池手が身を乗り出してきた。ノートを膝の上に置いて、両手で支えている。
「初期の頃の話だけどな。劇団の稽古で同じシーンを練習することがあった。朝香は一回やっただけで完璧にこなす。俺を含めて他の子役が何度も失敗してる中、朝香だけは一発で決める」
「それって、つまり天才ってこと?」
池手が首を傾げた。
「天才というか……努力の化け物、だな」
「努力の化け物? 天才じゃなくて?」
池手が不思議そうに聞いてくる。
「朝香は誰よりも練習してた。稽古が終わった後も、一人で残って台詞の練習をしてた」
池手は真剣にメモを取っている。ペンを走らせる音だけが、静かな図書室に響く。
「俺が劇団の稽古場に早く着いたとき、もう朝香がいた。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰る」
「じゃあ、つまり」
池手はノートを見ながら、まとめるように言った。
「朝香さんは天才じゃなくて、誰よりも努力してたから完璧だったってこと?」
「あいつの口癖教えてやろうか? 〝結果が出るまでやるのが努力〟だぞ」
「うへぇ……でも、それって結局天才じゃないかな。そこまで努力できるのって、才能だよ」
池手が真剣な顔で言う。
「朝香が聞いたらブチギレそうだな」
あたしの努力を才能って言葉だけで片付けるな、とキレ散らかす朝香の姿を想像して、つい笑みが零れる。
池手は少し考え込んでいる。
ペンを握ったまま、俺の顔をじっと見ている。
「凪野君は、そんな朝香さんと一緒に仕事してたんだよね。ぶっちゃけ、やりやすかった? それとも、やりにくかった?」
池手が核心を突いてくる。
「もちろん、プレッシャーはあった」
「あー、やっぱり」
池手は納得したように頷いた。
「朝香と並ぶと演技力の差が浮き彫りになるからな」
「それは、きついね」
池手は心配そうな顔をした。ペンを握ったまま、じっと俺を見つめている。
「それに朝香は厳しかった」
「厳しいって、どんな風に?」
「監督からはオッケー出てても、朝香は納得しないことがあった」
「え? どういうこと?」
池手が身を乗り出してきた。
「撮影の後、朝香が俺に言うんだ。『今の演技、何を考えてたの?』『もっと感情を込めて』『台詞の間が悪い』って」
「えぇ!? 監督はオッケーしてるのに、ダメ出ししてくるの?」
池手は驚いたように目を見開いた。
「朝香は妥協しなかった。自分にも厳しいし、俺にも厳しい」
「それって、嫌じゃなかった?」
「嫌ではないぞ。悔しさはあったけどな」
「悔しかったって感じるのは、朝香さんの言うことが正しかったから?」
池手が本質を突いてくる。
「そうだな。朝香のダメ出しは、いつも的確だった。俺の演技の弱いところを、ピンポイントで指摘してくる」
「やっぱり、ハリウッド行くような人はすごいんだね」
池手は感心したように呟いた。
ペンを持つ手が止まり、じっと俺の顔を見つめている。
「あー、もしかして、朝香さんってツンデレだったり?」
池手は少し笑った。その笑顔が、妙に可愛らしい。
「ツンデレねぇ……だとしたらよかったんだが」
あいつはデレがないから、ツンドラの間違いじゃないだろうか。
態度はずっと冷たかったし。
「ただ、朝香は演技面で俺に期待してくれてたんだとは思う」
「期待って、つまり凪野君がもっと上手くなるって信じてたってこと?」
「だと、いいんだけどな」
池手は少し考え込んでいる。ペンを握ったまま、俺の顔をじっと見ている。
「なんか、いいね。そういうの……うん」
その呟きに、振られた身としては複雑な気分になるのであった。
それから、さっそく池手は新しい小説を書き始めた。
タイトルは〝天才子役の幼馴染は曇るが、役者の道を諦めたら始まるラブコメ〟。
いかにもネット小説らしい、長いタイトルだ。
「凪野君、第一話書けたから読んでみて」
池手は嬉しそうにスマホを俺に渡した。画面を見つめる目が、期待に輝いている。
俺は画面を見て、第一話を読み始めた。
【天才子役の幼馴染は曇るが、役者の道を諦めたら始まるラブコメ】
作者:イケマル水産
第1話
『僕、君のことが好きなんだ! 演技で勝てたら付き合ってほしい!』
「げほ、げほっ!?」
一行目のセリフを目にした瞬間、激しく咽てしまった。
「どうしたの、凪野君?」
「ちょっと唾が変なとこ入って咽ただけだ」
誤魔化しながら続きに目を通す。
朝香に対する恋心やプライベートな出来事は一切、池手に話していない。
どう考えても、あの話だけで俺と朝香のような話ができるわけがない。
実際、過去描写の描写や周囲の人間関係、家庭環境は全然俺たちと重なっていない。
だというのに、この小説はほとんど俺と朝香の話になっていたのだ。
唯一、現実と違う点を挙げるとすれば、ヒロインが主人公に恋心を抱いている点くらいだろうか。
その辺りは、ラブコメ小説らしく作った結果だろう。
「どうかな?」
池手が不安そうに尋ねてくる。両手を握りしめて、じっと俺の顔を見つめている。
「面白いというか、いや、すごいな……」
「本当!?」
池手は嬉しそうに目を輝かせた。
「この先どうなるのか気になるよ」
池手は嬉しそうに笑った。その笑顔が、妙に眩しい。
「良かった。凪野君の話を元に書いたから、リアリティが出せたと思う」
「リアリティどころか……よくここまで書けたもんだ」
散々朝香のことを天才だと言っていたが、池手は十分にその領域に足を踏み入れている。
何よりも、演技に関する体験談や朝香のちょっとしたエピソードだけで、俺たちの実体験や感情に無意識の内にたどり着ける。
それはまるで俺のことを深く理解してもらったようで、どうしようもないくらいに嬉しくなってしまった。
「本当にすごいよ、この小説」
池手は少し困ったように笑い、頬をかきながら視線を逸らす。
「そんなに褒められると照れるね」
「賞賛は素直に受け取れって」
それから池手の新作小説は、二週間ちょっとで驚くほどの反応があった。
投稿してすぐに、閲覧数が跳ね上がり、評価ポイントも急上昇し、感想欄には大量のコメントが書き込まれた。
「凪野君、見て見て! すごいことになってる!」
休み時間、池手は興奮した様子で俺にスマホを見せてきた。
画面には、ランキングが表示されている。
池手の小説は、ラブコメジャンルの週間ランキングで三位に入っていた。
「……マジかよ」
「うん! バズってる! こんなの初めて!」
池手は涙ぐんでいた。眼鏡の奥の瞳が潤んでいる。
「凪野君のおかげだよ。ありがとう」
「いや、俺は話しただけぞ。小説って形にまとめ上げたのは池手の実力だ」
「ううん。凪野君がいなかったら、この小説は書けなかった」
池手は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺も少し嬉しくなった。
俳優としての経験が、また形を変えて人の役に立った。
それだけで、俺の過去は無駄じゃなかったのかもしれないと思えた。
「ところで、これってざまぁ系みたいだけど、ヒロインがざまぁされるのか?」
「まさか。それじゃヒロインがかわいそうでしょ。この子は共感性に欠けてて、結果的に主人公の好意を蔑ろにし続けただけで、悪い子じゃないんだから」