機動戦士ガンダム ムラサメ研究所、廃棄区画(アビス)より愛をこめて 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
結局のところ、世界は巨大なシステムに過ぎない。
だが、そのシステムを記述していた膨大なコードの末尾に、私は唯一、予測不可能な「空白」を書き残していたのかもしれない。
宇宙世紀0085年。ムラサメ研究所、跡地。
かつて山を削り、巨大なコンクリートの要塞が鎮座していた場所には今、爆撃によるクレーターと、焼け焦げた土の匂いだけが残っている。
ティターンズが公式記録から抹消し、重爆撃機が物理的に焼き払った「聖域」。
そこには、私の肉体も、狂気も、精製した薬理のレシピも、すべてが平等に炭化して沈殿している。
これは、国有化された記憶を捨て、システムの外側へと踏み出した「名もなき命」の記録である。
「……ここが、出口」
一人の少女が、瓦礫の隙間から這い出していた。
彼女の頬には煤がこびりつき、服は裂け、腕にはかつて私たちが「数字」を刻み込もうとした処置の跡が、薄い痣のように残っている。
だが、その瞳に、かつての空虚な「部品」の面影はない。
薬理によって強制的に濾過されていた彼女の視界には今、爆煙が去った後の、ありふれた、そして残酷なまでに美しい夜明けのグラデーションが映っていた。
彼女は、振り返らなかった。
その地下には、私が薬理で作り上げた「死なないロジック」の檻の中で、今なお残留思念となって咆哮する仲間たちがいる。
だが、彼女の足は、迷うことなく湿った土を蹴り、山を下り始めていた。
私の死とともに、ムラサメ・フォーミュラの供給は途絶えた。
これから彼女を待つのは、知覚拡張剤による万能感でも、感情沈殿剤による安寧でもない。
剥き出しの現実がもたらす痛みと、制御不能な「自分」というバグに振り回される日々だ。
国有化という名の保護を失い、一人の人間として野に放たれる恐怖。
皮肉なことに、それは私がフラナガン機関で否定した、あの「不自由な自由」そのものだった。
数時間後。彼女は、山麓にある小さな無人駅のホームに立っていた。
錆びついたベンチ。朝露に濡れたレール。
そこには、ティターンズの監視も、強化人間の規格(スペック)を値踏みする研究者の視線もない。
ただ、始発列車の到着を告げる、機械的なアナウンスだけが響いている。
「……つぎは、……」
少女は、ポケットに残っていた、わずかな硬貨を券売機に投じた。
それがどこへ向かうチケットなのか、彼女は知らない。
行先など、どこでもよかった。
「ムラサメ」という姓を捨て、特定の機体の「部品」であることを拒絶した彼女にとって、この世界のすべてが、初めて開かれた「深淵の門」だった。
自動改札を抜ける直前、彼女は足を止めた。
窓ガラスに映る、自分の顔を見つめる。
その顔は、私の調整によって完成された「傑作」の美しさではなく、ただの、年相応に疲れ果てた少女の顔だった。
彼女は、乾いた唇を小さく動かした。
「……わたしの、なまえ」
それは、研究所の地下で、薬剤によって脳の底に沈殿させられていた記憶。
私が「不純物」として漂白しようとした、彼女の原風景。
数字ではない、誰に国有化されることもない、彼女だけの固有の響き。
彼女はその名前を、自分自身に確認するように、一度だけ小さく呟いた。
「…………」
その名は、列車の入線音にかき消されて、私の耳に届くことはなかった。
だが、それでいい。
私の理論が、私の科学が、最後まで解明できなかったその「空白」こそが、彼女が人間であることの証明なのだから。
列車が動き出す。
窓の外には、朝日を浴びた緑の山々が流れていく。
彼女は、座席に深く身を沈め、ゆっくりと目を閉じた。
薬理的な覚醒ではない。
ただの、心地よい、深い眠りが彼女を包み込む。
そのゲートの先にある世界が、どれほど冷酷なものであろうとも。
彼女はもう、誰の所有物でもない。
宇宙世紀の片隅で、一つの「聖域」が完全に消滅した。
後に残されたのは、改札を抜けて消えていった少女の、微かな体温の残り香だけだ。
国有化の終焉。
そして、名もなき人生の、始まり。
(完)