主人公・結希は、父の葬儀で一滴の涙も流せずにいた。
町の時計工房で職人をしていた父は、幼い頃から結希に見向きもせず、いつも分厚い「黒革の手帳」に何かを書き殴ってばかりいた。運動会の日も、熱を出した夜も、父の目は手帳に向けられていた。
「お父さんは、私より時計と手帳の方が大事なんだ」
その寂しさはやがて諦めへと変わり、結希は逃げるように上京。その後、父は若年性アルツハイマー型認知症を患い、娘の顔すら忘れたまま静かに息を引き取った。
葬儀を終え、遺品整理のために誰もいない実家の書斎へ足を踏み入れた結希。そこには、かつて結希から父を奪ったあの忌まわしい「数十冊の黒革の手帳」が残されていた。
苛立ち混じりに古い一冊を開いた彼女は、そこに記されていた思いがけない「真実」に息を呑む。
なぜ父は、娘に背を向けてまで異常な執念で手帳を書き続けていたのか。
病に侵され、己の輪郭すら失っていく絶望の中で、不器用な時計職人がたった独りで守り抜こうとしたものとは——。
止まっていた親子の時間が、遺された記録によって劇的に動き出す。魂の再生を描いた物語。


1話限りの短編となります。需要があれば続き・新作等考えてみます。

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記憶の海に沈むステラ

 

第一章:灰と止まった秒針

 

 

晩夏の風が、重たい湿気とともに微かな線香の匂いを運んでいた。

火葬場の巨大な煙突から、灰色の空へと立ち上る白い煙。喪服に身を包んだ結希( ゆき)は、父の肉体がこの世界から物理的に消滅していくその過程を、ひどく冷めた、まるで他人の出来事のような眼差しで見つめていた。

 

「結希ちゃん、大変だったね。一人でよく頑張ったわ」

「お父さん、最後は結希ちゃんのことも分からなくなってたんでしょう……辛かったわね」

 

親戚たちの同情に満ちた声が、結希の鼓膜をただ滑り落ちていく。慰めの言葉をかけられるたび、結希は曖昧に会釈を返したが、その目から涙がこぼれることはなかった。

悲しくないわけではない。肉親を失った喪失感はある。だが、泣くための理由――愛された記憶というトリガーが、結希の中には致命的に欠落していた。

 

結希にとって、父・修平(しゅうへい )は、物心ついた時から「遠い背中」でしかなかった。

母が結希を産んで数年後に病で他界してから、古い木造家屋での二人暮らしが始まった。父は、町の片隅で小さな時計工房を営む無口な職人だった。

結希の記憶にある父は、いつも作業机に張り付き、右目に黒いルーペをはめこんで、虫のように小さな歯車と睨み合っていた。時を刻む機械の鼓動だけが、父と娘の間の静寂を埋めていた。

 

夜になると、父は書斎にこもり、分厚い黒革の手帳に何かを書き殴るのが日課だった。

「お父さん、絵本読んで」

幼い結希がパジャマの裾を引いても、父は「あとでな」と短く低く呟くだけで、手帳から決して目を離さなかった。

運動会で一等賞を獲った日も、授業参観で作文を読んだ日も、父は教室の最後列に立ってはいたが、いつも手帳を開いて何かを書き留めていた。結希に向かって手を振る他の親たちの中で、父の姿は異様だった。結希の目には、父が自分など見ておらず、仕事のアイデアや設計図ばかりを気にしているようにしか映らなかった。

 

『お父さんは、私より時計と手帳の方が大事なんだ』

その寂しさは、結希が思春期を迎える頃には、強固な諦めと微かな憎悪へと変わっていた。

 

逃げるように東京の大学へ進学した春の日。駅のホームでの別れ際でさえ、父は「気をつけてな」と感情のない声で一言呟き、結希が改札を抜ける前に背を向けて歩き出した。引き止めてほしかったわけではない。ただ、一度くらい、力強く肩を抱いてほしかった。

 

その後、結希は東京で就職し、家庭を持った。盆と正月の事務的な生存確認の電話さえ、年々短くなっていった。

そんな父が、若年性アルツハイマー型認知症と診断されたのは、結希が三十歳の時だった。

 

 

第二章:星(ステラ)の欠片

 

 

病魔は、冷酷な沈黙をもって父の脳髄を侵食していった。

精緻を極める時計の修理ができなくなり、工房を畳んだ。やがて鍋を焦がし、帰り道がわからなくなり、施設に入居することになった。結希が見舞いに行くたび、父の瞳の奥から「結希」という輪郭が削り取られていくのがわかった。

 

「お父さん、結希だよ」

「……ゆ、き……? ああ、そうか。ご苦労様です。いつもすみませんね」

 

最期の数ヶ月、父は結希を施設の職員か何かと勘違いし、丁寧にお辞儀をするようになっていた。その瞬間、結希の胸を刺したのは悲しみではなく、底なしの空虚だった。

(ああ、この人は結局、私のことを何も見ていなかったんだ。だから、こんなにも簡単に私を消し去ることができるんだ)

 

昨日、父は肺炎をこじらせ、静かに息を引き取った。享年六十八歳。

時計職人であった父自身の時間は、ひどくあっけなく止まった。

 

火葬を終え、重たい骨壺を抱えて誰もいない実家に戻った結希は、埃と古い紙、そして微かな機械油の匂いが混ざった空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。夫と幼い娘は東京に残してきている。忌引きの休暇中に、遺品整理に目途をつけなければならなかった。

 

結希はまず、最も足を踏み入れたくなかった場所――父の書斎のドアを開けた。

西日が差し込むその部屋は、結希の記憶のままで凍りついていた。壁一面を埋め尽くす本棚の中央を占領しているのは、数十冊にも及ぶ、あの「黒革の手帳」だった。

背表紙には、白いペイントマーカーで「一九九五年」「一九九六年」と、年号だけが几帳面な角張った字で記されている。

 

「一体、何を書くことがあったのよ……」

苛立ち混じりに、結希は一番古い年号の手帳を引き抜いた。母が死んだ翌年、結希が五歳の時のものだ。日々の売上記録か、時計の設計図だろう。適当なページを開いた。

しかし、そこに書かれていたのは、機械の事ではなかった。

 

『四月十二日 晴れ。

結希が初めて自転車に乗れた。補助輪を外した時、三回目に転んで膝を擦りむいた。泣くのを我慢して唇を強く噛む癖は、妻にそっくりだ。ばんそうこうはウサギの柄のものを貼った。夜、寝顔を見ながら、この小さな足がいつか私のもとを去って遠くへ行く日のことを想像し、ひどく胸が苦しくなった』

 

結希の指が、ページの上でピタリと止まった。

息を呑み、次々とページをめくる。

 

『五月三日 結希が保育園で描いた絵を持ち帰った。黄色いチューリップ。私の生涯の宝物だ。しかし、どう褒めればいいかわからず「よく描けたな」としか言えなかった。結希は少し寂しそうな顔をした。私は時計の歯車一つ直せるのに、娘の心を温める言葉一つ見つけられない。本当に不器用で、惨めな父親だ』

 

『七月十八日 結希が熱を出した。三八・五度。氷枕を替える手が震える。妻を奪った死神が、この子まで奪うのではないかと恐ろしくてたまらない。夜通し寝顔を見ていた。神よ、どうか、この子を連れて行かないでくれ。代わりに私の命と、残りの時間のすべてを差し出してもいい』

 

結希の心臓が、早鐘のように打ち始めた。

手帳には、時計の設計図などただの一枚もなかった。

そこにあったのは、結希の成長の記録だった。食べたもの、笑ったこと、怒ったこと、身長のミリ単位の変化、好きなテレビ番組、初めてできた友達の名前。結希自身すら忘れていたような些細な日常の欠片が、ルーペ越しに時計の部品を扱うかのような、恐ろしいほどの克明さで、余白一つなく書き込まれていたのだ。

 

 

第三章:すれ違う歯車

 

 

結希は震える手で、本棚から次々と手帳を引き出した。

ページを捲るたび、結希の「恨みの記憶」が、ことごとく裏返されていく。

 

小学校五年生の時の手帳。

結希は思い出した。あの年の自分の誕生日の前日、結希は父の作業机にあった小さな星型の歯車に触れ、床の隙間に落としてしまった。父はかつてないほど激怒し、結希を怒鳴りつけた。「私より時計が大事なんだ」と、結希が決定的に心を閉ざした日だった。

 

『十月九日。

私は最低な父親だ。結希を大声で叱ってしまった。あの星型の歯車は、結希の十歳の誕生日に贈るために、半年かけて削り出していた特注の懐中時計の心臓部だった。驚かせたくて内緒にしていたが、そんなものは言い訳だ。涙を溜めて私を睨みつけた結希の顔が、目に焼き付いて離れない。謝ろうと部屋の前まで行ったが、ドアを叩く勇気がなかった。私は、娘に愛を伝える資格などない男だ』

 

運動会の日、最後列で手帳を開いていた理由。

 

『九月二十五日 結希のリレー。アンカー。

走るフォームが力強くなった。一番でゴールした瞬間、世界中の誰よりも輝いていた。声を上げて応援したかったが、あんな無愛想な親父が大声を出せば、結希に恥ずかしい思いをさせてしまう。だから必死にこらえた。この美しい瞬間を、瞬きする間の光さえも、絶対に忘れたくない。だから書く。紙に刻み付ける』

 

結希の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

手帳の古い紙に、ポツリと丸い染みを作る。

父は、私を見ていなかったのではない。私を、狂おしいほどに見つめすぎていたのだ。言葉による愛情表現が極端に苦手だった無骨な職人は、「記録する」という行為でしか、娘への溢れるような愛を形にできなかったのだ。

 

しかし、結希の疑問は残っていた。

なぜ、ここまで異常な執念で、毎日毎日克明に記録し続ける必要があったのか?

その答えは、結希が中学生の頃の年代の手帳に隠されていた。

 

背表紙「二〇〇八年」の手帳を開いた時、結希は文字の異変に気がついた。

それまで定規で引いたように美しく整っていた文字が、わずかに乱れ、筆圧が頼りなく揺れていたのだ。

 

『二月十日 元々感じてはいたが最近、物忘れがひどい。時計の香箱の組み立て手順が、一瞬頭から抜け落ちた。妻の顔を思い出すのに、数秒かかるようになった。恐ろしい。頭の中で、精巧な歯車が一つずつ欠けていくような感覚がある』

 

『三月五日 病院で検査を受けた。医師から告げられた病名は、私の想像を遥かに超える残酷なものだった。若年性のアルツハイマー。いずれ私は、自分の名前すら忘れ、すべてを失うという。時計が錆びて止まるように、確実に私の脳は死んでいく』

 

結希は息を呑み、口元を両手で強く覆った。

父が認知症の診断を受けたのは、六十代ではなかったのだ。彼はずっと前、結希がまだ中学生だった頃から、その絶望的な病をたった一人で抱え込んでいたのだ。結希が「お父さんなんか私のことどうでもいいんでしょ!」と八つ当たりをしていたあの時期、父は孤独な死の恐怖と戦っていた。

 

『四月一日 結希が中学生になった。制服姿がまぶしい。

私はあと何年、この子の父親でいられるのだろうか。あと何年、時計を直せるのだろうか。

怖い。自分が自分でなくなることが怖い。なにより、結希との思い出が、私の脳からこぼれ落ちて消えてしまうことが、死ぬことより恐ろしい。

だから、書かなければならない。記憶が蒸発する前に、すべてを紙に定着させなければ。結希のすべてを。私の愛する娘のすべてを。』

 

それ以降の手帳は、狂気を帯びたような熱量で埋め尽くされていた。

文字は次第に歪み、誤字が増え、それでもページは黒インクで塗りつぶされるほどに書き殴られていた。夜な夜な机に向かい、必死にペンを走らせていた父の背中は、仕事に逃げていたわけではない。結希との思い出を「病魔」から守り抜くための、凄絶で孤独な戦いの姿だったのだ。

 

 

第四章:記憶の海、沈みゆく光

 

 

結希はその場にへたり込み、次々と手帳のページを貪るようにめくった。涙が止めどなく溢れ、視界が滲んで文字が歪むたびに、腕で乱暴に涙を拭った。

 

高校卒業、東京への出発の日(「二〇一四年」の背表紙)。

結希にとって、父が最後まで冷たい人間だと決定づけられた、あの駅のホームでの別れ。

 

『三月十五日。

結希が東京へ行く。駅のホーム。行かないでくれと泣きついて、その小さな肩を力いっぱい抱きしめたかった。

だが、今の私は日に日に記憶を失い、日常の計算すらできなくなっている。これ以上一緒にいれば、私は確実に結希の人生の足手まといになる。結希の美しい青春を、狂っていく父親の介護で潰すわけにはいかない。

だから、わざと冷たく突き放した。結希、許してくれ。最低な父親だと憎んで、私を置いて羽ばたいてくれ。

電車が見えなくなった後、私はホームの柱の陰で声を出して泣いた。駅員に声をかけられるまで泣いた。結希、がんばれ。幸せになれ。』

 

「あああっ……お父さん……っ!」

結希は嗚咽を漏らし、手帳を胸に押し当てた。

静寂に包まれた薄暗い書斎に、結希の泣き叫ぶ声だけが反響した。

 

冷たかったのではない。愛していなかったのではない。

父は、自らの知性が崩壊していくことを誰よりも冷静に悟り、愛する娘をその地獄に巻き込まないために、自ら進んで「憎まれ役」を演じたのだ。たった独りで闇の底へ沈んでいくことを選んだのだ。

 

手帳の年号が進むにつれ、その内容は目を覆いたくなるほど悲惨なものになっていった。

 

「二〇二〇年」の手帳。

『きょう、とけいの、しゅうりが、できなかった。ねじの、なまえが、わからない。

ゆきに、でんわをした。ゆきの、こえを、きいた。

ゆきは、おこっていた。いそがしいと、いわれた。ごめん。ごめんなさい。』

 

『わたしは、だれだ。ここは、どこだ。

てちょうを、よんだ。わたしは、しゅうへい。ゆきの、ちちおや。

ゆき。ゆき。ゆき。ゆき。ゆき。ゆき。』

 

ひらがなばかりに退行した乱れた文字が、ページいっぱいに血を吐くように書き殴られていた。自分が自分ではなくなっていく恐怖の濁流の中で、父は必死に「結希」という名のアンカー(錨)にしがみつこうとしていた。

 

そして、施設に入る直前に書かれた「二〇二二年」の手帳。

もはや文字の形を保っておらず、ミミズが這ったような線を解読するのも困難だった。

 

『ゆきが、きた。

きれいな、おんなのひとだった。

だれか、わからなかった。

でも、なみだが、でた。

むねが、あたたかくなった。

なまえは、わからない。

でも、わたしの、たいせつな、星(ステラ)だ。』

 

結希が面会に行き、父に「いつもすみませんね」と他人行儀に頭を下げられたあの日のことだ。

父の壊れた脳は、すでに結希という固有名詞を認識できなかった。

しかし、父の魂の最も深い場所は、目の前にいる女性が自分の「すべて」であることを本能で理解し、歓喜と悲哀の涙を流していたのだ。

 

結希は床に崩れ落ちた。

獣のような慟哭が口から漏れた。後悔が、鋭い刃となって結希の心臓をずたずたに切り裂く。

 

なぜ、もっと話しかけなかったのか。

なぜ、あの丸まった背中に隠された、孤独な恐怖と深海のような愛に気づけなかったのか。

なぜ、見舞いに行くのをやめてしまったのか。

なぜ、もっと、もっと強く抱きしめてあげなかったのか。

 

涙は枯れることなく結希の頬を濡らし、黒革の手帳に幾重にも染み込んでいった。

 

 

第五章:永遠の刻印

 

 

泣き疲れて、どれくらいの時間が経っただろうか。

窓の外はすでに深い夜の闇に包まれ、書斎は月明かりだけが差し込んでいた。

 

結希は、本棚の一番下、埃をかぶった箱の中に、一冊の古いノートと、木製の小さな小箱があるのを見つけた。

ノートは黒革の手帳ではなく、結希が小学生の頃に使っていた「こくご」の学習帳だった。表紙には、幼い結希の字で「おとうさんへ」と書かれている。

父は、病気が極限まで進行し、もう自分が何を書き残してきた「黒革の手帳」がどこにあるかもわからなくなった後、このノートを本能的に引っ張り出してきたのだろうか。

 

結希は震える指で、学習帳を開いた。

中は白紙が続いていた。

だが、一番最後のページにだけ、インクの掠れたボールペンで、震える大きな文字が書かれていた。それは、父が完全に言葉と記憶を失う直前、最後の力を振り絞って書き残した、この世での最後の意志だった。

 

たった三行の、短い言葉。

 

『わすれてごめん

 でも

 ずっとあいしてる』

 

結希の目から、再びとめどない涙が溢れ出した。

結希は傍らにあった木製の小箱を開けた。そこには、懐中時計が入っていた。

あの日、結希が歯車を落として怒られた、あの特注の時計だ。未完成のまま、針はついていない。しかし、文字盤には美しい夜空の装飾が施され、裏蓋には流麗な筆記体でこう彫られていた。

 

『To my Stella (Yuki) - 永遠の道標』

 

父が作りたかったのは、ただの時計ではなかった。

暗闇の海を航海する船乗りが北極星(ステラ)を道標にするように、父にとっての「星」は、結希そのものだったのだ。病の海に沈みゆく中で、父はただ一つの星=結希を見失わないように、命を削って手帳を書き続けた。

 

「お父さん……」

結希は時計を額に押し当て、子供のように泣きじゃくった。

「お父さん……私も、私も大好きだよ。お父さんの子供に生まれて、本当によかった……っ」

 

父の記憶の海から、結希の姿は消えてしまったかもしれない。

しかし、この無数の手帳に、そして最後に残されたこのノートと時計に、父の愛は確かな質量を持って永遠に刻み込まれている。

 

暗い書斎の中で、止まっていたはずの時計の針の音が、結希の胸の中で確かな鼓動として再び動き始めるのを感じた。

 

 

終章:受け継がれる光

 

 

数年後。

うららかな春の陽光に包まれた公園で、結希はベンチに座り、砂場で遊ぶ自分の娘・陽葵《ひまり 》を見つめていた。

結希の膝の上には、分厚い黒革の手帳がある。

結希自身が買い求めた、真新しい手帳だ。

 

「ママ、見て! おだんご、まんまるに作れた!」

泥だらけの手を高く振る娘に向かって、結希は満面の笑みで手を振り返す。

 

「すごいね! 世界で一番上手だよ!」

 

結希は膝の上の手帳を開き、万年筆を走らせる。

 

『四月十二日。陽葵が泥だんごを完璧な丸にできた。誇らしげに笑った顔が、私のお父さんに少し似ていた』

 

父の愛は、言葉ではなかった。

「記録」という名の、凄まじい執念だった。

その不器用で、しかし誰よりも真っ直ぐな愛の形を、結希は受け継ごうと決めていた。

 

いつか自分も老いて、記憶が曖昧になる日が来るかもしれない。

人間は皆、少しずつ何かを失いながら生きていく残酷な生き物だから。

それでも、失われたくないものがある。絶対に繋いでいかなければならない光がある。

 

結希の首元では、銀色のチェーンに通された星型の懐中時計が、太陽の光を反射して静かに輝いている。中身のムーブメントは結希自身の手で組み上げられ、今は確かなリズムで時を刻んでいる。

 

結希は空を見上げた。

青く澄み渡った春の空の向こうで、右目にルーペをつけ、少しだけ誇らしげに微笑む父の顔が見えた気がした。

 

「お父さん」

結希は小さく呟いた。

「私、今、すごく幸せだよ。お父さんが残してくれた時間の中で生きてるよ」

 

頬を撫でる春風は、まるで不器用な父の手のひらのように、暖かく、優しかった。

 


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