とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第142話 失う怖さ

 保健室の扉を閉めると、消毒液の匂いが鼻をついた。

 ベッドの端に腰かけた朝香が、膝の上で手を重ねている。

 養護教諭の先生はちょうどいなかったため、手当は俺がすることになった。

 

「終わったぞ。しばらくは無理しないようにな」

「ありがと」

 

 保健室に、二人分の静けさが残った。

 

「……うまくできなくてごめんなさい」

 

 朝香が、膝の上に視線を落としたまま言った。

 

「何に対して謝ってるんだよ」

「いろいろと」

 

 湿布を貼って包帯が巻かれた手を、もう片方の手で軽く押さえる。

 

「また空気を悪くしちゃった」

「朝香がやったわけじゃないだろ」

「でも、止められなかった」

 

 止められなかったのは俺だって同じだ。

 それに別のことに気を回しすぎて反応が遅れてしまった。

 

「怒れなかったの」

 

 朝香の声が、少しだけ落ちた。

 

「ふざけてた男子に、本当はすぐに言うべきだったのに」

「なんで言わなかったんだ」

 

 返答までには、少し間があった。

 

「怖かったのよ」

 

 窓から夕方の光が差し込んでいる。

 朝香の横顔が、その光の中で妙に輪郭をくっきりさせていた。

 

「やっとクラスに馴染めてきた気がしてたの。みんなと少しずつ話せるようになって、昨日も笑ってた。それをまた壊すのが怖くて、何も言えなかった」

 

 懺悔のような言葉が静かに続く。

 

「結局、止めることもできなくて、かばって怪我した。笑えるでしょ」

「笑えないって」

 

 俺の言葉に、朝香が初めてこちらを見た。

 

「本当に怖かったんだろ。人との関係を大切に思えたからだ。それは確かな成長だと思う」

「結果が出るまでやるのが努力よ。こんな結果じゃ、ダメダメよ」

「結果が悪かったのは、俺を含めた全員の問題だ。朝香だけの結果じゃない」

 

 朝香は何も言わなかった。

 反論を探しているのか、受け取ろうとしているのか、判断がつかない顔だった。

 

 しばらくして、朝香が立ち上がった。

 

「戻るわ」

「ダメだ。ゆっくり休んでろ」

「大丈夫。保健室にいた分、作業が遅れてるから」

 

 鞄に手をかけながら、当然のように言う。

 

「誰かに任せればいい」

「あたしのせいで遅れた分はあたしがやる」

 

 それだけのことだ、という顔だった。

 誰かを責めているわけでも、無理をしているわけでもない。

 自分が遅れた分は自分で取り返す、という理屈だけがそこにあった。

 

 このまま放っておくと、一人で遅くまで残るのは目に見えていた。

 帰ったふりをして戻ってくることすら、やりかねない。

 

「わかった。俺も手伝うよ」

「いいわよ、翼まで残らなくて」

「俺が残りたいんだ。ほら、最近女子からの風当たり強いし、汚名挽回的な?」

「返上よ。このスケコマシ俳優」

 

 不機嫌そうに鼻を鳴らすと、朝香は立ち上がる。

 

「戻りましょ」

「お姫様抱っこは必要か?」

「……………………いら、な゛い、わ゛」

 

 冗談に対してバッサリ返答が来るかと思ったが、何故か返答までにかなり間があった。

 

 保健室を出ると、廊下はすでに暗かった。

 遠くの教室から、まだ誰かの声がかすかに聞こえてくる。

 隣を歩く朝香の包帯が、廊下の蛍光灯に照らされ白く浮き上がっていた。

 

「翼」

「どうした?」

「ありがとう」

 

 声は小さかった。

 こちらを見ずに、前を向いたまま言った。

 

 俺も前を向いたまま、短く答えた。

 

「どういたしまして」

 

 二人分の足音だけが、廊下に続いていた。

 

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