四月の空は、やけに青く見えた。
慶明大学附属高校の正門をくぐったとき、胸の奥で小さく息をついた。
俺が通っている慶明高校は、神保町にある大学付属の高校だ。
校舎から少し歩いて坂を上れば大学のキャンパスがあり、書店と喫茶店と古本屋がやたらと多い街に囲まれている。
入学式を終えたばかりの校庭には、真新しい制服に袖を通した新入生たちが群れをなし、互いの顔をのぞき込みながら笑っている。桜の花びらがまだ枝に残っていて、時折風に散らされては肩や髪に落ちてきた。
俺はその光景をどこか遠いもののように眺めていた。
高校生活。普通の青春。
それが俺にとって、何より特別な願いだった。
数年前まで、俺は伽須翼という名前で芸能活動をしていた。
子役として経験を重ね、ドラマや映画に出ていたこともある。
けれど、それはもう過去の話だ。
芸能事務所は辞め、自分の芸能人生に幕を引いた。
理由は〝学業に専念するため〟と表向きには言っていたが、実際には違う。
俺は演じることが嫌になったのだ。
だから、俺は伽須翼を捨てて、ただの凪野翼に戻った。
もう俺を元子役として振り返る人間はここにいない。そう思うと気が楽だった。
教室に入ると、案の定ざわめきが広がっていた。
黒板の前に立ったクラス委員が名簿を読み上げる。
名前が一つ呼ばれるたび、緊張で小さな笑いがこぼれ、拍手が巻き起こる。
「なあ……このクラスに羽田朝香がいるってマジ?」
「うそ、芸能人?」
「ほら、朝ドラの主役やってた子」
「昨日のドラマにも出てなかったっけ?」
隣の席からそんな声が漏れてきて、瞬間的に空気が色めき立った。
羽田朝香。今をときめく天才女優だ。
消えた子役なんて星の数ほどいるなかで、彼女はずっとテレビに出続けた。
クラスメイトにとっては芸能人の名前。
俺にとっては、幼い頃から背中を追い続けていた幼馴染の名前。
小学校のとき、一目見たときから朝香から目が離せなくなった。
そのとき既に彼女は時の人となっており、俺みたいな凡人が近づける存在じゃなかった。
だから、彼女がいた劇団に入った。
俺は彼女の背中を追い続けて、同じ芸能事務所に所属することもできた。
『僕、朝香ちゃんのことが好きなんだ!』
『悪いけど、あたしより演技が下手な人に興味ないの。あたしを口説き落としたかったらあたしよりうまい演技をしてよ』
『じゃあ、僕が演技で勝ったら彼女になってよ!』
『できるものならやってみなさい』
最初の告白は見事に玉砕した。
それでも、朝香は俺と関わることをやめたりはしなかった。
稽古場では台詞の言い回しを指摘してくれるし、舞台袖では「さっきの表情は悪くなかった」とぼそりと呟いてくれることもあった。
褒め言葉なんて一割にも満たない。残りの九割は厳しいダメ出しと冷たい視線。
その一割にも満たない誉め言葉に救われて、俺は踏ん張ることができた。
朝香にとっては何気ない一言だったのかもしれないが、俺にとっては光そのものだった。
あの日から、俺の中で〝彼女を超える〟という目標が全てになった。
演技の勉強も、場数を踏むことも、苦しい練習も、全部朝香の隣に立つためなら耐えられた。
その甲斐あって、俺も朝香と共演することができた。
『まだまだね。次、期待してるから。結果が出るまでやるのが努力よ』
結局、その次が来ることはなかった。
俺は一時的に売れただけの一発屋として、消えた子役として終わった。
「……あんまり関わらないようにするか」
ざわつく教室をよそに、俺は小さく肩を落とす。
まさか同じ学校の、それも同じクラスになるとは思っていなかった。
彼女がどれだけ遠い存在になったのか――正直に言って考えたくなかった。
下駄箱から靴を取り出し、校門を出たところで背中に声が飛んできた。
「高校生まで活動休止なんて、ずいぶんと待たせてくれるじゃない」
振り向いた瞬間、心臓が跳ねた。
桜並木の下に立っていたのは、制服姿の羽田朝香だった。
テレビで見た姿よりも少し背が伸び、髪も落ち着いた色に染められている。だが笑ったときの目元や、まっすぐにこちらを見据える仕草は変わらない。
俺にとっては、芸能人でもスターでもなく――幼馴染の朝香だった。
「慶明大学附属高校を選んだのは、芸能活動が許されている学校だからでしょ」
「いや、家から近いからだけど……」
「いいの。わかってるから」
一体、何をわかっているというのだろう。
「学業への専念を理由に芸能活動を辞めたのは、高校生で復帰して子役時代のイメージを払拭するため。なかなか戦略的じゃない」
お前には何が見えているんだ。
「あなたの演技がどれだけ成長したか、楽しみにしているから」
「いや、だから俺はもう芸能界はやめたんだって」
「え?」
その言葉を口にした瞬間、朝香の動きが止まった。
「だから、もう朝香に付き合ってくれなんて突っかかったりしない。安心してくれ」
ぽかんと口を開け、しばらく放心状態の朝香。
「み゛」
そして、絶命寸前のセミのような声が、彼女の喉から絞り出された。