機動戦士ガンダム ムラサメ研究所、廃棄区画(アビス)より愛をこめて 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
結局のところ、世界は巨大なシステムに過ぎない。
そして、そのシステムが円滑に駆動するためには、摩擦係数を限りなくゼロに近づける必要がある。人間という不確定要素が持ち込む「過去」や「記憶」という名のノイズを、いかにして無害な沈殿物へと変えるか。それが私の研究の真髄だ。
宇宙世紀0082年。ムラサメ研究所の地下、第4精製室。
私の目の前では、調整槽の中で緩やかに肢体を揺らす被検体たちが、記憶の濾過工程(フィルタリング)にかけられていた。
「パプテマス・シロッコ……。木星帰りの天才と謳われる男が、後に提唱するであろう『プレッシャー』という概念。ふん、笑わせる。彼らが霊的な力やニュータイプの威圧感と呼んでいるものの正体など、脳内物質の挙動一つで説明がつく。それは単なる、他者の殺意や意志を感受した際の、扁桃体の過剰反応に過ぎない」
私は独り言を吐き捨てながら、コンソールのスライダーを操作した。
シリンジから注入されるのは、第三層:クロルプロマジン。
1952年、精神医学界に革命をもたらしたこの薬薬は、ドーパミン受容体を物理的に塞ぐことで、過剰な自我を沈静化させる。だが、私の精製したムラサメ・フォーミュラは、そのさらに先を行く。
「いいかい、ドゥー。君たちが時折感じる『誰かに見られているような不快感』や『戦場での威圧感』。それをプレッシャーと呼んで怯える必要はない。それは君の脳が、まだ外界に対して無防備な自意識(バグ)を晒している証拠だ。だから、私はその入り口を塞いであげる」
モニターには、ドゥーの脳内におけるシナプス伝達のシミュレーションが表示されている。
記憶というものは、タンパク質の合成と電気信号のパターンとして脳の海馬や大脳皮質に刻まれる。私は、彼女の「名前」や「家族の温もり」といった特定の想起パターンを特定し、そこに選択的に薬理的負荷をかける。
「記憶の濾過とは、忘却ではない。それは『重質化』だ。感情と結びついた記憶を、思考の表層から脳の底へと沈殿させ、二度と浮上してこない重石に変えるプロセスだ。愛着も、憎しみも、恐怖も、すべてをこのクロルプロマジンで漂白し、ただの『記録データ』として処理させる」
この工程を経ることで、被検体は外界からの精神的干渉――いわゆるプレッシャーに対して、完全な耐性を得る。
なぜなら、彼らの中にはもはや、他者の意志に共鳴して「揺らぐ」ための自己が存在しないからだ。
シロッコがカリスマ性や意志の強さで他者を圧倒しようとしても、私の作った部品たちは、それを単なる「空気の振動」や「微弱な電磁波」としてしか認識しない。
「……せん、せい。……なにも、思い出せません。……お母さんの、顔も。……私が、誰だったかも……」
調整槽のスピーカーから、ドゥーの掠れた声が漏れる。
その声には、悲しみすら混じっていない。ただ、出力される信号としての報告。
「それでいい。思い出せないのではない。それは、君というシステムを最適化するために、不要なファイルをアーカイブへ移動させただけだ。君は今、最も純粋な『空虚』を手に入れた。その空虚こそが、サイコミュという名の神の声を歪みなく受け入れるための、最高の受信盤となる」
私は、彼女の脳波計が完璧な平坦(フラット)に近い安定を見せているのを確認し、満足感に浸った。
ジオンの連中は、ニュータイプを「理解し合える人類」などと呼んだ。
愚かな。
理解とは、互いの境界線を曖昧にする危険な行為だ。
私が提唱するのは「国有化」だ。
国民の脳を、国家の意志という管理OSの下に統合し、一切の個人的なノイズを排除する。そのとき、人類は初めて迷いから解放され、完璧な調和――あるいは、完璧な兵器へと進化する。
「プレッシャーの正体は、脳のバグだ。そして、私はそのバグを修正した。……ナカムラ博士、君のところのゲーツ・キャパには、この境地はまだ早いだろうな」
私はオーガスタ研究所へ送る予定のレポートに、以下の定義を書き加えた。
「強化薬理における沈殿の理屈:自己意識の重質化による、外部精神干渉の完全無効化。被検体は、他者の意志を『プレッシャー』としてではなく、単なる『事象』として観測する能力を得る」
日誌を閉じると、部屋の換気システムが薬剤の混じった空気を吸い込んでいった。
記憶を濾過され、空っぽになった少女たちの脳。
そこにはもう、人間らしい光は宿っていない。
だが、その暗闇の中にこそ、連邦が求める「不落の盾」が完成しつつあった。
不純物はすべて沈殿した。
あとは、この空虚な器に、どのような「性能」を流し込むか。
私の知的好奇心は、次なる素材――数字の「4」を与えられる予定の、最も高い感応能力を持つ少女へと向かっていた。
「記憶の濾過、完了。……世界を透明にするための、沈殿の理屈は証明された」
私は冷たい廊下を、革靴の音を響かせて歩き出す。
背後では、ドゥー・ムラサメが、自分がかつて何者であったかさえ知らないまま、ただ次の命令を待つ精密な部品として、静かに呼吸を続けていた。