後片付けが終わった頃には、既に日が落ちていた。
俺は朝香を連れて屋上へと向かう。
「ねぇ、屋上って施錠されてるんじゃないの」
「どうやら忍び込めるらしいぞ」
「見つかったら怒られるじゃない」
そう言いつつも、朝香の表情はどこか楽しそうだった。
愛美麗さんのやっていたとおりに鍵を動かすと、扉が開いた。
そこには夕暮れの空が、広がっていた。
オレンジと紫が混ざり合った空の下に、街が広がっている。
遠くのビルが、夕日を反射して光っていた。
「綺麗……」
どこかうっとりとした様子で呟く朝香の横顔は、どんな役を演じているときよりも綺麗だった。
しばらく、二人で黙って空を見ていた。
「さて、朝香の青春の総仕上げといくか」
「どういうこと?」
「演ろうぜ、ここで。俺たちが主演の演劇をさ」
朝香にとっては芝居こそが人生で青春。
なら、普通の青春に上乗せしてやれば良い。
それだけで彼女は最高の青春を味わうことができるだろう。
「俺たちにセットは必要ない。身ひとつあれば十分だ」
「そうね。台本も頭にまるっと入ってるもの」
俺の提案に、朝香はワクワクが抑えられないといった様子で目を輝かせてくれた。
「えっと……あっ、そうだ! それなら、師匠に成果報告したいから動画で撮ってもいい?」
すると、突然言い訳をするように告げてきた。
「千三郎さんに、いい報告ができるといいな」
「そ、そうね!」
何故か目を泳がせた朝香はスマホをセットしてから主人公である累を下ろしはじめる。
夕暮れの屋上で、二人だけの芝居が始まった。
風が吹いて、朝香の髪が揺れる。
その瞬間、隣にいたはずの朝香が消えて、そこに累が立っていた。
「帰還命令が下ったの。任務は、もう終わり。ここでの生活も……」
そのセリフは帰還命令が下った累と、彼女の本心を引き出す剛志のシーンだった。
俺も意識を切り替える。
仕草から剛志の輪郭を、身体の外側から立ち上げていく。
「なあ、累」
俺は一歩、朝香に近づいた。
「本当に、それでいいのかよ」
「いいも悪いも、決められたことだから」
「わたしは、任務のために来た。それ以上でも、それ以下でもない」
「じゃあ、聞くけどさ」
俺は朝香の正面に立った。
「お前が本当にここにいたい理由、まだ一回も言ってねぇじゃんか」
朝香の目が、一瞬揺れる。
俺はそれを見逃さなかった。
「……理由なんて、感情の話でしょう。感情は、解析できない」
朝香は目を逸らそうとする。
でも、その動きの途中で止まった。
「解析できなくてもいいだろ」
俺は、朝香の手をそっと取った。
朝香の指先が、一瞬だけ震えたのがわかった。
「わかんないまま、隣にいたいって思うことだって、あるだろ」
沈黙が落ちる。
夕暮れの風が、二人の間を通り抜けていった。
「わたしは……」
朝香の声が、少しずつ揺れていく。
「わたしは、ずっと、あなたの隣にいたかった」
言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
「任務のためじゃない。報告のためでもない。ただ、あなたの隣で、あなたが笑うのを見ていたかった。それだけだった」
俺は、その言葉に息を呑んだ。
それは台本の外側から聞こえてくるように感じた。
いや、事実
これは俺だけが見せてもらった初期の台本にあった流れだ。
「理解できなくてもいい。感情の名前がわからなくてもいい」
朝香が、俺の目を真っ直ぐに見た。
「ただ、これだけは、わかる」
風が止んだ。
夕焼けの色が、朝香の頬を橙に染めている。
「これが、あたしの気持ちだから」
朝香が背伸びをして俺の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
夕暮れの風が、俺たちの間を通り抜ける。
「っ!?」
事故でしたあのときとは違う。
目を開ければ、目の前には朝香の長い睫毛がある。
唇に当たる柔らかい感触に、脳が痺れそうになるのを必死に抑える。
キスシーンは本来の台本からカットされたシーンだった。
それを汲み取り、この土壇場でアドリブとして入れてくるなんて、さすがとしか言い様がない。
「……さすが、朝香だな」
朝香の唇が離れていく中、自然と賞賛の声がこぼれ落ちる。
「演技には妥協しないのは相変わらずだ」
「んん?」
「見てもない初期の台本通り、ちゃんとキスシーンまでやるとは思わなかった。やっぱり、朝香の背中はまだ遠いな」
「み゛!?」
夕暮れの屋上に、絶命寸前のセミが死力を振り絞って鳴いたような声が響き渡った。