とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第138話 文化祭の準備期間

 懐かしい夢を見た。

 

「そういや、俺のファーストキスって朝香だったんだよなぁ……」

 

 今思えば酷い話だと思う。

 負けたくせに断ろうとして振り向いて、結果的に唇を奪ってしまったのだから。

 まあ、過ぎたことは過ぎたことだ。

 

 本格的に文化祭の準備期間に入ってから、演劇の練習時間が大幅に取れるようになった。

 体育館を使える時間が増えて、キャストたちの動きも少しずつ形になり始めている。

 朝香は今日も稽古に参加していなかった。

 郁のように、個別に教えを請いに来ている人には教えているようだが。

 

 大道具の作業スペースに回っていて、背景に使うパネルの色塗りを手伝っていた。

 刷毛を持って、黙々と作業している。

 邪魔にならない場所を選んで、余計な口を開かない。それが今の朝香の立ち位置だった。

 

「朝香ちゃん。大丈夫でしょうか」

 

 郁が俺の隣で、心配そうにそちらを見ていた。視線がパネルの方と俺の方を行き来している。

 

「朝香もわかってるんだ。自分が稽古に来ると、せっかく和らいだ空気が壊れるって」

「そんな……」

 

 郁の声が小さくなった。否定したいが、否定できない、という顔だった。

 

「しっかし、この空気は良くないな」

 

 稽古スペースと大道具スペースの間に、目には見えない境界線が引かれているような感覚があった。

 朝香本人は、気づいているのかどうかわからない。大道具の作業に集中していて、周囲の空気を読もうとしている様子が見えなかった。

 ただ、稽古に来なくなったのは本人なりの判断のはずだった。

 

「郁」

「はい」

「朝香の個別演技指導、ここ数日はどうだ」

「丁寧にしてくれていますよ。ただ、前より言葉数が少なくなった気がします。出しゃばらないようにしているというか」

「そうか」

 

 郁はしばらく考えてから続ける。

 

「翼君が言っていた、相手の立場になること。朝香ちゃん、意識しようとしているとは思うんです。でも、まだどこかぎこちない感じがして」

「急に変われるもんじゃないからな」

「それはそうなんですけど……このままだとクラスとの距離がもっと広がってしまいそうで」

 

 郁の言う通りだった。

 朝香が稽古から離れたのは、自分がいることで場の空気を壊すとわかっているからだ。

 それは相手への配慮として正しい判断だった。

 

 離れ続けることが解決にはならない。

 距離が広がれば、互いに相手のことがわからなくなっていく。

 問題は、朝香がどう関わるかではなく、クラスメイトたちが朝香をどう見ているか、という部分にもあった。

 

 最初に抱いたイメージが崩れたとき、人間は修正するよりも、最初のイメージが幻想だったと結論づける方向に流れやすい。

 そういう人だったんだ、という解釈は、一度定着すると覆しにくい。

 

「翼君、何か考えてますか」

「少しな」

「どんな?」

「まだ、はっきりしてないけど、このままにしておくつもりはない」

 

 郁が小さく頷いた。大道具スペースの方で、朝香が刷毛を動かしている音が聞こえていた。

 稽古の声と、絵の具の匂いと、体育館特有の埃っぽい空気が混ざる。

 

 文化祭まで、時間はあまり残されていなかった。

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