とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第137話 幼少期の思い出 その2

 気がつけば、僕は朝香を追いかけていた。

 

「朝香。さっきの寿限無すごかったね!」

「ハッ、くだらないわね」

 

 荷物を肩にかけた朝香が、鋭い目つきで僕を睨み付ける。

 

「さっきの文野先輩へのフォロー」

「な、何のこと?」

「ダメな人間にはダメと言うべきよ。その方が相手のためになる」

 

 正しいとか間違いとかではなく、そうすべきだと思っているから言っている、という様子だった。

 

「場の空気が悪くなったら、その後の稽古に影響するじゃん」

「稽古の質は一人ひとりの本気度で決まる。場の空気で誤魔化すのは、全員に対して失礼よ」

 

 朝香の声に迷いはなかった。

 迷いがないところが、いつも僕を黙らせる。

 

「でもさ、文野先輩だって頑張ってたんだよ。噛んじゃったのだって、わざとじゃないし」

「頑張ってるかどうかと、できてるかどうかは別の話」

「そんなの厳しすぎるよ」

「厳しいんじゃなくて、当たり前のことを言ってるだけ」

 

 朝香は足を止めて、こちらを振り返った。

 稽古場の窓から差し込む夕方の光が、片方の頬だけを白く染めている。

 

「先輩を立てるのだって大事なことでしょ」

「立てる必要なんてないでしょう」

 

 朝香の声に、初めて感情らしいものが滲んだ。

 

「あなたが下手なふりをしたところで、文野さんの実力は変わらない。むしろ、できない人間ができないままでいいって空気を作っただけ」

「そんなつもりじゃ……」

「つもりじゃなくても、結果はそうなるの」

 

 言葉が、すとんと足元に落ちてくる。

 反論したいのに、うまく言葉が見つからない。

 

「みんながみんな、朝香みたいに一回でできるわけじゃないんだよ。失敗して、恥かいて、それでも次がんばろうって思える時間も必要なんだ」

「それは甘え」

 

 間を置かず、朝香が返してくる。

 

「せっかく腕を上げてきてるのに、自分からできない振りをするなんて三流もいいところよ。あたしを超えるんじゃなかったの?」

「それは……」

 

 ずっとそれを目標に頑張ってきた。

 好きな子を超えて、恋人になる。

 そのために僕は役者になったんだ。

 

「僕は朝香を超える。やり方は違うけど、やってみせる」

「言うじゃない」

 

 覚悟を込めて朝香を真っすぐに見据えると、朝香は挑発的な笑みを浮かべる。

 

「あたしに口出しできるのは、監督と――あたしより演技の上手い人間だけよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、頭の奥がカッと熱を持った。

 

「言ったね」

「ふん、事実を言っただけだけよ」

「じゃあ、勝負しよう」

 

 言葉になる前に、口が先に動いていた。

 朝香の片眉が、わずかに上がる。

 

「勝負?」

「演技で勝負する。朝香に口出しできるのは演技で勝った人間だけなんでしょ。今ここで決めよう」

 

 値踏みするような視線が、しばらくこちらに留まる。

 やがて唇の端が、ほんの少し持ち上がった。

 

「いいわ。どうする?」

「いつもみたいに、僕が勝ったら――」

 

 その先の言葉を意識してゆっくりと置く。

 

「恋人になってくれる?」

「いいわ。どうせ勝てないでしょうけど」

 

 朝香は鞄を肩にかけ直しながら続ける。

 

「まあ、その、何? あたしが認めた演技ができたら、頬にキスくらいはしてあげても、いいかもね?」

 

 その言葉に、息が止まりそうになった。

 涼しい顔をしているはずの朝香の頬が、ほんの僅かに色づいている気がした。

 

「受けて立つ!」

「決まりね」

 

 稽古場の隅、誰も使っていない練習室を借りた。

 壁一面に貼られた鏡が、蛍光灯の光を白く跳ね返している。

 

「お題は……そうね」

 

 朝香はしばらく考えてから告げた。

 

「恋人を失った人」

「それ、ちょっと簡単じゃない?」

「シンプルだからこそ、誤魔化しが効かないのよ」

 

 言われてみれば、その通りな気がする。

 派手な設定も複雑な背景もない。

 大切な人を失った人間を演じる。

 それだけで、嘘はすぐに底が見えてしまう。

 

「先攻はどっちがやる?」

「あなたからやりなさい」

 

 朝香が壁際に腰を下ろし、腕を組む。

 審査員としての目が、こちらに据えられた。

 恋人を失った人間を外側から組み立てる。

 肩を落とす。視線を一点に固定しない。呼吸を浅く、時折大きく吸う。

 悲しみよりも、現実を受け入れられない人間の動きを意識した。

 

「どこに、いるんだよ」

 

 声が掠れた。

 探すように視線を彷徨わせる。

 手を伸ばし、何もない空間を掴もうとして、止める。

 

「は、はは……そっか、もう、ここにはいないんだ」

 

 それらしい形は作れていたはずだ。

 台詞も間も、悪くはなかった。

 数十秒ほど演じて、息を吐いた。

 

「……どう、かな」

 

 朝香は何も言わなかった。

 

「次はあたしね」

 

 声に余計な装飾がない。

 目を閉じたまま、数秒その場で動かない。

 そして、目を開けた瞬間、何かが変わっていた。

 同じはずの輪郭が、違う質量を持って見えた。

 

「ねぇ」

 

 声が出た瞬間、空気の密度が変わる。

 さっきの僕の声とは、まるで違う質感だった。

 探すような視線でも、彷徨う視線でもない。

 

「今日、何時に待ち合わせだったっけ」

 

 朝香は、いない誰かに向かって笑いかけていた。

 その笑顔の自然さに、背筋を冷たいものが伝う。

 

「いつも遅刻するのに、今日はもう着いてるの? 珍しいじゃない」

 

 返事のない空間に、朝香は話しかけ続ける。

 この演技には、悲しみという感情が追い付いていなかった。

 もっと手前の段階。

 失ったことを、まだ理解していない人間の姿だった。

 

「ねぇ、聞いてる?」

 

 笑顔のまま、声だけがわずかに掠れる。

 

「ねぇったら……」

 

 呼びかけてから長い間があった。

 その沈黙の中で、朝香の表情がゆっくりと崩れていく。

 崩れるというより、塗り重ねた色が一枚ずつ剥がれていくような変化だった。

 

「返事、してよ……バカ」

 

 演技だとわかっているのに、見ている喉が締め付けられる。

 

「ごめんね。ちょっとだけ、まだ呼びかけたかったの」

 

 肩を震わせ、涙を流したまま笑っていた。

 長い沈黙のあと、朝香はゆっくりと息を吐いた。

 

「どうかしら?」

 

 静寂が落ちる。

 言葉が出てこなかった。

 涙を拭った朝香は、もういつもの顔に戻っていた。

 

「講評するわね」

 

 声に淡々とした温度が戻っていた。

 

「まず、あなたの演技。動きの作り方は悪くなかった。視線の彷徨わせ方、呼吸の浅さ。教科書通りで、正解は押さえてる」

「だけど?」

「誰を想像して演じたの?」

 

 核心を突かれて、言葉が喉の奥で止まった。

 

「具体的な誰かを思い浮かべないまま演じたでしょう。だから、悲しみの形が一般論止まりなのよ。〝恋人を失った人〟というテンプレートをなぞっただけ」

 

 反論の材料が見つからない。

 全部、朝香の言う通りだった。

 

 腕を組んだ朝香が続ける。

 

「一番がっかりしたのは、台詞よ。〝どこにいるんだよ〟って、ただの説明セリフ。状況を喋ってるだけで、感情がそこにない」

「手厳しいなぁ」

「事実よ」

 

 言い切られると、返す言葉が見つからない。

 朝香は一拍置いてから、声の角度を少しだけ変えた。

 

「一つだけ、良かったところがあるわ」

「どこ?」

「最後の〝ここにはいないんだ〟の部分。あそこだけ、声に芯があった」

 

 こちらの目を、まっすぐに見ている。

 

「あそこだけ、誰かの顔が見えた気がした」

 

 そう言われて初めて気づくことがあった。

 あの一瞬だけ、頭の中に浮かんでいたのは、母さんの優しかった顔だった。

 それを失ったら、と想像してみたのだ。

 

 子役になって最初のほうで教わった〝もしお母さんが死んだら〟の応用である。

 

「そこだけは、本物だったわ」

 

 朝香が近づいてくる。

 

「だから、あのね……その、約束通り」

 

 声が少しだけ柔らかくなっていた。

 

「ご褒美くらいは、あげよっかなって」

 

 背伸びをした朝香の唇が、頬に向かって近づいてくる。

 完全に負けたはずなのに、何かが腑に落ちなかった。

 あの一瞬の演技だけを根拠に、施しのように与えられるのが嫌だった。

 

 勝負は勝負、負けは負けだ。

 本気で超えたいと思っている好きな子から施しを与えられるのは、僕のプライドが許さなかった。

 

「やっぱり、なしで――」

 

「んっ!?」

 

 頬に落ちるはずだった唇が、唇に触れた。

 時間の流れが、一瞬だけ薄くなった気がした。

 朝香の目が、限界まで見開かれている。

 柔らかい感触が、数秒だけ続いた。

 離れた瞬間、練習室の蛍光灯の白さが妙に眩しく感じられた。

 

「な、ななな、なななな」

 

 朝香の顔が、耳まで赤く染まっていく。

 両手で口元を押さえたまま、朝香はしばらく固まっていた。

 

「み゛」

 

 そして、今まで聞いたことのない絶命寸前のセミのような声が、彼女の喉から絞り出された。

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