俺は体育館へ向かって走り出した。
裏口から飛び込むと、舞台袖はまだ落ち着いた空気だった。
キャストたちが小声で台詞を確認し合い、大道具班が最後の位置合わせをしている。
緞帳の隙間から、誰かが客席を覗いていた。
「うわ……」
短い声が漏れる。俺もつられて、隙間から中を見た。
パイプ椅子はとっくに埋まっていて、後ろの立ち見スペースまで人が並んでいる。
開演を待つざわめきが、想像していたよりずっと分厚かった。
「なんか、思ったより人多くね……?」
「他学年からも見にきてるみたいだよ」
丸代が青い顔で言う。
脚本担当という立場が、余計にプレッシャーになっているのだろう。
「大丈夫だって、みんなここまでちゃんとやってきたんだからさ」
梨夢が明るく言うものの、その声にもいつもほどの張りはなかった。
郁は舞台袖の壁に背をつけて、何度も深呼吸を繰り返している。
佐光は台本を開いたまま、同じページを何度も目でなぞっていた。
誰も口には出さないが、緊張が舞台袖の空気を重くしていくのがわかった。
「こんな人数の前でやるなんて、思ってなかった……」
誰かが小さく呟いた声が、輪の中に落ちる。
それに引っ張られるように、何人かの顔が強張っていくのがわかった。
「大丈夫よ」
声がして、振り向くと朝香が立っていた。
「大丈夫って……」
「客の数のこと。緊張してるんでしょう」
朝香はゆっくりと輪の中へ入っていく。
「人数が増えたところで、あなたたちがやることは変わらないわ」
「でも、緊張しちゃうよ……」
不安そうな丸代に、朝香は真っ直ぐ向き直った。
「池手さん。あなたが書いたのは、客席の人数で内容が変わる話じゃない。累が、剛志が、千代が、ちゃんと生きてるから伝わる話でしょう」
丸代が、はっと顔を上げる。
「あたしがみんなに教えられなかったこと、今更だけど言うわ」
朝香は舞台袖に集まった全員の顔を、一人ずつ見た。
「観客が見てるのは、あなたたちじゃない。あなたたちが板の上で生きる役よ」
静かな声なのに、その声はよく響いた。
怒鳴っていたときの朝香とは、まるで別人だった。
「郁。あなたの累は、客が千人でも一万人でも、この短い夏の中にいる。あたしが保証する」
「……はい!」
郁の声が、はっきりと返ってきた。
「吉田君も、佐光さんも。今さら人数に気を取られなくていい。あなたたちの芝居は、もうそこまで育ってる」
「お、俺たち……」
吉田の声が、少しだけ震えていた。
朝香は最後に、輪の一番外側にいた音響担当の男子にも目を向けた。
「あなたも、いつも通りに合図出すだけでいい。特別なことは何もしなくていいの」
「わ、わかりました!」
輪の中の空気が、少しずつ変わっていくのがわかった。下を向いていた顔が、一つ、また一つと上がっていく。
「よし、やろう!」
高橋の声を皮切りに、あちこちから返事が上がった。
「大丈夫だ、俺ら、ここまでやってきたんだから!」
「うん……できる、気がする!」
誰かが笑って、それにつられてまた誰かが笑う。張り詰めていた空気が、本番前の高揚に塗り替えられていく。
「結果が出るまでやるのが努力。だから、今日出す結果はあなたたちのものよ」
朝香が短く言い切ると、丸代が涙目のまま何度も頷いた。
そして、開演のベルが鳴った。