何だかんだで朝香が演劇を優先することはわかっていた。
「はぁ……格好つけたもののなぁ」
文化祭デートは十分楽しめたし、見たことがない朝香の素の表情もたくさん見ることができた。
これ以上を望むのは贅沢というものだ。
「何やってんだろうな、俺」
残りのわたあめを口の中で溶かしながら、人混みをかき分けて進む。
今度こそ朝香の隣に立つため、朝香を超える俳優になる。そのために恋心は芝居をするための原動力にするだけで、表には出さない。
そのつもりだったのだが、どうにも今日の俺は封じたはずの恋心がまろび出ていた。
俺の隣で朝香が笑って、怒って、はしゃいでいるのが幸せだったのだ。
この時間が続けば良い、そう思ってしまった。
そう考えてしまう時点で甘えがあるのだ。
一緒にいたいのなら、一緒にいるための努力を怠ってはいけない。
昔の俺は、勝手に挑戦した癖に諦めてしまった。
だから、今度は朝香が隣にいざるを得ないように努力しなければならないのだ。
「よし、もう一回頑張ってみるか……!」
決意を新たに、わたあめの割り箸をゴミ箱に捨てる。
「あっ、ごめんなさい!」
「っと、こちらこそすみません!」
そのとき、ギターバックを背負った女性とぶつかってしまった。
ギターバッグを背負った女性は、サングラスとマスクをしていた。
声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
この声を、何百回聞いてきたかわからない。
声が出そうになるのを、すんでのところで飲み込んだ。
ファンとして声をかけたい衝動と、ここで騒いだら相手に迷惑がかかるという理性が、頭の中で殴り合っていた。
「もしかして、翼君ですか?」
「えっ……わかるんですか」
まさか、推しに認知されていたとは。
「いや、自分の知名度を考えましょうよ」
どこか呆れたような声で言うと、サングラスの奥で目が細くなった。
「とりあえず、場所を変えましょうか」
ギターバックを背負った女性――Named Monsterのギターボーカル佐藤愛美麗は躊躇なく歩き出した。
校舎の端、屋上へ続く階段の踊り場まで来ると、ようやく人気が消えた。
文化祭の喧騒が、遠くで小さくなっている。
マスクをずらして、愛美麗さんは小さく息をついた。
「ふぅ……懐かしいですね、母校というのは」
露わになった顔に、俺は思わず固まった。
やっぱり、生で見るとめっちゃ美人だ……!
「お会いできて光栄です。曲、めっちゃ聞いてます!」
「ありがとうございます。嬉しいこと言ってくれますね」
愛美麗さんは穏やかに微笑んだ。
令和を代表するアーティストの一人が、目の前で微笑んでいる。
そのせいで、心臓がやけにうるさかった。
「慶明高校のOGだったんですか」
「ええ。卒業してから、もうそれなりに経ちますけど……ライブの依頼があって、懐かしくなって。ふらっと、校舎内に立ち寄ってしまいました」
愛美麗さんはギターバッグを肩から下ろして、踊り場の壁に背中を預けた。
「高校生の文化祭のときも、軽音部のバンドで演奏したんですよね。あのときも楽しかったなぁ……」
遠い目をした愛美麗さんは、ふいに階段の上へと視線を向けた。
「ここ、屋上へ行ける階段なんです」
「行けるんですか」
「鍵は閉まっていますよ、普通はね」
「普通は?」
「こう見えて、学生時代は屋上に何度か忍び込んでいたんです」
愛美麗さんは、こともなげに言った。
「さすが高校生から注目されてたアーティスト……ロックだ」
「それほどでもあります」
微笑んだ顔は、ステージで見るカリスマの顔とはまた違う、いたずらっぽい笑顔だった。
「ここの屋上、思い出の場所なんです」
愛美麗さんは懐かしそうな笑顔を浮かべてから笑った。
「文化祭の日に、好きだった人に告白したんです」
「えっ」
「振られましたけれど」
「いや、苦めの思い出じゃないですか」
思わず突っ込んでしまった。
愛美麗さんは一瞬だけ目を丸くしてから、声を出して笑った。
「ふふっ、翼君って、結構容赦ないですね」
「す、すみません」
「いいんです、最高ですよ。久しぶりにそういう反応をもらえました」
愛美麗さんは目尻を指で拭いながら、笑いを収めた。
「まあ、振られたのは事実ですけれど。それでも、あそこで好きだと言えたこと自体は、後悔していないんです。あの瞬間が、今の私を作っている気がしますから」
「そういうものですか」
「そういうものです」
愛美麗さんはギターバッグを背負い直しながら、立ち上がった。
「では、せいぜい青春を楽しんでください。天才役者の伽須翼君?」
俺の心臓が、また跳ねた。
「天才役者って……」
唖然とする俺を置いて、愛美麗さんは階段を下りながら、軽く手を振った。
「西遊記の演技、素晴らしかったです。これからも頑張ってください」
「あ、ありがとうございます!」
俺は深く頭を下げた。
頭を上げると、もう愛美麗さんの姿はなかった。
その場に、一人で立ち尽くす。
文化祭の喧騒が、遠くから流れてくる。
「よし、決めた」
俺は階段を駆け下りながら、頭の中で計画を組み立てていた。
朝香に最高の青春を送らせる。
演劇を見て、満足して、そのまま終わらせない。
今日という日が、田中朝香にとって特別な一日になるようにする。