とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第102話 覆海大聖

 そのとき、スタジオの入口の方から気配がした。

 ゆっくりとした足音だった。

 だからといって、気を抜いている感じもない。

 自分のペースで、ただ歩いているだけ。

 

 俺は足音の主を見た。

 四十代後半くらいの男性で、その顔はよく知った顔だった。

 

「えらい賑やかやなぁ」

 

 柔らかい京都訛りだった。

 言葉遣いは丁寧なのに、どこか腹の底が見えない。

 

 その一言で、場の空気が変わった。

 声に染みついた厚みがある。

 舞台と映像を長年渡り歩いてきた人間の、底から来る声だった。

 

 橘高田之助(きったかたのすけ)

 時代劇でも有名な俳優だ。

 

「ほぉ……」

 

 俺たちの配置を一度だけ眺めて、橘高さんは口の端を上げた。

 私服のまま、衣装も何もない。

 それなのに、そこに蛟魔王が立っていた。

 

「美行王の兄さんまでおるとは、こらまた面白い巡り合わせやなぁ」

 

 スタジオの端に立ったまま、橘高さんは静かに言った。

 動きは何もない。

 ただ立って、名乗っただけだ。

 

 それなのに、俺の中で悟空が音を立てて動いた。

 自然と如意棒を握る手に力が入る。

 牛魔王の兄さんと同じ臭いだ。

 七大聖が一人ということもあり、その妖力は格が違う。

 

「久しぶりだな、蛟影」

「美猴王の兄さん、ご無沙汰しとりますなぁ」

 

 互いに、昔の名を呼びあう。

 牛魔王の兄さんのときとは違う、明確な敵意として過去の繋がりを使った。

 

「悪いが俺の仲間は返してもらうぞ」

 

 俺は如意棒を前へ出した。

 構えるという動きが、悟空としての警戒と戦意を引っ張り出した。

 

「あんなぁ……兄さん」

 

 橘高さんがゆっくりと一歩だけ前へ出た。

 

「その子はなぁ、儂が育てた子や」

 

 ルナの方へ、視線を一度だけ流した。

 

「親のない子を拾て、飯を食わせて、戦い方を教えた。儂にとっては、大切な大切な手駒なんや」

 

 手駒という言葉に、ルナの肩がわずかに動いた。

 それを橘高さんは見ていなかった。

 見ていないように見せながら、芝居で全部拾っていた。

 

「その子が、今あんたらに懐いとるとしたら」

 

 口元の笑みが、少しだけ変わった。

 

「儂の手から離れようとしとるとしたら」

 

 一拍置いた。

 その一拍の重さが、スタジオの空気を変えた。

 

「……困ったなぁ」

 

 俺は如意棒を握り直した。

 動きが感情を引いてくる。

 握り直すという行動が、決意の形を作った。

 

「俺たちは悟浄を仲間だと思ってる」

 

 橘高さんの目が、すっと細くなった。

 

「どんな事情があっても、どんな過去があっても」

 

 如意棒を前に構えると、動きが宣言の重さを生んだ。

 

「俺の仲間に手を出すんなら、相手をしてやるよ――三蔵法師様が弟子、斉天大聖の孫悟空としてな」

 

 俺のセリフと共に、スタジオが静まり返る。

 その場にいたスタッフは全員手を止めていた。

 

 橘高さんは、ゆっくりと息を吐くと沈黙を破った。

 

「いやぁ、早うから精が出ますなぁ。ちょいと混ぜてもらいましたわ」

 

 言い終わる前に、声のトーンが一段落ちた。

 視線がルナで一瞬止まってから、俺に向いた。

 

「最近の若い子は恐ろしいなぁ」

 

 声が柔らかくなった。

 蛟魔王ではなく、橘高さんとして言っている声だった。

 

 俺は如意棒を下ろした。

 肩の力が静かに抜けていく。

 

「橘高さんの蛟魔王、本番でも楽しみにしてます」

「僕も楽しみにしとるで」

 

 橘高さんは短く頷いて、スタジオの奥へと向かった。

 その背中が見えなくなってから、伊本さんが大きく息を吐いた。

 

「ぷはぁ……怖かったねぇ。本当に蛟魔王がいるかと思った」

「さすがベテラン……踏んできた場数が違うわ」

 

 朝香がぽつりと呟く。

 珍しく、声に感嘆が混じっていた。

 ルナはそれまで黙っていた。キャップを両手で持ったまま、橘高さんが消えた方向を見ていた。

 

「ルナ、大丈夫か」

「平気だよー……」

 

 笑顔を作って汗を拭うと、ルナはキャップをゆっくりと被り直した。

 

「おいおい、何をやってるんだ」

 

 スタジオの奥から声が飛んできた。

 五木監督だった。

 モニターの前から立ち上がって、こちらを見ていた。

 

「どうにも、しっくりこない部分があって……練習してたら熱が入っちゃいまして」

 

 笑顔を浮かべた朝香がすらすらと答えた。

 

「見てたよ、全部」

 

 五木監督は悩まし気な表情を浮かべて指をこめかみに当てる。

 

「ルナの顔はこれで……いや、事務所との問題が……南風原君に確認か?」

 

 五木監督は気づいてしまった。

 ルナが想像以上に、素の表情を使うと演技力が跳ね上がるのだと。

 この裏の顔を当初の予定の数段上に引き上げられるようにして、五木監督に気づかせることが今回の作戦だった。

 現場にあえてすっぴん状態でルナが来たのはそのためだ。

 

 普通ならそれで制作の方針を変えるなんてあり得ない。

 演出プラン含めいろいろといじらなきゃいけなくなるからだ。

 現場は大慌て、大迷惑もいいところである。

 

 でも、俺たちには演技力の信頼と普段から積み上げてきた好感度がある。

 そこに監督のこだわりという理由と南風原さんの調整力が加われば、どうにかできるはずだ。

 

 そう。俺たちなら現場への迷惑を差し引いても、いい物を作ったという感動を提供できる。

 監督はしばらくルナを見ていた。それから腕を組み直した。

 

「少し手を入れる。高杉さんと……あと、南風原君にも連絡だな」

 

 それだけ言うと、モニターの方へ戻っていった。

 朝香が、こっそり小さく拳を握った。

 伊本さんが静かに息を吐く。

 ルナは白い頬を両手で挟んで、三白眼をまっすぐ前に向けた。

 

 その顔に、計算した表情はなかった。

 

「次の撮影に向けて、もう少し詰めるぞ」

「「「了解」」」

 

 三人の返事が重なった。

 スタジオの照明が、全部入り始めた。

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