機動戦士ガンダム ムラサメ研究所、廃棄区画(アビス)より愛をこめて 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
結局のところ、世界は巨大なシステムに過ぎない。
だが、そのシステムが致命的なエラーを吐き出すとき、人はそれを「奇跡」と呼んで崇めるか、あるいは「恐怖」と名付けて排除しようとする。
宇宙世紀0080年、初頭。
一年戦争の終結という名の「システムの再起動」が地球圏を覆う中、私はジオンから亡命した一人の男を、極東の秘密基地にて迎えていた。
クルスト・モーゼス。
フラナガン機関で私と共に深淵を覗き込み、その深淵が瞬きを返したことに耐えきれなくなった臆病な天才。彼が連邦への手土産として持ち込んだのは、EXAMシステムという名の、ニュータイプを抹殺するためのOS……。いや、正しく言えば、一人の少女の精神を閉じ込めた「鉄の檻」だった。
「……ムラサメ。私は、見てしまったんだ。あのマリオンという少女の、果てしない意識の拡張を」
私の前に立つクルストは、フラナガンの下にいた時よりもさらに酷い有様だった。
顔色は土気色を通り越して死人のようで、その指先は常に細かく震えている。彼は、自分が連れ出してきた「マリオンの写し身」という情報の質量に、文字通り圧殺されかけていた。
私は彼を保護している連邦軍の軍人たちを背後で一瞥する。
護衛任務に就いているのは、後に「不死身の第4小隊」と呼ばれることになる若者たち……その一人、アルファ・A・ベイトが、露骨に不愉快そうな視線をこちらに向けていた。
「おい、博士。その爺さん、さっきから訳のわからねえことばかり喚いてるぜ。本当に『ジオンの化け物』に対抗できる代物を持ってるのかよ」
ベイトの言葉は、当時の連邦軍人の多くが抱いていた共通の「劣等感」を代弁していた。
ジオンのニュータイプという、理解不能で、それゆえに圧倒的な恐怖。彼らはそれを打ち砕くための「理屈」に飢えていた。だが、目の前のクルストが吐き出すのは、それ以上の狂気でしかない。
私はベイトの視線を受け流し、クルストに問いかけた。
「クルスト君。君の言う恐怖を、私はロジックで肯定しよう。……だが、このEXAMというシステム、あまりに不安定(アンステイブル)だ。マリオン・ウェルチという特定の個体波形に依存しすぎている。これでは国有資産としての汎用性に欠ける」
クルストは、懐から大切そうに一本のデータチップ……「マリオンの写し身」を取り出した。
「これだ……。これがあれば、常人の脳を無理やりニュータイプへと同期させることができる。……しかし、副作用が強すぎる。被検者の脳が、システムに焼き切られてしまうんだ。ムラサメ、君の『沈殿』の理屈なら、この炎を制御できるのか?」
私は彼の震える手からチップを奪い取るように受け取った。
なるほど。
クルストのレシピは、相変わらず「加熱」の一点張りだ。
メタンフェタミンによる強制覚醒。シナプスを過電流で焼き、LSDによって認識の境界線を溶かす。そこへ無理やりマリオンの脳波を流し込めば、肉体というハードウェアがショートするのは自明の理だ。
「加熱しすぎるから壊れるのだよ、クルスト君。君に必要なのは、火を強めることではなく、器の中身を『空』にすることだ」
私は自室の棚から、精製されたばかりの薬剤アンプルを取り出した。
クロルプロマジン。
以前彼に与えたものより、さらに高純度な「感情の漂白剤」。
これをベースに、私はEXAM運用のための新しいプロトコルを脳内で組み立てる。
連邦軍は、ジオンのニュータイプを「人の革新」とは認めない。ならば、我々が作るべきは、革新した人間ではない。
システムに従順で、過去を持たず、恐怖というバグさえも排除された「高精度な部品」だ。
「ベイト少尉。君たちはニュータイプを恐れている。だが、この男が持ってきたのは、その恐怖を『国有化』するための種火だ」
私は、データチップを見つめるベイトに告げた。
「君たちが守るべきは、この狂った老人ではない。この男が持ち込んだ『レシピ』と、それを受け入れるための『器』だ。……もうすぐ、連邦全土から身寄りのない孤児たちがここに集められる。彼らは、名前を捨て、記憶を沈殿させ、このEXAMという神の言葉を受け入れるための、清廉な空洞になってもらう」
ベイトが唾を飲み込む音が聞こえた。
彼のような実戦主義者にとって、私の言葉は理解の範疇を超えていたかもしれない。だが、ジャミトフやバスクといった、連邦軍の深部で蠢く「システムの管理者」たちは、私のこの冷徹なロジックをこそ待ち望んでいるはずだ。
私はクルストを、専用の調整槽へと案内した。
そこには、マリオンのデータを移植するための初期型サイコミュ・リンクが口を開けて待っている。
「クルスト君。君の恐怖を、私が連邦の秩序(オーダー)に変えてあげよう。君はもう、マリオンの幻影に怯える必要はない。……これからは、我々がその幻影を飼いならし、量産する側になるのだから」
私はチップを読み取り機に装填した。
モニターに映し出されたマリオン・ウェルチの脳波形が、激しいスパイクを描き出す。それは、一人の少女の魂がデジタルという名の檻の中でもがき、叫んでいるような、凄惨なノイズだった。
だが、私にとってそれは、完璧な兵器OSを精製するための「生アヘン」に過ぎない。
「……被検体受入準備、開始」
秘密日誌にそう記し、私は研究所の冷たいコンクリート壁を見上げた。
外では、敗戦したジオンの残党たちが報復を誓い、連邦の官僚たちが利権を貪っている。
その喧騒から隔絶されたこの山奥で、私は「人間」という不純物を薬理で濾過し、国家というシステムに奉仕する「純粋な力」へと変貌させるための、本格的なワークに着手したのである。
クルストが隠し持っていた「マリオンの写し身」。
それが私のレシピと出会った瞬間、宇宙世紀は、誰も望まない「改め」の歴史へと足を踏み出したのだ。