懐かしい夢を見た。
「そういや、俺のファーストキスって朝香だったんだよなぁ……」
今思えば酷い話だと思う。
負けたくせに断ろうとして振り向いて、結果的に唇を奪ってしまったのだから。
まあ、過ぎたことは過ぎたことだ。
本格的に文化祭の準備期間に入ってから、演劇の練習時間が大幅に取れるようになった。
体育館を使える時間が増えて、キャストたちの動きも少しずつ形になり始めている。
朝香は今日も稽古に参加していなかった。
郁のように、個別に教えを請いに来ている人には教えているようだが。
大道具の作業スペースに回っていて、背景に使うパネルの色塗りを手伝っていた。
刷毛を持って、黙々と作業している。
邪魔にならない場所を選んで、余計な口を開かない。それが今の朝香の立ち位置だった。
「朝香ちゃん。大丈夫でしょうか」
郁が俺の隣で、心配そうにそちらを見ていた。視線がパネルの方と俺の方を行き来している。
「朝香もわかってるんだ。自分が稽古に来ると、せっかく和らいだ空気が壊れるって」
「そんな……」
郁の声が小さくなった。否定したいが、否定できない、という顔だった。
「しっかし、この空気は良くないな」
稽古スペースと大道具スペースの間に、目には見えない境界線が引かれているような感覚があった。
朝香本人は、気づいているのかどうかわからない。大道具の作業に集中していて、周囲の空気を読もうとしている様子が見えなかった。
ただ、稽古に来なくなったのは本人なりの判断のはずだった。
「郁」
「はい」
「朝香の個別演技指導、ここ数日はどうだ」
「丁寧にしてくれていますよ。ただ、前より言葉数が少なくなった気がします。出しゃばらないようにしているというか」
「そうか」
郁はしばらく考えてから続ける。
「翼君が言っていた、相手の立場になること。朝香ちゃん、意識しようとしているとは思うんです。でも、まだどこかぎこちない感じがして」
「急に変われるもんじゃないからな」
「それはそうなんですけど……このままだとクラスとの距離がもっと広がってしまいそうで」
郁の言う通りだった。
朝香が稽古から離れたのは、自分がいることで場の空気を壊すとわかっているからだ。
それは相手への配慮として正しい判断だった。
離れ続けることが解決にはならない。
距離が広がれば、互いに相手のことがわからなくなっていく。
問題は、朝香がどう関わるかではなく、クラスメイトたちが朝香をどう見ているか、という部分にもあった。
最初に抱いたイメージが崩れたとき、人間は修正するよりも、最初のイメージが幻想だったと結論づける方向に流れやすい。
そういう人だったんだ、という解釈は、一度定着すると覆しにくい。
「翼君、何か考えてますか」
「少しな」
「どんな?」
「まだ、はっきりしてないけど、このままにしておくつもりはない」
郁が小さく頷いた。大道具スペースの方で、朝香が刷毛を動かしている音が聞こえていた。
稽古の声と、絵の具の匂いと、体育館特有の埃っぽい空気が混ざる。
文化祭まで、時間はあまり残されていなかった。