とにかく曇る天才女優の幼馴染!   作:サニキ リオ

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第143話 アサタン

 教室に入ると、空気が先程とは違っていた。

 朝香が入ってきた瞬間、大道具班の高橋が近づいてくる。

 

「あの朝香ちゃん、手……大丈夫か?」

 

 操縦席に乗ってふざけていた張本人だった。

 声のトーンが、いつもの軽さとは別物だった。

 

「大丈夫よ。大したことないわ」

「でも、あれ、俺が……」

 

 高橋が言葉を詰まらせる。

 隣に立っていた佐々木も深く頭を下げた。

 

「私も、ごめんなさい。私を庇ったせいで怪我しちゃって」

「あたしは別に――」

「別によくないよ。手、痛かったでしょ」

 

 佐々木の目は潤んでいた。

 

「佐々木は悪くねぇよ。大道具、壊したの俺だし。朝香ちゃんが庇ってくれなかったら、どっちも怪我してたかもしれないし」

 

 素直な言葉だった。

 先程の空気とは、まるで別人みたいだった。

 よっぽどクラスメイトたちから激詰めさられたらしい。

 朝香は困ったような顔をして、その謝罪を受け取っていた。

 

「あたしが言えなかっただけだから、あなたたちだけの話じゃない。でも、こうやって謝ってくれてありがとう」

 

 言い慣れていない言葉を一生懸命形にしているためか、言い方がぎこちない。

 それは紛れもなく、田中朝香自身から出た言葉だった。

 

「朝香さん」

 

 後ろから丸代の声がした。

 

「どうして、そこまでするの。怪我をしてまで……」

「池手さんの脚本に、ちゃんと報いたかったのよ」

 

 朝香の声は、淡々としていた。

 感情を乗せようとしているわけじゃない。

 本当のことを言っている声だった。

 

「あれだけのものを書いてくれたんだから。舞台に立てない分、せめて大道具くらいはきちんとしたかったの。演技指導はうまくできなかったわけだし……せめて、心血注いで作り上げた作品には、あたしも全力で答えるべきだから」

 

 教室が、静かになった。

 そこにあったのは、クリエイターへの尊敬の念。

 彼女にとって、それこそが何よりも優先されるべきことなのだ。

 

 丸代がノートを胸に抱えたまま、しばらく動かなかった。

 眼鏡の奥の目が、みるみる潤んでいく。

 

「……っ」

 

 次の瞬間、丸代は走り出していた。

 

「朝香さん!」

「ちょ!?」

 

 そして、勢いよく抱きついた。

 朝香が声を上げて一歩よろけるが、丸代は離さない。

 

「ありがとう、本当にありがとう……!」

「わかったから。わかったから! 落ち着いて!」

「うぅ……ありがとう……!」

「こらこら、丸ちゃん! アサタン怪我してるから!」

 

 梨夢が丸代を朝香から引き剝がす。

 

「あ、アサタン?」

「そそ、アサタン星人だと長いからアサタン! いいあだ名でしょー」

 

 教室のあちこちから、笑いとも安堵ともつかない空気が広がっていく。

 張り詰めていたものが、少しずつほどけていく感覚があった。

 俺は朝香を中心とした輪の外から、その光景をぼんやりと眺めていた。

 困り顔のまま、丸代の背中に手を置いた朝香の横顔が見える。

 

 どうすればいいかわからない、という顔だった。

 それでも振りほどかなかった。

 朝香の目指す普通。

 

 一歩一歩ゆっくりとだが、そこに近づけているような気がした。

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