保健室の扉を閉めると、消毒液の匂いが鼻をついた。
ベッドの端に腰かけた朝香が、膝の上で手を重ねている。
養護教諭の先生はちょうどいなかったため、手当は俺がすることになった。
「終わったぞ。しばらくは無理しないようにな」
「ありがと」
保健室に、二人分の静けさが残った。
「……うまくできなくてごめんなさい」
朝香が、膝の上に視線を落としたまま言った。
「何に対して謝ってるんだよ」
「いろいろと」
湿布を貼って包帯が巻かれた手を、もう片方の手で軽く押さえる。
「また空気を悪くしちゃった」
「朝香がやったわけじゃないだろ」
「でも、止められなかった」
止められなかったのは俺だって同じだ。
それに別のことに気を回しすぎて反応が遅れてしまった。
「怒れなかったの」
朝香の声が、少しだけ落ちた。
「ふざけてた男子に、本当はすぐに言うべきだったのに」
「なんで言わなかったんだ」
返答までには、少し間があった。
「怖かったのよ」
窓から夕方の光が差し込んでいる。
朝香の横顔が、その光の中で妙に輪郭をくっきりさせていた。
「やっとクラスに馴染めてきた気がしてたの。みんなと少しずつ話せるようになって、昨日も笑ってた。それをまた壊すのが怖くて、何も言えなかった」
懺悔のような言葉が静かに続く。
「結局、止めることもできなくて、かばって怪我した。笑えるでしょ」
「笑えないって」
俺の言葉に、朝香が初めてこちらを見た。
「本当に怖かったんだろ。人との関係を大切に思えたからだ。それは確かな成長だと思う」
「結果が出るまでやるのが努力よ。こんな結果じゃ、ダメダメよ」
「結果が悪かったのは、俺を含めた全員の問題だ。朝香だけの結果じゃない」
朝香は何も言わなかった。
反論を探しているのか、受け取ろうとしているのか、判断がつかない顔だった。
しばらくして、朝香が立ち上がった。
「戻るわ」
「ダメだ。ゆっくり休んでろ」
「大丈夫。保健室にいた分、作業が遅れてるから」
鞄に手をかけながら、当然のように言う。
「誰かに任せればいい」
「あたしのせいで遅れた分はあたしがやる」
それだけのことだ、という顔だった。
誰かを責めているわけでも、無理をしているわけでもない。
自分が遅れた分は自分で取り返す、という理屈だけがそこにあった。
このまま放っておくと、一人で遅くまで残るのは目に見えていた。
帰ったふりをして戻ってくることすら、やりかねない。
「わかった。俺も手伝うよ」
「いいわよ、翼まで残らなくて」
「俺が残りたいんだ。ほら、最近女子からの風当たり強いし、汚名挽回的な?」
「返上よ。このスケコマシ俳優」
不機嫌そうに鼻を鳴らすと、朝香は立ち上がる。
「戻りましょ」
「お姫様抱っこは必要か?」
「……………………いら、な゛い、わ゛」
冗談に対してバッサリ返答が来るかと思ったが、何故か返答までにかなり間があった。
保健室を出ると、廊下はすでに暗かった。
遠くの教室から、まだ誰かの声がかすかに聞こえてくる。
隣を歩く朝香の包帯が、廊下の蛍光灯に照らされ白く浮き上がっていた。
「翼」
「どうした?」
「ありがとう」
声は小さかった。
こちらを見ずに、前を向いたまま言った。
俺も前を向いたまま、短く答えた。
「どういたしまして」
二人分の足音だけが、廊下に続いていた。