教室に入ると、空気が先程とは違っていた。
朝香が入ってきた瞬間、大道具班の高橋が近づいてくる。
「あの朝香ちゃん、手……大丈夫か?」
操縦席に乗ってふざけていた張本人だった。
声のトーンが、いつもの軽さとは別物だった。
「大丈夫よ。大したことないわ」
「でも、あれ、俺が……」
高橋が言葉を詰まらせる。
隣に立っていた佐々木も深く頭を下げた。
「私も、ごめんなさい。私を庇ったせいで怪我しちゃって」
「あたしは別に――」
「別によくないよ。手、痛かったでしょ」
佐々木の目は潤んでいた。
「佐々木は悪くねぇよ。大道具、壊したの俺だし。朝香ちゃんが庇ってくれなかったら、どっちも怪我してたかもしれないし」
素直な言葉だった。
先程の空気とは、まるで別人みたいだった。
よっぽどクラスメイトたちから激詰めさられたらしい。
朝香は困ったような顔をして、その謝罪を受け取っていた。
「あたしが言えなかっただけだから、あなたたちだけの話じゃない。でも、こうやって謝ってくれてありがとう」
言い慣れていない言葉を一生懸命形にしているためか、言い方がぎこちない。
それは紛れもなく、田中朝香自身から出た言葉だった。
「朝香さん」
後ろから丸代の声がした。
「どうして、そこまでするの。怪我をしてまで……」
「池手さんの脚本に、ちゃんと報いたかったのよ」
朝香の声は、淡々としていた。
感情を乗せようとしているわけじゃない。
本当のことを言っている声だった。
「あれだけのものを書いてくれたんだから。舞台に立てない分、せめて大道具くらいはきちんとしたかったの。演技指導はうまくできなかったわけだし……せめて、心血注いで作り上げた作品には、あたしも全力で答えるべきだから」
教室が、静かになった。
そこにあったのは、クリエイターへの尊敬の念。
彼女にとって、それこそが何よりも優先されるべきことなのだ。
丸代がノートを胸に抱えたまま、しばらく動かなかった。
眼鏡の奥の目が、みるみる潤んでいく。
「……っ」
次の瞬間、丸代は走り出していた。
「朝香さん!」
「ちょ!?」
そして、勢いよく抱きついた。
朝香が声を上げて一歩よろけるが、丸代は離さない。
「ありがとう、本当にありがとう……!」
「わかったから。わかったから! 落ち着いて!」
「うぅ……ありがとう……!」
「こらこら、丸ちゃん! アサタン怪我してるから!」
梨夢が丸代を朝香から引き剝がす。
「あ、アサタン?」
「そそ、アサタン星人だと長いからアサタン! いいあだ名でしょー」
教室のあちこちから、笑いとも安堵ともつかない空気が広がっていく。
張り詰めていたものが、少しずつほどけていく感覚があった。
俺は朝香を中心とした輪の外から、その光景をぼんやりと眺めていた。
困り顔のまま、丸代の背中に手を置いた朝香の横顔が見える。
どうすればいいかわからない、という顔だった。
それでも振りほどかなかった。
朝香の目指す普通。
一歩一歩ゆっくりとだが、そこに近づけているような気がした。