あたしの名前は羽田朝香。
現在、CM出演数と主演ドラマ数で業界屈指の忙しさを誇る天才女優だ。
事務所に戻ると、翼と入れ替わりでナイト兄さんが社長室から顔を出した。
「お疲れ、翼。〝脳なしとんび〟の現場、大変だったみたいね」
翼が担当している役は、更生した元ヤンサラリーマンの若い頃の姿らしい。
共演者の灰瀬さんがNG連発したという話は、あたしも西遊記の撮影中に別ドラマで共演した経験から容易に想像がついた。
「またあの人? あたしも西遊記の撮影中、別ドラマで共演してたけど、絶対台詞噛むのよね」
師匠の息子の癖に、演技力だけは遺伝しなかったらしい。
もちろん本人には言わないけれど。
「そうだ、千三郎さんと言えば、今度君たち共演することになったよ」
その一言に、翼の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか! 子役時代のアニメ映画以来の共演だから嬉しいです!」
「あー……翼君。今回もアニメ映画だ」
「へ?」
社長室の空気が、一瞬止まった。
「アニメ映画。厳密には劇場版だね」
ナイト兄さんはデスクの上のファイルを開いて、あたしたちの前に滑らせてきた。
「〝斬鉄飛翔セミブレード〟の劇場版だ。翼君は特別出演のゲストキャラで、名前は長那凪世弥。朝香は今回の映画の看板ともいえるシガラティ役だよ」
看板。
その響きに、あたしは思わず拳を握った。
「看板……これは気合入れ直さないとね」
どんな役でも、看板を任されるということは相応の期待をされているということだ。
続けて台本のページをめくった、その瞬間だった。
『み゛』
『み゛ぃ』
『み゛ん』
『み゛ぃぃぃぃぃっ!』
感情の強弱によって、鳴き方が若干変わっている。
それ以外の情報が、何もない。
「ちょっと待って、台本に書いてある台詞が『み゛』しかないんだけど……」
目を疑った。
もう一度、最初のページから読み返す。
台詞欄には、確かにその一文字しか並んでいなかった。
「朝香が演じるのは、伝説のセミブレード〝シガラティ〟だからね」
ナイト兄さんの説明によれば、セミブレードとはセミと刀剣を融合したような存在らしい。
あたしが演じるのは、映画で初公開となる新しいセミブレード。
おそらく、次回作以降の主軸を担う伝説枠だ。
最初は困惑があった。台詞という武器を一つも持たされずに、どうやって役を成立させろというのか。
でも、それは一瞬だった。
考えれば考えるほど、これは実に興味深い課題だ。
「ふ、ふふっ……まさか人外役が回ってくるなんてね」
人語を持たない存在を、鳴き声だけでどう表現するか。
感情の情報量を、言葉という補助輪なしに乗せなければならない。
これまで演じてきたどの役よりも、純度の高い挑戦になる。
「初めてやるタイプの役、しかも声だけでの表現……ワクワクするじゃないの」
「そうだった。朝香ってこういうタイプの人間だった」
翼の呆れたような声が聞こえたが、構ってなどいられない。
あたしはその場で、様々な声音を試し始めた。
「感情を鳴き声だけで表現する……み゛! うーん、み゛? いや、もっとセミらしく――」
喜びの「み゛」、怒りの「み゛」、決意の「み゛」。
同じ音素の中に、どれだけの感情の階調を作り込めるか。
喉の奥から声を出しながら、頭の中では既に台本全体の感情曲線を組み立て始めていた。
このシガラティという役が、物語のどの場面で、どんな心情を辿るのか。
映画のタイトルにもなっているということは、当然クライマックスでの見せ場も相応にあるはずだ。
あたしは喉に馴染んだ感覚に身を任せるように声を出した。
「み゛」