あたしの名前は田中朝香。
文化祭でまともに演技指導も出来なかった、ただの女子高生だ……。
一体あたしは、どうすればいいのか。
それを知るために、あたしは師匠の元を訪れることにした。
師匠の家は、麻布の住宅街の奥にある。
周囲の建物と比べて古い、二階建ての一軒家だ。
インターホンを押すと、すぐに繋がった。
「朝香です」
『……上がれ』
鍵が開く音がして、あたしは引き戸を引いた。
両賀千三郎。御年七十二歳。
舞台と映像を五十年以上渡り歩いてきた、この国で最も有名な俳優だ。
テレビで見せる顔は穏やかな好々爺だが、稽古場では別人になる。
あたしは彼に子役の頃から師事している。
結果を出しても褒めない。首を縦に振ることより横に振ることの方が多い。
それでも、この人のもとへ足が向くのは、師匠だけがあたしの本質を理解しているからだ。
「久しぶりじゃねぇか、小娘」
廊下の奥から声がした。
居間に通されると、師匠は座布団の上に胡坐をかいて座っていた。
作務衣姿で、手には湯呑みがある。
あたしに向けた目は、相変わらず値踏みするような色をしていた。
「まあ、座れ。茶でも飲め」
「ありがとうございます」
向かいに座ると、師匠は湯呑みを置いてあたしをじっと見た。
子役の頃から何も変わらない。この人の前に座ると、自分がどこまで透けているのか分からなくなる。
「西遊記、見たぞ」
「……いかがでしたか」
「悪くねぇ」
師匠の口から出た悪くねぇは、並みの人間が言う絶賛に近い。
それでも、続きがあるのはわかっていた。
「だがよ。お前さん、三蔵法師として弟子たちと共に生きてたか?」
答えに詰まる。
「……生きていたつもりでした」
「つもり、ね」
師匠は短く鼻を鳴らした。
「共に生きてた場面が一箇所だけあった。どこだかわかるか」
あたしは記憶を辿った。
あの洞窟のシーン。
翼の演じる歪んだ悟空と向き合った場面。
あのときこそ、あたしの中で三蔵法師が成った瞬間だった。
「……洞窟のシーンです」
「そうだ」
師匠は短く頷いた。
「他は全部、自分の世界で完結している芝居の域を出なかった」
胸の奥が、静かに痛んだ。
「お前さんの芝居はな、役を生きる力が人より強い。それは本物だ。だからこそ、惜しい」
師匠は視線をあたしへ向けた。
「お前さんは役を生きているが、我が強すぎる」
「我が、強い……」
「共演者を巻き込んで、引っ張って、精魂搾り取って、それで作品を仕上げる。クオリティは確かに上がる。だが、それは相手と共に生きている芝居じゃねぇ」
師匠は湯呑みをゆっくりと置いた。
「お前さんが相手から受け取っているのは、感情じゃなくてエネルギーそのものだ。相手が何を感じているかじゃなくて、相手のエネルギーを自分の芝居の燃料にしている」
「……それの、何が問題なんですか」
「共演者が犠牲になる」
短く、はっきりと言い切った。
「お前さんと芝居をした人間が、どんな顔で現場を出るか。気にしたことがあるか」
答えられなかった。
考えたことがなかった。
終わりよければ全てよし。
いい作品ができれば、それがお互いのためになると信じていた。
「誰かと共に生きる気のない芝居は、いずれ行き詰まる」
師匠の声に、温度はなかった。
ただの事実として置かれる言葉だった。
「お前さんは今まで、自分の芝居の強さで押し切ってきた。それで通用してきたが、それには限界がある」
「限界……」
「洞窟のあの場面だけは違った。相手が予想外のことをしてきて揺れた。引っ張るんじゃなくて、引っ張られた。その瞬間だけ、お前さんはあの小僧と共に生きていた」
あたしはしばらく黙っていた。
あの瞬間のことを思い返す。
翼がアドリブを入れた瞬間、あたしの中で何かが崩れた。
崩れたのに、芝居が止まらなかった。
崩れたまま、続きを生きた。
プライベート・AIのときと同じ感覚だった。
「んで、どういうつもりで俺んとこに来たんだ」
「……少し、行き詰まっていて」
「行き詰まった原因は?」
「学校の演劇の指導を任されているんですが、うまくいっていなくて」
「学校の、演劇ねぇ」
師匠は一度だけ目を細めてから、ゆっくりと息を吐いた。
「そもそも学校の友達とうまく付き合えねぇ相談を、俺に持ってくる時点でズレてんだよ。アホんだらァ」
「み゛……ぐっ」
「俺んとこに来い、ってのはもっと切羽詰まったときの話だ。友達付き合いの相談なら同い年の奴にしろ」
「……それができていれば苦労しません」
「開き直るな」
師匠はピシャリと言い放つ。
「ったく、ちったぁ反省しろってんだ」
師匠は腕を組んで、あたしを見据えた。
「演技未経験の人間を前にして、何をどう教えていいかわからなかった。違うか」
「……その通りです」
「当たり前だ。お前さんは物心ついた頃から現場にいた。できなかった経験が人より少ない」
呆れた様子で師匠は続ける。
「だからお前さんの教え方は、答えを持っている人間が答えを持っていない人間に講釈垂れるだけになる。相手がどこで躓いているか、本当の意味でわかっていないからだ」
「それは……」
「感動は全てを塗り潰す」
師匠はゆっくりと言葉を置いた。
「だが、どんなに上から塗りたくったところで業は消えねぇ」
「業、ですか」
「俺もお前も芝居にしか生きられねぇ人でなしだ。だからこそ、人間に擬態する努力は諦めちゃいけねぇんだよ」
「それって、どういう……」
『天翔けろ! 曇天の空を斬り裂け~♪ 鋼鉄の羽で〜♪』
あたしの問いかけを遮るように、師匠のスマホから〝アニメ 斬鉄飛翔セミブレード〟の主題歌が流れてきた。
「おっと、悪ぃな。そろそろ推しの配信時間だ」
スマホを手に取ると、師匠は音楽を止めた。
アラーム音だったんだ、それ……。
「あの、推しって……?」
「週に三回の定期雑談枠でな、これだけは外せねぇんだわ」
師匠は笑顔でU-Tubeの配信待機画面を見せてきた。
わざわざアラームつけなくても、U-Tubeの通知ONに設定すればいいのに……って、そうじゃない。
「ぶ、Vtuberを見ているんですか?」
「おうよ……生きててえらいね、っと」
師匠は推しらしきVtuberへ赤い色のスーパーチャットを送っていた。
あの色って確か一万円以上からだったような……。
「師匠って価値観が若いですよね……」
「ハッ、役者だからな。七十過ぎのジジイの俺にできんのに、若ぇおめぇが価値観のアップデートできなくてどうする」
師匠はスマホを凝視したまま告げる。
「いつまでも古臭ぇ芝居してんじゃねぇぞ、小娘」
その一言が、胸の奥まで届いた。
古臭い芝居。
自分では気づいていなかった。
あたしがやってきた演技は、確かに高い水準にある。
それは、あたしが知っている世界の中での高さに過ぎないのかもしれない。
「手の届くところに、必要なものがある。お前さんならわかるだろ」
師匠は短くそれだけ言うと、スマホを手に取った。
話は終わりだ、という合図だった。
「……ありがとうございました。失礼します」
「せいぜい精進しろ。まだまだひよっこだ、小娘……おっ、今度はスパチャじゃねぇのにコメント読まれた!」
あたしは頭を下げて、立ち上がった。
廊下を歩きながら、師匠の言葉をもう一度繰り返す。
「手の届くところに、必要なものがある……やっぱり師匠に相談してよかった」
引き戸を開けると、麻布の住宅街に夕暮れの日差しが差し込んでいた。