氷下の命脈ー放っておくには、雪が冷たすぎたー 作:冷やかし中華
雪の下に、何があるのだろう。あの足跡は、どこへ消えたのだろう。
あの人は、向こうで、何をしているのだろう。
知りたい、と思えること。それ自体が、戻ってきていた。
生きることで精一杯だった頃には、なかったものだった。
目を見はる力が、三人分、戻ってきていた。
朝、男が先に外へ出た。
しばらくして、戻ってきた。
何も言わなかった。外套の袖を払って、三人を見た。
「出られる」
それだけだった。
三人は顔を見合わせた。
訓練のために小屋の外へ出るのは、小屋の中で三人ともが端から端まで器から水を溢さずに歩けるようになって以来だった。そして、その時は、まだ足元が覚束なかった。雪の上で止まった。動けなかった。あの日から四日が経って、今日また外に出る。
「……出ます」
ルドルフが言った。
男がルドルフたちの反応を見てから扉を開けた。
久しぶりに感じる冷気が、顔を打った。
三人とも、一瞬止まった。止まった、というより、受け取った。肺が、外の空気を受け取った。小屋の中とは違う冷たさだった。乾いていた。薄かった。でも、澄んでいた。
空が高かった。雪が光っていた。昨日までの天気が嘘のような晴れ間が広がっていた。
三人が外に出た。
雪が、足の裏に沈んだ。
小屋からはじめて外に出された日と同じ感触だった。でも、違った。同じ沈み方なのに、今日の足はそれを受け取ろうとしていた。受け取って、次の一歩を考えていた。あの日は、ただ沈んだ。今日は、沈み方を聞いていた。三日間、床と板の上でやってきたことが、足の裏に残っていた。
「小屋から離れるな」
男が言った。
三人が頷いた。
男は少し三人を見ていた。それから、小屋の裏の方角へ歩いていった。
※
三人は訓練を続けた。
雪の上で器を頭に乗せて歩いた。沈み方を、足の裏で読もうとした。踏んでから聞いた。踏んでから合わせた。
男の姿が、見えなかった。
小屋の裏に消えた時から、戻ってこなかった。
どのくらい経ったか、わからなかった。日が少し傾いたかもしれなかった。
最初の頃なら、男がいなくなっても、ただ待っていた。待つしかなかった。いなくなったことを不安に思う気持ちさえ、最初の数日は湧かなかった。生きていることで精一杯で、男がどこで何をしているかなど、考える余裕がなかった。男は現れて、食べさせて、また消える。それを受け取るだけだった。
でも、今は違った。
男が、どこへ行ったのか。小屋の裏で、何をしているのか。それが、気になった。気になる、ということ自体が、いつの間にか戻ってきていた。腹が満ちて、脚が動いて、雪の上を歩けるようになって——その先に、知りたい、という気持ちが、芽のように出てきていた。
シリウスが、最初に動いた。
シリウスはいつもそうだった。気になると、身体が先に動く。考えるより先に、足が向く。器を頭から降ろした時には、もう半分、立ち上がりかけていた。
ラモーヌは、鼻から入った。風に乗ってくる匂いの中に、男の気配の名残りを探していた。気になるものがあると、ラモーヌはまず嗅ぐ。見るより、聞くより、嗅ぐ。匂いの方が、嘘をつかないと知っていた。
ルドルフは、二人とは違った。
気になる、という気持ちは、ルドルフにも同じだけあった。むしろ、誰より強かったかもしれない。あの足跡。あの匂い。男という存在の、まだ見たことのない部分。知りたい、と思う気持ちは、ルドルフの中で誰よりも大きく膨らんでいた。
でも、ルドルフには、もう一つの気持ちがあった。
知りたい、と、知ってはいけない、が、同じだけあった。知ってしまえば、何かが変わる。今朝、椀の計算を止めた時と同じ怖さだった。だから、膨らんだ好奇心の上に、ルドルフは蓋をしようとした。
シリウスが器を頭から降ろした。
「……あの人」
誰にでもなく言った。
ルドルフとラモーヌが、シリウスの視線を追った。小屋の裏の方角だった。
「見てくる」
「待って」
ルドルフが言った。
シリウスが振り返った。
「なによ」
「……」
言葉が出なかった。止めなければならない、という感覚だけがあった。理由が言葉にならなかった。ただ、止めなければならなかった。
あの午後のことを、ルドルフははっきりとは思い出していなかった。出来事として、順を追って思い出したわけではなかった。ただ、身体の奥が、何かを覚えていた。あの時も、こうして三人で、誰かの背中を追って歩き出そうとしていた。あの時、前にいたのは——そこから先は、像を結ばなかった。結ばないまま、引き止めなければ、という感覚だけが、せり上がってきた。
今日は「行くな」と言いたかった。
言いたいのに、言葉にならなかった。あの日、自分が何と言ったのかも、思い出せなかった。ただ、立ち位置が、あの日と入れ替わっているような、奇妙な感じがした。それが何なのか、ルドルフにはわからなかった。わからないまま、止めなければ、とだけ思った。
「覗くなとは言われてないでしょ」
シリウスが言った。
「でも」
「でも、何」
ルドルフは答えられなかった。ラモーヌを見た。
ラモーヌは何も言わなかった。
でも、耳が少し動いた。立っていた耳が、わずかに下がった。尾が、静止した。
シリウスがラモーヌを見た。耳を見た。尾を見た。
「……決まりだな」
小さく言った。
それから、雪の上を歩き始めた。小屋の角に向かって。
一歩一歩、静かに踏み出した。普段の訓練よりずっと静かだった。抜き足差し足、という動き方だった。覗くなとは言われていない。でも、悪いことをしている気がした。気がしながら、歩いた。
心拍が、少し上がっていた。怖い、ということではなかった。でも、上がっていた。
ルドルフとラモーヌが、黙って続いた。
ルドルフは、さっき「待って」と言ったばかりだった。止めようとしたのは、自分だった。なのに、足が動いていた。シリウスの後ろを、ついていっていた。
おかしい、と自分で思った。止めたのに、ついていく。蓋をしたはずの好奇心が、蓋の隙間から漏れていた。漏れて、足を動かしていた。知ってはいけない、と思う気持ちより、知りたい、と思う気持ちの方が、半歩だけ、前に出ていた。
その半歩を、ルドルフは止められなかった。止められない自分を、少しだけ、持て余した。
三人分の足音が、雪の上を進んだ。いつもより静かな足音だった。いつもより、慎重だった。それ自体が、何かがおかしいことを三人に教えていた。
三人で、小屋の角まで来た。
シリウスが角から顔を出した。
一拍、止まった。
男がいなかった。
小屋の裏は、広かった。雪が積もっていた。誰もいなかった。風が通っていた。その風が、三人の頬を撫でた。静かだった。静かすぎた。あの男が小屋の裏にいるはずなのに、気配がなかった。音もなかった。
足跡が、一つあった。
一つだけあって、途中から消えていた。消える、というより、薄くなっていった。ほとんど踏んでいないような跡が、かすかに続いて、それから何もなくなっていた。雪の表面に、触れた程度の印が残っているだけだった。
「……いない」
シリウスが言った。声が、少し低かった。
「足跡も」とルドルフが言った。「途中から、ほとんどない」
ラモーヌが鼻を動かした。
まず、ないものを確かめた。
あの匂いが、しなかった。いつか嗅いだ、甘くて、その奥に錆びた金気の混じった、粘りつくような匂い。胃の底が冷えた、あの匂い。それは、ここにはなかった。風のどこを探しても、なかった。
危なくない、と身体が言っていた。少なくとも、あの時のような危険は、ここにはない。
そう思った瞬間、ラモーヌの足は、ほんの少しだけ、軽くなった。あの匂いがないなら、進んでもいいのではないか。そういう気持ちが、すっと差し込んできた。
風が、小屋の裏から来ていた。あの匂いの代わりに、別の匂いがした。遠かった。草の根のような、土の奥から来るような匂いだった。知らない匂いだった。でも、嫌な匂いではなかった。男が消えていった方角から、薄く流れてきていた。方角はわかった。辿ろうとすれば、辿れるかもしれなかった。
「匂いなら」
ラモーヌが言いかけた。言いかけて、止まった。
シリウスがラモーヌを見た。
「辿れそう?」
「……辿れるかもしれない」
シリウスが一歩踏み出した。
足が、雪に沈んだ。
次の一歩を出そうとした瞬間だった。
「シリウス」
ルドルフの声だった。
シリウスの足が、止まった。
「……なに」
「戻ろう」
「でも」
ラモーヌも、迷っていた。あの匂いはしない。危ない感じは、しない。だから、辿ってもいいのではないか、という気持ちが、半分あった。
でも、足跡が、おかしかった。
途中まで、確かにあった。男の足跡が、雪の上に続いていた。それが、ある場所から、ふっと薄くなって、消えていた。雪が降って埋まったのではなかった。今日は晴れていた。埋まる理由がなかった。なのに、消えていた。まるで、途中から、地面を踏まなくなったように。
そんなことが、あるだろうか。
足跡が読めない、ということが、ラモーヌには一番、落ち着かなかった。匂いは読めた。でも、足跡は読めなかった。読めないものが、目の前にあった。読めないものの先へ進むのは、匂いのしない道を進むより、ずっと怖かった。
それに——「小屋から離れるな」と、男は言った。
危ない匂いはしない。でも、足跡は消えている。そして、離れるな、と言われている。進みたい気持ちと、進んではいけない理由が、胸の中で、同じくらいの重さで揺れた。
「戻ろう」
今度は、ルドルフの声が少し違った。理由が言葉にならなくても、戻ろう、という気持ちは確かだった。
シリウスは雪の上を見た。足跡が消えた先を見た。
心拍が上がっていた。怖い、ということではなかった。でも、上がっていた。この感じは、知っていた。
三人が、今ここにいる。
それはなぜか。
ラモーヌの耳が、また少し下がった。尾が、一度だけ揺れた。言葉ではなかった。でも、言っていた。
シリウスは踏み出しかけた足を、引いた。
「……フン」
短く息を吐いた。
「戻るか」
三人で、小屋の方へ歩いた。
※
小屋の中で、訓練を続けた。
床の音が、雪の上と違った。硬かった。返りが速かった。でも、雪の上で踏んだ後は、床の返りが少し違って感じた。雪を踏んだ後の足が、床に何を返してくるかを聞こうとしていた。
シリウスが端まで歩いた。四枚目で踏み外した。
「……チッ」
出発点に戻った。もう一度乗った。
ルドルフが端まで歩いた。こぼれなかった。戻ってきた。
「……なんで外の方が難しいんだろう」
シリウスが言った。
「均一ではないから」とルドルフが返した。
「床も均一じゃない」
「でも毎日同じ床だから、慣れた」
シリウスは少し考えた。
「じゃあ外も毎日踏めば慣れる?」
「慣れない、ではなく——毎日聞き直す、ということかもしれない」
シリウスはその言葉を聞いた。
毎日聞き直す。同じ場所でも、昨日と今日は違う。だから毎日、また聞く。
「……面倒だな」
「そうね」
ルドルフが言った。また端まで歩き始めた。
しばらく、訓練が続いた。
ストーブの熱が、じわじわと小屋の中に満ちていた。その熱が肌に届いた時だった。
「……っ」
シリウスが顔に手を当てた。
「どうした」
「……ヒリヒリする。ストーブに当たったら急に」
ルドルフが自分の手の甲を見た。赤くなっていた。少し腫れているようにも見えた。外にいた時間は、それほど長くなかった。でも、雪が光を反射していた。その光が、気づかないうちに肌に当たり続けていた。暖に当たって、ようやく痛みが出てきた。
「雪のせいかしら」
「たぶん」
ラモーヌは自分の頬を指先で触れた。触れた瞬間に、じわりと熱さを感じた。外にいる間は気づかなかった。小屋の中の温度が、雪焼けした肌を刺激していた。
「痒くなってきた」
シリウスが言った。
「わたしも」
三人で、しばらく顔や手を確かめた。
扉が開いた。
男だった。
三人の心拍が、一拍上がった。
上がってから、少しずつ落ちた。
男だった。男が戻ってきた。それだけのことだった。それだけのことなのに、心拍が上がった。上がった理由が、シリウスにはわからなかった。怖かったわけではなかった。驚いたわけでもなかった。ただ、上がった。
落ちながら、別の何かが残った。
ホッとした、という感覚だった。ホッとした、というのが何なのかも、シリウスにはよくわからなかった。戻ってきてよかった、という気持ちが、心拍が落ちた後の場所に残っていた。
シリウスは器を手に持ったまま、男の方を見た。
男が三人を見た。
視線が、三人の顔と手を順番に確かめた。一秒もかからなかった。
「雪焼けか」
一言だけ言った。
それから、棚の方へ歩いた。何かを取り出した。小さな容器だった。蓋を開けると、獣の脂の匂いがした。臭くはなかった。
男がルドルフの前に来た。
無言だった。
手が伸びてきた。
ルドルフの頬に、指先が触れた。
「……っ」
声が出た。声が出たのは、痛かったからではなかった。指先が当たった瞬間に、別の意味で心拍が上がった。さっき扉が開いた時とは、また違う上がり方だった。
男は意に介さなかった。指先に脂をつけて、ルドルフの頬と手の甲に薄く伸ばした。丁寧だった。ただ、丁寧なだけだった。そこに特別な何かはなかった。
ルドルフの心拍だけが、まだ少し高かった。
次にシリウスの前に来た。
シリウスは反射的に一歩引きかけた。引きかけて、止まった。
「……やれ」
小さく言った。自分に言った。
男の手が、シリウスの頬に触れた。
心拍が、また上がった。
今度は上がった瞬間に、シリウスはわかった。わかった上で、動かなかった。動かないことを、自分で選んだ。
男は終わったら、またラモーヌの前に来た。
ラモーヌは黙って受け取った。指先が頬に触れた瞬間、男の手の匂いが、近くなった。獣の脂の匂いと、その奥の、あの乾いた匂い。山に根を張ったような、あの匂いだった。近づいた匂いを、ラモーヌの鼻が勝手に吸い込んだ。吸い込んだ瞬間、耳が少し動いた。立ったままだった。動いたことに、自分で気づいていないかもしれなかった。
気づいていたら、止めただろう、とラモーヌは後で思った。でも、その時は、止められなかった。匂いの方が、意志より先に、耳を動かしていた。
三人とも、同じ手で、同じ脂を塗られた。
同じことをされて、三人とも、違う反応をした。ルドルフは心拍が上がった。シリウスは引きかけて、自分で止めた。ラモーヌは耳が動いた。同じ温度の手に触れられて、それぞれ違う場所が、勝手に動いた。
動いた場所が違うことに、三人はまだ気づいていなかった。気づいていないまま、それぞれの動いた場所を、それぞれ持て余していた。
男は脂の容器を棚に戻した。
それだけだった。説明もなかった。礼を言う間もなかった。
三人は顔を見合わせた。
何も言わなかった。
言わなかったが、同じことを考えていた。
足跡が、途中から消えていた。小屋の裏に、男はいなかった。遠くから、知らない匂いがした。辿ろうとすれば、辿れたかもしれなかった。
辿らなかった。今日は、辿らなかった。
でも、知りたい、と思った。あの足跡がどこへ消えたのか。あの匂いが何なのか。男が小屋の裏で、何をしているのか。
知りたい、と思えることが、戻ってきていた。
最初の夜は、何も思えなかった。ただ、生きていることだけで精一杯だった。今は、違った。指先が動く。脚が動く。雪の上を歩ける。歩けるようになると、その先を知りたくなった。
好奇心は、三人分あった。
それぞれの形で、三人分あった。
ストーブが、ぱちりと鳴った。
外では、日が暮れかけていた。今日は一日、晴れていた。明日も、晴れるかもしれなかった。明日も、外に出る。出れば、また何か知りたくなる。
それだけのことだった。