あたしの名前は田中朝香。
今日もクラスメイトに距離を置かれながら、黙々と大道具の塗装作業をこなしているただの女子高生だ。
刷毛を動かしながら、稽古場の方からガヤガヤと賑やかな声が届いてくる。
師匠の言葉が、まだ頭の隅に居座っていた。
『人間に擬態する努力を、諦めちゃいけねぇんだよ』
擬態。その言葉の選び方が、師匠らしいと思った。
あたしのような芝居でしか生きられない人間は、本物の人間関係というものがわかっていない。
だから、擬態するしかない。
刷毛を動かす手を止めないまま、観察のためにクラスの声に耳を傾ける。
西遊記の話題らしい。
翼の声がその中に混じっていた。
「しかも今回はキスシーンだかんね! ルナぴとキスなんて羨ましいぞ、このこの~」
「キスシーンってか、あれは演出上の人工呼吸だからな」
「そうだけど、No.1アイドルとのキスだよ! やっぱテンション上がってたんじゃないの?」
鹿角さんの声が、はっきりと届いた。
翼とルナのキスシーン。
あのシーンだけは放送されたときに見ることができなかった。
台本通りの人工呼吸だとわかっていても、翼とルナの唇が重なったときのことを思い出すと、脳がチカチカしてくるのだ。
それを自覚した瞬間、自分が嫌になる。
役者として、あんな粗末な感情に引きずられているなんて。
塗料を刷毛に含ませて、余計なことを考えないようにした。
「キスって言っても、演技の一部だぞ?」
翼の声は、どこまでも平然としていた。
あたしが思うより、翼はずっとドライだ。
それはわかっていたつもりだった。
わかっていたのに、聞くたびに心のどこかで引っかかる。
「別にファーストキスってわけでもないからな。本当になんとも思ってないぞ」
刷毛を持つ手が止まった。
ファーストキス。
その言葉だけが、周囲の声から切り離されて耳に届く。
違う、聞き間違いだ。
そんなわけがない。
翼がそんなことを気にしているわけがない。
刷毛を動かそうとした手が、動かせなくなってしまった。
「朝香だぞ。あれは演技じゃなかったけどな」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の中で、あの日の稽古場の光景が鮮明に蘇る。
演技勝負に負けたのに、施しみたいに与えられるのは嫌だと感じた翼が振り向いた。
あたしが頬に落とそうとしたキスが、唇に当たってしまったのだ。
翼のファーストキスは、あたしだ。
思い出したその事実に、熱が上がってくる。
ダメだ、顔に出てきちゃう。
刷毛を持つ手に力を込めて、どうにか止めようとしたが、無理だった。
稽古場の方から声が飛んでくる。
視線が、こちらへ集まってくる気配がした。
「な、なななな、何を言って……!」
気づいたら声が出ていた。
しかも、盛大に声が裏返った。
あたしが弁明しようとするたびに、クラスが盛り上がっていく。
こういうとき、笑いが場を加速させることはよく知っている。
止めようとすれば止めようとするほど、余計に燃料になっていく。
それをわかっていても、止められなかった。
羽田朝香の仮面を被り直す余裕が、今のあたしにはなかった。
「朝香、昔の話蒸し返して悪かったな。まあ、子役時代の事故だよ」
翼の声が、穏やかに届く。
事故。そう、事故なのだ。
向こうを向いた拍子にたまたま唇が当たっただけで、それ以上でも以下でもない。
落ち着け、落ち着いて。
あたしは大きく息を吸って、口元を整えた。
「そ、そう、事故だから!」
まだ声が裏返った。失態だ。
笑い声が広がっていく。
それでも翼の声は続いた。
「それに朝香と俺じゃ吊り合わないからな。付き合ってないのは本当だ」
その一言が、胸の奥に静かに刺さった。
吊り合わない。
翼がそう言うとき、どういう意味で言っているのかは、わかっている。
翼は自分を低く見積もりすぎる癖がある。
子役時代からずっとそうだった。
だから、あたしを持ち上げているのではなく、自分を下げているだけだ。
それはわかっている。
わかっているのに……。
吊り合わない、という言葉だけが、頭の中でもう一度繰り返された。
翼にとって、あたしはそういう存在なのだ。
手の届かない場所に置かれた、ただの幼馴染。
ずっとそうだったし、これからもそうなのかもしれない。
「み゛」