とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第110話 三蔵法師の試練

 俺は如意棒を担いで、奥に向かって立っていた。

 今日の俺の役割は、三蔵法師の恐怖として現れる歪んだ悟空だ。

 本物の悟空ではない。

 三蔵法師の潜在意識が作り出した、制御不能で冷たい悟空を演じる。

 

 錫杖の音が混じった足音が聞こえた。

 一歩ずつ、迷いのない歩き方だった。

 それでも、いつもより少しだけ間隔が長い。

 朝香が、洞窟の奥に踏み込んできた。

 

「本番、いきます」

 

 カチンコが鳴った。

 俺は背を向けたまま、気配だけで朝香を感じた。

 足が止まった場所、錫杖を握り直した微かな音、呼吸のリズム。

 全部が伝わってきた。

 

 振り返った。

 

 朝香の目が、俺を見た瞬間に何かが揺れた。

 悟空として、その揺れを受け取る。

 信頼以上の恐怖が浮かぶ眼差し。

 これが、玄奘の本音だった。

 

「よう、クソ坊主」

 

 温度を抜いた声を出した。

 今回は悟空の感情は使わない。

 何せ、三蔵法師の潜在意識の悟空は感情の見えない虚像だからだ。

 テクニカル・アクティングのみで作り出す空洞の悟空がハマると思った。

 

「な、何故悟空が……」

「簡単な話だろうが」

 

 一歩、近づいた。

 朝香の呼吸が、わずかに浅くなった。

 

「お前は俺を恐れている。ここに俺がいるのがその証明だ」

 

 朝香が錫杖を構えた。

 構えながら、その目が揺れている。

 

「俺が本気を出したら、てめぇには止められねぇ」

 

 また一歩、踏み込んだ。

 

「それをわかってて、ずっと隣に立ってた」

 

 朝香は答えなかった。

 その沈黙は肯定と同義だった。

 

「緊箍児で繋いで、お経で抑えて、それで安心してた。違うか」

「黙りなさい」

「図星だから黙れって言うんだろ」

「黙れ!」

 

 感情のままに朝香が錫杖を振る。

 如意棒で受け止めると、衝撃が腕に伝わった。

 

 ここからアクションシーンの始まりだ。

 飛んで跳ねて、お互いの得物を振るう。

 お互い殺陣の訓練は受けているため、途切れることなく阿吽の呼吸で攻めと受けをこなす。

 

「そらそらァ! お経を唱えてる暇はねぇぞ!」

「ぐっ!」

 

 朝香の足が滑って膝をついた。

 その瞬間、懐から何かが零れ落ちて、かすかな音を立てた。

 

 それは小さな鈴だった。

 

 台本通りの流れだった。

 その鈴は第一話で悟空が三蔵法師へ信頼の証としてあげたものだった。

 

『そいつが鳴ったら俺はどこへだって飛んでいく。守るためじゃねぇぞ、やらかしたてめぇの尻ぬぐいのためだ』

 

 予定では編集でここに第一話の悟空のセリフが挿入される。

 鈴を見た三蔵法師は、自分がいかに悟空をちゃんと見ていなかったかを思い知らされる。

 そして、今度こそ悟空を信じるために立ち上がる。

 そういう流れだった。

 

 でも、鈴を見た瞬間に、心の中の感情が動いた。

 

 悟空として、ではなかった。

 俺として、動いた。

 

 朝香のことを、俺はどれだけ見ていたのか。

 理想の羽田朝香を見ていた。

 天才子役として眩い活躍を送る彼女の背中をずっと見ていた。

 それ故に、田中朝香を見ていなかった。

 

 朝香のことを、みたいように見ていた。

 本当の彼女を、ちゃんと見ようとしていなかったのだ。

 

「情けない話です」

 

 朝香が顔を上げた。

 鈴を拾って、真っ直ぐに俺を見た。

 

「悟空。あなたへ人を信じる大切さを説きながら、私はあなたを信じていなかった」

 

 台本通りの台詞でありながら、その声音は本物の感情が籠っていた。

 朝香の目に、本物の後悔があった。

 三蔵法師としての後悔なのか、田中朝香としての後悔なのか、もう区別がつかなかった。

 

 俺は一度、呼吸を挟んだ。

 

 台本の台詞が、頭から消えた。

 

「誰だってみたいように人を見る」

 

 自然と声が出た。

 悟空の声ではなかった。

 俺自身の何かが、そこに滲んでいた。

 

「俺だってそうだ」

 

 一拍置いた。

 

「信じるべきは俺じゃなくて、あんた自身じゃねぇのか。三蔵法師様?」

 

 朝香の目が大きく見開かれた。

 

 影として、俺はゆっくりと後退した。

 光の中に溶けていくイメージで、存在感を消していく。

 表現として身につけた技術が、この瞬間だけは感情と完全に一致していた。

 

「カット」

 

 監督の声が落ちた。

 

「すみません、ついアドリブ挟んじゃって……」

「いや、すごくよかった。活かしで行こう」

「ありがとうございます」

 

 五木監督へ頭を下げると、俺は如意棒を持ち直して朝香の方へ歩いた。

 

 朝香はまだ鈴を握ったまま、天井を見上げていた。

 三蔵法師から戻ってくるのに、時間がかかっているようだ。

 

「朝香」

 

 声をかけると、朝香がこちらを向いた。

 

「最高だったわ」

 

 その声は少し掠れていた。

 

「翼。あたし、あなたのことをちゃんと見ていなかったかもしれない」

「それは俺もだ」

 

 会話はそれだけだった。

 それだけで、十分だった。

 

 洞窟の外からスタッフの声が飛んできた。

 次のシーンの準備が整ったらしい。

 

 朝香が錫杖を持ち直して、歩き出した。

 隣に並んで歩く。

 

 俺たちの足音がスタジオに響いて消えた。

 

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