あたしの名前は羽田朝香。
文化祭で演技指導をすることになった女優だ。
「帆林さん、さっきから動きが鈍いわ。頭バッカで考えて、演じようとするから役になれないのよ」
「っ、ごめんなさい」
声を張り上げた瞬間、喉の奥が焼けるように熱くなった。
見えているものが伝わらないもどかしさ。
至極簡単なことなのに、こんなにも思い通りにいかない。
「もう一度」
手を叩くと、芝居がまた始まる。
池手さんの書いたこの脚本は、まるであたしのために用意された台本のように見えた。
読んだ瞬間、この役は誰にも渡したくないと思った。
それなのに、あたしはこの役を演じられない。
舞台に立てないという条件が、こんなにも歯痒いものだとは知らなかった。
「私は普通になれない……」
「オレと、オマエ。コウシテ、ナニゲナイハナシをシテル。コレッテ、フツウじゃね」
「ソウヨ。ワタシタチ、フツウのトモダチジャナイ」
棒読みのイントネーションが、耳の奥にざらついた感触を残す。
カクカクと折れる動き。
頭の中では、あるべき形がはっきりと見えているのに、目の前の光景がそれとまるで重ならない。
「あー、ダメダメダメ。棒読みはともかく、カクカクした動きして、なんのつもり」
「少しは落ち着いたらどうだ?」
翼の声が、横から割り込んでくる。
「翼はこんなお遊戯会にも満たないクオリティで満足できるっていうの」
「朝香。言葉を慎め。プロのクオリティを演技未経験者に求めるなんて理不尽だろ」
「でも――」
「朝香が今怒ってるのは、みんなが下手だからじゃない。頭の中に完成形があるからだ」
その一言に、喉の奥が詰まった。
「それ、は……」
「自分には見えてるから、相手にも見えてて当然だと思ってる」
「だったら、そこへ導くのが演出でしょ」
「導けてないだろ」
翼はいつになく揺るがない目でこちらを見ていた。
「今のお前がやってるのは演出じゃない。答えを知ってる人間が、答えを知らない人間に怒鳴っているだけだ」
言葉を返そうとして、口が閉じた。
答えを知っている人間が、答えを知らない人間に怒鳴っている。
怒鳴っているつもりなんて、なかったのに……。
体育館の中で、帆林さんたちがこちらを気まずそうに見ている。
「郁たちは役者じゃない。俺たちが教えてもらってきたやり方で同じように伸びるわけないだろ」
「でも、それ以外のやり方なんて……」
言葉が続かなかった。本気で、わからなかった。
あたしは物心ついた頃から現場にいた。
そこで、大勢の先輩俳優や演出家、監督から芝居を叩き込まれた。
だから、自分を育ててくれた人たちにしてもらったように、あたしも教えるのが正解だと思っていた。
だって、あたしは今までそうやって成長させてもらってきたから。
「朝香。ここは俺に任せてくれないか」
その言葉が、想像していたよりずっと深く刺さった。
任せてくれ、という言い方は、あたしを外に出すための優しさだ。
優しさだとわかるからこそ、拒む理由が見つからなかった。
「……わかった。翼に任せるわ」
声を絞り出すようにしてそれだけ言うと、あたしは体育館を出た。
足取りが自分でも情けないくらいふらついている。
振り返らずに扉をくぐると、廊下の空気が急に冷たく感じられた。
廊下の途中で立ち止まり、手すりに寄りかかる。
あたしは誰かに教えることも、誰かと一緒に何かを作ることも、本当の意味ではやったことがなかった。
ただ、自分一人で完成させることだけを、ずっとやってきただけだった。
どれくらい経っただろうか。
壁の時計を見上げると、思っていたより長い時間が過ぎている。
体育館に戻ろうと足を向けたところで、開いたままの扉の隙間から、聞き覚えのある声が漏れてきた。
帆林さんの声だった。
「私、ちょっとわかるんです」
足が自然と止まる。
壁に身を寄せて、その先を聞いてしまう。
褒められた行いではないのはわかっていたが、体が勝手にその場に留まった。
「朝香ちゃんのことです。たぶん朝香ちゃん、自分が何を間違えたのか、本当はよくわかってないんじゃないかなって」
息が浅くなる。
あたしが何を間違えたか、わかっていない。
帆林さんの指摘は、胸の奥をひどく落ち着かなくさせた。
「だって、昔の私と少し似てますから。私も普通に友達が欲しかったんです。でも、作り方がわからなかった」
帆林さんの声が続く。
「翼君はできない理由を教えてくれて、解決法まで伝授してくれました。だから、少しずつ変われたんです」
その言葉に、翼が何も答えなかったのが、扉の隙間からでもわかった。
「朝香ちゃんは、たぶん……今までずっとできちゃったから、できない人の気持ちがわからないんだと思います」
帆林さんは、あたしの抱える問題を正確に言い当てていた。
なぜだろう。悔しさよりも先に、別の感情が胸の中でざわついた。
「でも、朝香ちゃんは悪い子じゃないです。それは翼君がよくわかってますよね」
「ハッ、どうだろうな」
鼻を鳴らして答えた翼の声が、想像以上に素っ気なかった。
それは、あたしに興味がないと言われているようで。
ただの田中朝香には価値がないと言われているようで。
胸が激しく痛んだ。
「み゛」