氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー   作:冷やかし中華

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同じ悲しみの中でも、人はそれぞれ違う崩れ方をする。

不安に、手を握る者。
悲しみに、顔を覆う者。
言葉を恐れ、口を閉ざす者。
無力さに、歯を噛み締める者。

一方で、支度を始める者がいた。
待てと言われた。けれど、その手は止めなかった。


04-終.『山は、まだ答えなかった』

警察署の外に出ると、冷気が来た。

 

山の冷気ではなかった。

 

アスファルトと建物の間を通り抜けてくる、街の冷気だった。同じ冷たさでも、質が違った。山の冷気は匂いを持っている。雪の匂い、木の匂い、獣の気配の残滓。街の冷気にはそれがなかった。ただ、冷たいだけだった。

 

コハギは一度だけ深く息を吸った。

 

山がどちらの方角にあるか、体が知っていた。建物が邪魔をして見えなかった。それでも、体は知っていた。あちらの方角に、今もあの山がある。あの山の中に、三人がいる。

 

三人が、まだいる。

 

阿部さんは、戻っていない。外部から来たという鈴木さんも見つかっていない。山岳救助隊の隊長たちが羆に襲われたと報せられた。――立ち止まり、深く息を吸った。吐いた。また吸って、吐いた。

 

コハギは雪靴の底で、地面を一度踏んだ。アスファルトの固さが、足の裏に返ってきた。山の雪の感触ではなかった。

 

歩き始めた。

 

 

    ※

 

 

メジロ邸の応接間に、その通達が届いたのは、夜になってからだった。

 

電話だった。スピードシンボリが取った。相手は、行政側の責任者だった。声が、慎重に選ばれていた。一語一語が、何度も推敲された跡のある言葉だった。

 

捜索活動を、一時中断する。

 

そういう通達だった。中止ではない、と相手は念を押した。中止ではなく、中断。安全確保のための、一時的な措置。今後は方針を見直し、当該個体への対処を最優先とする。その方法を、関係各所で検討する。場合によっては、通常の手続きを超えた措置も、議論の対象とする。再開の時期は、現時点では、未定。

 

言葉は、丁寧だった。

 

丁寧すぎた。

 

スピードシンボリは、その丁寧さの下にあるものを読み取った。三つあった。

 

一つ。自分たちへの配慮。メジロとシンボリ、二つの家の子女が当事者である以上、雑には扱えない。「諦めた」とは、口が裂けても言えない。だから「中断」という言葉を選ぶ。

 

二つ。組織の面子。隊員が消え、猟師が消え、負傷者が出た。たかが獣に、と誰もが思っていた。その獣に、虚仮にされた。このまま引けば、組織の名に傷がつく。だから「対処を最優先」という、能動的な言葉に言い換える。

 

三つ。住民の安全。人里への直接の被害は、まだない。だが、これだけの犠牲が出た以上、放置はできない。安全確保。その名目だけは、確かに、立った。

 

三つの理由が、合流していた。合流して、一つの結論になっていた。

 

——子供たちの捜索は、止まる。

 

対処が最優先になるということは、救出が後回しになるということだった。脅威を排除するまで、誰も山に入れない。入れないということは、三人を探す人間が、一人もいなくなるということだった。

 

スピードシンボリは、通話を終えた。

 

応接間に、人がいた。

 

スイートルナがいた。スイートエプソムがいた。メジロアサマがいた。アサマの隣に、メジロアルダンがいた。ラモーヌとアルダンの両親がいた。

 

誰も、何も言わなかった。

 

スピードシンボリが電話で何を聞いたか、その背中を見ていれば、わかった。言葉にする必要は、なかった。

 

 

    ※

 

 

「捜索が、止まるのですね」

 

最初に口を開いたのは、アサマだった。

 

問いではなかった。確認だった。スピードシンボリは、頷いた。頷くしかなかった。

 

「中断、だそうです。中止ではなく」

 

「同じことです」

 

アサマは、静かに言った。

 

その声に、感情はなかった。怒りも、嘆きもなかった。ただ、事実を事実として受け取る、当主の声だった。長く生きて、長く家を背負ってきた者の声だった。

 

でも、スピードシンボリは見た。アサマの膝の上で、両手が、固く組まれていた。指の関節が、白くなっていた。声が手放したものを、手が握りしめていた。

 

ルナが、顔を覆った。

 

声は、立てなかった。肩が、一度だけ揺れた。それだけだった。それから、また、動かなくなった。ルドルフの母だった。ここに来ると決めた日から、ずっと、何かを抱え続けてきた人だった。その何かが、今夜、形になった。

 

エプソムは、窓の外を見ていた。

 

シリウスの母だった。何も言わなかった。言えば、それが現実になる気がしていた。だから、口を閉じていた。閉じたまま、窓の外の、見えない山を見ていた。

 

応接間が、静かだった。

 

暖炉の火だけが、音を立てていた。

 

 

    ※

 

 

「おねえさまは」

 

その声は、小さかった。

 

アルダンだった。

 

アサマの隣で、ずっと黙っていた幼い子が、口を開いた。誰も、すぐには答えなかった。答え方が、わからなかった。

 

「おねえさまは、まだ、帰ってこないの」

 

アルダンが、もう一度言った。

 

二十日前、姉は「行ってくる」と言って出かけた。アルダンは、布団の中から手を振った。お土産話を聞かせて、と言った。姉は、笑って頷いた。それきりだった。

 

最初の数日、アルダンは何度も聞いた。おねえさまは、いつ帰るの、と。大人たちは、もうすぐ、と答えた。もうすぐ、もうすぐ、と。

 

だんだん、聞かなくなった。

 

聞いても、答えが同じだと、わかったから。聞くと、大人たちの顔が、曇るとわかったから。子供だったが、それくらいは、わかった。

 

今夜、久しぶりに聞いた。

 

聞いてしまった。

 

「……アルダン」

 

アサマが、孫の名を呼んだ。

 

呼んで、その先が、続かなかった。当主の声を、保てなかった。長く家を背負ってきた者の声が、孫の前で、一度だけ、揺れた。

 

「もう少し、待ちましょうね」

 

やっと、それだけ言った。

 

アルダンは、祖母の顔を見た。それから、大人たちの顔を、順番に見た。スピードシンボリを見た。ルナを見た。エプソムを見た。

 

幼くても、わかった。

 

この部屋にいる大人たちが、みんな、同じ顔をしていた。「もう少し」と言いながら、誰も、その「もう少し」がいつなのか、知らない顔だった。

 

アルダンは、それ以上、聞かなかった。

 

聞かずに、アサマの袖を、小さく握った。

 

握った手が、震えていた。怖いのではなかった。寒いのでもなかった。何が震えさせているのか、アルダン自身にも、わからなかった。ただ、握っていないと、いられなかった。

 

アサマは、その手を、握り返した。

 

 

    ※

 

 

スピードシンボリは、廊下に出た。

 

応接間の空気が、重すぎた。重さに耐えられなかったのではない。自分がそこにいると、家族の悲しみに、余計なものが混じる気がした。

 

スピードシンボリは、この家の直系ではなかった。血の繋がりは、ある。ルドルフとも、遠く繋がっている。だが、母ではなかった。祖母でもなかった。妹でもなかった。

 

あの部屋の悲しみは、家族のものだった。

 

自分のものではなかった。

 

それでも、ルドルフを探したかった。シリウスを探したかった。ラモーヌを探したかった。立場ではなかった。血でもなかった。ただ、あの子たちを、探したかった。

 

窓の外に、山があった。

 

暗かった。雪が、また降り始めていた。昼間の晴天が、嘘のようだった。山に入れる天候は、終わった。これからしばらく、荒れる。荒れれば、誰も入れない。中断は、天候によっても、補強される。

 

撃って、当たったかもわからない獣。

 

地形を知らなければ、近づくこともできない山。

 

そして、降り始めた雪。

 

すべてが、三人を、遠ざけていた。

 

スピードシンボリは、窓に手をついた。冷たかった。ガラス越しに、山の冷気が、伝わってくる気がした。

 

待つしかなかった。

 

待つことしか、できなかった。

 

それが、いちばん、こたえた。

噛み締めた奥歯が鳴ったような気がした。

 

 

    ※

 

 

山菜屋に戻ったのは、夕方を過ぎた頃だった。

 

引き戸を開けると、土間に明かりがついていた。乾燥させた山菜の匂いがした。いつもの匂いだった。棚に並んだ籠、壁に掛かった手拭い、使い込まれた上がり框。全部、いつもと同じ場所にあった。何日かぶりに、見慣れたものが視界に入った。

 

奥から、女将の気配がした。

 

「おかえり」

 

それだけだった。

 

余分な言葉がなかった。どこに行っていたか、何があったか、聞かなかった。聞かなくても、わかっているのだと思った。騒ぎは届いていた。テレビかもしれなかった。近所の話かもしれなかった。どちらにせよ、女将は何かを知っていた。

 

知っていて、聞かなかった。

 

コハギは雪靴を脱いだ。それから上がり框に腰を下ろした。立ったまま奥に入る気力が、今夜はなかった。框の角が、手のひらに当たった。何度も座ってきた場所の、使い込まれた感触だった。

 

しばらくして、お茶が来た。

 

女将が湯呑みを置いた。音がしなかった。そっと置いた、という置き方だった。いつもの女将は、もう少し雑だった。棚に茶碗を戻す時も、籠を積み上げる時も、音を気にしない人だった。今夜だけ、違った。

 

コハギは、その違いに気づいた。

 

気づいて、何も言わなかった。言えなかった、というより、言う言葉が見つからなかった。

 

女将は何も言わずに奥に戻った。

 

コハギは湯呑みを両手で包んだ。温かかった。手のひらに、熱が伝わってきた。その温かさだけが、今夜は確かなものだった。

 

 

    ※

 

 

聴取で話したことが、頭の中をまだ動いていた。

 

録音機。刑事の目。「正確に、時間と状況を教えてください」という声。

 

言葉にするたびに、あの夜のことが形を持った。「甘い、獣のような匂いが来ました」と言った瞬間に、それが記録になった。「視られている気がしました」と言った瞬間に、それが証言になった。「コハギ、と聞こえた気がしました」——その言葉を口にするかどうか、一瞬だけ迷った。口にした。刑事の目が、わずかに細まった。

 

言葉にしなければ誰かが損をした。言葉にしたから、取り消せなくなった。どちらも本当のことだった。

 

「大丈夫ですか、一人で出歩いては——」

 

また、戻ってきた。

 

あの瞬間に言いかけた言葉が、今夜もまだ喉の奥に残っていた。完成しなかった言葉だった。完成していたとしても、間に合わなかったかもしれなかった。間に合ったとしても、別の結果になっていたかどうかわからなかった。

 

答えは、出ない。

 

出ないまま、この言葉は残り続ける。

 

コハギは湯呑みを一口飲んだ。

 

ただ、温かい湯呑みを持っていた。

 

 

    ※

 

 

しばらくして、女将が奥から声をかけた。

 

「道外から来た猟師さんたち、ひどい目に遭ったらしいね」

 

世間話のような言い方だった。でも、世間話ではなかった。

 

コハギは湯呑みを持ったまま、少し止まった。

 

夕方の警察署で、刑事から聞いた話と同じだった。女将も、知っていた。テレビか、近所の話か。どちらにせよ、もう町中に広がっていた。道外から来た、山のプロと呼ばれた人たちが、この山に入って、ひどい目に遭った。地形を知らない人間が入れば、どうなるか。山が、教えたのだ。

 

「そうですか」

 

コハギは言った。

 

女将は奥に戻ろうとして、少し止まった。コハギの顔を、一度だけ見た。長く見なかった。一秒か、それ以下か。それだけ見て、また奥に向かった。

 

その一秒が、コハギには伝わった。

 

女将は何年も、コハギが山から戻る顔を見てきた。春の山菜採りから帰った顔。秋の木の実を背負って帰った顔。雨に降られた顔。道を間違えて遅くなった顔。今夜の顔が、そのどれとも違うことを、女将は知っていた。

 

知っていて、何も言わなかった。

 

それが、今夜の女将にできる全部だった。

 

窓の外を見た。暗くなっていた。空の端に、薄く星が出ていた。山の方角に、雲がかかっていた。明日の天候が、頭の中で組み上がった。雲の厚さ、風の向き、今夜の気温。明日は雪が降る。降っても、止む時間帯がある。

 

今日、警察から要請を受けた。地形を知る人間に、協力してほしいと。聴取は終わった。疑う段階は過ぎた、と言われた。ただ、すぐにとはいかない、とも言われた。体制を立て直し、安全策を整えて、入山の日時を、改めて伝える、と。それまでは、家で待つように、と。

 

いつ来るか、わからなかった。数日先かもしれない。もっと先かもしれない。

 

「待つことになりました」

 

女将に言った。

 

奥から、返事がなかった。

 

長い間があった。

 

その間に、何かが聞こえた気がした。女将の、息の音だった。深く吸って、止めて、それから奥へ向かった音だった。

 

しばらくして、食器の音がした。夕食の支度を始めた音だった。止めない、という意味だった。それだけで十分だった。

 

コハギは湯呑みを置いた。

 

山の方角に、体を向けた。

 

三人は、まだそこにいる。阿部さんのことも、鈴木さんのことも、まだ答えが出ていない。今日、山に入った人たちが、どんな目に遭ったか。コハギにはわかっていた。わかっているから、自分が入らなければならないと思った。

 

通達は、まだ来ていなかった。

 

待つしかなかった。

 

でも、待つというのは、何もしないことではなかった。

 

帰ったら、雪靴を見直そう、と思った。紐の傷んだところを替える。底の減りを確かめる。明日のためではなかった。いつ来るかわからない、その日のためだった。

 

答えはまだ、出ていなかった。

 

でも、体は、もう向いていた。

 

山は、まだ答えなかった。

 

それでも、コハギはその日の朝の雪靴を、すでに頭の中で選び始めていた。

 

 

    ※

 

 

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胆振新報デジタル版 11月10日 21:18配信

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【続報】胆振管内・捜索活動を一時中断へ

当面は安全確保を優先 再開時期は未定

 

胆振管内で子供3名が行方不明となっている件で、関係機関は10日夜、捜索活動を一時中断する方針を固めたことがわかった。

 

同日午前の捜索活動中に新たな負傷者が出たことを受けた措置で、関係者は「中止ではなく中断」と強調している。今後は当該個体への対応を優先し、その方法を検討するとしている。

 

再開の時期については「安全が確保され次第」としており、具体的な見通しは示されていない。

 

 □ この記事へのコメント(87,002件)

 ▼ 人気コメント

 「やっと止めたか。これ以上犠牲者出す前に」

 「中断って、つまり見捨てるってことだよね」

 「子供たちはどうなるの」

 「もう三週間だよ。現実を見ないと」

 「中断に賛成。でも、あの子たちのことを思うと……」

 

 

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SNS投稿 11月10日 夜 収集分

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冷静に @calm_55

捜索中断が決まった。

 

道外からの人員投入の結果が、これだ。

負傷者三名。重傷者あり。

 

外部の人間が介入できるフェーズは、終わった。

残された選択肢は二つ。

山を知り尽くした現地の人間に、すべてを託すか。

それとも、完全に手を引くか。

 

そのどちらかしか、もう、ない。

 

  28,334 ❤ 71,556

 

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 

もう限界 @genkai_no_hito

ずっと追ってたけど、もう見てられない。

子供3人。捜索隊員。猟師。

入った人が、次々に。

 

中断は正しいと思う。

でも、正しいことが、こんなに苦しいなんて。

 

  12,990 ❤ 48,221

 

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 

郷土史すきな人 @kyodoshi_iburi

この騒ぎで気になって、道立図書館で昔の郷土資料を漁ってきた。

大正十三年の記録に、似た事案があった。

村で人が死んで、捜索隊が山に入って、犬が全頭怯えて動かなくなって、人間だけで入って——「以降、記録途絶ユ」。

 

そのページの余白に、後から誰かが書き足した一文があった。

達筆すぎてうまく読めないけど、たぶんこう書いてある。

 

「化生なり。羆にあらず。何ぞ別の怪物なり」

 

百年前の話です。偶然だとは思うけど。

 

  44,201 ❤ 102,887

 

 ▼ リプライ

 「ゾッとした」

 「化生って何」

 「偶然にしてはできすぎ」

 「こういうの掘り起こすのやめなよ。不謹慎」

 「でも現実に犬が怯えて動かないって報道あったよね……」

 

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 

報道検証アカウント @houdou_check_jp

最後に、もう一度だけ書いておきます。

 

この件は、子供3名の行方不明から始まりました。

 

その子たちは、まだ見つかっていません。

捜索は、中断されました。

 

私たちが忘れても、その子たちは、まだあの山にいます。

 

  19,887 ❤ 63,004




これにて、第四章『雪は重く、山は深く、変わらぬ覚悟はなお強く。』は幕を下ろします。

ここまで、捜索する側の焦燥と、それでも山へ向かい続けた人々の姿を意識して書き進めてきました。人が消え、人が傷つき、そして捜索はついに中断されました。保護者たちが積み上げてきた二十日あまりの時間は、報われないまま、雪の下に沈んでいきます。

ここまでご覧いただいた方はご存知の通り、保護者たちの悲嘆は、山の中の現実とは食い違っています。少女たちは凍えても、冷たくもありません。ただ、それを知っているのは、今もなお貴方だけです。

次の章では、その山の中へ、もう一度時計の針を戻します。少女たちは、下りる支度を少しずつ整えています。けれど麓では、その山へ向かう道が、いま閉じられたところです。下りられる者と、迎えに行けなくなった者。その二つの時間が、次の章で、静かにすれ違おうとしています。

第五章『刻は近く、想いは強く、届ける言葉はなお尊く。』近日投下予定です。
また次の物語でお会いしましょう。

――山は、まだ答えません。けれど、雪は少しずつ、締まり始めています。
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