朝香が体育館を出ていったあとも、しばらく誰も口を開かなかった。
ついさっきまで響いていた怒声の余韻だけが残っている。
舞台上では郁たちが所在なさげに立ち尽くしていた。
みんな気まずいのだろう。
「とりあえず続けよう」
声を掛けると、何人かがぎこちなく頷いた。
台本を開く音があちこちで鳴る。
「さっきの場面から始めようか」
キャストたちが位置についたので、しばらく様子を見る。
「止め」
手を挙げると、全員がこちらを向いた。
さっき朝香に何度も駄目出しされていた男子の吉田が申し訳なさそうに肩を縮める。
「悪い。また何か変だったか?」
「変っていうか。緊張しすぎかな」
「え?」
「今、相手の顔見てたか?」
吉田は隣にいる女子の佐光を見る。
それから首を傾げた。
「たぶん、見えてなかったと思う……」
言われた本人も心当たりがあるらしく、困った顔になった。
「ははーん、さては次のセリフ考えてただろ?」
「あ……」
図星だったようで、周囲からも苦笑が漏れる。
「最初は大体みんなそこから入るんだよな」
俺は吉田のバミリへ向かう。
「吉田って、ラーメン好きだったよな?」
「おう、大好物だよ」
「おすすめのラーメン屋について教えてくれないか?」
「そうだなぁ……ここって、神保町だろ? 秋葉原が近くて、うまいラーメン屋が結構あるんだよ。生姜醤油なら赤嶋、塩なら高架下にあるぽん田、あと浅草橋の方にも塩でうまい店があるんだよ」
好きな話題だからか、吉田はすらすらと語り出す。
「教えてくれてありがとな。今のでわかったと思うけど、知ってるっていうのは強い。きちんと自分の言葉で話してるから説得力もある」
「ははっ、なんか照れるな」
吉田はどこか照れたように頭を掻いた。
「今、自分がどう話してたかわかるか?」
「ラーメンの話をしてた」
「そう。ラーメンの話を俺の顔見ながら話していた。さっきの芝居と何が違うと思う?」
少し考えてから吉田が口を開く。
「……次の言葉を考えてなかった」
「正解だ。呑み込みが早いな」
「へへっ、そうか?」
「ああ、筋がいいよ」
口で説明したところで、いきなりできるようになるわけがない。
だから、まずは成功体験を積ませる。
それによって話が頭に入ってくるようになるのだ。
「ラーメンの話は頭に入ってる。だから、相手がどう反応するか見ながら喋れる」
台本を指で叩く。
「芝居も同じだ」
「同じ?」
「セリフ覚えたら終わりじゃない。そこから相手と会話する」
吉田は納得したように何度も頷いた。
「吉田の芝居は自分の言葉になってないから、ただの〝音〟になっちゃってるんだ」
「言葉じゃなくて音……」
「郁はその辺ができてるんだけど、朝香の怒号で身体が固くなっちゃってるからな」
冗談めかして言うと、少しだけ空気が和らいだ。
劇的な変化じゃないけど、この空気の変化は今後の稽古にいい影響を及ぼすだろう。
こういうのは俺の十八番だ。
「その郁だって、最初からできてたわけじゃない」
郁がビクッと肩を揺らす。
「前は人の顔見て話せなかったもんな」
「今でも緊張はしますよ?」
郁は少し照れながら笑った。
「でも、慣れます」
その一言に、キャストたちの視線が集まる。
「私、本当に人前に立つの苦手だったので……翼君のおかげで、今はこの通り」
郁の言葉には説得力があった。
努力してできるようになった人間の言葉には重みがある。
周囲のみんなも納得してように頷いていた。
「だから、みんなも絶対できるようになる」
キャストたちが真面目な顔になる。
さっきまで縮こまっていた空気が嘘みたいだった。
質問も出るようになり、笑いも増える。
朝香のやり方とは違う。
どちらが正しいかなんてわからない。
それでも、今のキャストたちにはこのやり方の方が合っている気がした。