文化祭開場まで、あと一時間を切っていた。
衣装の最終確認も終わり、大道具の搬入も済んで、教室の空気がどこか落ち着き始めていた。やることをやり切った人間だけが持つ、静かな充足感が漂っていた。
「ねえ、ちょっといい?」
梨夢が俺と朝香を交互に見ながら言った。
その後ろには、吉田や他の数人がつき従っている。
「あのさ、二人に言いたいことがあって」
「どうしたの?」
朝香が先に応じた。
「ここからは私たちでやるから、二人は文化祭楽しんできてほしいんだよね」
思いもしない言葉に面食らった俺は言葉を探した。
「いや、まだやることが――」
「ないよ」
梨夢はきっぱりと言い切った。
金髪の奥からターコイズが覗いて、その揺れがやけに落ち着いていた。
「衣装も大道具も確認したし、動き合わせも終わった。これ以上は当日にならないとわからないことばっかりだから、二人がいてもすることない」
吉田が肩をすくめながら続けた。
「むしろ、二人がいると気ぃ遣っちゃうんだよな。本番前くらい、俺らだけでわちゃわちゃしたいっていうか」
「そういうこと」
梨夢は屈託のない、真正面からの笑顔を浮かべる。
「いっぱい動いてもらったし、本番は任せてよ。その分、二人は楽しんできて」
朝香は黙っていた。
何か言いかけた気配だけが、表情の端に残った。
役者として現場に居残る理由を、頭の中で探しているのが傍から見ていてわかった。
「朝香さん」
郁が前に出てきた。緊張しているのか、いつもより姿勢が一段いい。
「私から一つだけ、言わせてください」
「……ど、どうぞ」
「今日ここまで来られたのは、朝香さんのおかげです」
郁は朝香をまっすぐ見ていた。
その視線には迷いがなかった。
「自分の解釈を信じます」
郁は一度だけ息を吸った。
そして、思いのたけを言葉に乗せる。
「だから今日は、私たちに任せてください。朝香さんが作ってくれたものを、ちゃんと舞台に乗せますから」
誰も口を開かなかった。
廊下の向こうから吹奏楽部の音が届いてきて、それがまた遠くなる。
朝香は郁を見ていた。
何かを確かめるような目で、それでいて言葉を持て余しているような間があった。
やがて、肩から力が抜けるのが見えた。
「……わかった」
「本当に?」
「しつこいわよ」
朝香の声に、僅かに笑いが混じった。
「やったー! じゃあ二人で行ってきて! バッサーもよろしくね!」
「俺も追い出し対象かよ」
「バッサーだけ残しても意味ないでしょ」
あっけらかんと言い切った梨夢に、周囲から笑い声が上がった。
廊下に出ると、文化祭の喧騒が遠くから届いてくる。
他のクラスからの声や、吹奏楽部の演奏が混ざり合って、空気全体がいつもと違う温度を帯びていた。
隣の朝香は、前を向いたまま口を開かなかった。
「行くか」
「行くってどこに」
「どこでもいいだろ。せっかくの文化祭なんだ。楽しまなきゃな」
朝香はしばらく前を向いたまま、それから小さく口を開いた。
「みんな、ちゃんとやれるかしら」
「やれるよ」
「根拠は?」
「お前が言ったんだろ。本番はいいものになるって」
朝香は何も言わなかった。
歩く速度が、ほんの少し落ちた。
「……それも、そうね」
それだけ言って、また前に向き直った。
二人分の足音が、廊下の喧騒に溶けていった。