気がつけば、僕は朝香を追いかけていた。
「朝香。さっきの寿限無すごかったね!」
「ハッ、くだらないわね」
荷物を肩にかけた朝香が、鋭い目つきで僕を睨み付ける。
「さっきの文野先輩へのフォロー」
「な、何のこと?」
「ダメな人間にはダメと言うべきよ。その方が相手のためになる」
正しいとか間違いとかではなく、そうすべきだと思っているから言っている、という様子だった。
「場の空気が悪くなったら、その後の稽古に影響するじゃん」
「稽古の質は一人ひとりの本気度で決まる。場の空気で誤魔化すのは、全員に対して失礼よ」
朝香の声に迷いはなかった。
迷いがないところが、いつも僕を黙らせる。
「でもさ、文野先輩だって頑張ってたんだよ。噛んじゃったのだって、わざとじゃないし」
「頑張ってるかどうかと、できてるかどうかは別の話」
「そんなの厳しすぎるよ」
「厳しいんじゃなくて、当たり前のことを言ってるだけ」
朝香は足を止めて、こちらを振り返った。
稽古場の窓から差し込む夕方の光が、片方の頬だけを白く染めている。
「先輩を立てるのだって大事なことでしょ」
「立てる必要なんてないでしょう」
朝香の声に、初めて感情らしいものが滲んだ。
「あなたが下手なふりをしたところで、文野さんの実力は変わらない。むしろ、できない人間ができないままでいいって空気を作っただけ」
「そんなつもりじゃ……」
「つもりじゃなくても、結果はそうなるの」
言葉が、すとんと足元に落ちてくる。
反論したいのに、うまく言葉が見つからない。
「みんながみんな、朝香みたいに一回でできるわけじゃないんだよ。失敗して、恥かいて、それでも次がんばろうって思える時間も必要なんだ」
「それは甘え」
間を置かず、朝香が返してくる。
「せっかく腕を上げてきてるのに、自分からできない振りをするなんて三流もいいところよ。あたしを超えるんじゃなかったの?」
「それは……」
ずっとそれを目標に頑張ってきた。
好きな子を超えて、恋人になる。
そのために僕は役者になったんだ。
「僕は朝香を超える。やり方は違うけど、やってみせる」
「言うじゃない」
覚悟を込めて朝香を真っすぐに見据えると、朝香は挑発的な笑みを浮かべる。
「あたしに口出しできるのは、監督と――あたしより演技の上手い人間だけよ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥がカッと熱を持った。
「言ったね」
「ふん、事実を言っただけだけよ」
「じゃあ、勝負しよう」
言葉になる前に、口が先に動いていた。
朝香の片眉が、わずかに上がる。
「勝負?」
「演技で勝負する。朝香に口出しできるのは演技で勝った人間だけなんでしょ。今ここで決めよう」
値踏みするような視線が、しばらくこちらに留まる。
やがて唇の端が、ほんの少し持ち上がった。
「いいわ。どうする?」
「いつもみたいに、僕が勝ったら――」
その先の言葉を意識してゆっくりと置く。
「恋人になってくれる?」
「いいわ。どうせ勝てないでしょうけど」
朝香は鞄を肩にかけ直しながら続ける。
「まあ、その、何? あたしが認めた演技ができたら、頬にキスくらいはしてあげても、いいかもね?」
その言葉に、息が止まりそうになった。
涼しい顔をしているはずの朝香の頬が、ほんの僅かに色づいている気がした。
「受けて立つ!」
「決まりね」
稽古場の隅、誰も使っていない練習室を借りた。
壁一面に貼られた鏡が、蛍光灯の光を白く跳ね返している。
「お題は……そうね」
朝香はしばらく考えてから告げた。
「恋人を失った人」
「それ、ちょっと簡単じゃない?」
「シンプルだからこそ、誤魔化しが効かないのよ」
言われてみれば、その通りな気がする。
派手な設定も複雑な背景もない。
大切な人を失った人間を演じる。
それだけで、嘘はすぐに底が見えてしまう。
「先攻はどっちがやる?」
「あなたからやりなさい」
朝香が壁際に腰を下ろし、腕を組む。
審査員としての目が、こちらに据えられた。
恋人を失った人間を外側から組み立てる。
肩を落とす。視線を一点に固定しない。呼吸を浅く、時折大きく吸う。
悲しみよりも、現実を受け入れられない人間の動きを意識した。
「どこに、いるんだよ」
声が掠れた。
探すように視線を彷徨わせる。
手を伸ばし、何もない空間を掴もうとして、止める。
「は、はは……そっか、もう、ここにはいないんだ」
それらしい形は作れていたはずだ。
台詞も間も、悪くはなかった。
数十秒ほど演じて、息を吐いた。
「……どう、かな」
朝香は何も言わなかった。
「次はあたしね」
声に余計な装飾がない。
目を閉じたまま、数秒その場で動かない。
そして、目を開けた瞬間、何かが変わっていた。
同じはずの輪郭が、違う質量を持って見えた。
「ねぇ」
声が出た瞬間、空気の密度が変わる。
さっきの僕の声とは、まるで違う質感だった。
探すような視線でも、彷徨う視線でもない。
「今日、何時に待ち合わせだったっけ」
朝香は、いない誰かに向かって笑いかけていた。
その笑顔の自然さに、背筋を冷たいものが伝う。
「いつも遅刻するのに、今日はもう着いてるの? 珍しいじゃない」
返事のない空間に、朝香は話しかけ続ける。
この演技には、悲しみという感情が追い付いていなかった。
もっと手前の段階。
失ったことを、まだ理解していない人間の姿だった。
「ねぇ、聞いてる?」
笑顔のまま、声だけがわずかに掠れる。
「ねぇったら……」
呼びかけてから長い間があった。
その沈黙の中で、朝香の表情がゆっくりと崩れていく。
崩れるというより、塗り重ねた色が一枚ずつ剥がれていくような変化だった。
「返事、してよ……バカ」
演技だとわかっているのに、見ている喉が締め付けられる。
「ごめんね。ちょっとだけ、まだ呼びかけたかったの」
肩を震わせ、涙を流したまま笑っていた。
長い沈黙のあと、朝香はゆっくりと息を吐いた。
「どうかしら?」
静寂が落ちる。
言葉が出てこなかった。
涙を拭った朝香は、もういつもの顔に戻っていた。
「講評するわね」
声に淡々とした温度が戻っていた。
「まず、あなたの演技。動きの作り方は悪くなかった。視線の彷徨わせ方、呼吸の浅さ。教科書通りで、正解は押さえてる」
「だけど?」
「誰を想像して演じたの?」
核心を突かれて、言葉が喉の奥で止まった。
「具体的な誰かを思い浮かべないまま演じたでしょう。だから、悲しみの形が一般論止まりなのよ。〝恋人を失った人〟というテンプレートをなぞっただけ」
反論の材料が見つからない。
全部、朝香の言う通りだった。
腕を組んだ朝香が続ける。
「一番がっかりしたのは、台詞よ。〝どこにいるんだよ〟って、ただの説明セリフ。状況を喋ってるだけで、感情がそこにない」
「手厳しいなぁ」
「事実よ」
言い切られると、返す言葉が見つからない。
朝香は一拍置いてから、声の角度を少しだけ変えた。
「一つだけ、良かったところがあるわ」
「どこ?」
「最後の〝ここにはいないんだ〟の部分。あそこだけ、声に芯があった」
こちらの目を、まっすぐに見ている。
「あそこだけ、誰かの顔が見えた気がした」
そう言われて初めて気づくことがあった。
あの一瞬だけ、頭の中に浮かんでいたのは、母さんの優しかった顔だった。
それを失ったら、と想像してみたのだ。
子役になって最初のほうで教わった〝もしお母さんが死んだら〟の応用である。
「そこだけは、本物だったわ」
朝香が近づいてくる。
「だから、あのね……その、約束通り」
声が少しだけ柔らかくなっていた。
「ご褒美くらいは、あげよっかなって」
背伸びをした朝香の唇が、頬に向かって近づいてくる。
完全に負けたはずなのに、何かが腑に落ちなかった。
あの一瞬の演技だけを根拠に、施しのように与えられるのが嫌だった。
勝負は勝負、負けは負けだ。
本気で超えたいと思っている好きな子から施しを与えられるのは、僕のプライドが許さなかった。
「やっぱり、なしで――」
「んっ!?」
頬に落ちるはずだった唇が、唇に触れた。
時間の流れが、一瞬だけ薄くなった気がした。
朝香の目が、限界まで見開かれている。
柔らかい感触が、数秒だけ続いた。
離れた瞬間、練習室の蛍光灯の白さが妙に眩しく感じられた。
「な、ななな、なななな」
朝香の顔が、耳まで赤く染まっていく。
両手で口元を押さえたまま、朝香はしばらく固まっていた。
「み゛」
そして、今まで聞いたことのない絶命寸前のセミのような声が、彼女の喉から絞り出された。