気付けば休憩時間になっていた。
ペットボトルの蓋を捻りながら、ふと体育館の入口へ目を向ける。
夕方の日差しが差し込み、床に長い影を落としていた。
その近くで、郁がぽつんと座っている。
みんなが談笑している輪から少し離れた場所だった。
「どうした」
隣に腰を下ろすと、郁は肩を揺らして振り返った。
「翼君。お疲れ様です」
笑おうとしていたが、視線はすぐ入口へ戻った。
誰を待っているのかなんて聞くまでもない。
「朝香ちゃん、まだ戻ってきませんね」
体育館の扉は閉じたままだ。
あれから一時間以上経っている。
「そのうち帰ってくるだろ」
「そうでしょうか」
郁は膝を抱えるようにして小さくなった。
「みんな、朝香ちゃんのこと嫌いになってないですかね」
「嫌いまではいかないと思う」
そこは本音だ。
朝香の演技力も実績も、みんな知っている。
ただ、距離はできてしまったかもしれない。
「怖がってはいるかもな」
郁が少しだけ顔を曇らせた。
沈黙が落ちる。
体育館の向こうでは吉田たちが笑いながら台本を読み合わせていた。
さっきまでの張り詰めた空気が嘘みたいだ。
「私、ちょっとわかるんです」
ぽつりと郁が言った。
「何がだ?」
「朝香ちゃんのことです」
郁は入口を見たまま続ける。
「たぶん朝香ちゃん、自分が何を間違えたのか、本当はよくわかってないんじゃないかなって」
その言葉に少し驚く。
俺も似たようなことは考えていたが、郁の口から出るとは思わなかった。
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、昔の私と少し似てますから。私も普通に友達が欲しかったんです」
そう言って自分の制服の裾を摘まむ。
「でも、作り方がわからなかった」
声は静かだった。
「話しかけたいのに話しかけられないし、頑張って話しかけても変な空気になるし……だから、どうして上手くいかないのかわからなくて」
郁が当時を思い出したかのように笑う。
その笑顔が消えたあと、彼女は少し真面目な顔になる。
「翼君はできない理由を教えてくれて、解決法まで伝授してくれました」
郁の視線がこちらへ向く。
「だから、少しずつ変われたんです」
その言葉に返事はしなかった。
俺自身、そこまで大層なことをしたつもりはないが、郁にとっては違ったのだろう。
「朝香ちゃんの場合は、たぶん……」
体育館の入口を見つめながら郁は言う。
「今までずっとできちゃったから、できない人の気持ちがわからないんだと思います」
言われてみればその通りだった。
朝香は天才だ。
できない経験が圧倒的に少ない。
だから、教えることが苦手なのかもしれない。
「でも、朝香ちゃんは悪い子じゃないです。それは翼君がよくわかってますよね」
「ハッ、どうだろうな」
俺は朝香のことを何も知らない。
いい子か悪い子かも、当時の俺は考えもしなかった。
だって、俺が見ている朝香はすごい演技ができていればそれでよかったからだ。
眩しくて、憧れて、いつまでもその背中を追っていたくなる。
そんな俺にとっての憧れだったのだ。
「怖かったですけど、本気だったのは伝わりました」
郁は微笑むと続ける。
「朝香ちゃん、みんなに上手くなってほしかったんですよね」
「ったく、妬けるなぁ」
「え?」
「なんでもない」
出会ってそんなに経ってない郁のほうが朝香のことを理解しているようで、どこかモヤっとした気持ちが首をもたげる。
体育館の外では、吹奏楽部の練習音が遠く聞こえていた。
「み゛」
それと同時にどこからか、絶命寸前のセミのような声が聞こえた気がした。