すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第二十六話

 翌朝、学院の掲示板前はまた人だかりだった。

 最近、この光景をよく見る。

 そして、だいたい原因は俺たちだ。

 

「うわ」

「殿下」

「分かってる。顔に出すな、だろ」

「いえ」

「違うのか」

「本日は、もう少し堂々となさった方がよろしいかと」

「面倒そうな顔で堂々と?」

「はい」

「それはただの俺だな」

 

 フィーネは静かに頷いた。

 

「自然体です」

「褒めてないだろ」

「かなり」

 

 掲示板には、本宮印のある通達が貼られていた。

 

『北方遠征関連調査に伴い、フィーネ・エレノアスへ限定閲覧権および記録整理補佐権を認める』

『待遇は本宮特務補佐、準男爵相当』

『学院記録庫、遠征記録、関係者聴取記録の閲覧は、第三皇子レオンハルト殿下および本宮記録官の監督下で行うものとする』

 

 折れ羽根の名は出ていない。

 黒鴉商会の名もない。

 あくまで、北方遠征関連調査だ。

 

 だが、生徒たちには十分だった。

 

『準男爵相当……?』

『昨日まで被後見人だったはずでは』

『本宮特務補佐って、何をしたの?』

『北方遠征の件、そんなに大きいのか』

『第三皇子殿下の隣にいたから……』

 

 ざわめきが波のように広がる。

 その中心に、フィーネは立っていた。

 

 灰銀の髪。

 白地に赤の刺繍が入った学院制服。

 いつも通りの静かな表情。

 

 だが、昨日までと違う。

 彼女はもう、俺の後見の下にいるだけの少女ではない。

 暫定とはいえ、自分の名で本宮の記録に権限を持った。

 

「フィーネ様」

 

 誰かが、おそるおそる呼んだ。

 フィーネが振り向く。

 呼んだ下級生らしき女子が、びくりと肩を揺らした。

 

「はい」

「あ、その……お、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 

 フィーネはきちんと礼を返した。

 すると周囲のざわめきが、また少し変わる。

 

 怖がっている。

 探っている。

 羨んでいる。

 距離を測っている。

 

 俺は思わず眉を寄せた。

 

「面倒だな」

「はい」

「お前もそう思うのか」

「ええ。大変に」

「その同意は珍しく嬉しいな」

「ですが、使えます」

「……やっぱりそっちか」

 

 フィーネは掲示板を見上げたまま、静かに言った。

 

「私が何者として見られているか、一度に分かります」

「怖がるやつ」

「はい」

「寄ってくるやつ」

「はい」

「値踏みするやつ」

「はい」

「敵に回るやつ」

「はい」

「お前、朝から仕事するな」

「学院は最良の演習場ですので」

 

 昨日の夕方にも聞いた台詞だ。

 だが、こうして学院の空気の中で聞くと、より怖い。

 

「演習場ってな」

「宮廷の縮図です」

「お前、本当に学院を教材扱いしてるな」

「教材ではなく、実地訓練です」

「もっと怖い」

 

 その時、ざわめきの奥から、見慣れた濃紺の髪が近づいてきた。

 セラフィーナだった。

 公爵令嬢。

 初日にフィーネへ釘を刺しに来た相手である。

 

 彼女は周囲の視線を受けても、歩き方を崩さない。

 さすがだ。

 こういう場で姿勢を乱さないのは、本当に訓練の成果だと思う。

 

「レオンハルト殿下」

「ああ」

「フィーネ様」

 

 お。

 様をつけた。

 

 フィーネも一礼する。

 

「セラフィーナ様」

「このたびは、本宮特務補佐への御就任、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「随分と、早いご昇達ですわね」

「はい」

「ご自覚は?」

「ございます」

 

 即答。

 セラフィーナの目が、ほんの少し細くなる。

 

「なら、結構です」

「ご忠告でしょうか」

「ええ」

 

 彼女は微笑んでいる。

 だが、やはり剣の切っ先みたいな笑顔だ。

 

「学院には学院の秩序がございます。急に立場が変わった者は、周囲を不用意に揺らしやすい」

「承知しております」

「本宮の権限を持ち込めば、反発も起きます」

「はい」

「その反発を、殿下の御威光で押し潰すのは容易でしょうけれど」

「いたしません」

 

 フィーネの返答は速かった。

 

「私が得たのは、学院を従わせるための権限ではありません」

「では?」

「必要な記録へ触れるための資格です」

「……」

「また、私自身の判断に責任を持つための名義です」

 

 セラフィーナは数秒だけ黙った。

 

「そう言えるなら、ひとまず安心いたしました」

「ひとまず、ですか」

「ええ」

 

 彼女は俺をちらりと見た。

 

「殿下の隣に立つと仰る方を、そう簡単に信用するわけには参りませんので」

「妥当です」

「腹が立ちませんの?」

「立ちません」

「なぜ」

「殿下の隣は、軽く扱われるべき場所ではありませんので」

 

 セラフィーナの表情がわずかに固まった。

 そして、すぐに笑みへ戻る。

 

「……本当に、そういうところですわね」

「どのあたりでしょう」

「嫌味を、正面から理念に変えて返すところです」

「ありがとうございます」

「褒めているとは限りませんわ」

「殿下で慣れております」

「おい」

 

 なぜ俺が例になる。

 セラフィーナは小さく息を吐き、一礼して去っていった。

 その背中を見送りながら、フィーネは小さく言う。

 

「保留」

「早いな」

「現時点では敵対ではありません」

「前は刺してきたぞ」

「秩序維持を優先しているだけです。私個人への不快感や対抗心はありますが、学院全体に不利益が出る形では動かない」

「よくそこまで読むな」

「初日から見ていますので」

「怖い」

「殿下の周囲は観察対象です」

「もっと怖い」

 

 フィーネはすぐに視線を別の方へ移した。

 俺も見る。

 

 ミレイユだった。

 扇を持ち、取り巻きを二人ほど連れている。

 

 今日も笑顔は完璧だ。

 目は笑っていない。

 

「まあ、フィーネ様」

 

 声だけなら、花のように柔らかい。

 

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「準男爵相当。これでいよいよ、学院内でも立派なお立場ですわね」

「暫定です」

「でも、暫定でも本宮印がございますもの。十分でしょう?」

 

 ミレイユは扇を開く。

 

「これからは、お付き合いなさる方々も変わるのではなくて?」

「変わる必要があれば」

「あら」

「職務に必要な関係は整えます」

「職務、ですか」

 

 ミレイユの笑みが少し深くなる。

 

「ずいぶんと堅い言い方をなさるのね。もっと素直に喜ばれてもよろしいのに」

「喜んでおります」

「そうは見えませんわ」

「使う前の道具を眺めて喜ぶ時間より、使って成果を出す時間の方が必要ですので」

「……道具」

 

 ミレイユの目が、ほんの少し冷えた。

 

「爵位を道具と呼ぶのは、少し乱暴ではなくて?」

「では、責務を果たすための札、と言い換えます」

「まあ」

 

 ミレイユはくすりと笑った。

 

「相変わらず、殿下のお側で随分と強くなられましたのね」

「殿下のお側にいるために、です」

「それはまた」

「重いでしょうか」

「ご自覚がおありなら、結構ですわ」

 

 フィーネは淡々と返す。

 

「ございます」

「なら、その重さで殿下のお立場まで沈めぬよう、お気をつけあそばせ」

「ご忠告、痛み入ります」

「ええ。心から」

 

 心からではない。

 絶対に心からではない。

 ミレイユは俺へ一礼し、取り巻きと共に去っていく。

 その足取りは優雅だが、背中に少し棘があった。

 

「敵対継続」

 

 フィーネが即答した。

 

「即断だな」

「今の言葉は、私ではなく殿下へ向けたものです」

「俺?」

「はい。私が殿下の立場を沈める危険物である、と周囲へ印象づけています」

「なるほど」

「加えて、私の身分上昇を素直に職務として受け取りたくない」

「なんで」

「そう受け取ると、自分の見立てを修正しなければなりませんので」

「お前、今日は特に冷静だな」

「必要ですので」

 

 便利だな、その言葉。

 

 だが、今回は本当に必要なのだろう。

 掲示板前での短いやり取りだけで、フィーネはもう二人を分類した。

 

 保留。

 敵対継続。

 昨日、白紙に並べていた言葉が、今朝の学院で現実に動き始めている。

 

「殿下」

「なんだ」

「次は学生会室へ」

「授業は?」

「本日は一限目を公欠扱いにしていただきました」

「いつの間に」

「昨夜のうちに」

「本当に休まないな、お前」

「休んでおります」

「二刻半でか」

「本日は三刻です」

「増えたから良いみたいに言うな」

 

 フィーネは歩き出す。

 俺も隣に並んだ。

 

 周囲の視線はまだ多い。

 昨日よりも、ずっと。

 

 けれどフィーネは止まらない。

 足取りは静かで、迷いがなかった。

 

 

   ***

 

 

 学生会室には、すでにセレナとルシアンがいた。

 どちらも驚いた様子はない。

 むしろ、来るのを待っていた顔だ。

 

「おはようございます、殿下。フィーネ様」

「おはようございます」

「様が増えると面倒だな」

「慣れてください」

「セレナまでそれか」

 

 セレナはいつも通り涼しい顔で言った。

 

「通達は確認しました。準男爵相当、本宮特務補佐、限定閲覧権。妥当な整理です」

「お前、驚かないのか」

「昨日の流れから見れば、そうなるでしょう」

「みんな手回しが早いな」

「殿下が遅いだけでは?」

「ひどい」

 

 ルシアンが柔らかく笑う。

 

「ですが、これでようやく編入生殿――いえ、フィーネ様が、ご自身の名で動けますね」

「呼び方、迷ったな」

「ええ。僕も状況の更新が必要ですので」

「感じの良い顔で処理するな」

「家業柄」

 

 相変わらず便利な顔だ。

 フィーネは机の前に立ち、紙束を置いた。

 昨日から持っている学院内協力者候補だ。

 

「本日は、学院内の協力者層を整理します」

「協力者層」

 

 セレナが繰り返す。

 

「勧誘ではなく?」

「はい。勧誘ではありません」

「違いは?」

「情報共有量と行動依頼範囲の整理です」

 

 フィーネは紙を一枚広げる。

 

「折れ羽根の名は、現時点では広げません」

「当然ですね」

 

 セレナが頷く。

 

「学院内には、北方遠征関連調査として通します」

「はい。ですが、表向きの調査だけでも、協力者は必要です」

「記録、通行、噂、社交経路、事務処理」

「ええ」

 

 フィーネの指が紙の上を滑る。

 

「第一層。限定的に真相へ近い情報を共有可能な協力者」

「僕と会長殿ですか」

 

 ルシアンが言った。

 

「はい」

 

 フィーネは即答する。

 

「お二人は、旧礼拝堂の現場に同席し、偽命令書、クラウス様の移送、黒外套の男、折れ羽根の印まで確認しています」

「隠しても意味がない範囲ですね」

「はい。また、学院内で動ける権限と信用をお持ちです」

 

 セレナは腕を組んだ。

 

「利用価値がある、と」

「はい」

「即答するのですね」

「失礼でしたか」

「いいえ。むしろ正確です」

 

 セレナの口元がわずかに緩む。

 

「私も、あなたを利用します」

「承知しております」

「学院を守るために」

「はい」

「そして、第一皇子殿下へ正確な情報を送るために」

「はい」

「それでもよろしい?」

「当然です」

 

 当然。

 強いな。

 ルシアンが肩をすくめる。

 

「僕は?」

「ルシアン様は、学院内外の貴族子弟間の情報流路をお持ちです」

「感じの良い顔で聞き出す役ですね」

「はい」

「殿下、僕の評価がだいぶ軽くありませんか」

「お前、自分で言っただろ」

「そうでした」

 

 フィーネは続ける。

 

「ただし、お二人へお願いするのは、監視ではありません」

「では?」

「偏りの確認です」

 

 セレナの目が少しだけ鋭くなる。

 

「噂の?」

「はい。私の叙位、北方遠征、本宮特務補佐、この三つに関する噂が、どの方向へ歪むかを見ます」

「誰が歪ませるかも?」

「可能なら」

「なるほど」

 

 セレナはすぐに理解した顔をした。

 

「本命は噂そのものではなく、噂を流す手ですか」

「はい」

 

 ルシアンが柔らかく言う。

 

「折れ羽根が学院内へ再接触するなら、直接動くより噂で揺さぶる可能性もある」

「ええ」

「その揺さぶり先は、殿下ではなく、フィーネ様かもしれない」

「あるいは、殿下の周囲です」

 

 フィーネの声が少しだけ低くなった。

 

「私を使って殿下を揺らす。殿下を使って私を揺らす。学院内の誰かを使って、両方を揺らす」

「嫌な話だな」

「はい」

「でも、お前ならそう考えるか」

「相手も考えるでしょうから」

 

 セレナは紙へ視線を落とした。

 

「次の層は?」

「第二層。真相の核心は共有せず、表向きの調査協力者として動いていただく方々です」

「名前は」

「第二皇女アリサ殿下。リリアーヌ様。ベンノ様」

 

 セレナの眉が少しだけ動いた。

 

「アリサ殿下は分かります。リリアーヌ様も、社交面では納得できます。ですが、ベンノ様を?」

「はい」

「討論会であなたが論破した相手ですが」

「だからです」

 

 俺は思わず口を挟む。

 

「だから、なのか」

「はい」

「普通は気まずいだろ」

「気まずさで動けない方なら、協力者候補から外します」

「基準が容赦ない」

 

 フィーネは淡々と説明する。

 

「ベンノ様は、自尊心が強い方です」

「うん」

「ですが、議論の筋に対する敬意があります」

「……そうなのか」

「討論会後、私の主張を感情で否定せず、記録を読み返しておられました」

「見てたのか」

「見ていました」

 

 重い。

 いや、観察が重い。

 

「彼は私を好んではいないでしょう」

「それで協力者?」

「好き嫌いより、論理で動く余地がある方です」

「なるほど」

「そういう方は、正しい資料と正しい役割を渡すと、比較的使いやすい」

「さらっと人を道具扱いするな」

「人材配置です」

「便利だな、それ」

 

 ルシアンが小さく笑った。

 

「ベンノ殿は、確かにそういうところがあります。負けを認めたくないからこそ、負けた理由を調べる」

「はい」

「そして次の機会には、自分の論を補強してくる」

「その補強能力が必要です」

 

 セレナが頷く。

 

「では、リリアーヌ様は?」

「社交経路です」

「宰相家の令嬢ですからね」

「はい。学院内の令嬢方の反応、茶会での噂の変化、私への態度の変化を拾っていただけます」

「彼女が協力すると思いますか」

「します」

「理由は?」

「面白がっておられるので」

 

 俺は吹き出した。

 

「それ理由にするのか」

「非常に有効です」

「否定できないな……」

 

 リリアーヌは面白がる。

 たぶん確実に。

 しかも、面白がりながらちゃんと役に立つ。

 宰相家の娘というのは、そういうものなのだろう。

 

「アリサ姉上は?」

「調整役です」

「姉上を協力者層に入れるの、だいぶ強いな」

「断られないと判断しました」

「本人に確認しろ」

「これからします」

「順番」

 

 その時、学生会室の扉が叩かれた。

 全員が一瞬だけ黙る。

 セレナが許可を出すと、入ってきたのは本宮の女官だった。

 

 見覚えがある。

 アリサ姉上付きの女官だ。

 

「失礼いたします。フィーネ・エレノアス様へ、第二皇女殿下よりお預かりしております」

 

 差し出されたのは封書。

 封蝋はアリサ姉上のものだった。

 フィーネは丁寧に受け取る。

 

「ありがとうございます」

「殿下より、『確認する前に入れたでしょうけれど、断りません』とのことです」

「……」

 

 俺は額を押さえた。

 

「姉上、読んでるな」

「はい」

 

 フィーネは封を開けた。

 中の紙には短い文があったらしい。

 彼女が読み上げる。

 

「学院を宮廷の縮図として使うなら、協力者を一枚に並べては駄目。役割別に層を分けなさい。誰が誰の目になるのか、誰が誰へ見られているのかも書きなさい」

「怖い」

「続きがあります」

「まだあるのか」

「レオンに無理をさせすぎないこと。あなたも寝ること」

「姉上、いいぞ」

「殿下」

「何だ」

「最後に、二人とも、という意味です、と」

「姉上、余計だ」

 

 ルシアンが上品に咳払いした。

 セレナも少しだけ口元を緩めている。

 フィーネは手紙を畳み、紙束の横に置いた。

 

「では、アリサ殿下は調整層兼助言層として整理します」

「助言層」

「はい」

「それ、姉上だけ別枠じゃないか」

「実際、別枠です」

「だろうな」

 

 セレナが机上の紙を見ながら言う。

 

「第三層は?」

「保留層。現時点で敵対ではないが、全面協力にも入れない方」

「セラフィーナ様」

「はい」

「理由は?」

「先ほどの反応で確定しました。秩序維持を重視し、殿下の隣に立つ私へ警戒を持っています。ただ、学院を乱す形では動かない」

「彼女らしいですね」

「利害が整えば、一部協力は可能です」

「なるほど」

 

 ルシアンが言う。

 

「第四層は敵対継続」

「ミレイユ様」

「そこも確定ですか」

「はい」

「随分はっきり言いますね」

「曖昧にしておく方が危険です」

 

 フィーネの声は冷静だった。

 

「ミレイユ様は、私を職務者ではなく、殿下の立場を揺らす札として見ています」

「……」

「また、私が得た立場を殿()()()()()として処理したい方です」

「なぜ?」

「そうでないと、自分の序列感覚が崩れますので」

「厳しい評価ですね」

「控えめです」

 

 控えめだったのか。

 

「ただし」

 

 フィーネはそこで紙へ一行書き加える。

 

「敵対といっても、切り捨てるわけではありません」

「どうする」

「観察します」

「怖い」

「敵対者は、時に協力者より情報を運びます」

「本当に怖い」

 

 セレナはしばらく黙っていた。

 そして、静かに言った。

 

「あなたは、もう学院内で遊ばれる側ではありませんね」

「遊ばれたつもりはありません」

「そうでしょうね」

「ですが」

 

 フィーネは少しだけ目を伏せた。

 

「私が動くことで、学院内の人間関係が変わります」

「ええ」

「その変化で、不利益を受ける方も出ます」

「当然です」

「ですので、間違えたくありません」

「……」

 

 珍しい言い方だった。

 フィーネが、間違えたくない、と言った。

 セレナもそれを分かったのだろう。

 少しだけ表情を柔らかくする。

 

「間違えない人間はいません」

「はい」

「だから記録し、確認し、修正します」

「はい」

「学生会は協力します。学院の管理責任に関わることですから」

「ありがとうございます」

 

 フィーネは深く礼をした。

 セレナはそれを受ける。

 

「ただし」

「はい」

「あなたが倒れたら、協力を一時停止します」

「……」

「私の権限で止めます」

「セレナ」

「殿下も含みます」

「俺まで?」

「当然です」

 

 当然。

 また当然か。

 

 ルシアンが笑顔で言う。

 

「僕も賛成です」

「お前まで」

「倒れた指揮官と分析官ほど厄介なものはありませんので」

「正論を感じの良い顔で言うな」

 

 フィーネは少しだけ不満そうだった。

 不満そうに見える程度には、最近表情が読めるようになってきた。

 

「承知しました」

「本当にか?」

「殿下が守られるなら」

「俺を条件に使うな」

「有効ですので」

「便利に使われている……」

 

 セレナは紙束を整えた。

 

「では、次はリリアーヌ様とベンノ様ですね」

「ああ」

「もう呼んであります」

「え?」

 

 俺が顔を上げると、扉の外から声がした。

 

「ごきげんよう。入ってもよろしいかしら?」

 

 リリアーヌだった。

 

 やっぱり手回しが早い。

 怖い。

 

 

   ***

 

 

 リリアーヌは、楽しそうだった。

 扇で口元を隠しているが、目が完全に面白がっている。

 その隣に立つベンノは、少し不機嫌そうだった。

 不機嫌というより、居心地が悪いのだろう。

 

「殿下、フィーネ様。本日はなかなか騒がしい朝でしたわね」

「おかげさまで」

「まあ、フィーネ様。もう少し浮かれてもよろしいのに」

「浮かれる時間は後回しです」

「そういうところ、本当に変わりませんわ」

 

 リリアーヌは椅子に座り、扇を閉じた。

 

「それで、わたくしを社交経路として使いたい、と」

「はい」

「正面から言いますのね」

「遠回しに言うと、時間がかかりますので」

「嫌いではありませんわ」

 

 ベンノが眉を寄せる。

 

「僕は何のために呼ばれたんだ」

「討論記録の整理と、学院内の論調確認です」

「……論調確認?」

「はい」

 

 フィーネはベンノへ一枚の紙を差し出した。

 

「北方遠征調査に関する学院内反応を、論点ごとに整理していただきたいのです」

「なぜ僕が」

「適任ですので」

「理由になっていない」

「討論会で、あなたは出自と統治秩序の関係を論じました」

「それが?」

「今回、私の立場変化について学院内で出る反発は、その論点に近いものになります」

「……」

 

 ベンノの目が少しだけ変わった。

 

「元奴隷の被後見人が、準男爵相当の職務権限を得た」

「はい」

「それを秩序の例外と見るか、必要な職務整理と見るか」

「はい」

「そして、その反応で各人の立場が見える」

「はい」

 

 ベンノは黙った。

 そして、紙を受け取る。

 

「君は僕に、自分への批判を整理させる気か」

「はい」

「図太いな」

「必要ですので」

「便利な言葉だ」

 

 俺は思わず頷く。

 

「だろ」

「殿下も苦労されているのですね」

「分かるか」

「少しだけ」

 

 ベンノに同情された。

 妙な気分だ。

 

「ひとつ聞きたい」

 

 ベンノがフィーネを見る。

 

「君は僕を信用しているのか?」

「いいえ」

「即答か」

「現時点で全面的な信用はしておりません」

「なら、なぜ頼む」

「信用していなくても、能力と行動傾向は評価できます」

「……」

「あなたは、負けを感情で終わらせない方です」

「褒めているのか?」

「かなり」

「そうか」

 

 ベンノは少しだけ視線を逸らした。

 照れたのかもしれない。

 

 いや、違うか。

 たぶん、自尊心と実利の間で折り合いをつけている顔だ。

 

「分かった。引き受ける」

「ありがとうございます」

「ただし、僕の結論が君に不利でも、そのまま出す」

「望むところです」

「……本当に図太いな」

 

 リリアーヌがくすりと笑った。

 

「では、わたくしは令嬢方のお茶会での反応を拾えばよろしいのね」

「はい。ただし、無理に誘導はしないでください」

「あら、誘導した方が早いのではなくて?」

「誘導された反応は、自然な流れではありません」

「なるほど」

「まずは、私の準男爵相当という立場を、どなたが職務として受け取り、どなたが寵愛として扱うかを見たいのです」

「まあ」

 

 リリアーヌは楽しそうに目を細めた。

 

「殿下。フィーネ様、ますます厄介になっておりますわよ」

「知ってる」

「嬉しそうですわね」

「そんな顔してるか?」

「ええ」

「……そうか」

 

 否定しようとして、やめた。

 たぶんしているのだろう。

 実際、悪くないと思っている。

 

 フィーネが俺を見た。

 

「殿下」

「何だ」

「今の顔は、記録しても?」

「するな」

「残念です」

「何の記録なんだ」

「殿下の表情推移」

「怖いって」

 

 ルシアンが笑い、セレナがため息をつき、リリアーヌが扇の奥で肩を震わせた。

 ベンノだけが真面目に紙を読んでいた。

 変な組み合わせだ。

 だが、悪くない。

 

 学生会長。

 公爵家子息。

 第二皇女。

 宰相家令嬢。

 討論会の理屈屋。

 

 フィーネが選んだ協力者層は、派閥ではない。

 それぞれの役割が違う。

 それぞれが違う目で学院を見る。

 

「フィーネ」

 

 俺は紙を見ながら言った。

 

「お前、やっぱり人を置くの上手いな」

「ありがとうございます」

「褒めてる」

「では、後で記録します」

「だから記録するな」

「殿下からの褒め言葉は希少ですので」

「そんなに少ないか?」

「最近は増えました」

「ならいいだろ」

「増加傾向も記録対象です」

「本当に怖い」

 

 フィーネはほんの少しだけ笑った。

 その笑みを見て、リリアーヌが目を細める。

 

「フィーネ様」

「はい」

「ひとつだけ、社交面から申し上げますわ」

「お願いいたします」

「あなたは今後、殿下の隣にいることだけで評価されるわけではなくなります」

「はい」

「逆に、あなた自身の動きが殿下を測る材料にもなります」

「承知しております」

「ならば、失敗なさいませ」

「……失敗、ですか」

 

 リリアーヌは扇を開いた。

 

「ええ。小さく。早く。修正可能な範囲で」

「……」

「完璧に立とうとする者ほど、大きく崩れますわ。社交では、ほんの少しの隙を見せた方が、周囲は安心します」

「なるほど」

 

 フィーネは真剣に頷いた。

 

「では、適度な隙を設計します」

「設計しない方がよろしいですわ」

「難しいですね」

「難しいでしょうね」

 

 リリアーヌが楽しそうに笑う。

 俺も少し笑った。

 

 フィーネが隙を設計する。

 言葉だけで既に隙がない。

 

 ベンノが紙から顔を上げた。

 

「もうひとつ」

「はい」

「批判論点の整理には、君自身の反論も必要だ」

「用意します」

「いや、反論を全部返すな」

「なぜです」

「全部返すと、相手は負けたと感じる」

「問題でしょうか」

「問題だ。負けた相手は黙るとは限らない。別の場所で反発する」

 

 お。

 フィーネが少しだけ目を細めた。

 

「続けてください」

「批判には、返すべきものと、放置すべきものと、相手に言わせきるべきものがある」

「……」

「討論会と違って、これは勝敗ではない。学院全体の空気を動かすなら、君が正しいだけでは足りない」

 

 ベンノの声は少し硬い。

 だが、真面目だった。

 

「君は正面から返しすぎる」

「……」

「それは強いが、相手に逃げ場を与えない。逃げ場のない相手は、まともな議論から降りる」

 

 学生会室が少し静かになった。

 フィーネは黙っていた。

 珍しく、すぐには答えない。

 やがて彼女は、ゆっくり頷いた。

 

「参考になります」

「本当に?」

「はい」

「僕が君を批判していると分かっているか?」

「分かっております」

「ならいい」

 

 ベンノはまた紙へ視線を落とした。

 少しだけ耳が赤い。

 たぶん、褒められ慣れていないのだろう。

 俺は思わず口元を緩めた。

 

「協力者、合ってたな」

「はい」

 

 フィーネは静かに言った。

 

「好き嫌いではなく、必要で選びましたので」

「それでいいのか」

「完全には」

「完全には?」

「……人を選別するのは、好きではありません」

 

 その声は、小さかった。

 俺はフィーネを見る。

 彼女は紙の上の名前を見ていた。

 

「ですが、選別しないまま全員へ同じ情報を渡せば、危険が広がります」

「そうだな」

「信じることと、無差別に預けることは違います」

「ああ」

「ですので、選びます」

 

 フィーネは顔を上げた。

 

「間違えたなら、修正します」

「俺も見る」

「殿下が?」

「お前だけにやらせる話じゃないだろ」

「……」

「俺が責任者なんだからな」

「はい」

 

 フィーネの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 

「では、お願いします」

「おう」

「一緒に間違えてください」

「言い方」

「一緒に修正してください」

「そっちの方がいい」

「では、それで」

 

 セレナが静かに息を吐いた。

 

「本当に、不思議な組み合わせですね」

「最近よく言われる」

「ええ。ですが、悪くありません」

 

 悪くない。

 その言葉は、少しだけこの場に馴染んだ。

 

 

   ***

 

 

 昼過ぎには、最初の整理が終わった。

 学生会室の机には、何枚もの紙が並んでいる。

 

 第一層。

 セレナ・ヴィルヘルミナ。

 ルシアン・グラーツ。

 

 調整・助言層。

 第二皇女アリサ。

 

 表向き協力層。

 リリアーヌ。

 ベンノ。

 

 保留。

 セラフィーナ。

 

 敵対継続。

 ミレイユ。

 

 要観察。

 クラウス周辺の旧交友。

 北方遠征参加者のうち、行動が噂と一致しない者。

 学院事務補佐ヨナスの周辺。

 

 最後の名前に、空気が少しだけ重くなった。

 

 ヨナス。

 記録庫で震えていた事務官。

 クラウスの命で閲覧申請を代筆した男だ。

 

「ヨナスはどうなっている」

 

 俺が聞くと、セレナが答えた。

 

「学院側で聴取中です。現時点では末端。自発的な関与は薄いでしょう」

「クラウスと同じか」

「より浅いでしょうね」

 

 フィーネが補足する。

 

「ですが、浅い層ほど、次に接触されやすいです」

「使い捨てやすいからか」

「はい」

「胸糞悪いな」

「はい」

 

 フィーネの返事は静かだった。

 

 黒鴉商会。

 折れ羽根。

 観測対象。

 そういう言葉を知ってから、学院内の小さな動きまで嫌な意味を持ち始めた。

 

 ただの噂。

 ただの嫉妬。

 ただの牽制。

 その中に、どこから敵の手が混じるか分からない。

 

「殿下」

 

 ルシアンが言う。

 

「午後の授業にはお戻りに?」

「戻る」

「意外ですね」

「俺を何だと思ってる」

「出席率に課題のある皇子」

「正しいけど言い方」

 

 フィーネがすぐに続けた。

 

「本日は戻るべきです」

「理由は?」

「通達が出た直後に殿下と私が授業を欠席し続けると、調査権限を振りかざしている印象が強まります」

「なるほど」

「普通に授業へ戻り、普通に扱われることも必要です」

「普通に扱われるか?」

「難しいでしょうね」

「だろうな」

「ですが、試みることが大切です」

「お前が言うと教材になるな」

「実地訓練ですので」

「それももういい」

 

 リリアーヌが立ち上がる。

 

「では、わたくしはお茶会の準備へ」

「早いな」

「殿下。噂は焼きたての菓子より早く冷めますのよ」

「その例えで合ってるのか?」

「たぶん違いますわ」

「違うのかよ」

 

 ベンノも紙を畳んだ。

 

「僕は討論記録と掲示板前の発言を拾う」

「助かります」

「君のためじゃない」

「はい」

「学院内の論調整理のためだ」

「承知しております」

「……本当に承知している顔だな」

「していますので」

「やりづらい」

 

 そう言いながらも、ベンノは逃げなかった。

 協力者層。

 確かに、そう呼んでいいのかもしれない。

 セレナは最後に、フィーネへ一枚の鍵を渡した。

 

「記録室の副鍵です」

「よろしいのですか」

「本宮通達に基づく限定権限の範囲内です。ただし、使用時は必ず台帳へ記名を」

「承知しました」

「それと、単独使用は禁止」

「……」

「フィーネ様」

「承知しました」

「今の間は何ですか」

「効率を考えました」

「効率より安全です」

「はい」

「殿下」

「何だ」

「見張ってください」

「任された」

「殿下まで」

「お前が言ったんだろ。最後まで見張っていてくださいって」

「……確かに」

 

 フィーネは珍しく、少しだけ困った顔をした。

 よし。

 たまにはこちらも返せる。

 ルシアンが笑う。

 

「いいですね」

「何が」

「殿下がフィーネ様の言葉を覚えて、反撃材料にしているところが」

「反撃って言うな」

「対等ですね」

「便利に使うな」

 

 フィーネは小さく息を吐いた。

 だが、口元はほんの少しだけ緩んでいた。

 

 

   ***

 

 

 午後の授業は、思った以上に面倒だった。

 まず、席に着くだけで視線が集まる。

 教師がフィーネを呼ぶ時、一瞬だけ呼称に迷う。

 周囲の生徒が、ノートよりこちらを見ている時間の方が長い。

 

 だが、フィーネは普段通りだった。

 板書を写す。

 教師の説明を聞く。

 必要なら質問する。

 そして、例によって一度だけ教師の式の抜けを指摘した。

 

「先生」

「はい、フィーネ……様」

「様は不要です」

「あ、はい。フィーネさん」

「第二式の係数ですが、前段の魔力流量を二倍で置くなら、ここは三ではなく四ではないでしょうか」

「……」

 

 教師が板書を見る。

 生徒たちも見る。

 

「……その通りです」

 

 ざわ、と教室が揺れた。

 俺は頬杖をつきながら小さく呟く。

 

「普通とは」

「いつも通りです」

 

 フィーネが前を向いたまま答える。

 

「そうだな」

「はい」

「いつも通り目立つな」

「殿下ほどでは」

「俺は今日何もしてない」

「存在が目立ちますので」

「それは俺のせいじゃないだろ」

 

 教師が咳払いする。

 少しだけ気まずい。

 

 だが、教室の空気は少し変わった。

 

 準男爵相当だから目立つ。

 本宮特務補佐だから目立つ。

 第三皇子の隣だから目立つ。

 

 それだけではなく。

 

 いつものように、フィーネは授業で正しく目立った。

 それは、たぶん大事なことだった。

 称号より仕事を先に走らせる。

 昨日、彼女が言っていたことが、こういう小さな場面でも形になる。

 

 授業終わり。

 何人かの生徒がフィーネへ声をかけた。

 

「先ほどの式、どう見ればよかったのですか」

「前段の流量と後段の収束幅を分けて見ると分かりやすいです」

「その……記録調査のお仕事も、魔術式を見るのですか」

「一部は」

「北方遠征の?」

「公表されている範囲では、そうです」

 

 答え方がうまい。

 真相を隠しながら、嘘はつかない。

 

 俺は少し離れてそれを見る。

 すると、隣にセレナが立った。

 

「上手いですね」

「そうだな」

「もう少し硬くなるかと思っていました」

「あいつは怖い時ほど仕事をする」

「……殿下」

「何だ」

「それは、褒め言葉ではなく警戒材料です」

「分かってる」

 

 分かっている。

 フィーネは強い。

 だが、強いから壊れないわけではない。

 

 今朝から彼女は、人を分類し、関係を整理し、噂を読み、授業に出て、質問に答えている。

 普通なら、少しは浮かれてもいい日だ。

 昨日、仮とはいえ叙位を受けたのだから。

 

 だが彼女は、仮叙任状を飾らずに使った。

 それがフィーネらしい。

 けれど、だからこそ心配になる。

 

「セレナ」

「はい」

「止める時は止めてくれ」

「当然です」

「当然か」

「殿下もです」

「俺?」

「あなたも、彼女が必要と言えば無茶を通しがちです」

「……そうか?」

「そうです」

 

 断言された。

 最近、断言されることが多い。

 フィーネがこちらへ戻ってくる。

 

「殿下」

「お疲れ」

「ありがとうございます」

「顔色は?」

「問題ありません」

「信用できない」

「本日は本当に」

「さっきセレナと、止める時は止める話をした」

「……」

「なんだ、その沈黙」

「包囲網が形成されています」

「協力者層だ」

「殿下に使われるとは思いませんでした」

「覚えた」

 

 フィーネは少しだけ目を伏せた。

 悔しそうではない。

 むしろ、少し嬉しそうに見えた。

 

「では、私も修正します」

「何を」

「殿下が私の言葉を使ってくださる頻度」

「記録じゃなくて修正なのか」

「はい」

「何を目指してるんだ」

「対等ですので」

「結局それか」

 

 だが、悪くなかった。

 

 

   ***

 

 

 放課後。

 図書塔の制限区画第三室に、俺たちは戻ってきた。

 以前、討論会の準備をした場所だ。

 

 あの時は、才能と出自の議論をここで組み立てた。

 今は、その議論が現実になっている。

 机の上には、今日集まった報告が置かれていた。

 

 リリアーヌからの短いメモ。

 ベンノの論点整理。

 ルシアンが拾った貴族子弟の噂。

 セレナがまとめた学生会経由の反応。

 アリサ姉上からの追加助言。

 

 早い。

 全員、仕事が早い。

 

「お前、本当に選別うまいな」

「皆様が優秀なのです」

「珍しく謙遜か」

「事実です」

「便利だな、それ」

 

 フィーネは紙を一枚ずつ確認していく。

 俺は向かいに座り、茶を飲みながら眺めていた。

 

「殿下」

「何だ」

「眺めているだけですか」

「手伝う」

「では、こちらを」

「早いな」

 

 渡されたのは、ベンノの論点整理だった。

 

『反発論点一。元奴隷への権限付与は、既存貴族教育の軽視ではないか』

『反発論点二。第三皇子の個人的庇護が、公的制度に混入しているのではないか』

『反発論点三。北方遠征調査の情報が不透明であり、叙位理由が不明瞭』

『反発論点四。フィーネ・エレノアス個人の能力は認めるが、責任を負う家がない』

 

「きついな」

「有用です」

「嫌にならないか」

「なります」

「なるのか」

「はい」

 

 フィーネはあっさり言った。

 

「ですが、嫌なものほど先に見た方がよろしいので」

「お前らしいな」

「殿下」

「ん?」

「少しだけ、よろしいですか」

「何だ」

 

 フィーネは紙から視線を上げないまま言った。

 

「今日、掲示板前で様と呼ばれた時」

「ああ」

「少し、怖かったです」

「……そうか」

 

 俺は茶器を置いた。

 

「様が?」

「はい」

「前にも呼ばれてたろ」

「練習や皮肉としては」

「今日は違った?」

「本宮印の後ろにある呼び方でした」

 

 なるほど。

 分かるような、分からないような。

 

「私は、殿下に拾われました」

「ああ」

「解放されました」

「ああ」

「名前を戻していただきました」

「ああ」

「そして、今度は制度の中で、フィーネ・エレノアス様と呼ばれました」

「……」

「一歩ずつ、自分の足で登っているつもりです」

「登ってるだろ」

「ですが、時々、足元が本当に自分のものか分からなくなります」

 

 珍しい。

 本当に珍しい弱音だった。

 

 俺はしばらく黙り、それから言った。

 

「じゃあ確認しろ」

「確認?」

「足元を」

「どうやって」

「今日みたいに使え」

「……」

「使って、間違えて、直して、それでも残るものが、お前の足場だろ」

 

 フィーネが顔を上げた。

 灰銀の目が、じっと俺を見る。

 

「雑ですね」

「悪い」

「いえ」

「嫌か」

「救われます」

 

 その言葉は静かだった。

 だが、胸に重く落ちる。

 

「殿下は、時々、驚くほど雑に人を信じます」

「前にも似たことを言われたな」

「はい」

「俺は別に雑に信じてるわけじゃない」

「では?」

「お前が登ると言った。なら、まずはそこから始めるだけだ」

「……」

 

 フィーネは黙った。

 そして、ほんの少しだけ笑った。

 

「重いことを言っても?」

「今さら止めても言うだろ」

「はい」

「なら言え」

「殿下がそう言ってくださるなら、私は何度でも登れます」

「やっぱり重い」

「本日は控えめです」

「嘘だろ」

「本当です」

 

 俺は笑った。

 フィーネも、ほんの少しだけ笑った。

 

 机の上には、名前が並んでいる。

 

 協力者。

 保留。

 敵対。

 要観察。

 人を分類する紙。

 学院という小さな宮廷を切り分ける紙。

 

 だが、それはフィーネが人を軽く扱うためのものではない。

 

 守るためだ。

 

 間違えないために。

 間違えた時、戻れるように。

 

「フィーネ」

「はい」

「学院は最良の演習場、だったか」

「はい」

「なら、俺も参加する」

「殿下が?」

「責任者だからな」

「……はい」

「お前だけの演習にするな」

「はい、殿下」

 

 フィーネは紙の端へ新しく一行を書いた。

 

『第三皇子レオンハルト――最終判断、現場責任、暴走抑止』

 

「おい」

「はい」

「最後」

「必要です」

「誰の暴走だ」

「私と殿下、双方です」

「なら仕方ないな」

「はい」

「いや、仕方ないのか?」

 

 フィーネは真顔だった。

 

「非常に」

「そうか……」

 

 窓の外では、夕方の光が学院の白い壁を染めていた。

 今日一日で、フィーネの名前はさらに広まった。

 

 準男爵相当。

 本宮特務補佐。

 第三皇子の隣に立つ少女。

 

 噂は明日にはもっと増えるだろう。

 敵も味方も、こちらを見る目を変えるだろう。

 

 だが、こちらも見返す。

 

 誰がどう動くか。

 誰が何を言うか。

 どこから不自然な波が立つか。

 

 学院は最良の演習場。

 フィーネはそう言った。

 

 だが、この演習場の外には、折れ羽根がいる。

 人を人として見ず、観測対象と呼ぶ連中が。

 俺は紙の上の名前を見た。

 最後に、フィーネが小さく書き足した文字がある。

 

『守るべきものを、先に数える』

 

「……お前らしいな」

「そうでしょうか」

「ああ」

「殿下」

「何だ」

「この一覧に、まだ載せていない名前があります」

「誰だ」

「ルークとミアです」

 

 声が少しだけ柔らかかった。

 

「協力者ではなく、守るべきものとして」

「……そうだな」

「私が目立つほど、あの子たちにも危険が近づく可能性があります」

「警備は増やしてある」

「はい」

「ガレスにも確認させる」

「ありがとうございます」

「礼を言うな。俺にとっても守るべきものだ」

 

 フィーネの手が止まった。

 それから、ゆっくりこちらを見る。

 

「殿下」

「何だ」

「今のは、かなり重いです」

「お前に言われたくない」

「ですが、嬉しいです」

「……そうか」

 

 フィーネは紙の端に、もう一行を書き加えた。

 

『ルーク、ミア――最優先保護対象』

 

 その文字は、いつものように整っていた。

 だが、少しだけ筆圧が強かった。

 俺はそれを見て、何となく嫌な予感を覚えた。

 

 学院での協力者選別は、ひとまず形になった。

 フィーネは自分の名で立ち、学院を小さな宮廷として動かし始めた。

 

 だが、こちらが人を選び、情報を分け、守るべきものを数え始めたということは。

 相手もまた、こちらの守るべきものを見つけようとするということだ。

 

 その夜、皇都北区の静かな住宅街で何が起きかけていたのか。

 俺たちはまだ知らなかった。

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