1945年、ベルリンにまで攻め入られたドイツ軍のティーガーIは、度重なる戦闘で満身創痍になりながらも、最期の抵抗を行う。

※史実ベースのミリタリーフィクションです

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 千九百四十五年四月二十五日。ベルリンの街は、もはや地図上の名称でしかなかった。空を覆い尽くす黒煙は、昼なお暗く、街路のあちこちで噴き上がる火災の赤光が、幽霊のように瓦礫の山を照らしている。風が吹くたびに、焼けた肉の臭いと、石灰の粉塵が混ざり合った不快な空気が、ティーガーIの車内へと流れ込む。

 

 車長のエーリヒは、被弾して歪んだハッチを数センチメートルだけ押し上げ、外部視察鏡に目を凝らしていた。視覚に入るのは、かつては豪華なアパートだったはずのレンガの山だ。その隙間から、泥にまみれたソ連軍の歩兵たちが、蟻のように這い出してくる。

 

「ハンス、微速前進だ。瓦礫の山を右に見て、ヴィルヘルム通りへ出るぞ」

 

「了解...。でも車長、トランスミッションが悲鳴を上げてます。ギアを変えるたびに、折れそうな音がする」

 

 操縦手のハンスは、重いレバーを両手で握り締め、全身の体重をかけてクラッチを踏み込んでいた。五十トンを超える鋼鉄の巨体が、ガリガリと石畳を削りながら動き出す。

 

「目標、前方二百五十!T-34が二両、建物の影から出てきた!止まれッ!」

 

 エーリヒの鋭い叫びと同時に、四人が衝撃に備え、ハンスがブレーキを叩きつける。車体が前後に大きく揺れ、死んだ無線手がずり落ち、砲手のカールが照準器に顔を埋めた。

 

「カール、右の奴だ!燃料タンクを狙え!」

 

「...やってやる!黙ってろ!」

 

 カールは旋回ハンドルを狂ったように回した。油圧モーターがキーンという高音を上げ、八十八ミリ砲の長い砲身がゆっくりと獲物を捉える。

 

「撃てッ!」

 

 カールが発射ペダルを踏み抜いた瞬間、ティーガーの巨体が後方へとのけぞった。マズルブレーキから両側に噴き出した閃光が視界を白く染め、凄まじい衝撃波が石畳の粉塵を円形に吹き飛ばす。

 

 放たれたPzgr.39徹甲弾は、音速を大きく超える速度で大気を切り裂き、T-34の車体側面に接触した。鋼鉄と鋼鉄が衝突した刹那、莫大な運動エネルギーは強烈な熱へと変換され、装甲表面を真っ赤に融解しながら火花を撒き散らす。弾頭は鈍い音を立てて己を砕きながら、四十五ミリメートルの装甲板を食い破り、内部へと侵入した。瞬間、車内へ飛び込んだ砲弾の遅延信管が作動し、炸薬が爆発する。

 

 T-34の狭い戦闘室は一瞬にして数千度の炎と、超高速で飛び散る装甲破片の地獄と化した。燃料タンクが衝撃で裂け、噴出した軽油に引火する。外から見ていると、敵戦車のあらゆる隙間からオレンジ色の炎が噴き出し、一拍置いてから、数トンの重さがある砲塔が弾薬庫の誘爆によって基部から引き千切られ、空高くへ突き上げられた。

 

「次だ、左の奴!砲身を向けさせてるぞ!」

 

「待て、ヨハンがまだだ!」

 

 装填手のヨハンは、足元のラックから二十キログラム近い砲弾を必死に引き抜いていた。汗で手が滑り、真鍮の薬莢が冷たく光る。

 

「...装填完了ッ!ぶち込め!」

 

 二発目の咆哮。ティーガーの放った一撃は、二両目のT-34の防盾を真っ向から貫いた。だが、勝利の歓喜はない。

 

「カール、後ろだ!五時方向の二階から対戦車ライフルだ!」

「ハンス、全速後退!建物の中へ突っ込め!」

 

 ハンスがギアを叩き込み、アクセルを底まで踏み抜く。ティーガーが黒煙を吹き上げながら後退し、一瞬前までいた場所に、無数の機銃弾と対戦車弾が雨あられと降り注いだ。彼らは、ただ生き残るために戦っているわけではなかった。軍司令部からの命令は簡潔だ。シュプレー川にかかるアドラー橋を、敵の手に渡すな。爆破準備が整うまで、一両でも多くの敵を引きつけ、時間を稼げ。つまるところ、それは殆ど確実な死を意味していた。

 

「ハンス、路地を抜けろ。広い通りに出ると狙い撃ちされる。建物を壊しながら進め」

 

「無茶ですよ...。履帯がいつ切れてもおかしくない」

 

「切れたらそこが俺たちの墓場だ。動けるうちに、一両でも多く道連れにするぞ」

 

 ティーガーは、崩れかけのカフェの壁を体当たりで粉砕し、裏通りへと躍り出た。車内にはレンガの粉と埃が舞い、カールの照準器を白く濁らせる。ティーガーは路地裏を抜けて、アドラー橋へと続く大通りに出た。そこには、獲物を求めて進軍するソ連軍の戦車中隊が、無防備に側面を晒して並んでいる。

 

「今だ、カール!撃ちまくれッ!」

 

 エーリヒの合図で、八十八ミリ砲が吠え続ける。一両、また一両と、T-34が火だるまになって進路を塞ぐ。敵はパニックに陥り、狭い通りで互いに衝突しながら砲身を振り回していた。

 

 無防備な敵車両を撃破した後、ようやくアドラー橋のもとに到達すると、橋の向こう側では、数人の工兵たちが、震える手で爆薬の結線を急いでいる。

 

「車長、橋の上にT-34の増援が...五両、いやもっと多い!橋を渡らせたら終わりだ!」

 

「ハンス、橋の真ん中まで行け。そこで止まるんだ。俺たちが盾になる。橋の上で一両でも立ち往生させれば、奴らは一列に並ぶしかない。そこを片端から仕留める。工兵たちがスイッチを押すまで、一歩も引かんぞ」

 

 ティーガーは、石造りの橋の中央へと、あえてその巨体を晒して進み出た。距離百五十。敵の先頭車両が、ティーガーの姿を捉えて砲塔を回し始める。

 

「徹甲弾装填完了!撃てッ!」

 

 カールが発射ペダルを叩いた。放たれた弾丸は、敵の正面装甲で跳ねることなく、鋼をバターのように切り裂いて内部のトランスミッションを粉砕した。先頭車は激しい衝撃で急停止し、後続の進路を物理的に塞ぐ壁となる。

 

「次だ!最後尾だ!」

 

 ヨハンが、皮の剥けた手で砲弾を詰め込み続ける。

 

「クソが、装填完了!撃てッ!」

 

 橋の後方にいたT-34が、逃げ場を失って立ち往生したところを、ティーガーの追撃が貫く。橋の上は、燃え盛る鉄の塊と、逃げ惑う歩兵たちの阿鼻叫喚で満たされている。

 

 後方から、爆破準備が整った事を示す信号弾が発射される。

 

「よし、ハンス!全力でバックだ!橋が落ちる前に渡り切れ!」

 

 ハンスがアクセルを床まで踏み込む。だが、ティーガーのエンジンが、嫌な音を立てて咳き込んだ。

 

「くそっ、止まるな!動け動きやがれッ!」

 

 ハンスは狂ったようにレバーを揺さぶった。周囲では、ソ連軍の歩兵たちが橋を渡ろうと、ティーガーの車体に直接よじ登ってくる。ガキン、ガキン、という、ハッチをハンマーで叩く音が響く。

 

「...動いたッ!」

 

 エンジンが再び咆哮を上げ、ティーガーは崩れゆく橋の破片を跳ね飛ばしながら、間一髪で対岸へと這い上がった。直後、凄まじい爆音と共に、アドラー橋がシュプレー川へと崩れ落ちた。水柱が立ち上がり、追いすがろうとした敵の戦車群が、運河の底へと消えていく。ハインツたちは対岸の、袋小路のような広場まで後退し、一旦停止した。

 

「...やった。橋は落としたぞ」

 

 ハンスがシートに深く背中を預け、荒い呼吸を整える。だが、地響きがする。自分たちの背後、あるいは側面。瓦礫を押し潰し、建物をなぎ倒しながら近づいてくる、異様なほど重い振動だ。

 

「...ハンス、ギアを入れろ。何かが来る」

 

 エーリヒが視察鏡を横に向けると、そこには信じられない光景があった。三百メートルほど離れた建物の壁を、紙細工のように突き破って、巨大な鉄の塊が姿を現したのだ。それは、別のルートから浅瀬を強行渡河したか、あるいは隣の地区を蹂躙しながら回り込んできた、ソ連軍の最新鋭重戦車、IS-2だった。

 

「...化け物が来やがった。橋を落としたって、奴らには関係ねえってか」

 

 ハンスが絶望的に呟いた。百二十二ミリメートルという、ティーガーの装甲をどこからでも粉砕しかねない巨大な砲身が、ゆっくりとこちらを向く。

 

「弾は...弾はあと何発ある!」

 

「...最後の一発だよ。これが、本当の最後だクソッタレ」

 

 ヨハンが、血に濡れた手で最後の一発を装填した。車内には、重苦しい沈黙が流れる。距離、わずか五十メートル。逃げ場のない広場で、二頭の怪物が真っ向から向き合った。

 

「カール、狙え。砲身だ!あいつの鼻っ面を叩き折ってやれ!」

 

 IS-2の百二十二ミリ砲が火を噴くのと、ティーガーの八十八ミリ砲が吠えるのは、殆ど同時だった。敵の百二十二ミリ弾が、ティーガーの砲塔上面を掠める。直撃は免れたものの、あまりの衝撃に装甲の裏側が剥離し、超高速の鉄片が車内を跳ね回った。ヨハンの肩を破片が裂き、悲鳴が上がる。

 

 一方で、カールの放った最後の一撃は、吸い込まれるようにIS-2の砲身の付け根、駐退機の隙間に突き刺さった。八十八ミリの砲弾は凄まじいエネルギーを保ったまま、敵の鋳造防盾に食らいつき、砲身を支えるトラニオンを粉砕した。金属が砕け散る絶叫のような音が響き、IS-2の巨大な砲身が、根元から無残にひしゃげて地面を向く。

 

「弾はもうない!ハンス、突っ込め!ぶつけろッ!」

 

 エーリヒの狂ったような命令に、ハンスは躊躇わなかった。

 

「うおおおおおおおおッ!」

 

 ハンスが叫び、アクセルペダルを床が抜けるほど踏み込む。ティーガーのエンジン、マイバッハHL230が、断末魔のような唸りを上げて爆発的な回転を始めた。排気管からどす黒い煙が噴き出し、ボロボロになった履帯が石畳を猛烈な勢いで掻きむしる。ティーガーは、もはや戦車ではなく、五十トンの質量を持ったただの鉄の弾丸と化していた。IS-2側も、砲身を破壊された衝撃を即座に立て直し、こちらを押し潰さんと加速を始めた。

 

 あちらも四十トンを超える怪力だ。数秒。その短い間、エーリヒの視界には、自分たちを殺しに来るIS-2の巨大な防盾と、ひしゃげた砲身がどんどん大きく迫ってくるのが見えた。恐怖が段々と大きくなっていく。

 

 ドォォォォンッ!!

 

 激突の瞬間、車内の時間は止まった。エーリヒの頭はハッチの縁に叩きつけられ、カールの体は照準器に顔を埋めたまま左へ投げ出された。金属と金属が、それぞれの慣性をすべてぶつけ合った衝撃。ティーガーの正面装甲と、IS-2の傾斜装甲が激しく噛み合い、火花というよりは、真っ赤な光の束が面から噴き上がる。

 

「止まるな!押せ!押し込めぇ!」

 

 エーリヒはこびり付いた血を吐き捨てながら怒鳴った。ハンスはもはや人間ではなかった。彼の筋肉はレバーと一体化し、足はエンジンそのものになっていた。ティーガーのエンジンが、許容回転数を超えてギャリギャリと不快な金属音を撒き散らす。

 

「押してる...!押してやる!」

 

 ハンスが喉を枯らして叫ぶ。ティーガーの履帯が空転し、石畳を削って火花を散らす。IS-2も負けてはいない。あちらのディーゼルエンジンも真っ黒な煙を噴き出し、強大なトルクでティーガーを押し返そうとする。

 

 ギギギギギギィィィッ...!

 

 車内には、装甲板が歪み、引き千切られるような音が響き渡る。ティーガーの車体が、IS-2の傾斜した正面装甲に乗り上げようとして、前部が浮き上がる。五十トンの鉄塊が、相手の車体を力任せに圧し折ろうとする、野蛮な力比べだ。ティーガーのフェンダーがひしゃげ、予備履帯が火花と共に弾け飛ぶ。IS-2の履帯も、ティーガーの強引な押し込みに耐えきれず、ガッ、という衝撃と共に一つ、また一つとピンが折れていく。互いの鋼鉄が、もはや個別の物体であることを拒むように、激しく削り合い、めり込んでいく。ティーガーの転輪が悲鳴を上げ、サスペンションが限界まで圧縮される。

 

「ヨハン、何か持て!衝撃から何でもいいから固定しろ!」

 

 エーリヒは叫ぶが、車内はもはやパニックだ。突撃の勢いで、予備の空薬莢や工具箱が車内を飛び交い、男たちの体を容赦なく打ち据えていた。ティーガーのマイバッハ・エンジンから、ついに白い蒸気が噴き出し始める。冷却系が限界を超えたのだ。だが、ハンスはアクセルを離さない。

 

「あと少しだ...あと少しで、こいつをひっくり返せる...!」

 

 ハンスの言葉通り、ティーガーの執念がIS-2の姿勢を崩し始めていた。IS-2の右側の履帯が地面から浮き、車体が大きく傾く。鋼鉄同士がこすれ合う音は、もはや耳を塞ぎたくなるような高周波の絶叫へと変わっていた。その時だ。空から、これまでの戦場音をすべて掻き消すような、禍々しい風切り音が降ってきた。それは、地上の戦車兵たちの執念など知ったことかと言わんばかりの、死の宣告だった。

 

「爆撃だ!伏せろッ!」

 

ドォォォォンッ!!

 

 巨大な爆弾が、IS-2のすぐ傍らに着弾した。その爆圧は、隣り合っていたティーガーをも容赦なくなぎ倒した。IS-2は爆発の衝撃で、傾いていた車体を完全にひっくり返され、鉄の亀のように無様に転がった。ティーガーもまた、横倒しになって瓦礫の中に埋まった。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。煤と血にまみれたエーリヒが、歪んだハッチの隙間から這い出してきた。彼の横には、同じように傷だらけのハンスがいる。カールとヨハンはもう動かない。エーリヒは、震える手でポケットを探った。クシャクシャになった煙草の箱と、安物のライターが出てきた。

 

「ハンス、生きてるか」

 

「...ああ。なんとか」

 

 ハンスは、横倒しになったティーガーの転輪に背中を預け、真っ赤に染まった空を見上げた。街のあちこちから、なおも爆発音が聞こえてくる。だが、彼らの周りだけは、奇妙なほど静かだった。エーリヒは一本の煙草を口にくわえ、火をつけた。紫煙が、焦げ臭いベルリンの空へと吸い込まれていく。彼はそれを一口吸うと、隣のハンスの口に、そっと煙草を差し出した。

 

「最後の一服だ。...いい、戦いだったな」

 

「ああ、最高だった。でも、もう、走らなくていいんですね」

 

 二人の男は、崩れ落ちたティーガーの骸のそばで、静かに煙草を燻らせていた。その背後で、ベルリンの街がゆっくりと闇に溶けていく。猛獣と呼ばれた戦車の、これが最期の記録となった。


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