地味で可愛げがないから、婚約破棄?

「わかりましたわ、フレデリック殿下。では私は、王太子妃候補としての仕事からも手を引かせていただきます」

侯爵令嬢クラリエッタに切り捨てられたその日から、王宮は少しずつ狂い始める。
招待状は乱れ、席次は崩れ、茶会はぎこちなく綻んでいく。

――王太子は、まともな招待状ひとつ出せなかった。

彼女が担っていたのは、ただの補佐ではない。
王宮の社交と体面、そのものだったのだ。

そして、そんな彼女の価値を最初から見抜いていた第二王子ロレンツが、静かに手を差し伸べる。

婚約破棄された侯爵令嬢の、実務ざまぁと再評価の物語。

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王太子妃候補を辞めたら、殿下は招待状ひとつ出せないようです

「クラリエッタ・アルレイン。そなたとの婚約を解消する」

 

薄く唇を吊り上げ、フレデリック王太子殿下は言い放った。

天井から降りそそぐシャンデリアの光が、彼の鮮やかな金髪をまばゆく照らしている。

王宮の大広間を満たしていたざわめきは、一瞬だけ凍りつき――すぐに押し殺した息と囁きに変わった。

 

(……ここで取り乱すわけにはいかない)

 

王太子妃候補として、公の場で感情を見せぬよう叩き込まれてきた。

 

「理由を、お伺いしても?」

 

できるだけ静かに問うと、彼は待っていましたとばかりに顎を上げた。

 

「君は地味だ。愛想もなければ可愛げもない。私の隣に立つ者には、もっと人に愛される柔らかさが必要だ」

 

周囲の令嬢たちのあいだから、小さな吐息まじりの笑いがもれた。

 

「ヴィオラ。こちらへ」

 

フレデリックの隣まで進み出たのは、薄紫色のドレスをまとったヴィオラ・エウレット伯爵令嬢だった。

蜂蜜色の髪を揺らし、彼女は少し困ったように眉を下げている。

けれど、淡い翡翠の瞳の奥に宿る期待を、私は見逃さなかった。

 

「紹介しよう。新しい王太子妃候補だ。ヴィオラは君と違い、いつも明るく優しい。場を和ませ、皆に好かれる。彼女こそ、この国の王太子妃に――私に相応しい」

 

そう言って、フレデリックはヴィオラの手を取った。

彼女ははっとしたように目を見開き、頬を赤らめて俯く。

 

「そ、そんな……わたくし、恐れ多うございます……」

 

その仕草の完成度の高さに、私は妙なところで感心してしまいそうになった。

 

(なるほど……今夜のために、ずいぶん丁寧に整えてきたのね)

 

先ほど言われた言葉が、頭のなかで繰り返される。

地味。愛想がない。可愛げもない。

ヴィオラのような柔らかさもなく、灰がかった薄茶の髪はいっそう私を地味に見せる。

 

深い紺のドレスだって、王太子妃候補としてはふさわしい装いのはずなのに、積み重ねてきた努力まで一緒に切り捨てられた気がして――足元が揺らいだ。

 

それでも、ここで崩れるわけにはいかなかった。

私は息を整え、唇の端にかすかな笑みを浮かべた。

 

「承知いたしましたわ、殿下」

 

まさか素直に受け入れられるとは思わなかったのか、フレデリックがわずかに目を瞬かせる。

私はそのまま続けた。

 

「婚約解消に異議はございません。ただ――」

 

深く息を吸う。

 

「王太子妃候補として私が担っておりました諸調整につきましても、本日をもって手を引かせていただきます」

 

「……諸調整?」

 

フレデリックが眉をひそめる。

 

「たとえば、茶会や夜会の招待状の文面確認、送付先の優先順位、席次案の整理、各家への返礼の選定――そのあたりですわ」

 

言葉を重ねるごとに、近くにいた侍女の肩がぴくりと揺れた。

文官の一人は、露骨に目をそらした。

フレデリックの青い瞳に、ひどく不愉快そうな色がにじんだ。

 

「そんなもの、君でなくとも回るだろう」

 

「ええ、もちろんですわ。殿下がそのようにお考えなら、なにも問題はございません」

 

一瞬、沈黙が落ちた。

すぐにヴィオラが慌てたように口を挟む。

 

「ク、クラリエッタ様。そんな言いかた……まるで、殿下がお困りになるみたいではありませんか」

 

「まさか」

 

私はヴィオラに視線を向けた。

 

「皆さまに愛されるおかたが、新しくおそばにいらっしゃるんですもの。きっと、いままで以上にうまくまわりますわ」

 

周囲の何人かが、気まずそうに視線を交わした。

その様子にフレデリックも、この場が想定していたほど自分に都合よく進んでいないことに、ようやく気がついたらしい。

声音にわずかな苛立ちが混じる。

 

「負け惜しみはよせ、クラリエッタ。君はもともと、少し働きすぎるきらいがあった。余計なことまで抱え込んで、自分だけが役に立っているような顔をするのは……感心しないな」

 

その言葉に、なにかがすっと醒めた。

 

「――失礼いたしました」

 

私は一礼した。

 

「では、その()()()()()も含め、今後は一切なにもいたしません。どうぞお幸せに」

 

そう短く言い終えて下がろうとした――その時だった。

会場の端で、誰かが息を呑んだ。

 

そっと顔を向けると……こちらを見ていたロレンツ第二王子殿下と目が合った。

亜麻色の髪の下、いつもどおり静かな表情。ただ、灰色の瞳だけが鋭く冴えていた。

 

(……気づいたのかしら。私が口にした言葉の、『本当の意味』に)

 

気づいたところで、なにができるわけでもない。

王太子の失態を、弟である第二王子が指摘すれば……それが正論でも、政争の火種になりかねない。

まして私は、つい先ほどまでフレデリックの婚約者だった。

 

だから、もう関係のないこと。

前に向き直り、広間の端へと歩き出す。

背後で広がるざわめきは、気にしないことにした。

 

婚約は解消された。

王太子妃候補としての役目も、今夜で終わりだ。

これ以上、ここに留まる理由はない。

 

大広間を抜ける直前、王妃付きの侍女長が、青ざめた顔で文官に何事かを囁くのが視界の端に映った。

文官もまた、血の気の引いた顔で手元の書類を見下ろしている。

 

(これなら、そう時間はかからなさそうね)

 

頭のなかは、妙に冷静だった。

 

フレデリックはじきに知ることになる。

王太子妃候補を辞めたのが誰で、困るのが誰なのかを。

 

 

 * * *

 

 

婚約解消から三日後。

王妃付きの侍女長に呼ばれ、私は王宮を訪れていた。

 

王妃宮から預かっていた儀礼書や家系図、そして私が作っていた招待客一覧の控え帳を返却するためだ。

儀礼書の類は、後ろに控えた侍女に持たせ、書き込みの多い控え帳だけは自分で抱えている。

 

婚約が解消された以上、私物ではないそれらを手元に置いておくわけにはいかない。

侍女長も、使いの者を通して、その場で内容を確かめたいと伝えてきた。

 

王妃宮へ向かう回廊は、妙に落ち着かない空気に満ちていた。

王宮の侍女たちが何通もの封筒を抱えて行き交い、そのたびに小声がすれ違う。

 

「ラドフォード公爵家にはもう、届けてしまったのに……」

「残りだけでも直して、今日中に出さないと……」

 

聞こえてきた囁きに、一瞬足を止めかけたものの、すぐに何事もない顔で歩みを進める。

侍女長の部屋の前まで来た時――やや刺々しい男の声が響いた。

 

「だから、その程度のことがなんだと言うんだ」

 

フレデリックの声だった。

扉は完全には閉まりきっておらず、隙間から部屋の様子がわずかに見えた。

机の上には、封筒と招待状らしき紙束がいくつも積まれている。

 

「殿下、その程度ではございません」

 

応じたのは侍女長だ。

普段は滅多に語気を強めない人なのに、さすがに声が張っている。

 

「今回は王妃主催の春の茶会にございます。西方の有力家をお招きし、関係をより深めるための場で、その筆頭たるラドフォード公爵家への不備は看過できません」

 

一拍置き、侍女長はさらに続けた。

 

「先に早馬で送ったラドフォード公爵家への招待状は、敬称が一段下のものになっております。これから出すベルンシュタイン侯爵家への文面も、未亡人である夫人宛ての形式になっておりません。加えて、送付順の一覧も家格順と一致しておらず――」

 

「細かすぎる」

 

フレデリックがぴしゃりと言い切る。

 

「どうせ招待することに変わりはないだろう。書き直したものを送れば済む話だ。あちらも、まさかそんな些末な違いで騒ぎはしない」

 

その言葉に、部屋の空気がぴんと張りつめたのが、扉の外にいる私にもわかった。

少し遅れて、ヴィオラの声が続く。

 

「そうですわ。招待状なんて、気持ちが伝われば十分ではありませんか? 細かなことは、侍女のかたがたにお任せしてしまえば……」

 

侍女長が息を詰める気配がした。

 

「問題は書き直しではございません。すでに誤ったものが届いております。直ちに詫びの使いを立てるべきです」

 

「必要ない」

 

フレデリックの返答は、あまりにも早かった。

 

「大げさなんだよ。たかが招待状の不備で、いちいち王家が頭を下げる必要がどこにある」

 

彼は、王妃主催の茶会を「友人同士の茶会」とでも思っているのだろうか。

ましてや王家からの招待状だなんて、どれほど特別なのかもわかっていない。

誰をどの順で招くか、どの敬称を使うか――たった一行で、相手への認識も敬意の度合いも伝わってしまう。

 

王妃宮の茶会準備は本来、侍女長と文官が担う。

それでも私は、次代の王妃教育の一環として、その最終確認に加わっていた。

毎回、一覧表と家系図を照らし合わせ、侍女や文官と何度も確認してきた。

誤字より先に、人の顔を潰さないために。

 

(……って、いつまで立ち聞きしてるのよ、私も)

 

扉を叩こうと手を伸ばす。

先に内側から扉が開き、侍女長が私に気づいた。

 

「……クラリエッタ様」

 

部屋のなかの視線が、一斉に私に集まる。

フレデリックは露骨に眉をひそめ、ヴィオラは気まずそうに目を泳がせた。

 

「失礼いたしました。お預かりしていたものを、お持ちしました」

 

私は一礼し、抱えていた控え帳を差し出す。

背後の侍女も進み出て、儀礼書や家系図を侍女長へ渡した。

侍女長はそれらを受け取りながら、ひどく複雑そうな顔をする。

 

その横で、机上の招待状が一枚、私の目に入る。

日付の表記。敬称。送付先。ざっと見ただけで、三つはまずい。

けれど、もう口を挟む立場ではない。

 

「用件はそれだけか」

 

フレデリックが不機嫌そうに問う。

私は静かに頷いた。

 

「ええ。これで失礼いたしますわ」

 

軽く一礼し、踵を返そうとした――その時だった。

廊下の向こうから慌ただしい足音が響き、血相を変えた文官が部屋の入口に現れる。

 

「殿下!」

 

返事も待たずに踏み込み、息を切らしながらフレデリックに差し出したのは、一通の書状だった。

 

「ラドフォード公爵家より使者が参っております。招待状の件で、至急お耳に入れたいと……こちらは、先に預かった文にございます」

 

侍女長がさっと顔色を変える。

フレデリックはそれを乱暴にひったくった。

数行目に目を落とした途端、その表情が目に見えて険しくなる。

 

「なんだ、これは」

 

低く押し殺した声に、文官が唇を震わせながら報告する。

 

「公爵夫人より、『王家より届いた招待状に看過できぬ不備がございましたため、今回の茶会への出席は見合わせます』と……」

 

部屋の空気が凍りついた。

ヴィオラの顔から血の気が引き、侍女長は目を閉じる。

フレデリックだけが、信じられないものを見るように書状を睨んでいた。

 

「こんな招待状ごときで……」

 

吐き捨てるようなその言葉に、侍女長は目を閉じたまま淡々と続ける。

 

「ラドフォード公爵家が欠席なされば、ほかの西方貴族も何事かと不信感を募らせましょう。そうなれば、王妃殿下の茶会そのものが軽んじられ……ひいては王家の威にも傷がつきかねません」

 

そのひと言で、フレデリックの顔色がわずかに変わった。

私は心のなかだけで首を振る。

 

招待状ひとつ。

けれど、その一通を間違えれば、損なわれるのはただの面子ではない。

王家の体面に傷がつき、王妃が築こうとしていた場にも影を落とす。

 

私はもうなにも言わず、一礼すると今度こそ部屋を出た。

背後ではなお、慌てた文官の声と、苛立ちを露わにしたフレデリックの声が重なっていた。

 

――まだ、最初のひとつにすぎない。

それでも、綻びはもう生じていた。

 

 

 * * *

 

 

それから五日後。

王妃主催の春の茶会は、予定どおり開かれることになった。

 

今回は、新しい王太子妃候補であるヴィオラの実地教育も兼ね、客迎えや席次の最終確認をフレデリックたちが担うことになったと聞いている。

 

形だけなら、おかしなことではない。

次代の王妃となる者が、王妃宮の場を学ぶのは当然だ。

場の重さを、理解しているのなら。

 

私はアルレイン侯爵家の娘として、母とともに王宮を訪れていた。

婚約が解消されたからといって、侯爵令嬢としての立場まで消えるわけではない。

むしろ、こんな時に欠席すれば、侮辱されて逃げたように見えるだけだ。

 

春の茶会らしく、夜会のときよりいくぶん明るい青のドレスに身を包み、王妃宮の東の間へ向かう。

その手前まで来たところで――会場の空気がおかしいとわかった。

 

本来なら、招かれた家々は家格と年齢、当主の有無や同伴者の顔ぶれまで踏まえて、淀みなく案内される。

誰を先に通すか、どこで一礼を挟むか、どの侍女がどの家につくかまで、すべて決まっているはずだった。

それなのに今日は、入り口で人が滞っている。

 

「お待ちくださいませ、ただいまお席を――」

「ですが、先ほどはこちらのご夫人が先に……」

 

侍女たちの声が、わずかに上ずっている。

招待客たちも、表立って不満を口にはしないものの、交わされる視線にはあきらかな苛立ちがにじんでいた。

母が扇の陰で小さく息をついた。

 

「……これは、ひどいわね」

 

私も、返す言葉がなかった。

視線だけを巡らせると、会場中央では、フレデリックが余裕を失った顔で、侍女になにか指示を飛ばしていた。

 

そこでもうひとつ、あることに気づく。

本来なら真っ先に迎えられていておかしくない、ラドフォード公爵夫人の姿が見えない。

 

(やっぱり……手紙に書いてあったとおり、欠席されたのね)

 

その重みをわかっていないのか、フレデリックの隣に立つヴィオラは、にこやかに招待客を案内していた。

 

「こちらのお席のほうが、華やかで素敵ですわ。お嬢様によくお似合いですもの」

 

そう言ってヴィオラが促したのは、ベルンシュタイン侯爵夫人ではなく――隣にいた姪だった。

未亡人である侯爵夫人を後回しにし、若い娘を先に通す時点で順番が違う。

しかも、侯爵夫人へ示した席も、その立場にふさわしいものではなかった。

ベルンシュタイン侯爵夫人の眉がぴくりと動いた。

 

近くで、誰かが囁く。

 

「……以前は、こうした乱れは一度もなかったのに」

 

文官たちが、苦い顔で小声を交わしていた。

クラリエッタ様がいらした頃は、招待客一覧に注記まで入っていた。

今回だって控えは残っていたのに、殿下が

 

「そこまで気にする必要はない。わかりやすい順で並べれば十分だ」

 

と仰ったと――そんな断片だけが耳に届いた。

 

わかりやすさなど、王宮の席次ではなんの助けにもならない。

必要なのは見た目の整いではなく、そこに座る人々の立場と感情が、どこでぶつかるかを読むことだ。

 

少し離れた場所で、また小さな混乱が起きる。

 

「失礼、そちらは本来わたくしの席ではなくて?」

「い、いえ、その……本日の席順は、こちらでございます」

 

侍女の額にうっすら汗が浮かぶ。

その場へ駆け寄ったフレデリックは、状況をろくに確かめもせず、

 

「席くらい、柔軟に座ればいいだろう」

 

と言ってしまった。

空気が、また一段と冷えた。

 

柔軟に。

そのひと言で済ませていいのなら、最初から席次表など要らない。

隣のヴィオラもさすがに笑みを引っ込め、不安げにフレデリックを見上げる。

 

上座では、王妃殿下が招待客に向けて穏やかな笑みを保っていた。

けれど、扇の陰から侍女長へ向けた視線は鋭い。

 

気づいていないわけではない。

ただ、主催者である王妃がこの場で動揺を見せれば、混乱はさらに広がる。

だから、いまできるのは……これ以上、失礼を重ねないように場を支えることだけだった。

 

王妃の視線を受けた侍女長が、会場の隅で文官に低く指示を飛ばす。

 

「ベルンシュタイン侯爵夫人を、このまま第三席にご案内するのはまずいわ」

「わかっている。だが、いま動かせば、かえって先ほどの不手際を目立たせる」

 

その判断は正しい。

正しいからこそ、席次を一度誤ることの重さがわかる。

 

席は、ただの椅子ではない。

誰をどこへ案内するかで、王家が相手をどう扱っているかまで伝わってしまう。

 

私はかつて、この会場で、誰を先に迎え、どの席へご案内するかを前夜まで何度も見直してきた。

見栄えのためではない。

誰にも恥をかかせず、王家の威を保ちながら、互いの不興を最低限に留めるために。

 

それをフレデリックは、ずっと「細かすぎる気遣い」くらいに思っていたのだろう。

彼が切って捨てたものの重さが、いま目の前に出ているだけだ。

やがて耐えきれなくなったらしいフレデリックが、近くの文官へ低く吐き捨てた。

 

「たかが王太子妃候補が抜けた程度で、ここまで乱れるはずがない」

 

彼の声音には、信じたくない現実を押し返そうとする焦りがにじんでいた。

けれど、その言葉そのものが答えだった。

 

軽いものではない。

抜けた()()でもない。

 

なにがこの場をかろうじて形にしていたのかを、彼だけがまだわかっていない。

私は静かに扇を閉じた。

 

 

 * * *

 

 

春の茶会は、最後まで綻びを隠しきれないまま終わった。

 

表向きには、何事もなく済んだことになっている。

けれど、ラドフォード公爵家の欠席も、席次の乱れも、招待客たちの記憶にははっきり残っただろう。

 

母とともに退席し、王宮の玄関広間へ向かう途中だった。

招待客の多くはすでに馬車寄せへ流れ、回廊には人影がまばらになっている。

それでも、完全に人目がないわけではない。

王宮では、壁に耳があると思って振る舞うべきだ。

 

だから、後ろから名を呼ばれた時――私は反射的に足を止めた。

 

「クラリエッタ嬢」

 

振り返ると、ロレンツ第二王子殿下が立っていた。

亜麻色の髪が、傾いた陽に照らされている。

 

「まあ、ロレンツ殿下」

 

一礼した母に、彼はかしこまった態度で礼を返した。

 

「お帰りのところ申し訳ありません。クラリエッタ嬢に、少しだけお話ししたいことがあります」

 

そう言ってから、ロレンツは周囲へ視線を巡らせる。

 

「ここでは、少し耳が多い。差し支えなければ、近くの控えの間へご案内します。もちろん、侯爵夫人にもご同席いただきますので」

 

二人きりではない。

その一言に、母の表情がわずかにやわらいだ。

 

「ええ。それなら構いませんわ」

 

母が小さく頷いたので、私も続いた。

 

 

 * * *

 

 

案内されたのは、玄関広間から少し外れた小さな控えの間だった。

 

扉は細く開けられたまま、母は入口近くの椅子に腰を下ろした。

私は部屋の中央に立ち、ロレンツはその向かいに立つ。

護衛と侍女は、声が届かない程度に離れて控えていた。

 

誰かに聞かせるための場ではない。

無礼な噂を生むほど閉ざされてもいない。

そこでようやく、私は問いかけた。

 

「どのようなお話でしょうか」

 

彼はすぐには答えなかった。

母へ一度目礼し、それから私を見た。

 

「まず、王家の者として謝罪させてください」

 

そう言って、ロレンツは頭を下げようとした。

 

「っ……お待ちください、殿下」

 

思わず声が出た。

彼の動きが、ぴたりと止まる。

母が扇を閉じる音がした。

続いて、落ち着いた声が響く。

 

「殿下のお気持ちは、アルレイン家として確かに承りました。だからといって、ここで殿下に頭を下げていただくわけにはまいりません」

 

穏やかな声に、侯爵夫人としての線引きがにじんでいた。

 

ロレンツは、母の言葉を受けて深く頷いた。

頭は下げないまま、謝意だけを残していた。

 

「承知しました。では、礼を失しない形で申し上げます」

 

彼は言葉を選ぶように、一拍置いた。

 

「あなたが担っていたことのなかには、本来……王太子妃候補ひとりに求めるべきではないものもありました。けれど、あなたの配慮があまりに行き届いていたから、周囲はその重さに気づかないまま甘えた。……王家もです」

 

声に、わずかな苦さが混じる。

 

「そして、兄上はそれを当然のことだと思い込んだ。そのうえで、あなたの働きを――余計なものとして切り捨てた」

 

一瞬、息が詰まる。

余計なこと。

その響きを思い出すだけで、あの時と同じように気持ちが冷えていく。

 

「ですが、あの茶会で明らかになりました。『余計なこと』などでは、決してなかった。あなたが整えていたからこそ、これまで場は乱れずに済んでいたのだと」

 

その言葉は、たしかに欲しかったものだった。

欲しかったからこそ……ここで頷いて終わらせるわけにはいかない。

 

「ありがとうございます」

 

私は、ロレンツを見返した。

 

「恐れながら……私が欲しいのは、お詫びの言葉ではございません」

 

彼はなにも言わなかった。

ただ、続きを待っていた。

 

母も口を挟まなかった。

その沈黙が、いつもより重く感じられた。

 

なにが欲しいのか。

そう問われなかったことで、かえって逃げ道がなくなった気がした。

 

(本当は……あの人が「余計なこと」と切り捨てたものがなんだったのか、目の前で思い知らせたかった)

 

けれど、それをそのまま口にすれば、ただの私怨と受け取られる。

怒りだけで動けば、こちらの立場を弱めるだけだ。

 

先ほどの茶会で顔を曇らせていた人々が、脳裏をよぎった。

欠席したラドフォード公爵夫人。

席次を誤られたベルンシュタイン侯爵夫人。

王妃の名で開かれた茶会へ向けられた、不信の目。

 

フレデリックが軽んじたものは、私だけを傷つけたわけではない。

なら、仕返しではなく……立て直しとして動ける。

その先で、あの人は知ることになる。

自分がなにを「余計なこと」と呼んだのかを。

 

息を整える。

 

「私が望むのは……王妃殿下の茶会を、これ以上傷つけないことですわ」

 

ロレンツの表情が、ほんの少しだけ変わった。

 

「王妃殿下なら、いずれ正式に詫び状を出されるはずですが……それだけでは足りません。一度乱れた場を、次は乱さずに整える必要があります。そうでなければ、西方のかたがたの不信は残りますもの」

 

言葉にするほど、頭のなかは冴えていった。

怒りは消えていない。

ただ、使い道が見えただけだ。

 

「それに……今回の失態がただの不手際として処理されれば、フレデリック殿下はまた、なにが足りなかったのかを理解しないままです」

 

ロレンツは、しばらく黙っていた。

それから、ゆっくり頷く。

 

「おっしゃるとおり、母上なら正式に詫びることはできます。それでも、壊れた場を同じ形でもう一度整えるには……なにが欠けていたのかを、正しく知る者が必要です」

 

その言葉のあと、背後でかすかに椅子が動く音がした。

 

「クラリエッタ」

 

母の声が、そっと差し込む。

責める声ではない。

けれど、私が王家の問題に自分から踏み込もうとしていることを、見過ごす声でもなかった。

 

「それは、あなたが背負うべきことではないわ」

 

「わかっています、お母様」

 

私は母を見る。

 

「背負わされるのではありません。――私が自ら、選ぶのです」

 

母にそう告げると、私はロレンツへ話を戻した。

 

「このまま終われば、あの乱れはただの不手際として片づけられるでしょう。だからこそ、次は乱さずに整える必要があります」

 

ロレンツは、すぐには頷かなかった。

 

「それでは、あなたをまた王家の都合で使うことになる」

 

「使われるつもりはありません」

 

私は首を振った。

 

「王妃殿下の茶会を整え直すために、必要な範囲で助言するだけです。王太子殿下のために戻るということではありません。次は、あのかたの判断を挟ませない形にしなければならない」

 

声は、自分で思ったよりも落ち着いていた。

 

「それに、次の茶会が滞りなく終われば……フレデリック殿下が『余計なこと』と切り捨てたものが、本当に余計だったのかも明らかになります」

 

ロレンツは、黙って私を見ていた。

その目に、安い同情はない。

私を止めるべきか、進ませるべきか、慎重に見極めているようだった。

だからこそ、私は続けた。

 

「ただし……条件があります」

 

「伺います」

 

返事は早かった。

けれど、軽くはなかった。

 

「一つ。次の茶会は、王妃宮の差配で進めてください。王太子殿下の判断を挟まないこと」

 

「当然です」

 

「二つ。私は王妃殿下からの正式な依頼として、助言役をお受けします。関わるのは、次の茶会の準備と当日まで。それ以上のことはいたしません」

 

「手配します」

 

「三つ」

 

そこで、一度だけ言葉が詰まった。

けれど、ここだけは譲れない。

 

「私が助言役として関わったことを、王妃宮の記録に残してください。あとから、誰の助言によるものだったのかが……曖昧にならないように」

 

母が姿勢を正す気配がした。

 

「殿下」

 

母の声に、ロレンツがわずかに居住まいを正す。

 

「いま交わされるお言葉は、アルレイン侯爵家も聞いております」

 

「承知しています、侯爵夫人。だからこそ、曖昧にはいたしません」

 

ロレンツの声は、少しも揺れなかった。

 

「約束します。あなたの助言で整えた場を、兄上の手柄にはさせません」

 

兄上の手柄にはさせない。

そう言い切られて初めて……あの夜から握りしめていた悔しさに、輪郭が与えられた気がした。

 

泣くほどではない。

ただ傷ついたのではなく、奪われたのだと……認めてもらえた気がした。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼を言うのは、こちらです」

 

ロレンツは、今度も頭を下げなかった。

交わした約束を軽く扱うつもりがないことだけは、はっきり伝わってきた。

 

すぐに信じるほど、私は甘くない。

それでも、疑いきれない自分がいることも否定できなかった。

 

私は母を見る。

母はしばらく黙っていたが、それから小さく息をついた。

 

「……あなたが自分で選ぶのなら、止めません」

 

母にそう言われて、肩の奥に残っていた強張りが、少しだけほどけた。

 

「ありがとうございます、お母様」

 

誰かに命じられたわけではない。

王家の都合に押し流されたわけでもない。

 

これは、私が私のために選ぶことだ。

そして、私を余計なものだと切り捨てた人に、自分がなにを失ったのかを見てもらうための場でもある。

 

私はロレンツへ告げた。

 

「では、王妃殿下にお伝えください。次の茶会、私にできる範囲で助言いたします」

 

「必ず」

 

迷いのない返事だった。

 

控えの間を出ると、回廊の先には、夕暮れの光が長く差し込んでいた。

 

まだ気持ちは重い。

それでも、もう黙って切り捨てられるつもりはない。

 

余計なことだったのかどうか。

次の茶会で――誰の目にも明らかになる。

 

 

 * * *

 

 

それから十日後。

私は再び王宮を訪れていた。

 

もちろん、今度は王太子妃候補としてではない。

王妃宮から正式な依頼状を受け、西方の有力家を改めて招いた小規模な茶会の助言役としてだ。

 

会場は、前回より規模を絞った王妃宮の東の間だった。

差配は王妃宮が担い、客迎えも席次の最終確認も、侍女長と文官の指揮で進められている。

フレデリックの判断を挟ませないこと。

それは、私が出した条件のひとつでもあった。

 

この日のために、招く顔ぶれも、席順も、侍女の配置も、すべて見直した。

誰を先に迎えるか。

どの家とどの家のあいだには、必ずひとつ席を挟むか。

どこで王妃に話を引き取っていただくか。

 

王妃宮の控え帳に印を重ね、侍女長や文官と何度も確認した。

以前なら当然のように流れていたやり取りに、いまは小さな緊張と、それ以上の丁寧さが混じっていた。

 

やがて、招待客たちが姿を見せ始める。

今度こそ、案内は淀みなく進んだ。

侍女たちの足取りは落ち着き、文官の額にも余計な汗は浮かんでいない。

 

ラドフォード公爵夫人が入室された時、ロレンツは自ら一歩前へ出た。

 

「先日は、招待状の不手際でご無礼をいたしました」

 

まず非礼を認め、そのうえで言い訳はしない。

その潔さに、夫人の表情がわずかにやわらぐのが見えた。

 

本来なら、差配を誤ったフレデリックが詫びるべきなのだろう。

けれど、彼を前に出せば、迎え直しではなく弁明の場になってしまう。

 

王妃は主催者として、上座を離れられない。

だからロレンツが、王家の者として前に出たのだ。

 

「本日はお越しいただき、ありがとうございます」

 

「……前回は、欠席という形で返答いたしました。ですが王妃殿下より、改めてお招きと、直々にお詫びのお手紙まで頂戴しております。そこまでしてくださったのですから、これ以上はこちらが無礼にあたりましょう」

 

「お心遣い、確かに受け取りました」

 

押し返しも、余計な取り繕いもない。

その受け止めかたに、夫人はもうなにも言わず、静かに席へ向かった。

 

私は少し離れた場所から、その流れを見守っていた。

前回のような混乱は、もうない。

招かれた人々は、それぞれふさわしい席へ導かれていく。

言葉は過不足なく交わされ、場は穏やかに整っていった。

 

それだけのことが、どれほど難しいか――私はいやというほど知っている。

 

「クラリエッタ嬢」

 

王妃に呼ばれ、私は一歩前へ出た。

 

「本日の席次と進行については、クラリエッタ嬢に正式な助言役として力を貸していただきました。王妃宮の記録にも、その名を残しております」

 

やわらかな声だった。

けれど、そのひと言は……ただの礼ではなかった。

 

「おかげで、ようやく皆さまをきちんとお迎えすることができましたわ」

 

思わず息を止めかけた。

こういう場で、こういう形で、私の名が表に出ることはこれまで一度もなかった。

 

貴婦人たちのあいだに、ざわめきが広がる。

けれどその意味は、少しずつ変わっていった。

驚きと納得、そして遅れて混じる理解。

 

「なるほど……」

「では、やはり先日の乱れは……」

 

そんな囁きが、聞こえないふりをしても耳に入る。

続けたのはロレンツだった。

 

「今日の場が滞りなく進んだのは、クラリエッタ嬢の助言によるところが大きい。兄上が手放したものの重さを、私は軽く見るつもりはありません」

 

その声に、少し離れた場所にいたフレデリックの肩がぴくりと揺れた。

彼の後ろで、ヴィオラもまた強ばった顔のまま立ち尽くしている。

 

穏やかな口調のまま、逃げ道のないひと言だった。

フレデリックがなにか言い返そうとしたのがわかった。

けれど周囲の視線を受け、結局ひと言も発せない。

 

その沈黙だけで、もう十分だった。

 

私は深く一礼した。

 

「身に余るお言葉ですわ」

 

そう答えた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

少なくとも、あの夜のように言葉を飲み込むことはなかった。

 

 

 * * *

 

 

茶会の終わり際。

招待客たちの視線が少し散った隙に、フレデリックが低く名を呼んだ。

 

「……クラリエッタ。あの夜は、言葉が過ぎた」

 

あの夜。

それだけで済ませるつもりなのだろうか。

振り返りはしたが、答えはしない。

 

「お前が戻れば、まだ間に合う。ヴィオラでは、ああいう細かな調整までは務まらない。表向きは、彼女を立てておけばいい。お前はこれまでどおり裏で支えれば――」

 

あまりの言い草に、逆に頭が冷えた。

 

「……殿下」

 

静かに呼ぶと、フレデリックはまだ取り繕えると思ったのか、わずかに息をつく。

 

「それは私を戻したいのではなく、私がしていた仕事を戻したいだけでしょう」

 

その顔から、目に見えて余裕が剝がれた。

 

「なにを――」

 

「妃候補としてではなく、都合のいい働き手として必要だと……そう仰っているのですわ」

 

彼はなにも言い返さない。

言い返せないのだ。

 

余計なこと。

そう切り捨てたものを、いま彼自身が求めている。

それが答えだった。

 

回廊の向こうで、衣擦れの音がした。

 

「フレデリック、もう結構です」

 

張りつめた声に、彼がはっと振り返る。

いつの間にか、少し離れた回廊の角に王妃が立っていた。

 

「王太子妃候補を二人並べ、片方に愛想を、片方に実務を求めるおつもりでしたの?」

 

王妃は冷えきった眼差しで息子を見た。

 

「……見苦しいにも程があります」

 

フレデリックの唇がわずかに動く。

けれど、ひと言も出てこない。

 

私は王妃に深く一礼した。

 

「失礼いたします」

 

もう、フレデリックを見ることはなかった。

 

 

 * * *

 

 

茶会そのものは、今度こそ綻びを見せることなく終わった。

 

招待客たちが王妃宮の侍女に案内され、東の間をあとにしていく。

最後まで流れが乱れないことを確かめてから、私も控えの間へ下がることにした。

 

廊下の窓から、やわらかな西日が差し込んでいる。

その光を背に受けたところで、名を呼ばれた。

 

「クラリエッタ嬢」

 

振り返ると、ロレンツが立っていた。

 

「本日はありがとうございました」

 

丁寧な一礼に、私はわずかに姿勢を正した。

 

「礼を申し上げるのはこちらですわ。王妃殿下の茶会が、これ以上傷つかずに済んだんですもの」

 

「それだけではありません」

 

ロレンツの声は穏やかだった。

 

「先ほど、皆の前であなたのお名前を出せてよかった」

 

「……正直に申し上げますと、驚きましたわ」

 

「驚かせるつもりはありませんでした。ただ、当然のことをしたまでです」

 

「当然、ですか」

 

「ええ。あなたの働きを、あなたのものとして扱うことが」

 

その答えを聞いて、ようやく実感した。

私は、ただ褒められたかったわけではない。

奪われたままにされたくなかったのだ。

言葉にする代わりに、私は小さく頷いた。

 

ロレンツは、少しだけ間を置いてから続ける。

 

「……それと、もうひとつだけ」

 

その声に、わずかに身構える。

今日で、助言役としての務めは終わったはずだ。

それでも、またなにかを求められるのではないかと、思ってしまった。

 

そんな私の変化に、ロレンツは気がついたのだろう。

すぐに首を横に振った。

 

「失礼。こちらの言葉が足りませんでした。またなにかをお願いするつもりはありません」

 

「……」

 

「あなたにお力添えいただいた件は、区切りがつきました。これ以上、王家の問題であなたのお手を煩わせるべきではない」

 

そこまで聞いて、少しだけ警戒が緩んだ。

 

「ただ、ここから先は……王家の話ではありません」

 

ロレンツは、私が頷くのを待ってから続けた。

 

「近いうちに、改めてアルレイン侯爵家へお伺いします」

 

「……殿下?」

 

「今度は、茶会の助言役としてではなく。――クラリエッタ嬢。あなたに、お会いするために」

 

一瞬、返す言葉を失った。

 

頼まれたわけではない。

引き止められたわけでもない。

 

役目ではなく、私を見ている。

そう気づいた途端、用意していた礼儀の言葉が役に立たなくなった。

 

「……それは、父と母にもお話しいただくことになりますわ」

 

「もちろん、そのつもりです」

 

あまりにさらりと返されて、かえって返事に困った。

その場しのぎではないのだと伝わってきて、思わず目を伏せる。

頬が、少しだけ熱い。

 

「では……お待ちしております」

 

彼の表情が、ほんのわずかにやわらいだ。

 

「ありがとうございます」

 

控えの間へ戻る私を送るように、ロレンツが手を差し出した。

 

……もしこれが、私を王家のために使おうとする誘いだったのなら、きっと応じなかった。

私は、誰かの不足を補うためにいるのではない。

 

けれど、ロレンツは違う。

茶会の助言役ではなく、クラリエッタ・アルレインに会いに来ると言ってくれた。

 

だから私は、少しためらってから、その手に指先を重ねた。

あたたかい、と思った。

 

春の光のなか、私は自分の意思で――ロレンツの手をそっと握り返した。

 

 

【完】

 

 





お読みいただき、ありがとうございました!
もし少しでもお楽しみいただけましたら、とても嬉しいです。

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