すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第二十七話

 その報せが届いたのは、夜半少し前だった。

 

 離宮の執務室。

 机の上には、学院内協力者層の整理表が広げられていた。

 

 第一層。

 調整層。

 表向き協力層。

 保留。

 敵対継続。

 要観察。

 そして最後に、フィーネが少し強い筆圧で書いた二つの名前。

 

 ルーク。

 ミア。

 最優先保護対象。

 

「……今日はもう終わりだな」

 

 俺が言うと、フィーネは筆を止めなかった。

 

「あと少しだけ」

「そのあと少し、信用できない」

「本当に少しです」

「前科がある」

「殿下ほどでは」

「最近それ便利に使いすぎじゃないか」

 

 フィーネは紙の端に細い文字を書き足す。

 

『保護先警備線、再確認』

『夜間動線、二重化』

『連絡経路、即時化』

 

「おい」

「はい」

「今から仕事を増やすな」

「必要ですので」

「便利だな、その言葉」

「特に本日は」

 

 そう言うフィーネの声は平静だった。

 

 けれど俺には分かる。

 昼間、図書塔でルークとミアの名を書いた時から、彼女の意識の一部はずっと北区の保護先へ向いていた。

 

 当然だ。

 

 フィーネが目立った。

 仮とはいえ叙位された。

 本宮特務補佐として動き始めた。

 折れ羽根の記録には、彼女の名が観測対象二号として載っていた。

 

 なら、あいつらが次に何を見るか。

 想像はつく。

 だから警備は増やしてある。

 ガレスにも確認させた。

 影もつけている。

 表の護衛も、近隣の見回りも、通常より厚い。

 

 それでも、嫌な予感は消えなかった。

 

「殿下」

 

 ガレスが扉の外から入ってきた。

 いつも通りの無表情。

 だが、声が少しだけ硬い。

 

「北区保護屋敷より急報です」

「……」

 

 俺は椅子から立ち上がった。

 フィーネの筆が止まる。

 

「内容は」

「夜間侵入未遂。対象はルーク様、ミア様の居室周辺。護衛が排除しました」

「二人は」

「ご無事です。怪我はございません」

「本当か」

「はい」

 

 その瞬間、フィーネが息を吐いた。

 

 ごく小さく。

 だが、確かに。

 

 次の瞬間には、もう顔が戻っていた。

 

「襲撃者の数は」

「三名。二名はその場で制圧。一名は逃走を図りましたが、影が捕縛しました」

「捕縛?」

「生きております」

「よし」

 

 俺は外套を掴んだ。

 

「行くぞ」

「はい」

 

 フィーネは即答した。

 だが、その手はほんのわずかに震えていた。

 

「フィーネ」

「はい」

「怖いなら怖いと言え」

「怖いです」

「よし」

「ですが、確認が先です」

「だろうな」

 

 俺はガレスを見る。

 

「馬車」

「すでに」

「早いな」

「殿下よりは」

「お前までそれか」

 

 軽口を返したつもりだった。

 だが、自分の声がいつもより低いことに気づいた。

 

 胸の奥に、何か冷たいものが沈んでいる。

 

 怒りだ。

 たぶん、これは怒りだ。

 

 それも、今までとは少し違う。

 

 面倒だとか。

 腹が立つとか。

 鬱陶しいとか。

 そういう軽いものではない。

 

 子供を狙った。

 それだけで、俺の中の何かが静かに切り替わっていた。

 

 

   ***

 

 

 夜の皇都を、馬車が走る。

 窓の外では灯火が流れ、石畳を叩く車輪の音だけがやけに大きく聞こえた。

 

 ガレスは向かいに座り、追加報告の紙片を確認している。

 フィーネは隣で背筋を伸ばしていた。

 

 いつものように。

 

 ただし、膝の上の手だけが固い。

 

「経路は」

 

 フィーネが問う。

 

「裏庭側。表門ではございません」

「見回りの死角?」

「いえ。死角を作った形跡があります」

「作った」

「隣家の物置に火種を置き、巡回の一名をそちらへ向かわせたようです」

「陽動ですね」

「はい」

 

 フィーネは目を伏せた。

 

「居室まで到達しましたか」

「窓外の庇まで。一名が二階へ上がりましたが、侵入前に制圧」

「室内には?」

「入っておりません」

「ではルークとミアは」

「音で目を覚まされたとのことです」

 

 フィーネの手が、少しだけ強く握られる。

 

「襲撃者の装備は」

「縄、目隠し布、眠り香と思われる小瓶、短剣」

「殺害目的ではなく、拉致目的の可能性が高い」

「おそらく」

 

 ガレスが頷く。

 拉致。

 その言葉で、馬車の中の空気が冷えた。

 

「……俺に聞かせるために、ずいぶん嫌な情報を揃えてくるな」

「必要ですので」

「分かってる」

 

 俺は窓の外を見る。

 

 拉致だ。

 殺すのではなく、攫う。

 傷つけるのではなく、使う。

 

 フィーネを揺さぶるために。

 俺を揺さぶるために。

 

 たぶん、そういうことだ。

 

「殿下」

 

 フィーネが呼ぶ。

 

「何だ」

「馬車の中の魔力が少し荒れています」

「そうか」

「馬が怯えます」

「悪い」

 

 俺は息を吐き、魔力を押さえ込む。

 だが、完全には消えなかった。

 

 ガレスが静かに言う。

 

「殿下」

「分かってる」

「まだ何も決めてはなりません」

「分かってる」

「怒りで決めると、後で困ります」

「分かってる」

 

 三度目で、ようやく声が落ち着いた。

 隣でフィーネがこちらを見ていた。

 

「殿下」

「何だ」

「私は、たぶん、冷静に見えます」

「ああ」

「ですが、今はあまり冷静ではありません」

「知ってる」

「ですので」

「任せろ」

「……まだ何も言っておりません」

「言うだろ。私が暴走しそうなら止めてください、とか」

「はい」

「なら任せろ」

 

 フィーネは黙った。

 それから、ほんの少しだけ頷く。

 

「では、私も殿下を止めます」

「俺は暴走しない」

「今の殿下は信用できません」

「正直だな」

「対等ですので」

「便利だな、本当に」

 

 馬車が角を曲がる。

 北区の住宅街が近づいていた。

 

 静かな街だ。

 以前、ルークとミアに会った屋敷もこの辺りにある。

 焼きたてのパンの匂いがした、穏やかな朝の記憶。

 その同じ場所に、夜、侵入者が来た。

 

 ああ。

 やっぱり、腹が立つ。

 

 

   ***

 

 

 保護屋敷の前には、すでに人が集まっていた。

 といっても、騒ぎにはなっていない。

 近隣には、不審者を捕えたとだけ伝えてあるのだろう。

 

 私服の護衛が周囲を押さえ、灯りは必要最低限に絞られている。

 馬車から降りると、影の一人が膝をついた。

 

「報告」

「はっ。襲撃者三名。裏庭側より侵入。二名は護衛線で制圧、一名は二階庇へ上がりましたが、窓へ触れる前に排除。ルーク様、ミア様に負傷なし」

「怪我は本当にないな」

「はい」

「精神状態は」

「ミア様は怯えが強く、ルーク様は警戒を解いておりません」

 

 フィーネが一歩前に出る。

 

「会えますか」

「もちろんです」

 

 影はすぐに道を開けた。

 フィーネは歩き出そうとして、足を止める。

 

 そして俺を見た。

 

「殿下」

「俺も行く」

「ありがとうございます」

 

 礼を言うな。

 そう言おうとして、やめた。

 

 屋敷の中は、灯りが多かった。

 夜なのに、廊下の燭台がすべて点いている。

 不自然な明るさだった。

 怖がる子供のために点けたのだろう。

 

 二階へ上がる途中、窓の外に黒い痕が見えた。

 庇の端。

 そこに血が少しだけ残っている。

 影が処理した跡だ。

 

「ここで止めたのか」

「はい」

 

 護衛が答える。

 

「一名は眠り香を所持していました」

「香?」

「小瓶に封じたものです。室内へ投げ入れるつもりだったかと」

「……」

 

 フィーネが無言で小瓶を見た。

 布で包まれた小さな瓶。

 中身はまだ残っている。

 

「エルヴィナへ回せ」

「承知しました」

 

 廊下の突き当たり。

 子供たちの部屋の前で、女中頭が深く頭を下げた。

 

「フィーネ様」

「二人は」

「中に。ルーク様が、扉から離れようとされません」

「……そうですか」

 

 フィーネは扉の前に立った。

 一瞬だけ、呼吸を整える。

 そして、ノックした。

 

「ルーク、ミア。私です」

 

 中で、何かが動く音がした。

 短い沈黙。

 それから、少年の声。

 

「姉さま?」

「はい」

 

 扉が開いた。

 ルークが立っていた。

 

 寝間着の上に上着だけ羽織り、手には小さな訓練用の木剣を握っている。

 

 顔色は悪い。

 だが、目は逃げていなかった。

 

 その背後で、ミアが毛布を抱えている。

 大きな目に涙が溜まっていて、それでも泣き声を押し殺していた。

 

「姉さま……!」

 

 ミアが駆け出した。

 フィーネはその小さな身体を受け止める。

 

「ミア」

「おねえさま、こわかった……」

「はい」

「窓のところに、だれか」

「はい」

「ルークが、前に立ってくれて」

「はい」

 

 フィーネの声は静かだった。

 静かすぎるほどに。

 ルークは木剣を下ろさないまま、俺を見た。

 

「殿下」

「ああ」

「ミアは怪我してません」

「お前は」

「してません」

「本当か」

「本当です」

 

 強いな。

 十歳そこそこだろうに。

 

 俺はしゃがんで、ルークと目を合わせた。

 

「怖かったか」

「……怖かったです」

「だろうな」

「でも、ミアの前に立たなきゃと思いました」

「偉い」

「偉くないです」

「偉い」

 

 ルークの唇が震えた。

 けれど泣かなかった。

 泣かないようにしている。

 

 俺は立ち上がり、フィーネを見る。

 彼女はミアを抱いたまま、ルークの前へ膝をついた。

 

「ルーク」

「はい」

「ミア」

「うん」

「ごめんなさい」

 

 その言葉で、部屋が静かになった。

 

「私が目立った結果です」

「姉さま」

「私が殿下の隣に立つと決めたことで、あなたたちに危険が」

「それは違う」

 

 ルークが遮った。

 

 はっきりと。

 震えながら。

 それでも、真正面から。

 

「違う」

「ルーク」

「悪いのは、入ってきたやつらです」

「……」

「姉さまが悪いなら、俺たちは助けてもらったことも悪いことになります」

「……」

「姉さまが殿下のところで頑張ってるの、俺は知ってます」

「ルーク」

「姉さまが目立ったからじゃない。姉さまを悪いように使おうとするやつが悪い」

 

 ミアがフィーネの服を掴んだ。

 

「おねえさま、わるくない」

「ミア」

「ミア、こわかったけど、おねえさまが来たからだいじょうぶ」

「……」

 

 フィーネは目を閉じた。

 肩がほんの少し震える。

 

 泣くかと思った。

 だが、涙は落ちなかった。

 

 彼女は泣く代わりに、二人を抱きしめた。

 

「ごめんなさい」

「だから、違うって」

「それでも、言わせてください」

「……うん」

「怖い思いをさせて、ごめんなさい」

 

 ルークが木剣を床に置いた。

 そして、フィーネの肩へ手を伸ばす。

 ミアも、その腕の中でしゃくり上げた。

 

 三人が抱き合う。

 

 俺は少し離れて、それを見ていた。

 

 以前の再会の時と同じだ。

 この時間に、俺が踏み込むのは違う。

 

 だが、今回は違うこともある。

 以前、俺はこの三人を再会させた。

 今回は、この三人を狙った奴がいる。

 

 俺は扉の外へ出た。

 廊下に、ガレスが立っていた。

 

「殿下」

「襲撃者を見せろ」

「……承知しました」

 

 

   ***

 

 

 裏庭の物置脇に、捕縛された男がいた。

 腕を後ろで拘束され、顎を固定されている。

 毒を使わせないためだろう。

 影の判断は早い。

 

 年は三十前後。

 どこにでもいそうな顔。

 

 だが、目だけは妙に乾いていた。

 罪悪感でも恐怖でもない。

 ただ、役目を終えた道具のような目だ。

 

「喋ったか」

「いえ」

「名は」

「黙秘」

「所属は」

「黙秘」

「目的は」

「黙秘」

 

 影が淡々と答える。

 

 俺は男の前に立つ。

 

 男は俺を見上げた。

 何も言わない。

 言わないように訓練されている顔だ。

 

「お前らは、子供を攫いに来たのか」

 

 返答なし。

 

「殺しではないな。縄、目隠し、眠り香。なら使うつもりだった」

「……」

「誰を揺さぶるつもりだった。フィーネか。俺か。それとも両方か」

 

 男の瞳が、ほんのわずかに動いた。

 それだけで十分だった。

 

「殿下」

 

 ガレスが小さく呼ぶ。

 俺は自分の魔力が漏れていることに気づいた。

 

 裏庭の草が揺れている。

 風がないのに。

 燭台の火が低く沈み、周囲の空気が重くなっている。

 

 まずい。

 押さえろ。

 

 そう思って、息を吐いた。

 だが、腹の奥は冷えたままだった。

 

「……俺はな」

 

 男へ言う。

 

「自分が狙われる分には、まだ面倒で済ませられる」

「……」

「フィーネが狙われるのも、腹は立つが、あいつは自分で立つと決めた」

「……」

「だが、子供を狙うのは違う」

 

 声が低い。

 自分でも分かる。

 

「お前らは、間違えた」

 

 男の顔は変わらない。

 だが、喉が一度だけ動いた。

 

「死なせるな」

 

 俺は影へ言った。

 

「歯、舌、指輪、縫い目、靴底、全部確認しろ。毒を隠している前提で扱え」

「はっ」

「本宮へ運べ。兄上とエルヴィナへ引き渡す」

「承知しました」

「あと」

 

 俺は男を見下ろす。

 

「こいつが何も知らないとしても構わん。こいつをここへ来させた手を追え」

「はっ」

 

 ガレスが静かに言う。

 

「殿下。刺青を」

 

 影が男の袖をめくった。

 腕の内側。

 そこに小さな印があった。

 

 細い輪。

 内側に、折れた羽根。

 

 旧礼拝堂で見た印。

 黒鴉商会の帳簿にあった印。

 十年前に解体されたはずの、魔術研究派閥の印。

 

「折れ羽根」

 

 俺が呟く。

 その瞬間、今度こそ怒りが形を持った。

 

 あいつらは、本当に人を人として見ていない。

 フィーネを観測対象二号と呼ぶ。

 俺を一号と呼ぶ。

 そして、その周囲にいる子供たちを、反応を見るための道具にする。

 

「殿下」

 

 背後から声がした。

 フィーネだった。

 

 いつの間に来たのか。

 ミアの涙を拭ったばかりなのだろう、袖口が少し濡れている。

 だが、顔はもう整っていた。

 

「ここでは抑えてください」

「分かってる」

「本当に?」

「分かってる。だから、まだ抑えてる」

 

 フィーネが一瞬だけ黙った。

 ガレスも黙る。

 影たちすら、息を殺していた。

 

「……殿下」

「何だ」

「私も怒っています」

「知ってる」

「ですが、今は記録します」

「できるのか」

「できます」

「無理なら」

「無理でも、します」

 

 強い。

 いや、強すぎる。

 

 俺は少しだけ目を閉じた。

 

「フィーネ」

「はい」

「お前は今、怒っていい」

「……」

「記録は俺が見る。ガレスもいる。影もいる」

「ですが」

「お前が全部を処理する必要はない」

 

 フィーネは男の腕に刻まれた刺青を見ていた。

 灰銀の目が冷えている。

 けれど、その奥は揺れていた。

 

「殿下」

「何だ」

「私は、弟妹を守るために身売りしました」

「ああ」

「殿下に拾われて、あの子たちは守られる側になりました」

「ああ」

「それなのに、私が立ったことで、またあの子たちが狙われました」

「違う」

 

 俺は即答した。

 

「それは違う」

「殿下」

「責任と罪を混ぜるな」

「……」

「お前が立ったことには責任がある。俺が拾ったことにも責任がある。だから守る」

「……」

「だが、狙った罪はあいつらのものだ」

 

 フィーネが息を呑んだ。

 

「殿下にしては、整理されていますね」

「今それか」

「はい」

「少しは褒めろ」

「かなり救われました」

「……そうか」

 

 重い。

 だが、今回はそれでよかった。

 

 フィーネは男の刺青をもう一度見た。

 そして、静かに言う。

 

「これは、私を揺さぶるための手です」

「だろうな」

「殺害ではなく拉致。成功しても失敗しても、私の反応を見られる」

「観測か」

「はい」

 

 その言葉が、吐き気がするほど嫌だった。

 

 観測。

 反応。

 同期率。

 人を人として見ない言葉。

 

「なら、答えを返すか」

「答え?」

「ああ」

 

 俺は捕縛された男を見る。

 

「揺さぶられたから崩れました、なんて結果を渡すつもりはない」

「……」

「ルークとミアは離宮へ移す」

「殿下」

「今夜は一時避難。正式な再配置は明日、兄上と父上へ通す」

「ですが、離宮に置けば、殿下の周囲が」

「既に狙われてる」

「……」

「離して守れるならよかった。だが、今夜、離していたから狙われた」

「……」

「なら俺の懐に入れる」

 

 フィーネは黙った。

 

「これは命令ではない」

「そうなのですか」

「たぶん」

「たぶん」

「いや、命令に近いかもしれない」

「正直ですね」

「だが、選ばせる。お前と、ルークとミアに」

 

 俺はフィーネを見る。

 

「ただし、俺はかなり強く勧める」

「それはほぼ命令です」

「そうとも言う」

「殿下らしい雑さです」

「褒め言葉として受け取る」

「褒めていません」

 

 フィーネは少しだけ目を伏せた。

 それから、深く息を吐く。

 

「ありがとうございます」

「礼を言うな」

「言います」

「強いな」

「対等ですので」

「そういう時だけ便利に使うな」

 

 そのやり取りで、裏庭の空気が少しだけ戻った。

 

 だが、怒りは消えない。

 消していいものでもない。

 

 折れ羽根は、子供を狙った。

 

 観測対象二号を揺さぶるために。

 あるいは、一号と二号を同時に見るために。

 

 なら、こちらも覚えておく。

 こいつらは、そこまでやる。

 

 

   ***

 

 

 屋敷へ戻ると、ルークとミアは居間に移されていた。

 ミアは毛布にくるまり、フィーネの戻りを待っていた。

 ルークはまだ寝る気配がない。

 木剣こそ置いたが、扉が開くたびに目を向ける。

 

 俺は二人の前に立った。

 

「ルーク、ミア」

「はい」

「うん」

「今夜、離宮に来るか」

 

 二人が同時にフィーネを見た。

 フィーネは少しだけ困った顔をした。

 

 珍しい。

 あいつが本当に困っている。

 

「一時避難です」

 

 フィーネが説明する。

 

「正式なことは明日決めます。ですが、今夜ここに留まるより、離宮の方が安全です」

「姉さまもいる?」

「はい」

「殿下も?」

「いる」

「ガレスさんも?」

「いる」

 

 ミアが毛布の端を握った。

 

「じゃあ、いく」

 

 早い。

 素直だ。

 怖かったのだろう。

 

 ルークは少し考えてから、俺を見た。

 

「ご迷惑ではありませんか」

「迷惑なら最初から保護してない」

「……」

「お前たちは、俺にとっても守るべきものだ」

「俺たちが?」

「ああ」

 

 ルークの目が揺れた。

 フィーネもこちらを見る。

 

「俺はフィーネを拾った」

「はい」

「その時、お前たちも保護した」

「はい」

「なら、途中で切り離す気はない」

 

 我ながら、ずいぶん重いことを言っている気がした。

 

 だが、事実だ。

 便利な言葉だな、事実。

 

「殿下」

 

 フィーネが静かに呼ぶ。

 

「何だ」

「今の言葉は」

「重いか?」

「はい」

「お前ほどでは」

「いえ、かなり」

「そうか」

「ですが」

 

 フィーネはルークとミアを見て、それから俺を見る。

 

「嬉しいです」

 

 やめろ。

 そういう顔で言うな。

 こちらまで照れる。

 

「準備はすぐにできます」

 

 女中頭が言う。

 

「荷物は最小限でいい」

「承知しました」

 

 ガレスが既に指示を出している。

 さすがに早い。

 マリアにも離宮で受け入れ準備をさせているだろう。

 

「ルーク」

「はい」

「その木剣も持ってこい」

「え?」

「よく前に立った。だが、本物相手に木剣では足りない」

「……」

「離宮に来たら、護身も学べ」

「殿下」

 

 フィーネが少しだけ声を低くした。

 

「何だ」

「まだ十歳です」

「だから木剣からだ」

「……」

「怖い思いをした後に、何もできなかったと思わせる方がよくない」

 

 ルークは真剣な顔で俺を見ていた。

 

「学べば、ミアを守れますか」

「少しずつな」

「姉さまも?」

「それは難しい」

「なぜ」

「お前の姉はだいぶ強い」

「……そうですか」

「ただ、支えることはできる」

「支える」

 

 ルークがその言葉を繰り返す。

 フィーネが目を伏せる。

 

「俺、学びます」

「よし」

「殿下」

 

 フィーネがまた呼んだ。

 

「何だ」

「勝手に弟の教育方針を」

「駄目か」

「……駄目ではありません」

「ならいいだろ」

「ですが、早いです」

「お前に言われたくない」

「……それは、確かに」

 

 認めた。

 珍しい。

 

 ミアが小さく手を上げた。

 

「ミアも?」

「ミアはまず寝ることからだな」

「ええ」

「ええ、じゃない。寝ろ」

「おねえさまも寝る?」

「……」

「フィーネ?」

「寝ます」

「今の間は何だ」

「効率を考えました」

「寝ろ」

 

 ミアが少しだけ笑った。

 ルークも、ようやく口元を緩める。

 

 その小さな笑いに、部屋の空気がほんの少しだけ緩んだ。

 

 だが、完全には戻らない。

 戻るはずがない。

 

 夜に窓の外へ人影が来た。

 眠り香を投げ込もうとした。

 拉致するための縄を持っていた。

 

 子供がそれを忘れるには、時間がかかる。

 なら、その時間もこちらで抱えるしかない。

 

「殿下」

 

 ガレスが入ってきた。

 

「馬車の用意が整いました」

「護衛は」

「表に四、影に六。周辺確認済みです」

「よし」

「捕縛者は別経路で本宮へ移送します」

「兄上に伝えろ。刺青は折れ羽根。装備は拉致目的。対象はルークとミア。目的は観測対象二号への揺さぶりと推定」

「承知しました」

 

 フィーネがこちらを見る。

 

「殿下」

「何だ」

「報告が正確です」

「褒めてるのか?」

「かなり」

「なら記録していいぞ」

「はい」

「いや、やっぱりするな」

「もう遅いです」

「遅いのか」

 

 こんな時でも、少しだけいつもの会話が戻る。

 それが救いなのか、癖なのかは分からない。

 ただ、ルークとミアがそれを聞いて、少し安心した顔をした。

 

 なら、それでいい。

 

 

   ***

 

 

 北区の屋敷を出る時、夜はさらに深くなっていた。

 馬車には、フィーネとミアが並んで座った。

 

 ミアはすぐにフィーネの膝へ頭を預ける。

 眠るかと思ったが、まだ眠れないらしい。

 小さな手でフィーネの袖を掴んでいる。

 

 ルークは向かいに座り、木剣を膝の上に置いた。

 俺はその隣に座る。

 ガレスは別馬車で後続の指示を出していた。

 

 馬車が走り出す。

 誰も、しばらく喋らなかった。

 

 フィーネはミアの髪をゆっくり撫でている。

 その指先は、さっきより少しだけ落ち着いていた。

 

「姉さま」

 

 ルークが言った。

 

「はい」

「俺たち、姉さまの仕事の邪魔になりますか」

「なりません」

「本当に?」

「本当です」

「でも、俺たちが狙われたら、姉さまは」

「ルーク」

 

 フィーネは静かに遮った。

 

「あなたたちは、私の邪魔にはなりません」

「……」

「私が何のために立つのかを、忘れないための理由です」

 

 ルークは黙った。

 ミアが小さく呟く。

 

「りゆう?」

「はい」

「ミアも?」

「もちろん」

 

 フィーネの声が少し柔らかくなる。

 

「あなたたちがいるから、私は立てます」

「おねえさま、また重い」

「……」

 

 俺は思わず吹き出した。

 ルークも目を丸くする。

 フィーネだけが、ほんの少し困った顔をした。

 

「誰が教えた」

「殿下」

「俺か」

「うん。おねえさま、重いって」

「ミア」

「だって、ほんとう」

 

 フィーネが珍しく返答に詰まった。

 こんな夜なのに。

 いや、こんな夜だからこそかもしれない。

 

 少しだけ、空気が軽くなった。

 

「フィーネ」

「はい」

「いい妹だな」

「はい」

「重いけど」

「殿下」

「はい」

 

 ミアがくすりと笑った。

 その笑いは小さかったが、確かに笑いだった。

 

 俺は窓の外を見る。

 皇都北区の静かな街並みが流れていく。

 やがて離宮の門が見えてくる。

 

 今日、フィーネは学院を宮廷の縮図として扱い始めた。

 協力者を選び、敵対者を観察し、守るべきものを数えた。

 その夜に、守るべきものが狙われた。

 

 偶然ではない。

 そんな甘い話ではない。

 折れ羽根は、こちらが何を大切にしているかを見ている。

 そして、そこへ手を伸ばす。

 

 なら、こちらも決める。

 

 守るべきものを、先に数えるだけでは足りない。

 守れる場所へ置く。

 守れる形へ変える。

 守ると決めたなら、制度も屋敷も人も全部使う。

 

 フィーネが俺に与えられたものを飾らず使うと言ったように。

 俺も、自分が持っているものを使う。

 

 金も。

 地位も。

 離宮も。

 護衛も。

 皇族の名も。

 

 使うためにある。

 

「殿下」

 

 フィーネが小さく呼ぶ。

 

「何だ」

「怒っていますね」

「怒ってる」

「まだ」

「まだ」

「……」

「でも、今は使う」

「何を」

「怒りを」

「……どう使うのですか」

「守る方へ」

 

 フィーネは黙った。

 それから、静かに頷いた。

 

「では、私もそうします」

「無理はするな」

「殿下も」

「またそれか」

「対等ですので」

 

 馬車が離宮の門をくぐる。

 門兵が姿勢を正し、灯りが一斉に揺れた。

 

 すでにマリアが玄関前に立っている。

 毛布と温かい飲み物まで用意しているのが見えた。

 

 手回しが早い。

 うちの使用人たちは本当に怖い。

 

「ルーク、ミア」

 

 俺は二人へ言った。

 

「今夜はここで休め」

「はい」

「うん」

「明日、正式に話を通す」

「何をですか」

 

 ルークが聞く。

 

「お前たちを、北区の借家には戻さない話だ」

 

 フィーネがこちらを見る。

 何か言おうとして、やめた。

 

 ミアは眠そうな顔で頷いた。

 ルークは少しだけ背筋を伸ばす。

 

「殿下」

「何だ」

「お願いします」

 

 その言葉は、前に聞いたことがある気がした。

 

 初めて再会した日。

 ルークは俺に、お願いしますと言った。

 あの時より、少し声が強い。

 

「ああ」

 

 俺は頷く。

 

「任せろ」

 

 馬車の扉が開く。

 夜の冷たい空気が入ってくる。

 離宮の明かりの下で、フィーネはミアを抱き、ルークは木剣を持って降りた。

 

 俺はその後ろに続く。

 折れ羽根が何を観測したかったのかは知らない。

 だが、少なくとも一つだけ分かったはずだ。

 俺たちは、揺さぶられても壊れない。

 むしろ、守るものの数を増やして、前へ進む。

 

 その夜、俺は初めて心底から思った。

 

 折れ羽根を潰す、と。

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