あたしの名前は羽田朝香。
スマホの画面に表示されたメッセージを、何度も読み返していた。
[翼:メソッド演技のコツ、教えてほしい]
心臓が跳ねる。
翼が、演技のことを聞いてきた。
あの翼が。
芸能界を辞めると決めた翼がだ。
指が震える。返信を打とうとして、何度も文字を消した。
落ち着け。落ち着いて。
[朝香:やっぱり演技やる気になったの!?]
すぐに既読がついた。でも、返信は来ない。
待ちきれなくて、もう一通送った。
[朝香:待ってて、今から電話する!]
発信ボタンを押す。コール音が二回鳴って、繋がった。
「もしもし」
翼の声。久しぶりに聞く、あの声だ。
「翼!」
声が少し上ずってしまった。落ち着け、落ち着いて。
「役者に戻る気になったの?」
「いや、そうじゃ――」
翼が何か言いかけたが、あたしは止まらなかった。
「ずっと待ってたの。やっと踏み出したんだって」
メソッド演技。翼が苦手としていた分野。
それを聞いてくるということは、翼は自分の演技の幅を広げようとしている。テクニカル・アクティングだけじゃなく、メソッド演技も積極的に取り入れようとしている。
それはつまり、翼が本気で演技に向き合おうとしているということだ。
もし、翼がメソッド演技をものにできたのなら。
テクニカル・アクティングの安定性と、メソッド演技の感情の深さ。
両方を兼ね備えた翼の演技は、どれほど素晴らしいものになるだろう。
想像するだけで、胸が高鳴った。
「また一緒にやれるといいわね」
一通りコツを教えたあと、電話を切ってあたしは深く息をついた。
ベッドに倒れ込んで、天井を見上げる。
翼が戻ってくる。
あの翼が、演技の世界に戻ってくる。
それだけで、世界が明るくなった気がした。
あたしは、翼が戻ってくるのをずっと待っていた。
それからしばらくして、久しぶりに予定が空いて学校に登校できた。
撮影の合間を縫っての登校だから、こういう日は貴重だ。
教室に入ると、クラスメイトたちが駆け寄ってきた。
「朝香ちゃん、おはよう!」
「映画見たよ! 超良かった!」
「今度やるドラマも絶対見るからね!」
「ありがとう。楽しんでもらえたみたいで嬉しいわ」
笑顔で応えながら、あたしは教室を見渡した。
翼の姿を探す。
窓際の席。そこに翼がいた。
隣には、ギャルっぽい茶髪の女子が座っている。
二人で何か話している。
僅かだが、翼の表情は以前よりも明るく見えた。
翼が誰かと楽しそうに話している。
その光景に驚いた。
翼は人と距離を置くタイプだと思っていたからだ。
入学式の日も、一人で黙々と教科書を読んでいた。
今は違う。あのギャルと笑い合っている。
「朝香ちゃん、聞いてる?」
「え? ごめん、何?」
友人の声で我に返る。
「次の撮影、いつなの?」
「来週からよ。申し訳ないけど、またノート借りられると助かるわ」
適当に答えながら、あたしは翼たちの会話に耳を傾けた。
芸能界で鍛えられた聴力は、こういう時に役に立つ。
「バッサー、ほんとありがとね! おかげでフォロワー増えたよ!」
ギャルの明るい声が教室に響く。
「いや、頑張ったのは鹿角だろ」
翼の声は、少し照れくさそうだ。
「でも、バッサーが教えてくれたから! メソッド演技とか、全然知らなかったし!」
メソッド演技。
その言葉に、あたしの心臓が跳ねた。
翼が、あのギャルにメソッド演技を教えた?
ということは、あのとき翼があたしに聞いてきたのは――
「バッサーって、ほんと演技詳しいよね。元子役だったからかな?」
「まあ、そんなとこだ」
元子役。あのギャルは、翼の過去を知っているのか。
「あ、そうだ。この前の話だけど、ちゃんと秘密にしてるから」
「……ありがとな」
「あーし、バッサーのこと信じてるから。味覚障害のことも、絶対誰にも言わないよ」
味覚障害。その言葉に、あたしの思考が止まった。
味覚障害? 翼が? いつから?
「鹿角には感謝してる」
「えへへ、照れるなあ。でも、あーしの前では無理しないでね」
「ああ、ありがとう」
翼の声が、優しい。
あたしが聞いたことのない、柔らかい声だった。
味覚障害。翼が、味覚障害。
あたしは知らなかった。
何年も一緒に稽古場で過ごして、何度も共演して、それなのにあたしは知らなかった。
あのギャルは知っている。
翼はあのギャルにだけは話した――あたしには話さなかったのに。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「朝香ちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ?」
友人の心配そうな声が遠くに聞こえる。
「ちょっと、体調悪いかも。保健室行ってくる」
そう言って、あたしは教室を出た。
廊下を歩きながら、頭の中で整理する。
翼があたしにメソッド演技を聞いてきたのはギャルのため。翼自身が演技の世界に戻るためじゃなかった。
そして、翼は味覚障害だった。
あたしも知らなかったことを、あのギャルは知っている。
翼はギャルに心を開いている。
つまり、あたしには心を開いてくれなかったということだ。
保健室の前で立ち止まる。中に入る気力がなくて、壁に背中を預けた。
ずっと翼が演技の世界に戻ってくるのを待っていた。
でも、翼はもう戻ってこない。
それどころか、あたしの知らない場所で、あたしの知らない翼がいた。
あのギャルと笑い合う翼。
あのギャルに秘密を打ち明ける翼。
あのギャルの前では無理をしない翼。
あたしが何年もかけても築けなかった関係を、あのギャルはたった数ヶ月で築いていた。
翼の抱えていた痛み。
それをあたしは何も知らなかった。
隣にいたはずなのに、何も気づいてあげられなかった。
「み゛」