とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第140話 脳破壊される側視点 パート21

 あたしの名前は田中朝香。

 今日もクラスメイトに距離を置かれながら、黙々と大道具の塗装作業をこなしているただの女子高生だ。

 

 刷毛を動かしながら、稽古場の方からガヤガヤと賑やかな声が届いてくる。

 師匠の言葉が、まだ頭の隅に居座っていた。

 

『人間に擬態する努力を、諦めちゃいけねぇんだよ』

 

 擬態。その言葉の選び方が、師匠らしいと思った。

 あたしのような芝居でしか生きられない人間は、本物の人間関係というものがわかっていない。

 だから、擬態するしかない。

 

 刷毛を動かす手を止めないまま、観察のためにクラスの声に耳を傾ける。

 西遊記の話題らしい。

 翼の声がその中に混じっていた。

 

「しかも今回はキスシーンだかんね! ルナぴとキスなんて羨ましいぞ、このこの~」

「キスシーンってか、あれは演出上の人工呼吸だからな」

「そうだけど、No.1アイドルとのキスだよ! やっぱテンション上がってたんじゃないの?」

 

 鹿角さんの声が、はっきりと届いた。

 

 翼とルナのキスシーン。

 あのシーンだけは放送されたときに見ることができなかった。

 台本通りの人工呼吸だとわかっていても、翼とルナの唇が重なったときのことを思い出すと、脳がチカチカしてくるのだ。

 それを自覚した瞬間、自分が嫌になる。

 

 役者として、あんな粗末な感情に引きずられているなんて。

 

 塗料を刷毛に含ませて、余計なことを考えないようにした。

 

「キスって言っても、演技の一部だぞ?」

 

 翼の声は、どこまでも平然としていた。

 あたしが思うより、翼はずっとドライだ。

 

 それはわかっていたつもりだった。

 わかっていたのに、聞くたびに心のどこかで引っかかる。

 

「別にファーストキスってわけでもないからな。本当になんとも思ってないぞ」

 

 刷毛を持つ手が止まった。

 

 ファーストキス。

 その言葉だけが、周囲の声から切り離されて耳に届く。

 

 違う、聞き間違いだ。

 そんなわけがない。

 翼がそんなことを気にしているわけがない。

 

 刷毛を動かそうとした手が、動かせなくなってしまった。

 

「朝香だぞ。あれは演技じゃなかったけどな」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 頭の中で、あの日の稽古場の光景が鮮明に蘇る。

 

 演技勝負に負けたのに、施しみたいに与えられるのは嫌だと感じた翼が振り向いた。

 あたしが頬に落とそうとしたキスが、唇に当たってしまったのだ。

 

 翼のファーストキスは、あたしだ。

 

 思い出したその事実に、熱が上がってくる。

 ダメだ、顔に出てきちゃう。

 

 刷毛を持つ手に力を込めて、どうにか止めようとしたが、無理だった。

 

 稽古場の方から声が飛んでくる。

 視線が、こちらへ集まってくる気配がした。

 

「な、なななな、何を言って……!」

 

 気づいたら声が出ていた。

 しかも、盛大に声が裏返った。

 あたしが弁明しようとするたびに、クラスが盛り上がっていく。

 

 こういうとき、笑いが場を加速させることはよく知っている。

 止めようとすれば止めようとするほど、余計に燃料になっていく。

 それをわかっていても、止められなかった。

 

 羽田朝香の仮面を被り直す余裕が、今のあたしにはなかった。

 

「朝香、昔の話蒸し返して悪かったな。まあ、子役時代の事故だよ」

 

 翼の声が、穏やかに届く。

 事故。そう、事故なのだ。

 向こうを向いた拍子にたまたま唇が当たっただけで、それ以上でも以下でもない。

 

 落ち着け、落ち着いて。

 あたしは大きく息を吸って、口元を整えた。

 

「そ、そう、事故だから!」

 

 まだ声が裏返った。失態だ。

 笑い声が広がっていく。

 

 それでも翼の声は続いた。

 

「それに朝香と俺じゃ吊り合わないからな。付き合ってないのは本当だ」

 

 その一言が、胸の奥に静かに刺さった。

 吊り合わない。

 翼がそう言うとき、どういう意味で言っているのかは、わかっている。

 翼は自分を低く見積もりすぎる癖がある。

 子役時代からずっとそうだった。

 

 だから、あたしを持ち上げているのではなく、自分を下げているだけだ。

 それはわかっている。

 わかっているのに……。

 

 吊り合わない、という言葉だけが、頭の中でもう一度繰り返された。

 翼にとって、あたしはそういう存在なのだ。

 

 手の届かない場所に置かれた、ただの幼馴染。

 ずっとそうだったし、これからもそうなのかもしれない。

 

「み゛」

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