すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第三十一話

 三日目の朝になると、俺たちは負け方を覚え始めていた。

 

「ミア」

「なあに」

「先に言う。三刻半寝た」

 

 朝食の席。

 ミアがぬいぐるみを抱いたまま、ぱちりと瞬きをした。

 

「……まだ聞いてない」

「先に言うと早い」

「ずるい」

 

 ずるいのか。

 隣でフィーネも静かに続く。

 

「私も三刻半です」

「ほんと?」

「本当です」

「ん」

 

 ミアは少し考え、それから頷いた。

 

「合格」

「合格なのか」

「うん」

 

 裁判官の基準は分からないが、無罪なら何でもいい。

 ガレスが無表情のまま茶を注いでいる。

 

「ガレス」

「はい」

「俺たち、成長したと思わないか」

「左様でございますな」

「棒読みだな」

「感動しております」

「どこがだ」

 

 食卓には、昨日の黒パンが並んでいた。

 マリアが薄く切って、軽く焼き直したものだ。

 ミアが小さな口で齧り、目を見開く。

 

「これ、おいしい」

「はい」

 

 フィーネが言った。

 

「昔、家の隣で焼かれていたパンです」

 

 ルークの手が止まった。

 

「……黒パン」

「はい」

「あの店の」

「はい」

 

 ルークはパンを見下ろした。

 それから、ぽつりと言う。

 

「黒パン二つと、白パン一つ」

「覚えているのですか」

「途中から、俺の係でした」

「私から引き継ぎました」

「釣り銭も間違えませんでした」

「知っています」

 

 姉弟の間で、仕事の引き継ぎの話をしている。

 パン一つ買うのも係なのか。

 商家というのはそういうものらしい。

 

「ミアはおぼえてない……」

 

 ミアが少し口を尖らせる。

 フィーネの声が柔らかくなった。

 

「ミアは、白パンを母と分けていました」

「そうなの?」

「はい。母の膝の上で」

「……そっか」

 

 ミアはもう一口パンを齧った。

 覚えていない記憶でも、聞けば残るらしい。

 それでいいと思う。

 

「ルーク」

「はい」

「お前、その店の前の石段で――」

「殿下」

 

 フィーネに止められた。

 

「石段?」

 

 ルークが首を傾げる。

 

「何でもない」

「?」

 

 危なかった。

 いや、善処はした。

 善処の範囲で踏みとどまったのだから、俺は約束を守っている。

 フィーネの目がそう言っていないのは見なかったことにする。

 

「それで」

 

 ルークが姿勢を正した。

 

「今日は、どこへ行くんですか」

「西区だ」

「西区」

「父上の友人に会いに行く」

 

 ルークとミアが、同時にフィーネを見た。

 フィーネは頷く。

 

「薬種商の、マクスヴェルという方です」

 

 ルークが少しの間、宙を見た。

 

「……苦い飴の人?」

「覚えているのですか」

「飴だけ」

「重要な記憶だな」

「殿下」

「悪い」

 

 だが実際、重要だと思う。

 子供の記憶は味から戻る。

 石段の欠けと同じだ。

 

「いい人?」

 

 ミアが聞いた。

 フィーネは少し考えてから答えた。

 

「父の友人でした」

「こわい話をしに行くの?」

「半分は」

「のこりは?」

「分かりません」

 

 嘘をつかない姉である。

 ミアはぬいぐるみの耳を握り、それから言った。

 

「はやくかえってきて」

「はい」

「殿下も」

「俺もか」

「うん」

「戻る」

「ほんと?」

「本当だ」

「じゃあ、いい」

 

 強い。

 やはり強い。

 

 ルークが俺を見た。

 

「殿下」

「何だ」

「姉さまを、お願いします」

「おう」

「昨日も言いましたけど」

「分かってる」

「止める役なので」

「分かってるって」

 

 エレノアス家の弟は、念押しまで商人だ。

 契約は二度確認するものらしい。

 

 

   ***

 

 

 南区が皇都の胃袋なら、西区は薬棚だ。

 

 馬車の窓の外で、街の色が変わっていく。

 騒がしい市場の代わりに、職人組合の看板。

 香辛料の代わりに、乾いた薬草の匂い。

 道幅は狭いのに、人の歩く速さは妙に落ち着いている。

 

 量り間違えれば人が死ぬ商売の区画は、声まで静かになるらしい。

 

「マクスヴェル薬種店」

 

 向かいの席で、ガレスが紙を開いた。

 

「店主マクスヴェル、六十八。西区薬種商組合の古株。皇都での開業は三十九年前。黒鴉商会との取引記録、なし。学院近郊の例の薬種商との接点、なし。折れ羽根関連の照合、白」

「調べたのか」

「フィーネ様のご指示で」

 

 俺はフィーネを見た。

 

「疑ったのか」

「疑いたくない相手ほど、先に調べます」

「……」

「父の友人が、父を売った側だったら」

 

 フィーネは窓の外を見ていた。

 

「私はたぶん、立てませんので」

「そうか」

「ですので、先に白を確かめました」

「お前らしいな」

「褒めていますか」

「半分」

「残りは」

「心配してる」

「……承知しております」

 

 ガレスが紙を畳む。

 

「なお、先触れは出しておりません」

「理由は」

「黒鴉の網がどこまで残っているか、不明ですので」

「エレノアスの名で文を出せば、どこかで読まれるか」

「可能性は、低くとも」

「潰しておくべき、と」

「はい」

 

 慎重なことだ。

 だが、その慎重さの理由が、フィーネの家を潰した連中だと思うと笑えない。

 

「フィーネ」

「はい」

「怖いか」

「怖いです」

 

 即答だった。

 

「昨日、学びました」

「何を」

「紙より、人の記憶の方が重いと」

「ああ」

「本日は、その重い方に、最初から会いに行きます」

「途中で帰ってもいいんだぞ」

「帰りません」

 

 これも即答だった。

 知っていた。

 だから言ったのだが。

 

「殿下」

「何だ」

「今のは、確認ですか」

「逃げ道の用意だ」

「使いません」

「知ってる。だが、置いておく」

「……はい」

 

 フィーネは膝の上で、指を軽く組んだ。

 

「ありがとうございます」

 

 その声は静かだった。

 怖いと言いながら、退かない。

 いつものフィーネだ。

 

 ただ、組んだ指の先だけが、少し白かった。

 

 

   ***

 

 

 マクスヴェル薬種店は、組合通りの中ほどにあった。

 

 間口は狭い。

 だが、奥行きが深い。

 古い木の看板に、乳鉢と天秤の組合印。

 扉を開けると、乾いた薬草と蜜と土の匂いが、層になって押し寄せてきた。

 

 壁一面が、小さな引き出しで埋まっている。

 百や二百ではきかない。

 どの引き出しにも、几帳面な字で薬名の札が貼られていた。

 

 帳場の奥で、老人が天秤を覗き込んでいた。

 

 骨ばった大きな手。

 曲がった背中。

 白い髪。

 だが、薬包紙の上で粉を量る指先だけは、職人のそれだった。

 

「いらっしゃい。……いや」

 

 老人は顔を上げ、俺たちを見て目を細めた。

 

「客じゃないな」

「分かるのか」

「薬を買いに来た顔じゃない」

 

 ガレスが一歩前に出る。

 

「突然の訪問、失礼いたします。昔のことで、お話を伺いたく」

「昔の話は売り物じゃない」

 

 素っ気ない。

 だが、追い払う声でもなかった。

 測っている声だ。

 

 フィーネが、静かに前へ出た。

 

「エレノアス商会のことで、参りました」

 

 天秤の上で、老人の指が止まった。

 

「……誰だ、あんた」

 

 フィーネは頭を下げた。

 

「フィーネ・エレノアスと申します」

 

 沈黙があった。

 長い沈黙だった。

 

 老人はゆっくりと帳場を回って出てきた。

 歩みは遅い。

 だが、目はフィーネから一度も離れなかった。

 

 灰銀の髪。

 灰銀の瞳。

 まっすぐな姿勢。

 

 老人の口が、小さく動いた。

 

「……ノエラさん」

「いいえ」

「いや……違うな。違う」

 

 老人は目元を擦った。

 

「すまん。年だ」

「いえ」

「ヴェネルの、上の娘か」

「はい」

「フィーネ」

「はい」

「……生きとったか」

 

 老人の声が、そこで揺れた。

 彼は帳場の縁に手をつき、深く息を吐いた。

 

「生きとった」

「はい」

「弟と、妹は」

「二人とも、無事です」

「……そうか」

 

 老人は、もう一度同じ言葉を言った。

 

「そうか」

 

 それから、ふいに頭を下げた。

 深く。

 老いた背中が、それ以上曲がらないところまで。

 

「すまんかった」

「マクスヴェル様」

「儂は、お前さんらを探したんだ」

 

 老人は頭を下げたまま言った。

 

「店が潰れて、ヴェネルが死んで、ノエラさんも逝って。子供らはどうなったと、戸籍院にも債務裁定所にも行った。だが、記録は途中で途切れとった。債務処理だ、移送だと言われて、その先は教えてもらえんかった」

「……」

「儂は薬屋だ。紙の迷路には勝てんかった。足も、もう速くない」

 

 間に合わんかった、と老人は言った。

 

 フィーネは首を振った。

 

「謝らないでください」

「だが」

「あなたは、父の友人でいてくださいました」

 

 フィーネの声は静かだった。

 

「潰れた後も、探してくださいました。それで十分です」

「……」

「顔を上げてください。マクスヴェル様」

 

 老人はゆっくりと顔を上げた。

 その目は赤かった。

 

「様はよせ」

「では」

「儂は、お前さんの親父の、ただの友だ」

「マクスヴェルさん」

「それでいい」

 

 老人はそこで、ようやく俺とガレスを見た。

 そして、俺の胸元で止まった。

 

 皇族章。

 今日も外していない。

 

「……そちらの御仁は」

「第三皇子殿下であらせられます」

 

 ガレスが言うと、老人は固まった。

 薬研の前で五十年生きた顔が、初めて商売と関係のない驚き方をした。

 

「皇子……」

「楽にしてくれ。今日は付き添いだ」

「皇子の、付き添い」

「細かいことはいい」

「よくはないと思うが……」

 

 老人はフィーネと俺を見比べた。

 

「お前さん、皇子様と何の関係だ」

「私が隣に立つと決めた方です」

 

 フィーネは即答した。

 老人がもう一度固まる。

 

「おい」

「事実ですので」

「順番というものがあるだろ」

「最短でしたので」

 

 老人は俺たちのやり取りをしばらく眺め、それから、ふっと息を漏らした。

 

「……そうか。ヴェネルの娘が」

 

 笑ったような、泣いたような顔だった。

 

「茶を淹れる。皇子に出す茶じゃないが」

「構わん」

「奥へ。立ち話の長さじゃない」

 

 

   ***

 

 

 店の奥は調剤室だった。

 

 薬研。

 乳鉢。

 束ねて吊るされた薬草。

 古い作業台の周りに、不揃いの椅子が三つ。

 

 老人は茶を出し、自分も腰を下ろした。

 苦い茶だった。

 だが、嫌な苦さではない。

 

「ヴェネルとは、同じ年に店を構えた」

 

 老人は、聞かれる前に話し始めた。

 

「向こうは南区で香料、儂は西区で薬種。扱う草が半分重なる。仕入れで顔を合わせて、口論して、気づいたら友になっとった」

「口論ですか」

「乾燥薬草の目利きでな。儂が正しかった」

「父は認めましたか」

「最後まで認めんかった」

「……父らしいです」

 

 フィーネの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「ノエラさんの身体が弱くてな。儂の薬湯を、ヴェネルがよく取りに来た」

「存じています」

「ほう」

「冬の、苦い匂いのする包み」

「よく覚えとるな」

「母は、あれを飲むと眠れると言っていました」

「そうか」

 

 老人は頷き、それから茶碗を置いた。

 

「……それで。聞きに来たのは、昔話だけじゃないだろう」

「はい」

 

 フィーネも茶碗を置いた。

 

「父の、最後の取引について伺いに参りました」

 

 老人の顔から、柔らかさが消えた。

 残ったのは、苦い茶のような顔だった。

 

「嫌な話だ」

「承知しております」

「……どこまで知っとる」

「商会の記録は見ました。禁制触媒の混入。取引先三件の同日解除。債務譲渡。差し押さえ」

 

 フィーネは淡々と並べた。

 

「昨日は、商会の跡地にも行きました。隣のパン屋のご老人から、黒い鳥の紋の荷車の話も」

「……あの爺さん、まだ焼いとるのか」

「焼いておられました」

「そうか」

 

 老人は短く笑い、すぐに戻した。

 

「なら、紙の側は知っとるわけだ」

「はい」

「儂が知っとるのは、紙にならんかった側だ」

 

 老人は、ゆっくりと話し始めた。

 

「最後の半年、ヴェネルの店は急に客が減った。長年の取引先が、理由も言わずに離れていった」

「同じ時期に、ですか」

「ああ。一つ二つなら商売の波だ。だが、続きすぎた。あいつも妙だとは言っとった」

「それから」

「大口の取引話が来た」

 

 保存樹脂と香料基材の大量供給。

 仲介商を通した、組合の検め証付きの契約。

 条件は良すぎるほど良かったという。

 

「儂は、うますぎると言った」

「父は」

「『分かっとる』と言った」

 

 老人は作業台の木目を見ていた。

 

「分かっとった上で、受けるしかなかった。客を絞られて、仕入れの払いは待ってくれん。子が三人。女房は薬代がいる。……あの時のあいつに、他の道は残っとらんかった」

 

 フィーネの目が、すっと細くなった。

 

「……絞ってから、餌を出した」

「そうだ」

 

 老人はフィーネを見た。

 

「お前さん、商人の目をしとるな」

「父の娘ですので」

「……そうか」

 

 俺は黙って聞いていた。

 昨日、兄上が言った言葉を思い出す。

 

 破産誘導の型。

 

 帳簿の上では、それは六件の前例がある処理の一つだった。

 だが、ここで聞くと違う。

 型の中には、客を絞られる半年があり、薬代があり、子が三人いる。

 

「契約には、約束があった」

 

 老人は続けた。

 

「納品の前に、双方立ち会いで荷を検める。検め証は仲介商が出す。そういう約束だった」

「それが」

「反故にされた」

 

 検めの日、仲介商は現れなかった。

 代わりに翌朝、役人が来た。

 荷からは禁制触媒が出た。

 

「最後に会った時、ヴェネルは言っとった」

 

 老人の声が低くなる。

 

「『相手が約束を破った』と」

「……」

「『あれは罠だった』と。あいつは、そう言った」

 

 フィーネは動かなかった。

 茶碗の横に置かれた指先が、白くなっているだけだった。

 

「父は、気づいていたのですね」

「ああ」

「いつ」

「荷が検められんまま役人が来た、その朝にはもう」

 

 老人は悔しそうに、節くれた手を握った。

 

「気づいた時には、全部が終わっとった。あいつは走り回った。組合に、商務院に、債務裁定所に。検めの約束を証言してくれと、仲介商の周りも当たった。だが」

「だが?」

「どこへ行っても、もう決まっとった」

 

 昨日のパン屋と同じ言葉だった。

 もう全部決まっているようだった、と老人も言った。

 

「ヴェネルは最後に言っとったよ。『誰かが、儂より先に書いとる』と」

「先に、書いている」

「役所の紙が、あいつの足より速かった。そういう意味だ」

 

 フィーネは目を伏せた。

 長くはない。

 二つ数えるほどの間だった。

 

「……それで、父は」

「身体を壊した。心労だ。商人が、商いの仕組みに殺されかけて、立っていられるものか」

 

 老人はそこで言葉を切った。

 しばらく黙り、茶を一口飲み、それから静かに言った。

 

「死ぬ十日ほど前だ。夜中に、ここへ来た」

 

 フィーネが顔を上げる。

 

「父が」

「ああ。痩せとった。だが、目だけはいつものヴェネルだった」

 

 老人は立ち上がった。

 調剤室の奥、薬草棚の前へ歩く。

 床板の一枚に指をかけ、慣れた手つきで持ち上げた。

 

 床下から出てきたのは、小さな木箱だった。

 

 椈の木。

 角の擦れた、飾り気のない箱。

 蓋には蝋封がされている。

 

 老人はそれを両手で持ち、作業台の上に、静かに置いた。

 

「『預かってくれ』と言われた」

「……」

「『家はもう、差し押さえの目録に入っとる。儂の手元に置けば、これも紙にされる』と」

 

 差し押さえの目録。

 家にあるものは、全部数えられ、値をつけられ、持っていかれる。

 だからヴェネルは、数えられる前に、これだけを外へ出した。

 

「潰れた後、ヴェネルの残した荷や権利を漁る連中が来た。黒い鳥の紋の使いも、一度な」

「……何と答えた」

「薬しか売らん、と」

 

 老人は当然のように言った。

 

「それきり来とらん。箱のことは、誰にも言うとらん。今日までな」

「中身は」

「知らん」

 

 老人は首を振った。

 

「開けるなとは言われんかった。だが、開けんかった。……いや」

 

 少しだけ、ばつが悪そうな顔をした。

 

「一度だけ、覚書の一枚目だけは見た。宛先のない預かり物は、薬屋の性に合わんでな」

「……」

「儂が言うより、読め」

 

 老人は箱を、フィーネの前へ押した。

 

「十年……いや、もっとか。これは、お前さんらのものだ」

 

 フィーネは箱を見た。

 

 蝋封。

 封蝋の中央に、細い波紋の印が押されている。

 

「これは」

「エレノアスの家紋だ」

 

 老人が言った。

 

「波紋……」

「ヴェネルの印だ。商会の証文には、いつもこれを押しとった」

 

 フィーネは一度だけ目を閉じた。

 それから、開けた。

 

「拝見します」

 

 指は震えていなかった。

 彼女は封を割り、蓋を開けた。

 

 

   ***

 

 

 箱の中身は、四つだった。

 

 最初に出てきたのは、布の包みだった。

 フィーネが開く。

 

 銀の髪留めだった。

 

 細工は細かいが、華美ではない。

 長く使われた銀の、柔らかい光り方をしていた。

 

「ノエラさんのだ」

 

 老人が静かに言った。

 

「ヴェネルが箱に入れるところを、儂は見とった。『ノエラが、娘にと』と言っとった」

「……母が」

「ああ。あの時はまだ、ノエラさんは生きとった。自分で決めて、自分で渡したんだ」

 

 フィーネは髪留めを見下ろした。

 触れたのは、指先だけだった。

 壊れ物を扱うように、布ごと両手で持ち、箱の蓋の上へそっと置いた。

 

 次に出てきたのは、紙が三枚。

 

 フィーネの目が、わずかに見開かれた。

 

「これは……出生証明書です」

「三枚か」

「はい。私と、ルークと、ミアの」

 

 彼女は紙を検めた。

 その目は、もう調査の目になっていた。

 

「写しではありません。発行時の原本控えです。戸籍院の発行印も、商業区の証明印もあります」

「つまり」

「誰が何を削っても、これが残ります」

 

 フィーネは、そこで一度言葉を止めた。

 

「……戸籍官が言っていました。ルークとミアの戸籍整備には、本人確認が要ると」

「ああ」

「父が、それを遺してくれていました」

 

 潰される側だった男が、潰す側の先まで読んでいた。

 名前を消されることまで考えて、子供の名の証明を、家の外に逃がしていた。

 

 商人だ。

 最後まで、商人だったのだ。

 

 三つ目は、小さな印章だった。

 手に収まる大きさの、把手のついた印。

 彫られているのは、封蝋と同じ細い波紋。

 

「家紋か」

「はい」

 

 フィーネが頷いた。

 

「波紋とは、珍しいな」

「父の口癖でした」

「どんな」

「大きな波は、いつか引く」

 

 フィーネは印章を手に取った。

 

「だが、細い波紋は岸まで届く――と」

「……商人の家紋だな」

「はい」

 

 彼女はそれを、髪留めの隣に置いた。

 

 最後に残ったのは、一冊の覚書だった。

 

 革の表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。

 長く、毎日使われた帳面の形だった。

 

 フィーネはそれを取り、表紙を開いた。

 

 一枚目。

 

 彼女の目が、文字の上を走る。

 一度。

 二度。

 

 それから、止まった。

 

 俺の位置からも、その紙面は見えた。

 几帳面な、商人の字だった。

 だが、最後の方の筆だけ、わずかに線が細い。

 

『私の死後、子らがもし生き延びていたなら、これだけは渡してほしい。

 フィーネに。ルークに。ミアに。

 父より』

 

 フィーネは、何も言わなかった。

 声も出さなかった。

 息の音さえ、しなかった。

 

 ただ、目から涙が一筋、落ちた。

 

 彼女は覚書を、すっと胸の横へ避けた。

 涙は紙ではなく、床に落ちた。

 

 泣きながら、記録を守った。

 この女は、そういう女だ。

 

 俺は何も言わなかった。

 

 泣いてどうにかなる段階を、とっくに通り過ぎている。

 奴隷市で会った日、俺はフィーネをそう見た。

 事実、彼女は泣かなかった。

 家を失っても。

 名を削られても。

 観測対象と呼ばれても。

 昨日、家の跡に立っても。

 

 泣かなかったのではないのだろう。

 泣ける場所が、なかっただけだ。

 

 泣かせるなよ、と昨日、パン屋の老人は言った。

 泣ける場所にする方が近い、と俺は答えた。

 

 だから、言葉は要らない。

 俺はただ、隣に立っていた。

 それだけが、今日の俺の仕事だった。

 

 ガレスが目を伏せ、深く礼をした。

 

 執事の礼ではなかった。

 誰に向けた礼かは、聞かなかった。

 たぶん、箱の持ち主と、それを守った老人と、いま立っている娘の、全部にだ。

 

 マクスヴェルは何も言わず、立ち上がって棚へ向かい、薬瓶を意味もなく並べ直していた。

 老人なりの、目のそらし方だった。

 

 長い時間ではなかった。

 

 フィーネは息を一つ吸い、覚書を両手で持ち直した。

 涙は、一筋だけだった。

 二筋目は、落ちなかった。

 

「……失礼しました」

「謝るな」

 

 マクスヴェルが、棚を向いたまま言った。

 

「謝るな。儂は……」

 

 老人は振り返った。

 その目も、赤かった。

 

「渡せる日が来た。それだけで、薬屋を続けとった甲斐があった」

「マクスヴェルさん」

「ヴェネルはな」

 

 老人はフィーネを真っ直ぐに見た。

 

「お前さんを自慢しとった。『うちの上の娘は、儂より商いの目がある』と」

「……」

「親の欲目だと思っとったが」

 

 老人は、ゆっくりと首を振った。

 

「欲目じゃなかったな」

 

 フィーネは答えなかった。

 代わりに、深く、長く、頭を下げた。

 

 商家の礼だった。

 俺には作法の細部は分からない。

 だが、それが客の礼でも貴族の礼でもないことだけは、分かった。

 

 

   ***

 

 

 その後の話は、実務だった。

 実務に戻ると、フィーネはいつものフィーネだった。

 

「もう一つ、伺いたいことがあります」

「何だ」

「父と母の婚姻記録に、保証人としてお名前がありました」

「ああ。儂と、もう一人な」

「その、もう一人を覚えておられますか」

 

 戸籍院の原本では、判読困難だった名前だ。

 老人は眉を寄せ、記憶を探った。

 

「……ノエラさん側の人間だ。村の世話役だったか、村長だったか。婚礼の日に一度会ったきりでな。名前までは出てこん」

「村」

「ああ。ノエラさんは、家名のない村の出だ」

 

 フィーネの指が、止まった。

 

「母は、故郷の話をほとんどしませんでした」

「だろうな。ノエラさんは、昔の話をせん人だった」

「保証人の控えは、お持ちですか」

「あるはずだ」

 

 老人は当然のように言った。

 

「薬屋は紙を捨てん。量を間違えれば人が死ぬ商売だ。……ただ、三十年前の控えだ。倉のどこかになる。探す時間をくれ」

「お願いします」

 

 ガレスが静かに進み出た。

 

「見つかりましたら、本宮記録官補佐ハインベルクの名で照会が参ります。原本は動かさず、写しの作成に立ち会いを」

「仰々しいな」

「戸籍院の原本で、母君の旧姓欄が削られております」

 

 老人の顔色が変わった。

 

「削られ……?」

「書かれていたものが、後から消されています。復元には、保証人控えが要ります」

「……誰がそんなことを」

「それを、調べております」

 

 老人はフィーネを見て、それから低く唸った。

 

「死んだ人間の名を消すか」

「はい」

「ろくでもないな」

「はい」

 

 フィーネは静かに同意した。

 

「母に関わる箇所だけが、消えています。旧姓欄。判読できない保証人。……偶然でしょうか」

「分かりません」

 

 答えたのは俺だ。

 

「分からないから、調べる」

「はい」

 

 帰り際、老人は店先で小さな紙包みを二つ、フィーネに持たせた。

 

「一つは飴だ。ルーク坊は、これが苦手だったな」

「今も苦手だと思います」

「なら丁度いい」

「丁度いいのですか」

「良薬だからだ」

 

 理屈になっていない気がするが、老人は満足げだった。

 

「もう一つは薬湯だ。ノエラさんに出しとったのと、同じ処方」

「母の……」

「よく眠れる」

 

 老人はフィーネの顔を見た。

 

「顔色が、あの頃のノエラさんに似とる」

「……」

「寝ろ。それも商いのうちだ」

 

 フィーネは紙包みを両手で受け取った。

 

「ありがとうございます」

「礼はいらん。生きとったなら、それでいい」

 

 昨日と同じ言葉を、別の老人が言った。

 この街の年寄りは、皆同じ結論に辿り着くらしい。

 たぶん、それが一番正しいからだ。

 

 老人は最後に、俺を見た。

 

「殿下」

「何だ」

「ヴェネルの代わりに言う」

 

 老人は背筋を伸ばした。

 曲がった背中が、その時だけ商人の礼の形になった。

 

「娘を、よろしく頼む」

「親父の代行か」

「友の代行だ」

「引き受けた」

 

 短く答えた。

 長く答える場面ではなかった。

 

「店に何かあれば、離宮へ報せろ。黒い鳥の使いでも、紙の迷路でも」

「皇子に薬屋の用心棒をさせる気か」

「証人の保全だ。職務でな」

「……便利な言葉だな、職務」

「よく言われる」

 

 老人は少しだけ笑い、頭を下げた。

 

 店を出ると、西区の空は高かった。

 乾いた薬草の匂いが、扉の外まで追いかけてきた。

 

 フィーネは箱を抱えていた。

 ガレスが持つと申し出て、断られていた。

 

「私が運びます」

「重いか」

「軽いです」

 

 彼女は箱を見下ろした。

 

「軽いのに、重いです」

「分かるような分からんような」

「私も、初めて知りました」

 

 そういう重さがあるらしい。

 俺はまだ、半分しか分からない。

 だが、分からないまま隣を歩くことはできる。

 

 

   ***

 

 

 離宮へ戻ると、夕方だった。

 

 客室棟の小部屋に、ルークとミアを呼ぶ。

 フィーネは机の上に箱を置き、蓋を開けた。

 

「お父さまが、遺してくれたものです」

 

 ルークとミアは、しばらく動かなかった。

 

 最初に手が動いたのはルークだった。

 自分の出生証明書を、両手で持つ。

 

「これ、俺の」

「はい」

「俺の、名前」

「はい。生まれた時のものです」

 

 ルークは紙を見つめた。

 長いこと見つめて、それから、そっと机に戻した。

 扱いが、姉そっくりだった。

 

 ミアは、布の上の髪留めを見ていた。

 

「……お母さまの?」

「はい」

 

 ミアはそっと指を伸ばし、触れる前に止めた。

 

「さわっていい?」

「はい」

 

 小さな指が、銀の縁をなぞる。

 

「きれい」

「はい」

「おねえさま、つけないの?」

「……」

 

 フィーネが珍しく詰まった。

 

「私には、まだ早いかと」

「なんで?」

「……」

 

 理由は出てこないらしい。

 ルークが言った。

 

「姉さま」

「はい」

「父上が言ってました。姉さまは母上に似てるって」

「……」

「だから、いいと思います」

 

 ミアが髪留めを両手で持ち上げた。

 

「ミアがつける!」

「ミア」

「かがんで」

 

 フィーネはミアを見て、ルークを見て、それから諦めたように膝を折った。

 

 ミアが、小さな手で髪留めをつける。

 灰銀の髪に、銀。

 

 少し、斜めだった。

 フィーネは直さなかった。

 

「殿下」

「何だ」

「……いかがでしょうか」

「似合うな」

「……はい」

「直さないのか」

「ミアがつけましたので」

 

 重い。

 だが、いい重さだった。

 

 ミアは満足そうに頷き、それからフィーネの顔をじっと見上げた。

 

「おねえさま」

「はい」

「きょう、泣いた?」

 

 なぜ分かる。

 この妹は本当になぜ分かる。

 

 フィーネは一拍だけ置いて、正直に答えた。

 

「泣きました」

「いっぱい?」

「一筋だけ」

「そっか」

 

 ミアは頷いた。

 責めもせず、騒ぎもしなかった。

 

「じゃあ、今日はいっぱい寝る」

「……はい」

「やくそく」

「はい」

「殿下も」

「俺もか」

「うん」

「寝る」

「ほんと?」

「本当だ」

 

 マクスヴェルの薬湯は、マリアが受け取っていった。

 今夜、煎じるらしい。

 ついでに苦い飴がルークに渡された。

 

 ルークは一粒口に入れ、無言になった。

 

「苦いか」

「……苦いです」

「良薬だそうだ」

「苦いです」

 

 ミアも一舐めして、無言で兄に返した。

 兄妹の意見は一致したらしい。

 

 

   ***

 

 

 夜。

 書斎の机に、覚書が開かれていた。

 

 フィーネが頁をめくる。

 俺は隣で見ている。

 マクスヴェルの薬湯はもう飲んだらしい。

 苦かったか聞いたら「殿下も後で飲んでください」と返された。

 道連れにする気だ。

 

 覚書の中身は、商いの記録だった。

 仕入れ。

 相場。

 取引先の癖。

 几帳面な字が、何年分も続いている。

 

 そして、その間に、商いではないものが混ざっていた。

 

『フィーネに簿記を教える。三日で追いつかれた。末恐ろしい』

 

「三日か」

「……五日です」

「謙遜か?」

「父が、二日分話を盛っています」

「親の欲目だな」

「はい」

 

 フィーネの声は、少し柔らかかった。

 

『ルーク、店の手伝いを始める。釣り銭を一度も間違えん。だが石段で転んだことは、頑なに認めん』

 

「おい、書いてあるぞ」

「殿下」

「聞かない約束は守ってる。読んだだけだ」

「……」

「親父も認めさせるのは諦めたらしいな」

「血筋ですので」

 

『ミア、初めて店の口上を真似る。客が三人笑った』

 

「商人の才能だな」

「今は、裁判官の才能に育っています」

「適性が広い一家だ」

 

 頁が進む。

 日付が、終わりの半年に近づいていく。

 

 字は変わらず几帳面だった。

 だが、内容が変わる。

 

『取引先がまた一つ離れた。理由を言わん』

『大口の話。条件が良すぎる。マクスヴェルにも、うますぎると言われた。分かっている』

『検め証は出さんと言われた。話が違う』

『役所の動きが早すぎる。誰かが、儂より先に書いている』

 

 フィーネの指が、頁の上で止まる。

 

「父は、全部見えていたのですね」

「ああ」

「見えていて、間に合わなかった」

「……ああ」

「悔しかったでしょうね」

 

 声は静かだった。

 今日はもう、揺れていなかった。

 涙は昼に一筋、落とすべき場所で落としてきた。

 だからいまは、読む側の目をしていた。

 

「殿下」

「何だ」

「この覚書は、証拠になります」

「なるな」

「検めの約束。仲介商。日付。役所の動き。父の側からの記録です」

「黒鴉の帳簿と突き合わせれば」

「破産誘導の型の、内側が埋まります」

 

 潰された商人の手控えが、潰した連中の網を裏返す。

 ヴェネル・エレノアスは、死んで十年経っても商人だった。

 

 フィーネは終わりの方の頁をめくり、そこで、もう一度止まった。

 

「……殿下」

「何だ」

「これを」

 

 俺は覗き込んだ。

 

『ノエラの咳が続く。ハルネの空気の方が、合うのかもしれん』

『ノエラの郷里、ハルネ村。皇都から馬車で半日。いつか子らを連れて、義母どのに孫の顔を見せねばならん』

 

「ハルネ村」

「母の、故郷です」

 

 フィーネは紙面を見つめた。

 

「初めて、名前を知りました」

「母親は話さなかったんだったな」

「はい。一度も」

「それと……義母どの、とあるな」

「はい」

 

 フィーネの声が、わずかに揺れた。

 

「祖母が、いたのですね」

「いた、じゃなく、いるかもしれん」

「……」

「十年やそこらで、村は消えん。ガレス」

 

 扉の横から、何食わぬ顔で返事が来る。

 

「はい」

「いたのか」

「お茶の替えをお持ちしました」

「絶対嘘だな」

「ハルネ村、照会いたします」

「ほら見ろ」

「明朝までに」

「早いな」

「必要ですので」

 

 ガレスは一礼して下がった。

 あの執事は、たぶん廊下で全部聞いていた。

 もう驚かない。

 

 フィーネは覚書を閉じ、両手をその上に置いた。

 

 机の上には、今日の四つが並んでいる。

 銀の髪留めは、彼女の髪の上だ。

 まだ、少し斜めのまま。

 

「殿下」

「何だ」

「今日は、ありがとうございました」

「何もしてない」

「はい」

 

 フィーネは頷いた。

 

「何もせず、隣にいてくださいました」

「……難しい注文だったぞ」

「存じています」

「二度目から上手くやれる気もしない」

「上手くなくて結構です」

 

 彼女は、ほんの少しだけ笑った。

 

「いてくだされば」

 

 重い。

 だが、もう言わなかった。

 今日くらいは、重さの勝ちでいい。

 

 俺は机の上の箱を見た。

 

 身分も、金も、教育も、名前も、俺はフィーネに与えてきた。

 だが、今日のあれは違う。

 

 父親が遺し、母親が添え、老いた友人が床下で守り抜いたものだ。

 俺が与えたものは、何一つない。

 俺がやったのは、取りに行く足を出して、隣に立っていたことだけだ。

 

 それでいいのだと、今日初めて思った。

 

 縛らず、与える。

 なら、泣ける場所は、与えるものですらない。

 ただ、隣に在ればいい。

 

「フィーネ」

「はい」

「明日は休め」

「殿下」

「ミアと約束しただろ。いっぱい寝ると」

「……明日、ですか」

「ハルネ村は逃げん。馬車で半日だ。寝てから行け」

「では、明後日」

「交渉か」

「はい」

「……明後日だ」

「ありがとうございます」

 

 即答で取られた。

 最初からそのつもりだったな、この女。

 

 窓の外には、夜の皇都が広がっている。

 その向こう、馬車で半日の場所に、まだ見ぬ小さな村がある。

 

 母の故郷。

 ハルネ村。

 話されなかった昔と、会ったことのない祖母と、消された旧姓の答えが、たぶんそこにある。

 

 フィーネの髪の上で、銀の髪留めが灯りを受けて鈍く光った。

 

 次は、母の故郷だ。

 

 灰銀の髪が、どこから来たのか。

 それを、取りに行く。

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