、瓦礫の一片までどかせ! 泥に埋もれたのなら、この揖斐川の泥を掬い尽くせ!!」

 

「しかし、すでに湾外へ流出された可能性が……これ以上の徒渉捜索は、部隊の体力が……」

 

「彼女を、独りでこの泥の中に置き去りにする事は断じて許さん!! 海に流されたのなら網を引け!」

 

 捜索開始から数週間。揖斐川河口の夥しい量の葦と家屋の残骸が打ち上げられた泥の厚い堆積層の中からそれは見つかった。

 巨大な流木や丸太が何層にも重なっていた場所。その一番下、まさに土台となるように沈んでいたのが、千代だった。

 

「……あ……っ」

 

 引き上げられたその姿に、屈強な兵士たちが言葉を失った。

 彼女の背中と肋骨は、上から叩きつけられたであろう巨大な丸太の衝撃により、無残に砕けていた。学習院の制服は泥にまみれ、見る影もない。

 だが、泥にまみれた両腕は、何かを上へと押し上げるような形のまま、硬直していた。

 

 工兵隊の誰一人として、彼女が水底で自分の体を『土台』にし、寛子の足を肩に乗せて押し上げ続けていたという真実を知る者はいない。慶仁も、水底の暗闇の中で起きたこの献身を見てはいない。

 ただ、現場にいた兵士たちは、彼女の砕けた身体と、天を突くように固まった両腕を見て、言葉にならぬ戦慄と敬意を抱いた。

 

「……収容する。丁重にな」

 

 大隊長は自らの軍帽を脱ぎ、泥だらけの少女の骸に深く頭を下げた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 十月下旬。

 慶仁は赤坂の京極宮仮邸にて十三歳の誕生日を迎えた。

 例年であれば、松殿侯爵家をはじめとする華族の諸家から届けられた祝辞の山が広間に並び、慶仁を幼少期から知る侍従たちが、来月の「京極宮継承の儀」を控えた若き主君のために賑々しく立ち働いたはずであった。

 だが、邸内を支配しているのは、凍りついたような静寂だった。

 

「……祝いなど、できるはずがなかろう」

 

 伊勢湾での惨劇から数週間。泥水に呑まれた身体の傷は癒え始めていたが、目を閉じれば今も濁流の咆哮と、寛子の最期の言葉が鮮やかに蘇る。

 慶仁は京極宮継承の儀の中止、せめて延期を宮内省へ強く申し出ていた。しかし、伏水宮系諸家を統制する「新世代の藩屏」を立てるという国家的な計画は、もはや少年の個人的な悲嘆だけで動かせるものではなかった。

 

「殿下……。宮内省からも、これは『前祭』としての形式的なものでございますゆえ、と。何卒、お顔だけでもお出しください」

 

「雅武……。お前がそれを言うのか」

 

「……」

 

 雅武の声にならない想いをその苦渋に満ちた表情に見つけた慶仁は力なく頷くしかなかった。

 

「わかった」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 規模を最小限に縮小して茶会として行われた誕生日の祝いには、限られた関係者だけが参列した。

 慶仁は、集まった者たちの祝辞を、まるで遠い国の言葉を聞くように受け流していた。

 彼らの言葉は「お命が助かって何よりでございました」という安堵に満ちていたが、慶仁にはそれが、泥の中に消えた寛子と千代を見捨てた自分への糾弾のように聞こえてならなかった。

 

(私は、生きていて良いのか。このような……華やかな儀式の中心にいて良いのか)

 

 膳の上には、料理人が丹精込めた品々が並んでいる。だが、その湯気からは、かつての誕生日のような祝祭の香りはなかった。

 六歳の頃から、慶仁の隣で常に正しい作法を説き、時に厳しく、時に優しく微笑んでいた寛子の姿はどこにもない。そして、その寛子の数歩後ろで、鮮やかに立ち働き、寛子の着替えを完璧に整え、慶仁が緊張している時にはさりげなく茶を差し出し、寛子だけでなく慶仁の好物も把握していた千代の姿も、もうなかった。

 慶仁の歩調に合わせて駆け寄ってくれた、かつての侍従や武官たちは皆、冷たい土の下にいた。

 今、慶仁の背後に控えているのは、惨劇の後に急遽配属された、顔も名前も覚えきれぬ若い侍従たちである。

 差し出された膳を、慶仁はただ黙って見つめていた。

 

「殿下、少しでも召し上がらなければ……」

 

 新たに配属された、不慣れな様子の若い侍従が恐る恐る声をかける。

 その声が義務に満ちた「他人行儀な」声に聞こえ、慶仁は胸を締め付けられた。

 

(千代なら……)

 

 千代なら、今の自分が食欲など微塵もないことを、その瞳の揺らぎだけで分かったはずだ。

 

「殿下、一口だけでよろしゅうございます。私が寛子様から叱られ役を頂戴いたしますから」

 

 いつもの様に、そう茶目っ気たっぷりに囁いてくれただろう。だが、あの声ももう二度と戻らない。

 寛子が太陽なら、千代はそれを支える大地だった。その両方を、自分はあの濁流に根こそぎ奪われたのだ。

 ふと視線を落とすと、広間の隅で石のように動かない雅武がいた。

 本来なら、彼は今頃、慶仁の隣で「殿下、おめでとうございます」と笑い合い、共に膳を囲んでいたはずだった。だが、あの日、東京に残って無傷でいた雅武は、今の慶仁にとって『喪われていない、あまりに眩しすぎる過去の遺産』だった。

 慶仁は、雅武の震える肩を見つめながら、あの日、彼へ投げつけた「お前は、まだ『あの日』の前にいる」という言葉の棘を思い出し、胸の奥を焼かれるような自責に沈んだ。

 

「……寛子は、いつもこの時期になると、私の成長を『少し早すぎます』と笑っていた」

 

 絞り出すような慶仁の独白に、周囲の大人たちは言葉を失った。

 

「六歳で彼女に出会ってから、私の誕生日は彼女に認められるための通過点だった。そして、その私を陰で支えてくれたのは、いつも千代だった。……だが、十三になった私を認めてくれる彼女たちは、もういない」

 

 慶仁は、膳の脇に置かれた、泥汚れの落ちきらない「菊結びのお守り」を手に取った。

 寛子が最後まで握りしめ、自分に遺したあまりにも重い形見。

 慶仁は、工兵隊から内密に届けられた、千代の遺体は、両腕を上へ突き出したまま固まっていた、という報告を思い出していた。

 

(千代……お前はあの濁流に呑まれてもなお、最後まで寛子を支えようとしていたのか)

 

 慶仁は、震える自分の白い手を見つめた。

 この手は、あの日、誰の腕も掴めなかった。ただ、寛子が泥流から押し上げてくれたおかげで、自分だけがこうして、暖かい邸の中で誕生日を迎えている。

 

「殿下、いかがなさいましたか」

 

 若い侍従の問いに、慶仁は静かに首を振った。

 

「……何でもない。ただ、来月の継承の儀までに……和歌を一首、詠まねばならぬと思ってな」

 

 それが、慶仁が選んだ「逃避」であり、同時に「唯一の抵抗」だった。

 溢れ出す泥のような感情を、冷たく美しい言葉の繭に閉じ込める。そうしなければ、この十三歳の誕生日の重みに、心が砕けてしまいそうだった。

 

 慶仁は窓の外、皮肉なほど透き通った秋の晴天を見上げた。

 

(寛子、千代……。私は、お前たちの命を礎にして生きているのだな)

 

 その自覚が、血を流していた少年の心に、冷徹な鋼の鎧を被せていく。

 十三歳の誕生日は、彼にとって「無垢な子供」の葬儀であり、亡き寛子への思慕を心の深淵に沈め、「悲劇を背負った皇族、京極宮」としての即位式であった。

 

 少年の瞳からは幼さが完全に消え去った。

 彼は寛子の冷たい手から回収された、泥の落ちきらない「菊結びのお守り」を握りしめた。

 その指先は、今も彼女の体温が残っているような錯覚を覚えていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 一ヶ月後。

 京極宮を正式に継承した慶仁の元に、届け物があった。

 それは、東良岑屋敷の泥の中から奇跡的に見つかった、千代の遺品である手鏡だった。鏡面は粉々に割れていたが、その裏側には、彼女が大切に忍ばせていた、寛子と慶仁、そして雅武と四人で写った古い写真が挟まっていた。

 慶仁は、震える手でその写真をなぞった。

 あの日、桑名で失われたのは、単なる命ではない。彼を「少年」でいさせてくれた、輝ける季節そのものだったのだ。

 




この後、台詞集⑨ ~防災対策~( https://syosetu.org/novel/311987/51.html )に続く。





台詞集⑨ ~防災対策~とつけたが、この物語に結び付けると、大人たちの贖罪パートだよな……。
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