お姉様と紅い瞳の弟   作:主人公こそ最高のヒロイン説

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2話目を修正し、真冬にリコリスのブローチを渡す描写を入れました。


3話

重い瞼を押し上げる。

視界は、磨りガラスを通したように濁っていた。

 

(……ああ。生きて、るのか……俺)

 

脳を焼くようなあの熱は消えていた。代わりに、全身を包み込んでいるのは、ひどく柔らかい布の感触と、仄かな沈香の香り。

 指先を動かそうとすると、右手に温かな重みを感じた。

 

「……鏡也?」

 

震える声。

 視線を向けると、そこには、真っ赤に目を腫らした真冬がいた。

 彼女は俺が意識を取り戻したことを悟ると、喉の奥から小さな悲鳴を上げ、俺の胸に飛び込んできた。

 

「鏡也、鏡也……っ! よかった……。戻ってきて、くれた……」

 

彼女の体温が、俺の冷え切った体に染み渡る。

 真冬の細い指が、俺の頬を、瞼を、壊れ物を扱うように何度もなぞった。

 

「……心配かけて、ごめん。真冬」

 

「……ううん。……ううん。生きててくれれば、それでいいの。……あなたがいない世界なんて、私は……っ」

 

彼女の言葉は、以前の「調整された兵器」のそれではない。俺が流し込んだ感情と、俺が失われる恐怖が、彼女を真の意味で「人間」に変えてしまっていた。

 

ふと、部屋の奥から衣擦れの音が響く。

 

「……目覚めたようね。鏡也」

 

その声に、背筋が震えた。

 静かに、けれど圧倒的な存在感を持って歩み寄ってきたのは、四葉真夜。

 以前の彼女なら、その微笑には常に氷のような冷徹さが貼り付いていた。だが、今の彼女の瞳にあるのは、熱に浮かされたような、底知れない「情愛」が宿っていた。

 

「……叔母様。お体は?」

 

「あら。自分があんな無茶をしておいて、私を気遣うの? ……ふふ、本当に。あなたはどこまで、私の心を掻き乱せば気が済むのかしら」

 

真夜はベッドの端に腰を下ろすと、真冬を退かせることもせず、俺の髪を愛おしげに梳いた。

 

「二十三年。……私が失っていた『朝』を、あなたが連れてきてくれた。……この命も、この力も、もうあなたなしでは意味をなさないほどに」

 

 

「……叔母様。そんな、大袈裟ですよ。俺はただ、抗いたかっただけで……」

 

俺が困惑しながら言葉を返すと、真夜の細い指が、俺の唇を優しく、けれど拒絶を許さない力強さで塞いだ。

 

「……その『叔母様』という呼び方、少し……いえ、ひどく耳障りだわ」

 

真夜が顔を近づけてくる。沈香の香りが、逃げ場のないほど濃密に俺の鼻腔を突いた。彼女の宵闇の瞳は、陶酔したような熱を帯び、真っ直ぐに俺の視界をジャックする。

 

「今の私があるのは、あなたが私の『闇』を引き受けてくれたから。……四葉の当主でも、あなたの母親の叔母でもない。救われたのは、ただの一人の女としての私なのよ。……ねえ、鏡也。名前で呼んでくれないかしら? 今まで失っていた時間を、あなたの声で埋めてほしいの」

 

「え、……ですが、それは流石に……」

 

あまりの熱量にたじろぎ、視線を彷徨わせる。あの冷徹だった「魔王」が、まるで恋い焦がれる少女のような瞳で俺を見つめている。その事実に、背筋に冷や汗が流れた。

 

その時。

 俺の腕を抱きしめていた真冬の体が、一瞬で氷のように硬直した。

 

「……だめ」

 

低く、地這うような声。

 真冬は俺の胸に顔を埋めたまま、けれどその視線だけを、鋭利な刃物のように真夜へと向けた。

 

「……鏡也は、私のもの。……叔母様でも、そんな風に触らせない」

 

真冬の周囲に、ピリピリとした高密度の想子が逆立ち始める。以前の彼女なら、当主である真夜に牙を剥くなど、あり得なかったはずだ。だが今の彼女を動かしているのは、四葉の規律ではなく、俺への剥き出しの「独占欲」だった。

 

「あら、真冬。……ずいぶんとはっきり言葉にするようになったのね。感情を戻してあげたのは鏡也だけれど、その矛先を私に向けるのは、お行儀が悪くては?」

 

真夜は余裕を崩さず、けれどその瞳の奥には、獲物を譲る気など微塵もない猛獣の光が宿っている。

 

「……二人とも、落ち着いて。……俺はどこにも行きませんから」

 俺が苦笑交じりに、けれど内心では冷や汗を流しながら二人を宥めようとした、その時だった。

「……何を、騒がしくしているのですか」

 静かに、けれど芯の通った凛とした声。

 扉を開けて入ってきたのは、母、深夜だった。

 以前のような、死の影を纏った不健康な蒼白さはどこにもない。肌には健康的な艶が戻り、その佇まいは四葉の「影の支配者」に相応しい、気高くも瑞々しい生命力に満ち溢れている。

「鏡也! ……気が付いたのね」

 深夜はベッドに火花を散らす真夜と真冬を一瞥で黙らせると、迷うことなく俺の元へ駆け寄り、その細い手を俺の額に当てた。

「……熱はないようね。丸一日、眠り続けていたのよ。想子の枯渇かと思ったけれど、それ以上に精神的な消耗が激しくて……本当に、心配したのだから」

 彼女の瞳に宿るのは、これまで俺たちにむけていた「四葉の魔術師」としての観察眼ではない。自分を救い、そして無茶をした息子を心から案じる、一人の「母親」としての慈愛だった。

「……すみません、母様。……でも、母様が元気そうで、本当に良かった」

「ええ……。信じられないけれど、あんなに重かった体が、今は嘘のように軽いわ。……鏡也、あなたが、私を……」

 深夜の声がわずかに震え、俺の手を包む彼女の指に力がこもる。

 だが、俺は彼女たちの「救われた」という喜びの中に、どうしても拭えない違和感を抱えていた。

 意識ははっきりしている。だが、網膜から送られてくる情報が、どうにも頼りない。

「……母様、一つ、お願いしてもいいですか?」

 俺の言葉に、深夜、真夜、そして腕を離さない真冬が、一斉に俺を注視した。

「……なんだか、少し視界が霞んでいて。……いえ、かなりぼやけて見えるんです。もしよければ、度付きの眼鏡を、用意してもらえませんか?」

「――ッ!?」

 その瞬間、部屋の空気が凍りついた。

 深夜の手がガタガタと震え始める。自分の肉体が全盛期のように若返ったその対価が、最愛の息子の「光」だったのではないかという疑念。

 真冬は何も言わなかった。

 ただ、彼女の周囲に溢れ出した膨大な想子が、この部屋の物理法則を書き換えようとするほどの密度で鳴動した。

 彼女は俺の両頬を包み込むように手を添え、瞬きすら忘れて俺の瞳を凝視する。

 

(『再成』――)

 技名を口にすることはない。ただ、彼女の演算領域から放たれた魔法式が、俺の事象情報体へとダイレクトに干渉し、二十四時間前までの「正常な履歴」を強引に上書きしようとする。

 だが。

「……っ、……嘘、どうして?」

 真冬の手が、幽霊にでも触れたかのように力なく滑り落ちた。

 世界を構成する情報体を自在に書き換え、死の淵にある者さえ平然と引き戻す四葉の至宝。その彼女が放った『再成』の波動は、鏡也の瞳に触れた瞬間、出口のない迷路に迷い込んだかのように霧散して消えた。

「……なぜ。……どうして、書き換わらないの……?」

 真冬は、震える自分の掌を凝視した。

 かつて彼女は、自分の力を「呪い」だと思っていた。触れるものすべてを壊すか直すか、ただの「兵器」として自分を定義するこの力を。

 けれど、鏡也がその地獄から救い出してくれたあの日から、この力は彼を守るための「矛と盾」に変わったはずだった。

「……もう一回。……今度はもっと、深く……っ」

 真冬の瞳が、狂気的な想子の輝きを宿す。

 鏡也の脳組織、網膜、視神経。そのミクロの領域まで意識を沈め、過去の履歴を探る。けれど、そこには「光を失った鏡也」という確定した事実が、鋼鉄の楔のように打ち込まれているだけだった。

 

「……っ、あぁ……!!」

 

真冬は、喉の奥から絞り出すような悲鳴を上げ、俺の胸に縋り付いた。彼女の細い指が、俺の服を千切れんばかりに握りしめる。『再成』の魔法ですら、俺の瞳の奥に生じた「概念的な欠落」までは修復しきれなかった。その事実が、最悪の皮肉として彼女に突き刺さっていた。

 

「……真冬。そんなに自分を責めないで。……ほら、顔を上げて」

 

俺は、震え続ける彼女の背中にそっと手を回した。視界は確かにぼやけ、世界に深い霧がかかっている。けれど、俺の意識はかつてないほど冴えわたっていた。

 

「……まあ、少々無理をしたからね。多少の視力低下くらい、安いものだよ。命があるだけで儲けものさ」

 

俺は「大したことじゃない」と笑ってみせた。動揺する彼女たちを、一刻も早く安心させたかった。何より、俺を救い出してくれた真冬には、泣き顔ではなく笑っていてほしかったんだ。

 

だから俺は、彼女を元気づけたくて、彼女の胸元で揺れる「もの」を肯定しようと言葉を紡ぐ。

 

「……そのブローチ。落ち着いた()()の花だね。大人っぽくて、今の君に本当によく似合っているよ。俺が贈ったあの赤いリコリスも良かったけれど、今の君にはその静かな黒い花が、とても…」

 

「…………え?」

 

真冬の慟哭が、氷がついたように止まった。

 俺を抱きしめる彼女の指先に、ピリリと、弾けるような拒絶の振動が伝わる。

 

「鏡也……? 何を、言っているの……?」

 

真冬が顔を上げ、震える瞳で俺を見つめる。その瞳の奥には、恐怖を通り越した「理解不能な絶望」が渦巻いていた。傍らで俺の様子を窺っていた母様も、息を呑んで俺の顔を覗き込む。

 

「鏡也……。あなた、真冬が今、胸に着けているリコリスが……何色に見えているというの……?」

 

「……え? 黒……じゃないのかい? 銀の縁取りの中に咲く、深みのある漆黒の――」

 

「……嘘。そんな、鏡也……っ!」

 

真冬の喉から、ひきつけのような声が漏れた。

 

彼女が大切に身に着けているそのブローチは、他でもない。あの日、鏡也が手渡した、燃えるような生命の象徴――鮮烈な()()に染まったリコリスそのものなのだから。

 

「…………あ」

 

その瞬間、俺の脳内にある知識が、無慈悲な正解を弾き出した。

(……色覚に異常をきたしているのか)

 視力低下だけではない。網膜の錐体細胞、あるいは視覚野における色覚情報の処理系そのものが、万華鏡写輪眼の過絶な負荷によって焼き切られたのだ。

 

 そう理解した途端、世界の違和感を自覚した。

 

本来あったはずの「暖かさ」を失い、無機質な灰色の階調へと引き摺り込まれていく。

(……ああ。……色を、なくしたのか)

 

 

 かつての俺なら、これしきのこと、鼻で笑い飛ばしていただろう。

 風景が何色だろうと、どうでもいい些事だった。

 だが、今は違う。

 本来あったはずの「暖かさ」を失い、無機質な灰色の階調へと引き摺り込まれていく世界。

 記憶の中にある、真冬のあの鮮やかな顔色。それらが二度と、この瞳に同じ鮮やかさで結ばれることはない。

 

 少しだけ、惜しいと思った。

 これから彼女たちと生きていく日常の中で、幸せの尺度の一つになるはずだった「彩り」を、俺は自ら手放してしまったのだ。

「……ごめん。……間違えちゃったね」

 俺は誤魔化すように苦笑したが、その胸の奥では、自分の無神経な発言に対する後悔が、静かな澱のように沈んでいった。

 安心させたくて、笑ってほしくて、俺は言葉を尽くした。

 だが、俺が「綺麗だ」と言えば言うほど、真実を知っている彼女たちには、俺が失ったものの大きさが、鏡写しになって突きつけられる。

 

 

「嫌……。ああッ、鏡也……ッ!」

 真冬が俺の胸に縋り付いて、子供のように泣きじゃくった。

 鏡也が失ったものを一つも取り戻せない無力感によって、木っ端微塵に打ち砕かれていた。

「私の……! あなたのが……ッ!」

 その泣き声は、かつて俺が彼女を地獄から連れ出したときよりも、ずっと激しく、痛切だった。

 自分を責める彼女の慟哭が、冷え切った寝室に虚しく響き渡る。

「真冬……」

 俺は真冬の背中を、申し訳なさに胸を痛めながら撫でる。

 彼女を救うために振るった力が、結果として彼女に一生消えない傷を刻んでしまった。

 俺にはもう、彼女の頬を濡らすその雫が、どんな色をしているのか。それを理解することが叶わない。

 彼女が泣けば泣くほど、俺の胸は締め付けられる。

 失った「色彩」そのものよりも、目の前で泣きじゃくる彼女に、以前のように「その赤いリボンが似合っているよ」と、確信を持って言ってあげられないことの方が、何倍も惜しかった。

「泣かないで……。俺は、本当に後悔なんてしていないんだ」

 俺は彼女を抱きしめたまま、色彩を失った灰色の世界で静かに目を閉じた。

 自分の不注意で、彼女に一生消えない「負債」を刻みつけてしまった。

 その取り返しのつかない「優しさ」という名の呪いが、彼女を二度と引き返せない愛へと変質させていくことも知らずに。

 窓の外では、夜が明けようとしていた。

 だが、俺の瞳に映る「朝」は、かつて知っていたものとは違う、冷たく、無機質な白濁の世界だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生まれたときから、私の世界には「私」がいなかった。

 私の魔法演算領域は、生まれながらに『分解』と『再成』という二つの極致に占有されていた。それは魔法師としての汎用性を奪い、私をただの「事象を壊し、直すだけの機械」へと定義した。

 

四葉という家において、魔法師でないことは死を意味する。

 母親は、当時六歳の私に、その細い指先で残酷な福音を授けた。私の精神構造に直接干渉し、「強い情動」を司る部分を白紙化する精神改造手術。

 

その日を境に、私の心からは「熱」が消えた。

 怒りも、悲しみも、過度な喜びも。

 人工的に植え付けられた魔法演算領域と引き換えに、私は人間としての輪郭を失った。残されたのは、四葉の罪の象徴として周囲から向けられる「恐怖」の視線だけ。

 

初めて人を殺したのは、その術後すぐ、六歳のときだった。

 三十歳の熟練の戦闘魔法師を相手にしたデスマッチ。私は何の感慨もなく、ただの作業として彼の心臓を『分解』した。崩れ落ちる肉体を見ても、私の心は凪いだままだった。

 

「……化け物」

 

周囲の囁きは正しかった。私は、四葉の歪んだ祈りが生み出した欠陥品。世界を破壊し得る力を持ちながら、それを振るうための「心」を持たない空っぽの器。

 母様も、叔母様も、四葉は私を「道具」か「報復の象徴」としてしか見ていなかった。

 

――そんな灰色の世界に、彼が現れた。

 

 

「……司波鏡也。君の、弟だ」

 

現れたのは、男の子だった。

 司波鏡也。母様が言っていた、守るべき対象である「弟」。

 けれど、向けられたその声に、子供特有の甲高さや甘えの響きは微塵もなかった。

 極めて冷静に、それでいて余計な感情を抑制したフラットな響き。

 彼は私を自らと同じようなものだと自嘲した。その瞳には、私に向けられる恐怖とは違う、鋭く、けれどどこか寂しげな色が宿っていた。

 

「見せてあげるよ……どんな化け物を飼っているのかをね」

 

彼が両眼を開いた瞬間、暗闇の中に灯った、二つの紅い光。

 

それは、私が今まで戦場で浴びてきた、死臭のする濁った返り血の「赤」とは、決定的に違っていた。

 もっと澄んでいて、けれどもし烈な、魂の熱そのものを物質化させたような、鮮烈な「真紅」。

 

(……綺麗)

 

私の思考演算が、客観的な事実としてその色彩を定義する。

 生まれたときから、感情というノイズを去勢され、白黒の映画のような無機質な世界を生きてきた私。

 その灰色の地平に、彼だけが、消えない色彩を、強引に叩き込んできた。

 

そんな彼の小さな体が、糸が切れた人形のように前へと崩れ落ちた。

 

「……鏡也?」

 

反射的に腕を伸ばし、その体を支える。

 ぐったりとした彼の頭は、私の膝の上に力なく預けられた。耳元で、荒い呼吸と、彼の脳が演算の限界を超えて悲鳴を上げている熱が伝わってくる。

 

普通なら、すぐに外の警備を呼ぶべきだろう。本邸へ連絡し、四葉の最高水準の医療が彼を処置するはずだ。

 

 けれど。

 

「…………」

 

私の指先が、彼の熱を帯びた目元に、吸い寄せられるように触れた。報告すれば、彼はもう二度と、この場所へは来られないだろう。

 

それは、嫌だ。

 

なぜそう思ったのか、私には説明ができない。ただ、私の灰色の世界に初めて灯ったこの真紅の光を、誰にも渡したくないという、理屈を超えた衝動が、白紙のはずの胸の奥で疼いていた。

 

(……もっと、知りたい。あなたが何を見て、何を思っているのか)

 

私は彼を膝の上に乗せたまま、そっとその髪を撫でた。

 

 

 

 

「……起きた」

 

目を覚ました彼は、自分の瞳を「他者の尊厳を踏みにじるための、おぞましい色だ」と蔑んだ。

 怖くないのか、と彼は問う。拒絶されることを、最初から確信しているような声で。

 

 でも、私には分からなかった。

 私の視界には、彼の眼が放つ紅は、見たこともないほど鮮烈に突き刺さったのだ。

 

「……怖くない。綺麗だった」

 

嘘ではない。

 真っ暗な、灰色の私の世界に、初めて流れ込んできた「色」。

 それが、とても、美しく思えた。

 

私の言葉に、彼は初めて本気で笑った。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥で小さな軋みが上がった。

 彼は私の「演算領域」のさらに奥、母様ですら触れられなかった場所に手を伸ばしてきた。

 

「証明してあげるよ。君の中に、まだ消えていない『火』があることを」

 

接続された精神の回路から、濁流のような「熱」が流れ込んでくる。

 冷徹な計算機だった私の精神世界に、彼が抱く「愛おしさ」や「守りたい」という情動が、無理やり流し込まれていく。

 

 ――あったかい。

 

 凍てついていた氷河が、内側から爆発するように溶け出していく。

 回路の隅々に、彼という存在が満ちていく。

 

「……暖かい。鏡也、が……私のなかに、いる」

 

自分の胸に手を当てると、そこには確かに、今まで一度も感じたことのない鼓動があった。

 四葉が「欠陥」と呼んだ場所。捨てられたはずの「心」の残骸を、彼が見つけ出し、その紅い眼で温めてくれている。

 視界が潤み、滲んだ月明かりが極彩色に爆ぜた。

 

「……不思議。世界が、さっきまでと違う。……色が、ついているみたい」

 

初めて漏れた、震える声。

 彼が部屋を去ろうとしたとき、私は自分でも驚くほどの速さで、彼の裾を掴んでいた。

 この「熱」を失えば、私はまた、あの死んだような灰色に戻ってしまう。それが、たまらなく怖かった。

 

「……大丈夫だ。この熱は、もう消えたりしない。俺が保証する」

 

包み込まれた手の温もりが、私の芯まで浸透していく。

 彼は約束してくれた。もし私が凍えそうになっても、何度だってその眼で救うと。

 

 そのとき、私は決めたのだ。

 この人がくれる熱を守るためなら、私は何にだってなろう。

 

 鏡也。

 あなたが私に「心」をくれたから。

 

 

 

 

 

 

 

実験棟の最深部、白一色で塗り潰された調整室。

 無機質な照明の下で、私は拘束椅子に座り、無数の電極と想子センサーに繋がれていた。

 

定期的なメンテナンス。本来なら、魔法演算領域の出力特性と『分解』と『再成』の精度を確認するだけの、事務的な作業のはずだった。だが、今日の空気は重く、鋭利な刃物のように冷えていた。

 

「……真冬。少し、予定を変更します」

 

コンソールの前に立つ実の母親、司波深夜が、感情の消えた声で告げた。

 彼女の隣には、真夜叔母様が扇子を口元に当て、愉悦と観察の入り混じった瞳でこちらを見つめている。

 

「魔法式の構成プロセスに、わずかな遅延が見られました。演算領域そのものの不具合ではなく、より根源的な……『精神の基盤』にノイズが混じっている可能性があるわ。……情動領域の再スキャンを行います」

 

私の指先が、微かに跳ねた。

 情動領域。六歳のあの日、母様自らの手で「白紙」に戻されたはずの、私の心の跡地。

 

「……お母様。その必要は、ないかと。私は、正常に機能しています」

 

私は努めて平坦に答えた。鏡也と出会う前の、あの乾いた灰色の声を模倣して。

 けれど、深夜様の瞳に宿る疑念は晴れなかった。

 

「……黙りなさい。決定権は私にあります」

 

深夜様が操作盤を叩くと、私の脳内に直接、強制的な精神干渉魔法が流れ込んできた。

 脳の奥底を冷たい泥足で踏み荒らされるような不快感。

 母様の意識が、私の「演算領域」を素通りし、そのさらに奥、厳重に封印されていたはずの『心の残骸』へと手を伸ばす。

 

(……っ!)

 

隠さなければ。

 鏡也が灯してくれた、あの紅い火を。

 

 だが、母様の魔法は容赦がなかった。

 彼女の指先が、私の精神の最深部に触れた瞬間。

 

「――ッ!? な、に……これ……」

 

深夜様の声が、初めて激しく動揺に震えた。

 コンソールのモニターには、存在してはならない波形が、鮮烈な光となって踊っていた。

 

 白紙だったはずの場所に、宿っている。

 誰かを求める、原始的な渇望。

 誰かに触れられたいという、震えるような熱。

 そして、何よりも深く、私の魂を焼き尽くさんばかりに輝く――鏡也への「執着」。

 

「ありえないわ……。私の調整は完璧だったはず。情動を司る回路は、物理的にも、情報学的にも、完全に『白紙』に戻したはずなのに……!」

 

 母様が、信じられないものを見る目で私を凝視した。

 彼女が作り上げた最高傑作の「人形」の中に、彼女の知らない誰かが、勝手に「心」を書き込んでしまったのだ。

 

「真冬。これはどういうことなの!? ……あなたが、したの? でも、あなたがいくら『再成』の魔法をもってしてもこれはあり得ない……。何者かの仕業……? でも、どうやって!?」

 

深夜様の手が、コンソールを叩きつけるように震えていた。

 彼女が六歳の私に施した『精神構造干渉魔法』は、単なる記憶の消去ではない。感情を抱くための「回路」そのものを情報的に摩滅させ、二度と熱を通さない不感地帯へと変えたはずだった。

 

それなのに。

 私の情動領域は、今、「熱」を帯びて拍動している。

 

「……わかりません。お母様」

 

私は伏せ目がちに、虚ろな声を絞り出す。

 嘘ではない。鏡也がどうやって私の凍りついた世界を溶かしたのか、魔法式としての正解を私は知らない。

 ただ、あの紅い瞳に視つめられた瞬間、私の演算領域が「不要」と切り捨てていたはずの機能が、彼という情報の奔流を飲み込むために、無理やり再起動したのだ。

 

「わからない? そんなはずがないわ! あなたの精神は、私が作ったのよ!」

 

深夜様が私の肩を強く掴んだ。その指先が、苛立ちに震えている。

 

「ふふ……深夜姉さま、落ち着きなさいな。あまり取り乱すと、せっかくの美しい顔が台無しよ」

 

背後から、真夜叔母様の艶やかな声が響いた。

 彼女はゆっくりと私の側へ歩み寄り、お母様の手をそっと退けると、私の顔を指先でクイと持ち上げた。

 

「真冬。あなた、最近『誰か』と会ったわね? あなたの演算領域を通り抜け、直接その枯れ果てた心臓に熱を流し込んだ、無礼で、愛おしい泥棒さんに」

 

「…………」

 

叔母様の瞳が、私の脳裏に焼き付いている「紅い残像」を暴こうとする。

 

 

「黙秘、かしら。いいわよ、その分だけあなたの『毒』は深まるだけだもの。……でもね真冬、忠告するわ。誰かを想い、誰かに縋るような不純物は、あなた自身を焼き尽くし、最後にはその『誰か』をも滅ぼすことになるわ」

 

真夜叔母様の言葉は、呪いのように私の耳に染み込んでいく。

 

「……さて。深夜姉さま。この子に何が起こったかを理解するためにも、今夜は少し、趣向を凝らしましょうか」

 

真夜叔母様が、楽しげに扇子を打ち振った。その音は、死神が振るう鎌の風切音のように私の鼓膜を叩く。

 

「ええ……。真冬、あなたは今すぐ調整槽に入りなさい。朝まで強制的な精神安定処置を施します。あなたの意識は、明日までこの調整室に閉じ込めておくわ」

 

お母様が冷淡に言い放ち、コンソールのキースイッチを叩く。

 私の意思を介さず、拘束椅子がスライドし、青い薬液が満たされた透明な棺――調整槽へと吸い込まれていく。

 

「……っ、お母様」

 

声にならなかった。

 首筋に差し込まれたカニューレから、冷たい鎮静剤が血管を駆け巡る。思考が急速に重くなり、視界が白濁していく。

 

「安心しなさい、真冬。あなたが隠している『誰かさん』の正体は、私たちが自ら暴いてあげるわ」

 

叔母様が、私の顔をガラス越しに覗き込む。その瞳には、慈しみなど微塵もなく冷徹さだけがあった。

 

「今夜、私はあなたの自室で待ち構えることにします。……暗闇の中で、あなたが誰を待っていたのか、その目で確かめてあげる。もしそれが、私の『期待』を裏切る存在だというのなら……四葉の不純物として、ここで根絶やしにするだけです」

 

――だめ。行かないで。

 

重たい瞼の裏で、私は絶望に手を伸ばした。

 今夜も鏡也は、いつものように、警備の目を掻い潜って私の部屋を訪れるだろう。

 私が待っていると信じて。

 

「さあ、行きましょうか、深夜姉さま。……誰が現れるのか。楽しみだわ」

 

真夜叔母様の艶やかな笑い声が、遠ざかっていく扉の音に混ざる。

 

(……鏡也)

 

薬液に満たされた調整槽の中で、私の意識は急速に混濁していく。

 あの子は、賢い。四葉の異常性を誰よりも理解しているはずの鏡也なら、私の不在を察した瞬間に身を引き、自分自身の平穏を守るために立ち回ることもできたはずだ。

 

けれど、私を「化け物じゃない」と断言し、その瞳で「心」を灯してくれたあの子の優しさが、今はたまらなく恐ろしい。

 私のために。あの子が四葉という巨大な怪物に牙を剥いてしまったら。

 

(逃げて……鏡也。私を捨てて、あなただけは、その光の中にいて……)

 

音にならない祈りは泡となって消え、私の意識は暗い海の底へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

強制的なスリープによる、重く暗い意識の底。

 本来なら、明日まで明けるはずのない夜。

 だが、その静寂は、私の脳を直接揺さぶるような激しい振動によって叩き壊された。

 

「……起きて。起きなさい、真冬ッ!!」

 

調整槽のガラスが激しく叩かれる音。

 同時に、緊急停止のプロトコルが作動し、肺を満たしていた薬液が一気に排出される。

 ゴホッ、と咽せながら、私は強制的に現世へと引き摺り戻された。

 

「……お母……様……?」

 

視界が白濁する中、私を抱き起こしたのは、母様だった。

 だが、そこにいたのは髪は乱れ、瞳には「焦り」と「後悔」の色が混じり、その手は私を壊さんばかりに強く震えている。

 

「お願い、真冬。……鏡也を、鏡也を助けて……っ!」

 

 

 

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 ああ、私のせいだ。あの日から私が彼を私の部屋に呼んでしまったから。私の「執着」が、彼を四葉の牙の前に曝してしまったのだ。

 

「いいから、来なさい! あなたの『再成』が必要なの。あの子が、あの子を助けないと……っ!」

 

お母様の震える声が、耳の奥で爆音のように響く。

 急激に排出された調整液のせいで、私の身体は鉛のように重く、末端の神経はまだ眠りの中にあるかのように言うことを聞かない。視界は白濁し、立ち上がろうとした膝が、無様に折れた。

 

(……遅い。こんな速度じゃ、間に合わない)

 

私は、自分の内側へと意識を向けた。

 自分の肉体を、情報として定義する。強制スリープの影響で麻痺した神経系、薬液でふやけた皮膚、急激な覚醒による心拍の乱れ。

 

自分自身に魔法を投射する。

 スリープする前の「あるべき健康な状態」へ、『再成』により自分の肉体を無理やり書き換えた。

 

私は母様が差し出した手を借りることもなく、跳ねるように床を蹴った。濡れた足元が廊下で鋭い音を立てるが、構っていられない。

 

「鏡也……!」

 

廊下を走る私の背後で、お母様が必死に追いかけてくる気配がする。

けれど、今の私には彼女を気遣う余裕などなかった。

 

実験棟の無機質な廊下が、永遠のように長く感じる。

たどり着いた自室の扉は、荒々しく開放されており、私は滑り込むように、自分の部屋へと飛び込んだ。

 

「――え……?」

 

そして、部屋の真ん中で崩れ落ちている鏡也の姿だった。

 

けれど、それ以上に私の理解を拒んだのは、あの真夜叔母様が、なりふり構わず鏡也を抱きしめ、子供のように声を上げて泣いている姿だった。

 

「鏡也……! ああ、鏡也……っ」

 

叔母様の宵闇の瞳からは、見たこともないほどの涙が溢れ、あの子の小さな体を壊さんばかりに抱き寄せている。

床には、鏡也の目元から流れたと思われる鮮血が点々と落ちていた。

 

「どいてください、叔母様!」

 

私は叫んでいた。

感情を奪われた人形だった私が、感情のおもむくままに叫ぶ。

叔母様を押し退けるようにして、鏡也の胸元に手をかざす。

 

(……熱い。何、これ。演算領域が物理的に焼き切れている……!)

 

鏡也の身体は、限界を超えた想子の過負荷によって、まるで内側から発火するかのような異常な高熱を帯びていた。

 

 私は即座に、鏡也のエイドスへと意識を沈めた。

 本来、私の『再成』に迷いや恐怖が介在する余地はない。対象の過去の情報を読み取り、現在の損傷した情報へと上書きする。それは、壊れたデータをバックアップから復元するような、極めて無機質な情報処理だ。

 

だが、今だけは、そのコンマ数秒の演算が永遠のように長く感じられた。

 

(読み取って……「正常な」記録を……!)

 

情報空間に漂う鏡也の履歴を遡る。二十四時間以内なら、どんな損傷もなかったことにできる。

 数分前。そこにはまだ、演算領域を焼き切られる前の、健やかな彼の情報が刻まれていた。

 

その「完成された設計図」を掴み、現在の彼へと叩きつける。

 

 ――『再成』。

 

術式が発動した瞬間、鏡也の肉体を覆っていた高熱が引き、目元の裂傷が、まるで最初から存在しなかったかのように消失した。飛び散っていた血液さえも、因果の逆転によって彼の血管の内側へと戻っていく。

 

 本来なら、これで「作業」は完了だ。情報の書き換えが済めば、彼は物理的には完全に修復されているはず。

 

 けれど、私は手を離せなかった。

 データ上は正常。数値も安定。なのに、私の心臓を掴むこの「恐怖」という名のノイズが止まらない。

 

(起きて。お願い……鏡也、起きて……!)

 

修復し終えた彼の胸元に耳を当て、その鼓動を確かめる。

 機械のように正確な魔法を紡ぎながら、私の内側では、かつてないほどに無様で、生々しい「祈り」が渦巻いていた。

 

「鏡也……鏡也……っ」

 

魔法は万能でも、意識がいつ戻るかまでは定義してくれない。

 私はただ、再成し終えたばかりの、まだ温かいこの子の肩を、震える手で強く抱きしめることしかできなかった。

 

 

 

「……鏡也を、別棟の特別療養室へ。……このことは、この場にいる者以外、一族の誰にも漏らしてはなりません。……いいわね」

 

 お母様の声は、いつもの冷徹さを取り戻そうとしていたけれど、その指先はまだ微かに震えていた。

 従者たちが鏡也を運び出そうと手を伸ばした、その時。

 

「……触れないで」

 

 私は、鏡也の体を抱きしめたまま、低く、けれど拒絶の意志を孕んだ声を出した。

 自分でも驚くほど、鋭く、生々しい「独占欲」が胸の奥で火を噴いていた。

 

「真冬。鏡也には安静が必要です。あなたは一度、身なりを整えてきなさい。……その濡れた格好では、あなたが倒れてしまいます」

 

 お母様が、調整液で濡れそぼった私の寝衣を指して、諭すように言った。食事を摂り、睡眠を取るようにと。それは管理者の命令ではなく、どこか娘を案じる母親の響きが混じっていた。

 

 けれど、私は首を横に振った。

 

「……着替えだけ、します。……でも、食事も睡眠も、いりません。……鏡也が目を覚ますまで、私は、一歩も離れません」

 

 かつての私なら、「はい、お母様」と短く答え、命令に従っていただろう。

 けれど今の私には、鏡也のいない場所で息をすることさえ、耐え難い苦痛に感じられた。私の瞳に「色」をくれた鏡也が、再びその眼を開く瞬間を、私はこの目で見届けなければならない。

 

 結局、私の頑なな態度に、お母様が折れた。

 

 私は短時間で身支度を済ませた。

 そして、その胸元に――あの日、鏡也が「君に見てほしい色だ」と言って贈ってくれた、赤いリコリスのブローチを添えた。

 

 指先で、冷たい銀の細工と、熱を帯びたような紅い花弁をなぞる。

 

 鏡也が贈ってくれた、このリコリス。

 それは、色彩を持たなかった私の世界に、あの子が初めて灯してくれた「命」の証。

 四葉という冷たい檻の中で、私が「人形」ではなく「一人の女の子」であることを証明してくれる、世界でたった一つのお守り。

 

 たとえ今、あの子が目を閉じ、深い眠りの中にいたとしても。

 この胸元に咲く鮮烈な「赤」が、あの子の鼓動の代わりに、私の肌を通じて「生きている」ことを訴えかけてくる。

 

 鏡が映し出す私の姿は、以前のような「空っぽな器」ではなかった。

 鏡也を失う恐怖に震え、彼を求める熱に焼かれた、あまりに無様で、あまりに人間らしい少女の形。

 

 療養室のベッドの傍らに座り、私は鏡也の右手を両手で包み込んだ。

 沈香の香りが微かに漂う部屋の中で、私は規則正しい鼓動だけを、暗闇の中の灯台のように頼りにしていた。

 

 ――そして。

 

 窓の外が薄明るくなり始めた頃。

 私の指先の中で、あの子の手が、ぴくりと動いた。

 

「……鏡也?」

 

 震える声が、静寂を破る。

 重い瞼がゆっくりと押し上げられ、濁った視界の先に、あの子の意識が戻ってくるのがわかった。

 

「鏡也、鏡也……っ! よかった……。戻ってきて、くれた……」

 

 私は、喉の奥から漏れた悲鳴のような安堵と共に、あの子の胸へと飛び込んだ。

 

 生きていてくれれば、それでいい。

 四葉の兵器としての役割も、完璧な調整も、もうどうでもいい。

 あなたがいない灰色の世界に戻るくらいなら、私はこのまま、あなたの熱に焼かれて消えてしまっても構わない。

 

「……心配かけて、ごめん。真冬」

 

 その掠れた声を聞いた瞬間、私の世界にようやく光が戻った。

 抱きしめた鏡也の体は、まだ少し冷たいけれど、確かに生きている。規則正しい心音が私の耳に伝わり、それが何よりも愛おしい音楽のように響いた。

 

生きていてくれた。私を置いて、一人でどこかへ行ったりしなかった。

 それだけで、他に何もいらないと思った。四葉の兵器としての宿命も、感情を殺した日々も、鏡也さえ隣にいてくれるなら、すべて過去に捨て去っても構わない。

 

「目覚めたようね。鏡也」

 

背後から響いた叔母様の声。そして、駆け寄ってくるお母様。

 いつもなら「失礼をいたしました」と身を引くべき場面。けれど、今の私にはそんな行儀なんて、欠片ほどの価値もなかった。私は鏡也の腕を離さず、むしろ独占するように力を込める。

 

叔母様が鏡也の髪を愛おしげに撫で、お母様が息子の無事を確かめるようにその額に触れる。

 二人の瞳に宿っているのは、今まで一度も見せたことのない、一人の女としての、そして母としての「情愛」だった。

 

(……鏡也が、変えたのね。この冷たい魔窟の主たちさえも)

 

けれど、鏡也の口から漏れた言葉が、その奇跡のような平穏を一瞬で凍りつかせた。

 

「……度付きの眼鏡を、用意してもらえませんか?」

 

――ッ!?

 心臓が、恐怖で握り潰される。

 私の『再成』で、彼の肉体は完璧に修復したはず。欠損も、癒着も、細胞一つひとつの不具合すら見逃さずに、数分前の「完璧な鏡也」を上書きしたはずなのに。

 

「……っ、……嘘、どうして?」

 

私は狂ったように想子を練り上げた。

 『再成』。もう一度。もっと深く。もっと細かく。

 あの子の瞳の奥、視神経の末端、光を電気信号に変える受容体の一つひとつまで意識を沈める。けれど、そこに刻まれているのは、書き換え不可能な「虚無」の刻印だった。

 

どんなに魔法を重ねても、彼から失われた「光」を取り戻せない。

 世界を自由自在に作り替えるはずの私の力が、たった一人の、世界で一番大切な人の視力すら直せないなんて。

 

(そんなの、……いらない。こんな力、何の意味もない……っ!)

 

絶望に打ちひしがれる私を気遣うように、鏡也が私の背中に手を回した。

 自分の視力が奪われたというのに、あの子は私を安心させるために、優しい声で笑ってみせた。

 

「……そのブローチ。落ち着いた黒色の花だね。大人っぽくて、今の君に本当によく似合っているよ。俺が贈ったあの赤いリコリスも良かったけれど、今の君にはその静かな黒い花が、とても…」

 

 

 

――その瞬間。

 私の思考は、音を立てて停止した。

 

「鏡也……? 何を、言っているの……?」

 

震える指先で、胸元のリコリスに触れる。

 これは、あの日、鏡也が私にくれた、大切な贈り物。

 私がこの暗い檻の中で、鏡也を信じるためのお守り。

 今、この瞬間も、あの子の眼と同じ、鮮烈な真紅に輝いているリコリス。

 

「……え? 黒……じゃないのかい? 銀の縁取りの中に咲く、深みのある漆黒の――」

 

「……嘘。そんな、鏡也……っ!」

 

喉の奥から、言葉にならない悲鳴が漏れた。

 鏡也の瞳は、私を見ている。

 けれど、あの子の瞳には、もう「この赤」が届いていない。

 

 この子は私のために、色彩を、その瞳から差し出してしまったのだ。

 

「嫌……。ああッ、鏡也……ッ!」

 

私はあの子の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。

 鏡也が失ったものの重さが、私の胸を鋭く切り裂く。

 あの子は「後悔していない」と笑う。

 けれど、その優しさが、私には何よりも残酷な呪いとなって突き刺さる。

 

 このリコリスの赤が。

 

もう、鏡也は二度と見ることができない。

 

(私が……私が、あなたを壊してしまった……っ)

 

涙で視界が歪む。

 鏡也に抱きしめられながら、私は誓っていた。

 この人が失った色彩の代わりに、私が一生、この人の眼、いや全てになる。

 鏡也が守ってくれたこの心で、この人が見られなくなったすべての景色を、私が言葉にして、温度にして、伝えていく。

 

この人が失った光を、私が一生をかけて、その唇で、その体温で、綴り続けていく。

 

それが、これからの私の、唯一の生きる理由。

 

私は、自分だけの「使命」を見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鏡也が目覚めてから、ひと月が過ぎた。

 あの日以来、あの人の瞳からは色彩が失われたままだ。けれど、その代わりに手に入れた「黒縁の眼鏡」は、今では鏡也の顔の一部のように馴染んでいる。

 

四葉の技術の粋を集め、想子安定結晶を極限まで薄く削り出したレンズ。それは失われた視力を矯正し、同時に鏡也の写輪眼の暴走を封じ込める「檻」でもあった。

 

そして今日。その物理的な檻だけでなく、精神的な「檻」を私と鏡也がかける日が来た。

 

場所は、当主執務室。

 母様がCADを手に、地面に緻密な魔法幾何学模様を展開している。

 

「……母様、やはり考え直してはもらえないかな。僕の力の制御なら、この眼鏡と自分自身の修練で……。真冬まで巻き込んで、お互いを魔法で縛り付けるなんて、それは……」

 

鏡也の声には、迷いがあった。それは自分への不安ではなく、私の未来を奪うことへの罪悪感。

 けれど、この部屋にいる三人の女性は、誰一人として彼を逃がすつもりはなかった。

 

「鏡也。あなたはまだ分かっていないのね」

 

母様が、CADを構えたまま、冷徹な、けれど心配に満ちた瞳で息子を見据える。

 

「これはあなたの『責任』の問題ではないの。あなたの命は、もはやあなた一人のものではない。私が、そして四葉が、二度とあなたを失わないための、これは『対価』なのよ」

 

「そうよ、鏡也」

 

デスクで優雅に指を組んだ真夜叔母様が、艶然と微笑む。その瞳は、獲物を追い詰めた猛獣のように爛々と輝いていた。

 

「あなたが一人で壊れる自由なんて、この四葉真夜が許さないわ。あなたがわたくしの闇を連れ去ってくれたあの日から、あなたの存在はわたくしの『朝』そのもの。……わたくしをまた、あの光のない夜に突き落とすつもりかしら?」

 

二人の圧倒的な圧力に、鏡也が気圧されたように一歩下がる。

 私は、その震える指先に、下からそっと自分の指を絡めた。

 

「鏡也。……私を見て」

 

眼鏡の奥、色彩を失ったあの子の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 

「不自由になるのが怖い? ……私は、怖くないわ。あなたと繋がっていられるなら、心が檻に閉じ込められたって構わない。……お願い。私を、あなたを繋ぎ止める『鍵』にして。あなたがどこか遠くへ消えてしまわないように、私であなたを縛らせて……」

 

私の、祈るような、あるいは呪うような懇願。

 三人の意志に囲まれ、鏡也はついに、重い溜息とともに肩の力を抜いた。

 

「……分かったよ。……もう、僕に逃げ場はないみたいだね」

 

鏡也が諦めたように目を閉じると、母様の魔法式が激しく明滅し、執務室の床に描かれた幾何学模様が光を放ち始めた。

 

「――構築完了。……まずは、鏡也。真冬の力を鎮める『鍵』になりなさい」

 

母様の合図とともに、鏡也が私の前に立つ。

 この人の手が私の頬を包み込み、ゆっくりと顔が近づいてくる。

 

「……ごめんね、真冬。……いつか、君を自由に、幸せな未来にするから」

 

鏡也が、私の額にそっと唇を落とした。

 その瞬間、熱い想子の衝撃が脳を突き抜け、私の精神の深層に鏡也という名の絶対的な「セーブ」が刻み込まれた。

 

「……次に、真冬。鏡也の万華鏡写輪眼を封じる『鍵』になりなさい」

 

今度は、私の番。

 私は鏡也の首に腕を回し、あの子の吐息を吸い込む距離まで引き寄せた。

 

「鏡也……私の、光……」

 

私は顔を近づけ、驚きに目を見開く鏡也の唇を、私自身の唇で深く、重く、塞いだ。

 

――誓約完了。

 

「……あなたを一生守ります。すべてを懸けて」

 

 

 

 

 

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