それから物語は進み、終盤に差し掛かっていた。
トラブルを乗り越え、累は段々と人の心を理解していく。
剛志の支えもあり、千代と仲直りした累は段々と学校に自分の居場所があると感じるようになる。
累の正体を知った千代たちは、そんなの関係ないと累を受け入れてくれた。
胸の奥が温かくなるような感覚。
それこそ累が心を得たということに他ならない。
だが、累は上官からの帰還命令を受け取っていた。
そこで剛志との会話シーンを挟んでから、千代にも報告するという流れだ。
舞台には、放課後の教室がセットされている。
照明がゆっくりと灯る。
朝の色は、さっきまでの青とは違う柔らかさを持っていた。
舞台の上には累と剛志と千代が並んで立っている。
物語の最後、累がこの星を去るのか、それともここに残るのか。
台本はあえてその答えを明確にしない終わり方を選んでいた。
「ね、ねぇ、累ちゃん、帰っちゃうの?」
不安そうに千代が尋ねる。
彼女にとっては、ただ上辺だけの友人ではなく、ぶつかり合って腹を割って話せる唯一の友人になった。
だからこそ、親友と離れ離れになりたくないという感情が滲み出ていた。
そんな親友の姿に、累は安心させるように笑った。
「わたしは、まだ理解の途中なの。ううん、理解できるときなんてこないのかもしれない」
累の声は、もう温度のない声ではなかった。
話し方も普通の女子高生のように変化している。
「理解できないことを、理解しようとし続ける。それが、わたしのこれからの任務だと決めたんだ」
剛志が、累の肩を軽く叩いた。
「上等じゃねぇか。俺たちも協力するぜ!」
「うん。親友だもんね!」
「ふふっ、ありがとう。二人共」
立ち位置を調整していたことで、ここの累の満面の笑顔が客席全体に見えるようになる。
「わたし、地球に来られてよかった! これからもよろしくね!」
客席側を向いていることで、累の笑顔での言葉は客に向けていっているようにも思える。
ラストとしては、まあ、綺麗な方だろう。
……正直、この内容なら丸代ことイケマル水産先生の長編小説として読みたかったところではある。
「「「ありがとうございました!」」」
三人が並んで、客席の方を向く。
照明が最後にふっと明るくなり、幕が下りた。
一瞬の静寂のあと、拍手が起きる。
最初は一人か二人だったのが、瞬く間に体育館全体へ広がっていった。
俺は袖でその音を聞いていた。
幕の向こうで、キャストたちがカーテンコールのために整列する気配がする。
隣を見ると、朝香は拍手の音を全身で受け止めるように、じっと舞台の方を見つめていた。
涙はもう拭われているが、目の縁には薄く跡が残っていた。
幕が再び上がる。
整列したキャストたちが、深く頭を下げた。
拍手の音が、また一段階大きくなる。
累を演じ切った郁が、頭を下げたまま肩を震わせていた。
顔を上げた瞬間、頬にはっきりと涙の筋が見える。
拭う余裕もないまま、もう一度深く頭を下げた。
「ありがとうございましたァ!」
声が裏返っていた。
緊張のせいなのか、感極まったせいなのか、たぶんその両方だった。
吉田が郁の背中を軽く叩く。
佐光は目元を袖で押さえている。
舞台の上の全員が、笑っているのに泣いていた。
客席からは、口笛や指笛まで混ざり始めている。
拍手が鳴りやまないまま、幕が下りていく。
体育館の照明が戻り始め、袖にいた俺たちの周りにも少しずつ普段の明るさが戻ってきた。
朝香が、小さく息を吐いた。
「……最高の舞台だった」
誰に向けた言葉でもなかった。
ただ舞台の方を見つめたまま、独り言のようにこぼれ落ちた一言だった。
気の利いた言葉を探しかけてやめる。
今この瞬間の朝香に、ノイズはいらない気がした。
舞台裏から、キャストたちの声が届いてくる。
「やったー、やりきったー!」
「郁ちゃん、めちゃくちゃ良かったよ」
「泣きすぎだって!」
「凪野君、朝香さん。大成功だよ!」
丸代がこちらに気づいて駆け寄ってくる。
興奮した様子で丸代が話し続ける。
朝香はそれに相槌を打ちながらも、視線はまだ完全には戻りきっていなかった。
舞台の方角を、何度も振り返っている。
その横顔を見ながら、俺は文化祭の昼間のことを思い出していた。
屋台の列で、朝香が体育館の方へ何度も視線を流していたあの時間。
楽しんでいないわけではなかった。
むしろ。今日一日で一番笑っていた。
それでも、心の全部がその場所にあるわけではなかった。
『文化祭をちゃんと楽しんで、クラスのみんなのことも気になって、演劇の出来が心配で仕方ない。そういうのが全部まとめて、あたしの〝普通〟なの』
あのときの朝香の声が、今も耳の奥に残っている。
それが朝香なりの答えだったのだと腑に落ちた。
舞台の上で累が辿り着いた場所と、朝香が選んだ場所は、たぶん同じ形をしている。
「みんなで写真撮ろうよ」
梨夢の声に、キャストとスタッフが舞台袖に集まってくる。
「バッサーもアサタンも入って入って」
「あたしたちは裏方だから、いいわよ」
朝香がやんわりと辞退しようとすると、郁が首を横に振った。
「ダメです。朝香ちゃんと翼君がいなかったら、今日はなかったんですから」
郁の目はまだ赤かったが、その声には確かな芯があった。
朝香は少しだけ躊躇ってから、小さく頷く。
「そう。じゃあ、少しだけ」
全員がカメラの前に集まる。俺の隣に、朝香が立った。
「撮るよー!」
シャッター音が響いて、その瞬間だけ体育館の中の時間が止まったような気がした。
写真撮影が終わり、次のクラスへ体育館を明け渡すため、片付けに追われることになった。
パネルを外し、小道具を箱に詰め、椅子を並べ直す。
その慌ただしさの中で、朝香はいつも通りの顔に戻っていた。
少なくとも、傍から見ればそう見えた。
ダンボールを運びながら、ふと朝香の方を見る。
丸代と何か話しながら、片付けの手を動かしていた。
普通に笑って、普通に相槌を打って、普通にクラスメイトと言葉を交わしている。
今日という日が、田中朝香にとって特別な一日になった。
それは演劇の出来が良かったからでも、クラスに馴染めたからでもない。
あの舞台の上で、朝香自身の感情が動かされたからだ。