とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第136話 幼少期の思い出 その1

 劇団クロッカスの稽古場は、渋谷駅から少し歩いた場所にある。

 発声練習が一通り終わったとき、文野先輩が両手を打ち鳴らした。

 

「よし、せっかくだからみんなで早口勝負しようぜ。一番噛まなかった奴が優勝な」

「優勝して何が貰えるんですか」

「早口王の称号だ」

「っしゃ、早口王に俺はなる!」

 

 僕の同期である日比野錬太の漫画みたいな台詞に、稽古場にいた全員が笑った。

 文野先輩も笑いながら続ける。

 

「じゃあ順番決めるぞ。強い奴は後だから萌絵は最後な」

「……私が暫定で王」

 

 無表情なちびっ子は川越萌絵。

 声の通りと滑舌だと、僕たちの中では一番だった。

 

「それで、早口言葉って何やるんですか?」

 

 同期の中で一番芝居のうまい星井鳴が文野先輩へと尋ねる。

 

「寿限無だ」

「それって、そもそも覚えてるかどうかの問題になりません」

「なんだよ、翼。お前、寿限無覚えていないのか?」

「まさか。ちゃんと全部覚えてますよ」

 

 むしろ、完璧に覚えているからこそ勝負の公平性が怪しいと思っただけだ。

 僕の場合、担任が落語好きだったこともあり、昔やった学芸会で死ぬほど寿限無の全文を台詞で言わされたのだ。

 役が寿限無の父親である熊五郎だったこともあり、やたらと名前を呼ぶ場面が多かったのは記憶に新しい。

 

「なら、問題ないな。最初は誰がやる?」

「俺がやる!」

 

 勢いよく手を挙げたのは、錬太だった。

 

「いくぜぇ……寿限無寿限無五劫の擦り切れ――」

 

 発声練習の延長のような空気のまま早口勝負が始まった。

 腹に力を入れて、よく通る声で出だしを読んでいっていたが、〝藪ら柑子の藪柑子〟のあたりで一度つっかえる。

 悔しそうに顔をしかめたが、続きは最後まで言い切った。

 

「次はボクがやる」

 

 鳴はこういう子供っぽいノリはあまり好きじゃないはずだけど、思ったよりやる気だった。

 

「負けないから」

 

 何故か僕を睨みながら鳴は息を深く吸うと、特徴的な三白眼をかっぴらいて始める。

 

「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ――」

 

 そのまま噛むことなく最後まで寿限無を言い切った。

 ただ、ブレス配分をバランス良く意識したこともあり、そこまで疾走感が感じられなかった。

 守りに入った寿限無と言ったところだろうか。

 

「次は俺の番だ。先輩の見本を見せてやろう」

 

 一拍置いて、先輩が口を開いた。

 

「寿限無じゅげっ」

 

 出だしで噛んだ。

 その瞬間、稽古場に笑ってはいけないという緊張感が走る。

 錬太が肩を揺らし、萌絵が口元を押さえて目を逸らしている。

 先輩の即落ち二コマのような爆速フラグ回収が、腹筋にダメージを与えてきていた。

 

「ちょっと先輩、そんなに気を遣わなくていいですよ」

 

 だからこそ、あえて僕は怒った口調を意識して告げる。

 

「後輩に華を持たせようとしてくれるのはありがたいですけど、僕たちだって先輩と同じ役者なんですからね?」

「お、おう、悪かった……ははっ、まさか俺の気遣いに気づかれるとはなぁ! あっはっは!」

 

 先輩は目を泳がせながら笑って、僕の芝居に乗ってくれた。

 芸能界、特に子役は上の人間に気に入られるのが大切だ。

 特に、実力の足りていない僕のような役者にとって、先輩へのよいしょは必須の技術だ。

 

「じゃ、次は翼の番だね」

 

 僕の番が回ってきた。

 先輩が噛んだ時点で、僕の動きは決まっている。

 

「じゅっ」

 

 役者として格好付けた後で、先輩よりも早い箇所で噛む。

 先輩よりダサく見えるように芝居を打つ。

 狙い通り、鳴を除いたその場にいた全員から笑いが起きる。

 

「お前、あんなカッコイイこと言っておいて初手噛みかよ!」

「くくっ……」

「おいおい、気ぃ遣わなくてもいいだぞ?」

「チッ……」

 

 この勝負で得られるものは元々何もなかった。

 なら先輩からの好感度と先輩のときに我慢した笑いを同期が発散できるほうが利がある。

 笑いが収まって、全員が一巡した。

 最後に萌絵が前に出た。

 

「……じゃ、私の番」

 

 萌絵は姿勢を整えて、一度目を閉じてから始めた。

 

「寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところ藪ら柑子の藪柑子パイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」

 

 嘘だろ……ワンブレスで言い切っちゃったよ。

 その小さな身体のどこに、酸素が蓄えられているのか。

 少なくとも、肺活量だけなら朝香以上だ。

 言い切った瞬間、自然と拍手が起きた。

 

「萌絵の優勝ー!」

「……よし!」

 

 萌絵が小さくガッツポーズをする。

 全員で拍手をしていると、稽古場の入口に朝香が立っているのが目に入った。

 いつから来ていたのかわからない。

 

 ドアの脇の壁に背をつけて、腕を組んでいた。

 何人かが気づいて、空気が変わった。

 

「おう、朝香ちゃん。混ぜてやろうか?」

「ええ。いいですよ」

 

 文野先輩が声をかけた。

 朝香は一歩踏み出すたびに、周囲が自然に場所を空けた。

 それから朝香はその場で正座しはじめた。

 まるで、落語家のような体勢である。

 

「寿限無寿限無五劫の擦り切れ――」

 

 それは早口言葉ではなかった。

 語り口に緩急があった。

 テンポが一定ではなく、言葉の重みに応じて速くなったり、ほんのわずかに間が入ったりする。

 寿限無という長い名前の一つひとつに、つけた親の感情が乗っていた。

 

「これって……」

 

 僕は声音と息づかいだけで、朝香がどの場面の寿限無をやっているのかがわかってしまった。

 寿限無の下げは、名前が長すぎて呼んでいる間に頭をぶった子のコブが引っ込んでしまうというもの。

 だけど、本来の下げは名前が長すぎて呼んでいる間に川に落ちた寿限無が亡くなってしまうという残酷なものだった。

 僕は担任の先生が落語好きだったから知っているが、普通の人は本来の下げを知らないことの方が多い。

 朝香は本来の下げでの、川に落ちた寿限無を呼ぶ熊五郎の台詞として寿限無を言っていた。

 

「シューリンガンのグーリンダイ――」

 

 息切れしながら叫ぶ声の奥には本物の焦りがある。

 川に向かって名前を呼び続ける父親の、愛情と焦燥が、どちらも本物として同時に存在していた。

 長い名前を何度も呼ぶことの滑稽さと、切迫した状況であることの表現。

 同じ言葉なのに、聞こえ方がまるで違う。

 

「長久命の長助ェ!」

 

 朝香が最後まで言い切った。顔を上げた。

 その目は既にどこか遠くにあって、落語家の気配がまだ残っていた。

 少し間を置いてから、それが消えた。

 

「勉強不足ね。寿限無は早口言葉じゃないわ。子を想って長い名前を付けたことが仇となって子の命を奪ってしまう皮肉の物語よ」

 

 それから稽古場を見回して、一人ずつ視線を当てた。

 

「それでも役者?」

 

 それだけ言い残して、自分の荷物を取りに行った。

 稽古場に静けさが残り、和やかだった空気の温度は氷点下まで下がった。

 誰も何も言わず、錬太がかすかに息を吐き、萌絵も視線を床に落とす。

 鳴は肩を竦めて笑顔を浮かべており、文野先輩は口を半開きにして固まっていた。

 そんな中、俺は朝香の背中を見ていた。

 

 同じ言葉を使って、同じ題材をやって、全員が技術の話をしている間に、朝香だけが役を生きる話をしていた。

 活舌でも、テンポでも、声量でもなく、人間がそこにいるかどうかの話だった。

 

 その場所にいられなかった自分が、俳優として悔しかった。

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